新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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北海道
箱館奉行所開館へ盛大に 29-31日の「復活祭」で催し多彩
いよいよ公開ですね。今年中には見に行きたいと思っています。
秋田
仙台藩士の冥福祈る 子孫ら殉難碑前で慰霊祭 秋田
坂本龍馬と維新志士の古写真展:龍馬や高杉晋作、写真展示--県立博物館 /秋田
山形
ジョン万次郎が竜馬に与えた影響解説 山形で講演会
石川
幕末の加賀藩、大砲147門を製造 「金沢学」講演
京都
NHK大河ドラマ特別展:龍馬ゆかりの180点、京都文化博物館で展示 /京都
兵庫
「幕末の味」大ヒット 幸民麦酒の売り切れ相次ぐ
高知
幕末の画家・小龍の画帖
長崎
リチャード・ビュルグフェルトさん:リンガーの曽孫、9月来日 遺品寄贈へ /長崎
歴史
大判写真:龍馬も見た?幕末ニッポン 米写真家C・ウィードの作品、鮮やかに
文化芸能
つばき、時跳び
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(68)東大教授・山内昌之 大楽源太郎
北海道
箱館奉行所開館へ盛大に 29-31日の「復活祭」で催し多彩
国の特別史跡、五稜郭内に復元される箱館奉行所のオープンを記念した「箱館奉行所 復活祭」が、開館日の29日から31日までの3日間、五稜郭公園などで開催される。五稜郭地区の各種団体など官民一体で企画運営を行うイベントで、会期中は五稜郭祭の出演者による殺陣の披露や記念講演会、オープンカフェの設置など多彩な催しが行われ、同奉行所の開館を祝う。
五稜郭地区のまちづくり団体「新都心五稜郭協議会」や同協議会メンバーが立ちあげた「やっぱり五稜郭プロジェクト」、函館市など8団体の主催で実施。同奉行所を核に道南をPRし、多くの市民に親しみ楽しんでもらうことを目的とする。
29日は五稜郭タワーアトリウムで殺陣披露のほか鉄砲隊によるアトラクション、五稜郭公園の一の橋広場では、かつて奉行所で飲まれていたという当時のレシピを基に作った「薬用珈琲」の試飲コーナー、新たに開発した奉行所をモチーフとしたモナカをふるまう。このほか歓迎の祝砲イベントを行う。
30日は市中央図書館で記念講演会や、復元された奉行所を今後のまちづくりに生かす方法などについて、識者らが意見を交わす記念フォーラムを開催する。最終日の31日は有機栽培などでつくった野菜を生産者が販売する直販市「マルシェ」や、同地区の飲食店が自慢の逸品を販売するオープンカフェを設置する。
このほか、行啓通りから同公園に至る道にバナーフラッグを飾り、祝福ムードを盛り上げる。同プロジェクトは「奉行所を見に五稜郭にきてもらい、この地区も同時に楽しんでもらえれば」と来場を呼び掛けている。問い合わせは同協議会事務局TEL0138-51-4785。
いよいよ公開ですね。今年中には見に行きたいと思っています。
秋田
仙台藩士の冥福祈る 子孫ら殉難碑前で慰霊祭 秋田
戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の維持を説得しようと秋田藩を訪れ、勤皇派の秋田藩士に暗殺された仙台藩士12人の慰霊祭が、命日に当たる4日、秋田市寺内の西来院で営まれた。慰霊祭は今年で143回目。
仙台藩志会の伊達洋司会長ら仙台から集まった関係者と、秋田宮城県人会員ら44人が参加した。境内で殉難者の位牌(いはい)に焼香した後、寺の裏大門にある「仙台藩殉難碑」に手を合わせた。
一行は、殺害された藩士の首がさらされた同市大町の五丁目橋にも足を運び、川反観音像前で冥福を祈った。
当時正使だった志茂又左衛門のひ孫で仙台藩志会会員の石川浩司さん(72)は「毎年供養していただき感謝している。今度は自分の子孫を連れてきて、慰霊祭を引き継いでいきたい」と話した。
坂本龍馬と維新志士の古写真展:龍馬や高杉晋作、写真展示--県立博物館 /秋田
坂本龍馬ら幕末の維新志士の写真を展示する「坂本龍馬と維新志士の古写真展」が7月4日まで、秋田市金足鳰崎の県立博物館で開かれている。
展示されているのは、暗殺直前の1867(慶応3)年10月に撮影された龍馬や、高杉晋作や伊藤博文ら維新志士の鶏卵紙写真7点、海援隊と紀州藩との蒸気船の衝突・沈没事件に関して龍馬が書いたという書状など。
長州(山口県)出身の海援隊員が残したものを秋田に移住した子孫が04年に寄託し、今回初めて一般公開された。
開館は午前9時半~午後4時半、入場無料。【野原寛史】
山形
ジョン万次郎が竜馬に与えた影響解説 山形で講演会
藤沢周平・司馬遼太郎文学研究会の第37回講演会が27日、元木公民館で開かれ、司馬遼太郎研究家の菅原文雄さん(74)=白鷹町畔藤=が司馬遼太郎著「龍馬がゆく」をテーマに「坂本竜馬と共和制思想」と題して講演した。
菅原さんは出漁中に遭難し、アメリカの捕鯨船に救助され、アメリカに渡った土佐藩出身のジョン万次郎について紹介。「アメリカで学び、身に付けてきた力を明治維新で発揮し、教育分野でも尽力した」と述べ、万次郎が坂本竜馬に与えた影響を解説した。
石川
幕末の加賀藩、大砲147門を製造 「金沢学」講演
加賀藩が幕末の12年間に、洋式火薬を使うオランダ式などの大砲を147門造っていたことが、板垣英治金大名誉教授の3日までの調査で分かった。明治初期の旧陸軍資料の研究で、加賀藩は薩摩、長州に劣らない数の大砲を備えていたことが分かっている。百万石の資金力と五箇山の塩硝(えんしょう)で作る火薬を元手に、加賀藩が軍備を積極的に行ったことが裏付けられた。
調査結果は同日、金沢市の北國新聞20階ホールで開かれた、金大と北國新聞社が連携して取り組む市民公開講座「金沢学」の講演で明らかにされた。大砲を造っていたのは現在の金沢市もりの里3丁目周辺にあった「鈴見鋳造所」で、板垣名誉教授は同所鋳造場の棟取(とうどり)(責任者)で鋳物師の釜屋弥吉の史料を基に調査を進めた。
明らかになったのは、1853(嘉永6)年から1864(元治元)年の間に造られた大砲の数。中には、当時最新の技術であった、内部がらせん構造となっている砲身もあり、専用の先がとがった砲弾も確認されている。
板垣名誉教授によると、幕末にはスズ、銅、鉄の価格が高騰したが、加賀藩は高価なスズを購入し、質の良い大砲を生産して沿岸警備に力を入れていたことがうかがえる。同名誉教授は「幕末で財政が厳しい中、加賀藩は新技術を導入して大砲を鋳造した。そのようなことができた藩はほかにそうなかっただろう」と分析している。
「金沢学」の講演は「加賀藩の火薬と大砲~土清水薬合所と鈴見鋳造所について~」と題して開かれ、このほか、五箇山で作られた塩硝が運ばれた土清水薬合所が、洋式火薬を生産するために建て替えられたことや、金沢ゆかりの世界的化学者、高峰譲吉の父元●(ノギヘンに陸のツクリ)(げんりく)について解説した。
京都
NHK大河ドラマ特別展:龍馬ゆかりの180点、京都文化博物館で展示 /京都
◇「日本をせんたく」の手紙も
幕末の動乱期に活躍し、薩長同盟の締結や大政奉還の実現に尽力した坂本龍馬(1835~1867)の生涯を振り返る「2010年NHK大河ドラマ特別展 龍馬伝」が、京都市中京区の京都文化博物館で開かれている。
「日本を今一度せんたくいたし申候」と記された姉・乙女あての書簡(重要文化財、京都国立博物館蔵)など、ゆかりの資料約180点を展示(7月6日から一部展示替え)。龍馬の波乱に満ちた生き様とともに、幕末から明治維新へ向かう時代の空気を伝えている。
龍馬が着た紋服(重文、京都国立博物館蔵)は京都会場のみの出品で、暗殺現場の京都・近江屋の部屋の復元コーナーも設置。血痕が付いた「近江屋旧蔵 書画貼交屏風(しょがはりまぜびょうぶ)」(重文、京都国立博物館蔵)も7月6日から出品される。
7月19日まで。午前10時~午後6時(金曜は午後7時半まで)。7月19日を除く月曜休館。入場料一般1200円、大高生800円、中小生500円。同館(電話075・222・0888)。【野宮珠里】
兵庫
「幕末の味」大ヒット 幸民麦酒の売り切れ相次ぐ
「幕末の味」が大人気! 三田藩出身の蘭学者川本幸民のビールを復刻した「幸民麦酒」が大ヒットしている。今月6日の販売開始後、三田市内の小売店では売り切れが相次ぎ、生ビールを売る飲食店は増加。製造する小西酒造(伊丹市)は増産を進めるが、なかなか追い付かず、「生産量は予想の5倍のペース。三田市民の関心の高さは想像以上だ」と驚いている。
幸民は1853(嘉永6)年、日本人として初めて、ビールの醸造に成功した。今年、幸民の生誕200年を記念し、小西酒造が幸民の醸造方法を再現したビール「幸民麦酒」を造り、初めて一般販売を始めた。価格は1瓶(330ミリリットル)630円。
同社は当初、6~10月の5カ月間に8千本を造る予定だったが、今月中に2回増産し、計7千本を製造した。東京のビール専門店でも取り扱うようになり、7月以後も増産体制が続くという。
卸を手掛けるツキモト酒類(駅前町)によると、「幸民麦酒」を販売する小売店は、1カ月間で18店から25店に増えた。生ビールを提供する飲食店は4店増えて16店に。店頭に「幸民ビールあります」の張り紙を掲げる飲食店もある。
「パスカルさんだ一番館」(川除)では、1日に40本以上を販売する日もあり、同店は「価格は高めなのに、こんなに売れるとは」と驚く。
小西酒造地ビール事業部主任技師の辻巌さん(52)は「通常のヒット商品の目安を、はるかに上回る売れ行き。市民の幸民に対する熱い思いが伝わる」と話している。
(本田純一)
高知
幕末の画家・小龍の画帖
土佐藩の画家、河田小龍(しょう・りょう)(1824~98)は、幕末の志士坂本龍馬に海運や海軍力の重要性を説いたとされる。その画家の画帖(が・ちょう)が見つかり、2日に東京都千代田区神田小川町の東京古書会館で始まった「七夕古書大入札会」(主催・明治古典会)に出品されている。一般公開は3日まで。
画帖は1883年に制作された「維新前高知城下十二ケ月」。縦約20センチ、横約25センチで、絹地に彩色された肉筆画だ。威勢良く走る初カツオ売りの姿、田植え、法会、祭り、新年の準備など、江戸時代の土佐の年中行事が活写されている。
年中行事とは別に、高知城の背後から太平洋を望む「高知城四望之図」と題された俯瞰(ふ・かん)図も収録。帆掛け船や大型船も描き込まれている。京都市内の古書店で今年見つかったという。
小龍は狩野永岳に師事、二条城襖絵(ふすま・え)の修復などに取り組んだ。1852年に米国から帰国したジョン万次郎に話を聞き、絵や文章で「漂巽紀畧(ひょう・そん・き・りゃく)」をまとめた。これを機に海外事情に通じた。
県立坂本龍馬記念館(高知市)によると、ペリー浦賀来航の翌1854年、龍馬は小龍に会い、大船を自分で持つ時代との認識を強めたという。龍馬は1865年に商社・私的海軍学問所「亀山社中」(のちの海援隊)を結成した。放送中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」ではリリー・フランキーさんが小龍役を演じている。
長崎
リチャード・ビュルグフェルトさん:リンガーの曽孫、9月来日 遺品寄贈へ /長崎
幕末に長崎の外国人居留地で活躍した英国人貿易商フレデリック・リンガー(1838~1907年)の曽孫、リチャード・ビュルグフェルトさん(69)=英グロスターシャー州=が9月に来日することが決まった。ビュルグフェルトさんはリンガーらの遺品をグラバー園に寄贈する意向で、リンガー一族の旧宅だった旧オルト邸(国指定重要文化財)に展示される予定。
ビュルグフェルトさんは9月18日にグラバー園で開かれる「グラバー顕彰式」に出席する。デビッド・ウォーレン駐日英国大使も初めて出席し、一緒に旧オルト邸での遺品展示のテープカットに参加するという。
遺品は、1866年に長崎で開かれたボートレースでリンガーが優勝した記念銀杯や、上野彦馬撮影の古写真など約150点。ひな人形や蒔絵(まきえ)を施したティーセットなど一族で日本文化に親しんだ様子が分かる品もある。
リンガー一族は長崎の経済発展に貢献したが、第二次大戦の際に国外退去。ビュルグフェルトさんも日本生まれだが、戦後に帰郷するのは初めてという。
08年にビュルグフェルトさんを訪問しているブライアン・バークガフニ長崎総合科学大教授(59)は「戦争でリンガー家と長崎の関係は断ち切られたが、子孫は長崎への思いを持ち続けてくれた。日英で豊かな交流があったことが分かる」と話す。【錦織祐一】
〔長崎版〕
歴史
大判写真:龍馬も見た?幕末ニッポン 米写真家C・ウィードの作品、鮮やかに
焼失する前の増上寺(現・東京都港区)の黒本尊堂や本堂、善福寺(同)の前に集まる侍たち、わらぶき屋根が続く横浜・根岸湾沿いの漁村……。縦約40センチ、横約50センチのマンモス・プレートと呼ばれる大判写真の中に、元号が明治に変わる直前の1867年のニッポンが鮮やかに浮かび上がる。
これらは、米国で最近発見されたチャールズ・ウィード撮影の大判写真だ。当時は引き伸ばし技術がなく、これだけの大きさにするには巨大なカメラとネガが必要だった。撮影直前にガラス板製のネガに感光液を塗り、乾く前に現像。薬品や暗室など100キロもの荷物を馬車などで運ばねばならなかった。
ウィードが日本で撮った大判写真は、これまで欧米で9枚しか確認されていなかった。今回は当時の駐日米公使館員の子孫の家で一挙に17枚が見つかった。古写真研究家のテリー・ベネットさんは「幕末の写真史に新しい一章が加わった。写真の持ち主は日本で展示したいと望んでいる」と語る。
長崎の風景写真には、坂本龍馬の肖像を撮ったことで知られる上野彦馬の撮影局(写真館)が写っている。龍馬が暗殺されたのは67年11月で、同じ風景を見ていたかもしれない。【佐藤由紀】
==============
■人物略歴
◇Charles・L・Weed(1824~1903)
アメリカ西部で活躍した写真家。1866年、香港に渡って写真館を開いた。67年に来日。マンモス・プレート写真のほかに、同じような写真を2枚撮って立体的に見せるステレオ写真も撮影。68年、アメリカに帰国。日本各地で撮影した写真は69年、サンフランシスコで発売された。
文化芸能
つばき、時跳び
成井豊脚本・演出、福田沙紀主演の舞台「つばき、時跳び」が、8月に明治座で上演されます。
「つばき、時跳び」は、「黄泉がえり」などの梶尾真治による同名小説が原作。
SF小説家の惇が東京から移り住んだ熊本の古屋敷を舞台に、
惇と江戸時代末期の熊本藩の武家の娘つばきが、
幕末と現在をタイムマシンで往来する物語。
梶尾真治による原作は、2006年に単行本、
今年の6月11日に平凡社ライブラリーより文庫が発売されています。
この「つばき、時跳び」が、
演劇集団キャラメルボックスの成井豊の脚本・演出で舞台化されます。
主役の武家娘つばき役に福田沙紀、SF作家・惇役に永井大。
実在した熊本藩士・横井小楠役に勝野洋のほか、
金子貴俊、 真野恵里菜、紫吹淳などが共演。
また、キャラメルボックスのメンバーも脇を固めていいます。
福田沙紀は、2008年「フラガール」で谷川紀美子役を務めて以来の2度目の舞台出演。
また、19歳で明治座の座長公演を務めるのは、
2005年4月公演「あずみ」に当時16歳でに主演した黒木メイサに次ぐ若さとなります。
舞台「つばき、時跳び」は、8月11日より東京・明治座で上演。
チケットは6月26日より発売中。
なお8月13,15,17,20,23,26日の公演後には、
舞台上でアフタートークショーも行われます。
当日公演を観劇した全員がトークショーも鑑賞可能となっています。
●「つばき、時跳び」
日程:2010/8/11〜8/29 明治座(東京)
演出・脚本:成井豊
原作:梶尾真治
出演:福田沙紀/永井大/勝野洋/金子貴俊/真野恵里菜/紫吹淳/渡邉絋平/永池南津子/溝呂木賢/敦士/坂口理恵/岡田さつき/多田直人/小多田直樹
チケット:[東京]
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(68)東大教授・山内昌之 大楽源太郎
■「奇兵隊内閣」の矛盾
菅直人首相は自らの大臣たちを「奇兵隊内閣」と呼んでいる。市民運動出身の総理はじめ各種の職業的背景や庶民感覚をもつ多彩な人材がいるという自負なのだろう。しかし、このネーミングにしっくりこない人もいるはずだ。
なぜなら、藩の公式兵力たる「正兵」への異端としての「奇兵」であり、権力を掌握すれば「奇兵」であることはできないからだ。「奇道」で勝を制するゲリラ兵力の意味をもつ部隊は、幕末から維新へという激動の変革期にはふさわしくても、治国の支えには不似合いなのである。
権力掌握すれば無用
実際、戊辰戦争で働いた奇兵隊などの諸隊は、明治2(1869)年に版籍奉還を実現した山口藩知事の毛利元徳(もとのり)にとってもはや無用の存在であった。
正兵隊(藩の正規軍)を残し、奇兵隊などの解散が命じられたのも当然だろう。
戦争が終われば、兵士は除隊して復員するか、部隊を縮小し平時体制に戻るかのいずれかしかないのに、防長2州では武装した奇兵隊はじめ諸隊はこの解散命令を受け入れなかった。数千名の武装集団が山口を脱走して三田尻(山口県防府市)へ集結、やがて藩庁を取り囲む「脱隊暴動」あるいは「脱隊騒動」に発展したのだ。
諸隊反乱は、戦後の明治維新史研究でも活発に論争が交わされたテーマであった。菅首相の「奇兵隊内閣」なる自己定義から思い立って、直木賞作家の中村彰彦氏から借用した『奇兵隊反乱史料・脱隊暴動一件紀事材料』(石川卓美・田中彰編、マツノ書店)を読むと懐かしい名前に再会したのである。
学生時代に「大楽源太郎一派の不平士族」「攘夷(じょうい)反動士族」が奇兵隊暴動を利用し煽動(せんどう)したという説を聞いて以来、このやや変わった姓の人物が気になって仕方なかった。大楽源太郎は、もとはといえば毛利家の陪臣にすぎなかったとはいえ、友垣の久坂玄瑞(げんずい)とともに禁門の変に敗れて帰郷後、高杉晋作による下関・功山寺での挙兵に呼応決起するなど、俗論派を倒して幕長戦争に勝利する道筋に地味ながら貢献した人物である。
この間、大楽は三田尻近くに「西山書屋」という私塾を開設するが、門人に神代直人、大田瑞太郎、団伸二郎ら大村益次郎暗殺にかかわる人物が現れたことも大楽の運命を変えることになった。
長州を倒幕に導いた大村は、新政府の兵部大輔(ひょうぶだゆう)に任命され西洋式の軍制改革に着手したために守旧派武士の反感を買い、明治2年に神代らの刺客に襲われたのである。大楽こそテロの首謀者だという嫌疑をかけられたのも当然かもしれない。神代は師が嫌疑をかけられたことを知って自害した。
大村襲撃事件と同年に起きた奇兵隊脱隊騒動で藩庁を包囲した不穏分子にも大楽の弟子が多数含まれていた。大楽も日頃(ひごろ)から諸隊解散に反対していたので、脱隊暴動の首謀者だと睨(にら)まれたのは当然であろう。そこで、藩の追及を逃れて九州に難を避け、鶴崎経由で久留米までやってきた。まさに奇兵隊に似た応変隊に頼って再起を期そうとしたのだ。
最期は仲間に斬殺され
いまだに尊皇攘夷を奉じる応変隊は源太郎を受け入れるが、新政府の開国と欧化の強い方針は揺るがず、大楽の庇護(ひご)を続ければ藩の存続も危ぶまれるほどだった。大義と忠義との間で板挟みになった応変隊の有志らは、「回天軍」を起こす用意が整ったと大楽を誘い出して斬殺し、藩が大事に至らないように処置したというから無残極まりない。
また、奇兵隊など諸隊の掃討は無慈悲を極めた。その死者は空堀の中に放りこまれ上から土をかけられたという酷(むご)いものである(『観樹将軍回顧録』)。大楽源太郎らは時勢の変化を読みきれなかっただけでない。レーニンや毛沢東のように、反体制や批判勢力が権力の側に回った時の無慈悲さを知らなかったのである。
新政府の権力を握った長州藩のエリートは奇兵隊を無造作に切り捨てられるリアリストばかりであった。してみれば、「奇兵隊内閣」とはかなり矛盾をはらんだ表現だと分かるだろう。
もっとも山口県出身の菅首相がいずれ政府民主党から大楽のような人間、即(すなわ)ち離党や脱党の徒が出ることを予知しながら、「奇兵隊内閣」を凝(こ)った暗喩(あんゆ)として用いたとすれば、相当なマキャベリストということになる。そうした資質や知識が菅首相の内面にあるなら、脆弱(ぜいじゃく)な政治家が多い日本では国際的にもライバルと切り結べる異能の人材として面白いのだが…。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】大楽源太郎
だいらく・げんたろう 天保3(1832)年、長州(山口県)萩生まれ。幼少のころ、周防国吉敷郡に移住。京都で梅田雲浜(うんびん)らと尊攘運動を行う。高杉晋作の下関挙兵に応じて忠憤隊を組織。私塾を開き、子弟の教育に当たる。明治2年、奇兵隊を含む諸隊解散に端を発する脱隊騒動や大村益次郎暗殺事件に連座して幽閉されるが、脱走。久留米に逃れるが、明治4(1871)年、政府の探索にかくまいきれなくなった同藩士に暗殺された。享年40。
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