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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 昨日はこの夏一番の暑さだったんではないでしょうか。陽が落ちてもアスファルトから輻射熱が立ち上って、なかなか涼しくなりませんでしたから……今日も、昨日ほどではないにしても、暑くなりそうです。

埼玉
小川町便り:乗り合い馬車で自然を楽しんで--「花和楽の湯」で15、16日 /埼玉
 自然豊かな小川町をゆっくりと楽しんでもらおうと、日帰り温泉「花和楽の湯」は15、16日の2日間、乗り合い馬車を走らせる。馬車内で町の歴史や伝統産業などを案内するガイドサービスもあり、町の魅力を堪能できる。
 環境に優しい馬車を今後、町の観光の目玉にしたいと同温泉が企画。運行コースは小川町駅から「花和楽の湯」までの約2キロで、所要時間は約15分。明治維新期に活躍した山岡鉄舟ゆかりの割烹(かっぽう)旅館など町の歴史を聞きながら町並みを楽しめるほか、商店街でいったん降り、地元名物のコロッケなどを味わうこともできる。
 運行時間は午前11時~午後4時で、運賃は500円。完全予約制。花和楽の湯は「歴史的な景観が残る町並みをスローな馬車に乗って楽しみませんか」と乗車を呼びかけている。乗車時間や予約の申し込みなどは花和楽の湯(電話0493・73・2683)。【鷲頭彰子】


神奈川
慶應義塾創立150周年と神奈川開港・開国150周年、横浜開港150年を記念し、福澤諭吉にスポットを。
 慶應義塾を創設し、「学問のすゝめ」などの著述で知られる福澤諭吉。幕末から明治に生きた彼と神奈川、横浜の関係をさまざまな資料を通して紹介する。

 『福翁自伝』の中には、開港後間もない横浜を訪れ、それをきっかけに蘭学から英学に転向したことや、咸臨丸にて渡米する際に浦賀に上陸したエピソードなどが語られ、また門下生には神奈川の政財界・教育界で活躍した人物も多く、箱根にもしばしば静養に出かけるなど、さまざまな形で神奈川とつながっていた福澤諭吉。その多様な関わりを関連資料から紹介する。


愛知
二川宿の歴史、一冊に 資料館・三世副館長が出版
古文書1万点20年かけ調査

 豊橋市二川宿本陣資料館の三世(みつよ)善徳・副館長(49)が東海道33番目の宿場町「二川宿」の歴史をわかりやすくまとめた「東海道二川宿 本陣・旅籠(はたご)の残る町」(愛知大学綜合郷土研究所ブックレット、A5判82ページ)を出版した。宿帳33冊を含む古文書約1万点を20年がかりで調べた成果が生かされている。

 二川宿は慶長6年(1601年)に宿駅制度の制定とほぼ同じ頃に整備され、大名などが宿泊する本陣と庶民が泊まる旅籠が立ち並び、当時の面影は同資料館の一角に残っている。文化4年(1807年)~明治3年(1870年)に営業した馬場家にスポットをあてている。年間60回程度の利用があったが、旅籠業だけでは経営が厳しかったことが、同家に伝わる宿帳などの資料から分かっている。

 同宿の旅籠は68軒確認できるが、幕末までに大半が廃業している。三世副館長は「当時は、豊川稲荷などをお参りするため、二川宿を通らない旅人が多かったのも一因」と分析している。

 ブックレットは一部840円。同市内の主要書店で販売している。



石川
日本元気劇場  石川県加賀市
人気呼ぶ忍者体験
 
  石川県加賀市に体験とショーを主体にしたエンターテインメントパーク「日本元気劇場」がオープンした。2006年に休業した加賀百万石時代村を、全国で旅館チェーンを展開する大江戸温泉物語が再生した。

 見どころの一つが実物大で再現された戦艦「三笠」。1905年、世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊を撃破した日本海海戦の連合艦隊旗艦だ。全長80メートル、幅24メートルあり、内部はミュージアムになっている。NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」のロケ地に決まり、9月に主役の本木雅弘さんらが来訪する予定。
 敷地はナゴヤドーム8個分以上。旧時代村の伝統的街並みや建物をリニューアルしたほか、足湯やレストランに、10の劇場を設置し、忍者、新選組など時代劇をメーンに毎日開催する。子供たちに人気が高いのは忍者衣装に着替えて場内を探検する忍者体験。金沢市から家族で来ていた小学5年の宮本嘉人君は「手裏剣投げが面白かった」。お父さんは「どちらかといえば男の子の遊び場だね」。


開放感のある新「総湯」
 汗を流すなら車で約25分、新「総湯」が誕生した山代温泉へ。ヒノキをふんだんに使った2階建てで、浴室側面には九谷焼作家30人の作品がタイルにして張り付けられ、目も体も和ませてくれる。加水していない2種類の温泉が楽しめる。周辺は温泉情緒あふれる街並みに整備中で、来秋には明治時代の総湯を復元する古「総湯」も完成する。

 ▼メモ 日本元気劇場は、JR北陸線加賀温泉駅下車、タクシーで約10分。無料巡回バスあり。マイカーは北陸道・加賀ICから約15分。入園料は中学生以上500円、小学生300円。戦艦三笠は600円、400円。忍者体験は1000円。お得なフリーパスあり。午前9時半~午後10時(31日までナイター営業)。(電)0761(75)1100

 総湯の入浴料は、中学生以上420円、小学生130円、幼児50円。午前6時~午後10時営業、第4水曜休み。(電)0761(76)0144



コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(23)東大教授・山内昌之 松前崇広
■官僚と黒幕の悪ずれ

 民主党は、政権をとったあかつきには、中央官庁に多数の議員を入れて政策決定に責任をもつと公言している。事務次官会議の廃止や国家戦略局の新設によって、明治以来の官僚制度にメスを入れるのだろう。

 その志は壮とすべきだが、法の運用や「ステイトクラフト」(国政術)を知りつくした官僚のソフィスティケーションを打ち破るのは決して簡単でない。官僚のソフィスティケーションとは、早い話が「悪ずれ」を意味する。しかし、政治の「悪ずれ」は何も明治以降の官僚内閣制で初めて登場したわけでない。

 

異例中の異例の老中

 江戸時代の幕府官僚政治でトップに立つのは、譜代大名から選ばれた老中である。この職は、寺社奉行や若年寄、そして大坂城代や京都所司代というキャリアを経験した大名が就いた。この特権空間には、どれほど優秀でも外様大名は入れなかった。独裁者の5代将軍綱吉は、土佐中村藩3万石の山内豊明を若年寄に任命したが、豊明は1週間で辞任した。

 その背後には、外様の新参者に対する周囲の“いじめ”や陰湿な雰囲気も無視できない。改革で有名な上杉鷹山(ようざん)や、『甲子夜話(かっしやわ)』の文人大名の松浦静山(せいざん)も幕閣には入れなかった。わずかに幕末に老中になった真田幸貫(ゆきつら)の場合は、将軍吉宗の孫・松平定信の実子だったという毛並みからであろう。

 こうした点から、慶応元(1865)年に松前崇広が老中になったのは、異例中の異例である。生粋の外様大名で、北辺の蝦夷地福山(松前)の小藩領主にすぎなかったからだ。その小大名が寺社奉行や老中格を経て宰相の地位を射止めたのは、時代が崇広のような人物を必要としたからだ。

 

路線打破を狙った幕府

 彼は、21歳で藩主になるまで自ら料理をつくるほど下情に通じ、蘭学と英語から始まって文学や兵学に詳しく、西洋の事情や科学を知っていたという。尊皇攘夷(じょうい)という時代錯誤の路線打破を狙った幕府には、かっこうの才幹であった。

 実際、崇広の松前藩は領内で遭難した英国商船の乗組員19人を全員救助して、外国人領事から称賛と感謝の辞を送られたこともある。攘夷決行の詔勅(しょうちょく)が出た直後の事件であったが、開国論と人道主義を合わせた崇広の姿勢こそ政治外交のリアリズムとして理想的な姿になるはずだった。


 事実、元治元(1864)年になってイギリスのビクトリア女王は、崇広に感謝の意を込めて、松前家の定紋(丸に割菱)を刻んだ金時計を贈ったほどだ。外交の信頼関係は、このようなところから芽生えるのだ。

 しかし、崇広が手腕を振るうには時代の狂気がすさまじすぎた。彼を信頼した将軍の家茂は、孝明天皇の攘夷論をくつがえせず、京都で独立権力を行使した一橋・会津・桑名の3者は家茂の供で大坂に下ってきた崇広らの江戸権力と真っ向から対決した。陸海軍総裁ともなった崇広は長州戦争の責任者でもあったが、英・仏・米・蘭の軍艦の圧力もあって、同じ老中の阿部正外(まさと)と図って兵庫開港の決意をしたのである。慶応元年のことだ。

 

「一会桑」がつぶす側に

 外交問題は幕府の行政裁量権の範囲に属し、勅許を仰ぐ必要はなく、幕権を示すためにも兵庫を開港するという堂々の議論なのであった。将軍家茂の裁可も取り付けたのに、肝心の「一会桑」つまり将軍と幕権を支えるべき一族と家門の政治家は、幕府改革の期待を担って登場した外様大名必死の決意をつぶしてしまった。これは悲喜劇というほかない。

 政治で「悪ずれ」するのは官僚だけでない。黒幕政治家の悪ずれほど始末に負えないものはなく、国民は政権交代の舞台裏をよく監視しなくてはならない。

 謹慎を命じられた崇広は、罷免の翌年4月に松前の地で無念の病死を遂げた。新暦では6月だから、彼に遅咲きの北桜を見るいとまのあったことが痛々しい。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】松前崇広

 まつまえ・たかひろ 文政12(1829)年、蝦夷(えぞ)松前藩の藩主・松前章広の六男として生まれる。松前藩主を継ぐが、安政2(1855)年に領地が幕府の直轄地となり、替え地として陸奥梁川(やながわ)(福島)などに約3万石を与えられる。その後、寺社奉行を経て老中、陸海軍総裁に就任。慶応元年、英・米・仏・蘭からの兵庫開港要求問題で、老中の阿部正外とともに朝廷から勅許を得ずに開港を決めたため、老中を罷免、謹慎を命じられた。慶応2(1866)年、38歳で死去。

 『新選組!』で一場面だけ登場しましたね。一場面でも、形式張らず、開明的な姿が印象に残っています。さすが三谷さん、よくご存じで。
 しかし、老中を罷免されて38歳で亡くなっていたとは(皮肉にも、「一会桑」が潰す側になっていたんですね)……あと2年生きて幕閣に戻っていたら、幕末の政局にどう関わっていただろうと惜しまれます。
 そして、後を継いだ徳広は病弱で、政務を執った重臣に対するクーデターが起きたりしているうちに、榎本武揚さんら旧幕府軍が蝦夷地を占領、徳広は敗走中に病死……合掌。



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