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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 1週間ほど海外に行っててばたばたしていたのでお休みしていた幕末ニュース、今日から復活します。

東京
<その32>新選組(下)
 サッカーW杯で決勝トーナメント進出を果たした岡田ジャパンに対し、新聞各紙に「サムライ」の見出しが躍った。で、サムライとは何か? 語源は貴人のそばに仕える意味の動詞「さぶらう」の名詞形「さぶらい」。やがて武士の意味にもなる。研究社の新英和大辞典には、英語になった「SAMURAI」の和訳として「1、a(日本の)武士、侍 b武家階級 2、(日本の)陸軍将校」とあった。岡田ジャパンの何が、サムライなのか? 講釈はよそう。嫌われる。新選組の(下)は、死にざまを書く。

 新選組の人気ナンバー3は、近藤勇、土方歳三、沖田総司だろう。ただ、池波正太郎が隊士のうちで最も好きな男として、「幕末新選組」(文春文庫)の主人公とした永倉新八も、池波ファンの私としては触れない訳にはいかない。
 さて、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に帰った後の近藤らは、振り返れば樹上の蝉(せみ)のように死に向かって自己主張する場所を探し求めていたといえる。肺病に伏せる沖田を江戸に残し、官軍を迎え撃つため新たに甲陽鎮撫隊を結成して甲府城に向かうが、板垣退助の指揮する官軍に後れをとって敗走した。最後に下総(千葉県)の流山に陣を敷くべく集まる。幕臣の最後の寄る辺となった会津への道に通じる要衝だ。ここが、ずっと表裏一体だった近藤と土方が、ついに袂(たもと)を別(わか)つ場所となった。官軍に包囲された近藤は投降を選び、土方は逃走を選ぶ。司馬遼太郎の「燃えよ剣」(新潮文庫)の下巻「袂別」の項では、こんな会話となっている。

 「おめえは、おめえの道をゆけ。おれはおれの道をゆく。ここで別れよう」
  「別れねえ。連れてゆく」

 歳三は、近藤の利き腕をつかんだ。松の下枝のようにたくましかった。
 ふってもぎはなつかと思ったが近藤は意外にも歳三のその手を撫(な)でた。
  「世話になった」
 「おいっ」
 「歳、自由にさせてくれ。お前は新選組の組織を作った。その組織の長であるおれをも作った。京にいた近藤勇は、いま思えばあれはおれじゃなさそうな気がする。もう解きはなって、自由にさせてくれ」
 「・・・・・・・・・・・・」

 土方がその後、旧幕府軍の榎本武揚と合流して函館の五稜郭までたどり着き、官軍との決戦に死地を選んだことはよく知られている。明治2(1869)年5月死去。享年34歳。

 *

 近藤に戻る。流山での投降は慶応4(1868)年4月3日。同25日、板橋で斬首された。子母澤寛の「新選組始末記」によれば、近藤を捕らえた東山道鎮撫総督府の副参謀・有馬藤太は板橋の本営に控える参謀の伊地知正治に対し、充分に待遇し処分は自分に任せて欲しいという旨の手紙をしたためた。しかし、香川敬三が断固として斬首を主張した。有馬、伊地知は薩摩人だが、香川は水戸出身の勤皇志士で、中岡慎太郎の陸援隊の副隊長格となるなど土佐人脈と縁が深かった。当時、京の近江屋に坂本龍馬と中岡を襲ったのは新選組と思われていた。香川は土佐の恨みを背負って復讐(ふくしゅう)に血走ったのかも知れない。
 近藤は処刑場の近くに胴体だけが埋められた。その場所は、今のJR板橋駅東口のすぐ前にある。地番は板橋区ではなく、北区滝野川。ここに新選組の供養塔があり、表には近藤勇と土方歳三の名前が並べて刻まれ、側面に計110人の隊士の名前が連ねてある。明治9(1876)年、この塔を建てたのが永倉新八だった。永倉は新選組結成時からの隊士だったが、甲府城への進軍に失敗したあと、近藤、土方らの考えについて行けずに去り江戸に潜伏。最後は北海道に渡って大正4(1915)年1月、77歳の長寿(当時)を全うした。その後、供養塔に向かって左側に永倉の墓も建てられた。敷地には新選組ファンの若者たちが思いや漫画などを書いたノートを収めた棚があり、若い女の子が2人、パラパラとめくっていた。その奥に、近藤の当初の墓石があり、もともと、この下に近藤が埋められていたと思われる。「もともと」と書いたのには意味がある。

 *

 勇の娘婿だった近藤勇五郎は、板橋に勇の安否をたずねに行き、図らずも斬首の様子を見た。昭和6(1931)年10月、勇五郎にその時の様子を聞いた子母澤は、「始末記」に、聞き書きの記録を残している。


近藤勇の墓

 勇の斬首はお昼ちょっと過ぎだった。勇五郎は義父の首が拾い上げられ洗われるところまで見届け、多摩の実家へと必死で駆けた。午後7時ごろに着き、身内を叩(たた)き起こして報告。「とにかく、何が何であろうとも、先生のおからだをあんな処へ埋めておく訳にはいかん」と男たちは板橋へと向かった。墓の番人に3両を手渡し、埋葬場所を教えてもらう。まだ新しい色の土を鍬(くわ)で2~3尺(1尺は30・3センチ)掘り下げると、新しい筵(むしろ)が1枚出て、めくると白い肌着と下帯だけの遺体があった。提燈(ちょうちん)を照らすと、首の無い胴体だけがうつ伏せになっていた。しかし刑場だから、どの遺体も首はない。そこで念のために観察すると、左肩に1銭銅貨ほどの大きさで親指が入るほど深い鉄砲傷の跡があった。これが決め手となる。埋められてから3日も経(た)っているので、腕でも脚でも、つかむとずるずるっとむけてくる。「父(勇の長兄)は、これを抱くようにして、<残念だろう、残念だろう>と泣きます。私はもとより、縁もゆかりもない駕籠(かご)かきまでが、声を上げて泣きました」。納棺には3時間かかった。雨の中、遺体は明け方の7時ごろに多摩に帰った。

 *

 JR三鷹駅南口から6番乗り場のバスで約半時間。龍源寺という近藤家の菩提(ぼだい)寺(曹洞宗)にその遺体は今も眠っている。「龍源寺」のバス停を降りると、すぐに近藤勇の胸像と六地蔵が見える。そこがお寺だ。本堂の前、両脇に大きな銀杏が1対。アジサイが満開だった。竹が生える本堂脇を過ぎると墓地。一番手前に近藤家の墓があった。墓石は5基。向かって右から「先祖代々之墓」「近藤勇墓」「近藤勇五郎之墓」「元警視庁剣道助手 近藤新吉之墓」「近藤久太郎 近藤彦助 墓」と刻んであった。千羽鶴がつるして供えられ、勇の墓にはまだ新しい供花。少し奥には近藤の実家の苗字である「宮川」家と刻まれた墓がいくつかあった。一族だろう。寺の近くに「野川」という岸の緑豊かな川が流れていて、「ほたるの里」との案内板があった。
 近藤勇の首は、新選組に絡むおびただしい血が流された京都に持ち運ばれ、三条河原にさらされた。石田三成と同じだ。墓は板橋と三鷹の龍源寺以外にも3カ所にある。うち、会津若松にあるのは、近藤の死を聞いた土方歳三が弔ったもの。愛知県岡崎市と山形県米沢市にある墓は、いずれも三条河原から奪還した近藤の首が埋められているとの伝説が残されている。

 首なしの サムライの里 ホタル舞う             (編集局次長)


京都
竜馬ゆかり6県が合同PR 京都で観光展
 県は3日、京都市のJR京都駅前広場で、坂本竜馬にゆかりの深い5県と共同で、観光展「大龍馬恋」を開いた。
 観光展は本県と広島、山口、高知、長崎、鹿児島の各県大阪事務所が共催。本県は、坂本竜馬が脱藩の罪を許された地として下田市の観光関係者が竜馬にちなんだまちおこしに取り組んでいる縁で参画した。
 会場では、下田の観光関係者でつくる「下田龍馬伝志援隊」メンバーが坂本竜馬やペリー提督に扮(ふん)して寸劇や幕末クイズを行った。パンフレットやグッズを配布して、伊豆や富士山周辺への観光誘客を呼び掛けた。
 下田は黒船が来航した土地でもあり、竜馬で脚光を浴びる幕末の歴史を地域資源に生かそうと、ゆかりの地を巡るツアーも行っている。



<その31>新選組(中)
 JR京都駅から嵯峨野線(山陰線)で郷里の亀岡に向かう。数え切れないほど乗った路線だ。レールは梅小路蒸気機関車館のところで大きくゆっくりと北へと右折する。間もなく丹波口駅。その右手(東)一帯が、江戸時代に遊郭のあった島原である。さらに電車が二条駅へと進む途中、同じく右手に小さなピラミッドのような千体仏塔が見える。壬生寺である。遠くに東山三十六峰。夜に月が見えると、それもまた風情がある。京都から二駅、今から百数十年前の幕末に、新選組が駆けた「京」を想像しながら車窓を楽しむのも気軽で楽しい。

 碁盤の目といわれる京都の通り。幕末も今も、位置や距離はほとんど変わっていない。御所の玄関・丸太町通から歌で南下する、「まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき しあやぶったかまつまんごじょう せったちゃらちゃらうおのたな・・・♪」(丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦 四綾仏高松万五条 雪駄ちゃらちゃら魚の棚・・・)。壬生寺は「四綾仏高」の綾小路と仏光寺の間にある。その昔、壬生村と呼ばれた西郊の一帯で、壬生狂言とか壬生菜(水菜の葉からギザギザを失くして丸くしたような京野菜)などでも有名である。

 文久3(1863)年2月23日、その壬生に江戸から234人もの浪士がやって来た。リーダーは清河八郎。庄内藩(山形県)の郷士の家に生まれ、千葉周作の玄武館で免許皆伝を取得し、昌平黌(しょうへいこう)で学んだエリートである。将軍家茂の上洛を警護する名目で集められた浪士隊だったが、清河は壬生に着くなり一変。「京へ来たのは、近く上洛あるべき将軍家茂公の守護とは只名のみの事であって、その真実は、ただただ尊王攘夷の先鋒たらんとするにあるのである」(子母澤寛「新選組始末記」)と宣言する。時は桜田門外の変から生麦事件へと、攘夷が大きな時流になり始めたころだった。変節に幕府は怒り、朝廷も困惑して帰還命令を出す。そんなことで、ひと月も滞在せぬ間に浪士隊は江戸へ帰ることになった。これに反抗して京都に残ったのが、天然理心流「試衛館」仲間の近藤勇の一派と、水戸出身の芹沢鴨の一派だった。両派はともに壬生寺そばの八木源之丞邸を屯所として同宿していた。子母澤は残留組を「関東の無骨13名」と呼んだ。芹沢の尽力あって京都守護職の会津藩主松平肥後守容保の預かり身分となり、攘夷倒幕派の騒乱行為から京都の治安を守る役割を与えられる。これが3月のことだ。5月までには新たに浪士を募集して70余名に達した。



 芹沢鴨の家系は平氏の流れを組む常陸国(茨城県)の豪族にさかのぼる。関が原の戦功で幕臣となり、やがて水戸家の郷士となったという名門だ。水戸学勤王の教えで育ち、天狗党にも入っていたことから人脈も広い。格から言って農家出身の近藤よりはずっと上であり、新選組の局長の筆頭となった。しかし、芹沢は大酒飲みの豪傑振る舞いで、隊の装備を整えるため天下の豪商・鴻池善右衛門から金子200両を脅し取ったり、大坂で力士達と大乱闘したりと派手に立ち回った。極めつきは、糸問屋・大和屋の土倉に大砲を打ち込み、大火事を巻き起こした「大和屋焼き討ち事件」。大和屋の評判は必ずしも良くなかったが、洛中を取り締まる側の洛中での乱暴狼藉であり、このことがきっかけで、会津藩京都守護職は、近藤らに芹沢の処分を命じたともいわれている。
 新選組が島原の「角屋」で芸妓を総揚げした9月のある夜、芹沢は愛妾のお梅らを伴って八木家の屯所へ戻って気分良く飲み直す。やがて、お梅と同衾して眠りにつく。大雨が降るその深夜、数人の男たちが押し入り、芹沢に斬りつけた。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机に転び、そこを刺客たちに斬りつけられ殺されてしまう。お梅も首を切られ惨殺された。事件は長州藩の仕業とされ、芹沢と、一緒に殺された平山五郎の2人の葬儀が盛大に執り行われ、近藤が弔辞を読む。しかし、実はこれが、近藤一派による芹沢の粛清で、以降新選組は、実質的に近藤局長・土方副長が指揮を執ることになった――というのは、よく知られた話である。八木家の鴨居には、この時の刀傷が今も残っている。
 翌年の元治元(1864)年6月、有名な池田屋事件で新選組の京都での地位は確固たるものになった。その翌年3月、隊は屯所を西本願寺に移す。結局、新選組が活躍の頂点を極めた「壬生時代」は2年間であった。八木源之丞の子・為三郎は1931(昭和6)年まで生きた。子母澤寛は、新選組のことを調べるため、この為三郎らから何度も話を聞き、「八木為三郎老人壬生ばなし」として「新選組始末記」に収めている。始末記の初版は昭和3年。
 子母澤は、<生き残りの老人のはなしは、疑わしいのもあったが、私は「歴史」というのではなく現実的な話そのものの面白さを成るべく聞きもらすまいと心掛けた>と書き、<八木為三郎翁から芹沢鴨が下帯一つない素っ裸で女と一緒に殺されたという話を聞いた時も、作家の作り話ではこうは行かないだろうとしみじみ思った>と振り返っている。

 *


 私は、壬生寺に2、3度行ったことがある。池田屋事件で死んだ隊士らだけでなく、粛清された芹沢らの墓もあった。ほかに覚えているのは、「夕焼けとんび」「古城」「達者でナ」などで知られる歌手・三橋美智也さんの「あゝ新撰組」の歌碑が建っていて、確か100円入れると歌が流れたことだった。無粋といえば無粋だが、作詞家・横井弘は、確かに新選組の情感をよく伝えている。
 
<鴨の河原に千鳥が騒ぐ またも血の雨涙雨>(1番)

<変わる時世に背中を向けて 新撰組よ何処へゆく>(2番)

 そういえば、日野の土方歳三の生家の近くには、浅川という川が流れていた。薬売りだった土方家が、秘伝の薬を作るための薬草を採取していた川である。激烈、血で血を洗った京の新選組ではあるが、土方ら日野出身の隊員らは、鴨の流れに故郷の浅川を思い出すこともあったに違いない。鳥羽伏見の戦いの後、江戸へ敗走するのは慶応4(1868)年1月。壬生を離れて3年後だった。

<イレブンと 重なる夏や 新選組>              (編集局次長)



香川
「龍馬は神」海援隊士の書 佐柳高次の遺品公開へ…香川
 江戸幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」の水夫で渡米し、後に海援隊士として坂本龍馬と行動をともにした佐柳(さなぎ)高次(1835~91)の書などの遺品が、ふるさとの香川県多度津町の町立資料館で今秋、初公開される。龍馬や隊士を弔う書には「坂本龍馬神宮」とあり、龍馬を慕う思いや、隊士たちとの強い結びつきがうかがえる。
 佐柳は、瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島の佐柳島(多度津町)で育った。島々は古くから海運で栄え、咸臨丸の水夫50人のうち35人は同諸島の出身。佐柳は1855年、幕府の長崎海軍伝習所に水夫として採用され、咸臨丸に乗船した。
 その後、勝海舟の紹介で、龍馬と出会い、海援隊に参加。67年に龍馬が暗殺されると、山口県下関市にいた妻・お龍(りょう)に伝えに行ったとされる。幕末の動乱を生き抜き、69年に帰郷した。
 書は、滋賀県湖南市に住む玄孫(やしゃご)・鮫島和子さん(62)が保管。縦120センチ、横30センチで、「坂本龍馬神宮」と力強い字体で記し、海援隊の近藤長次郎、池内蔵太ら隊士14人の名も添えている。鮫島さんは父から「高次は朝晩この書を掲げ、龍馬を神として拝み、仲間の冥福を祈った」と教えられた。
 公開は10月1日~11月28日。咸臨丸渡米から150年に合わせ、町立資料館が企画した。佐柳がサンフランシスコで購入したとされる、ダンスを楽しむ若い男女をあしらった陶製の絵皿なども展示される。
 霊山(りょうぜん)歴史館(京都市東山区)の木村幸比古(さちひこ)学芸課長は「海援隊の人間関係を示す珍しい資料。亡くなった海援隊士の名も記していることから、海援隊が龍馬を中心に結束していたことがわかる」と話している。
(2010年7月4日 読売新聞)



福岡
竜馬と龍馬 再演
■福岡の劇団 小郡で8月
 福岡市を拠点に活動する「劇団ショーマンシップ」(仲谷一志座長)が昨年末に公演し好評だった「竜馬と龍馬」のリバイバル公演が8月22日、小郡市の市文化会館大ホールで開かれる。29日には仲谷座長らが市役所を訪れ、「NHK大河ドラマでも龍馬が取り上げられ話題になっている。こちらの龍馬の話もぜひ見に来てほしい」と平安正知市長らにPRした。
 作品は、坂本龍馬と福岡の幕末史をベースに描くオリジナル時代劇。龍馬が同じ名前を持つ飛脚の「竜馬」と偶然出くわし、龍馬の将来の妻となるお龍への恋文の配達を頼むようになる。一方、薩長同盟へと奔走する龍馬の密書と勘違いした新撰(しん・せん)組が恋文を奪ってしまう……、という内容だ。
 この日は、出演する原岡梨絵子さんが、お龍役に扮して訪問。自らも飛脚の竜馬役で出演する仲谷座長が「手紙をキーワードに福岡の歴史を交えた作品」と説明。平安市長は「演劇が好き。楽しみにしている」と話した。
 公演は午後2時開演。全席指定で2500円(当日3千円)。未就学児の入場はできない。問い合わせは市文化会館(0942・72・3737)へ。


歴史
龍馬ショックぜよ!?千葉佐那、結婚していた
 坂本龍馬の婚約者で生涯独身を貫いたとされる千葉佐那(さな)が、実は結婚していたとする史料が見つかった。佐那はNHK大河ドラマ「龍馬伝」(日曜後8・00)で貫地谷しほり(24)が演じ、愛を貫く姿が女性に支持されているだけに新説に注目が集まりそうだ。

 結婚に触れているのは107年前の新聞記事。明治期に横浜で創刊された毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)の1903年(明36)8~11月の連載。佐那の父親は「北辰一刀流」を開いた千葉周作の弟、定吉。定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士山口菊次郎から求婚され、暗殺された龍馬の七回忌も済んだことから受諾、1874年7月に結婚した。

 しかし、菊次郎は佐那の幼なじみに思いを寄せるなど多情で10年たたずに離縁。その後は再婚しなかった。故司馬遼太郎氏のコラムなどから独身説が広く知られており、通説を覆す内容だ。

 「龍馬伝」で佐那は今月18日に再登場するが、設定はこれまで通り生涯独身。番組担当者は「龍馬伝をきっかけに皆さんが幕末に興味をお持ちになり、新たな史料が次々と発見されることに驚いている。龍馬ブームを実感します」と話した。

 ≪事実なら「衝撃的な発見」≫発見した歴史研究家のあさくらゆうさんは旧鳥取藩の文書から藩士の実在が確認されるなど「記事はかなり正確」としている。佐那の関係資料を所蔵する足立区立郷土博物館の学芸員多田文夫さんは「非常に貴重な記事。しっかりした取材に基づいて書かれ、登場人物の実在も確認されており、信ぴょう性が高い」。また、宮川禎一・京都国立博物館考古室長は「事実だとすれば衝撃的な発見。30歳代後半になって結婚していたとなればイメージが変わることになるが、われわれはこうした佐那の人間らしい側面を受け入れるべきだろう」としている。

 衝撃的な発見かどうかは別としても今でもあらたな発見があるところが幕末の歴史がおもしろいところです。


ブックレビュー
【著者に聞きたい】藤本ひとみさん 
□『幕末銃姫(じゅうき)伝 京の風 会津の花』

 ■豪快女性の葛藤と奮闘

 武士の誠を尽くす一方、幕府と朝廷間で翻弄(ほんろう)される会津藩。幕末動乱の中、銃を手にして鶴ケ城の戦いに挑んだ女性がいた。山本八重。維新後は同志社大学の創設者、新島襄と結婚して女子教育に奔走した。本著は八重の前半生を描き、戊辰戦争、幕末という時代の転換期に新たな光を当てた歴史長編小説である。
 「八重の存在を知ったとき、幕末に、こんな豪快な女性がいたのだと。結婚もし、維新後も活躍する。これだ!と思いました」と振り返る。
 八重は腕力に自信はあるが裁縫は苦手。良妻賢母であることを求められ葛藤(かっとう)する。勝海舟らに師事した兄から銃や砲術、兵法の薫陶を受ける。時は戊辰戦争の最終局面、薩長軍が鶴ケ城に攻め込み、篭城(ろうじょう)戦に。八重は銃を手に立ち向かう。
 フランス革命やナポレオンを題材にした作品を描いてきた。日本史は初めて。ナポレオンに関する史料を読み解くうち、西洋の兵学が幕府にも影響を及ぼしていることを知った。
 〈誰が、何月何日、何をした〉という史実。記録に残る人物像。事実で構成した行間にエンターテインメントを息吹かせる。明瞭な輪郭を持った八重や佐久間象山らが、いきいきと動き出す。
 会津藩の物語は、幕府と武士道に忠誠を尽くした美談として知られる。しかし、八重の生き方を通すことで、ひと味違った見方を楽しめる。支えた男性たち、日本の四季や様式美など、織り込まれた要素も花を添える。
 どの時代の空気にも色があり、生きる人たちを染めているという。
 「色をとらえ、人を描く。今回は、家族も描きたかった。動乱の世の八重たち兄妹、父母。それぞれの生き方を通して幕末を描きました。鶴ケ城の戦いは江戸の代理戦争であり、武家社会の崩壊を象徴するものだと考えます。その下に生きた一つの家族の物語として読んでいただけるとうれしい」(中央公論新社・1785円) 宮田奈津子

                   ◇

【プロフィル】藤本ひとみ
 ふじもと・ひとみ 長野県生まれ。仏・ナポレオン史研究学会の日本人初会員。仏観光開発機構名誉委員。著書に『皇帝ナポレオン』など。





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