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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昼過ぎの気温が32度で、そういえば今日は少し涼しいと感じる今年の夏……(汗)。帰省帰りの皆様、お疲れ様です。

青森
困っている弘前城 懸命の呼びかけ呼び掛け
 桜の名所として知られ、来年築城400年を迎える国指定史跡の弘前城(青森県弘前市)。市は明治の廃藩置県で取り壊された本丸御殿などの復元を目指しているが、当時の姿を示した有力な写真や史料は数点だけ。ホームページなどで幅広く復元につながる情報提供を呼び掛けている。

 弘前城は弘前藩の初代藩主津軽為信が1603年に計画し、三男で2代の信枚が完成させた。東京ドーム10個分以上の約49ヘクタールの敷地に、国の重要文化財の天守や城門が残る。本丸御殿は82室があったとされるが、1884年までに姿を消した。

 市が唯一所有する1871年ごろに撮影したとみられる写真には天守の後ろに本丸御殿の屋根の一部が見える。市公園緑地課は2008年から市内の写真館などに照会。市民にも情報提供を呼び掛け、これまでに14件の情報が寄せられた。

 市内の男性は、祖先が幕末から明治初期に描いたとみられる平面の絵図を提供した。有事の際に側近をどう配置するかを示した「マニュアルのようなもの」(同課)とされ、御殿の間取りを示した貴重な史料だ。

 しかし、残る13件は「直接復元にはつながらない」(同課)。現在のところ外装は1枚の写真だけ。ふすま絵を含め内装の様子を示す史料は一切見つかっていない。

 文化庁記念物課によると、歴史的建造物の復元には(1)十分な史料(2)遺構を壊さない(3)当時の工法の採用―などが条件となる。担当者は「後世の人たちが誤解するのを避けるため」と説明。鉄筋コンクリートで復元したケースもあったが、現在はより厳格な基準が適用されているという。

 弘前市を訪れる観光客は年間700万人以上だが、多くが春の「弘前さくらまつり」に集中。復元には通年で呼び込める観光資源の「目玉」としての期待も大きい。市の担当者は「12月には新幹線が青森市まで来る。築城記念を誘客につなげるため、大きな話題がほしい」と話す。

 市公園緑地課の石川竜明主査は「復元という『夢』の実現につながる宝物が、きっとどこかに残っているはず。是非、自宅の倉庫などをのぞいてみてほしい」と期待を込めた。


栃木
戊辰戦争の凌霜隊赦免から140年 那須塩原の田代さんが講演
 【那須塩原】幕末の戊辰戦争で塩原温泉に長期駐留した郡上藩凌霜隊。赦免から140年を記念し岐阜県郡上市で先月開かれた記念講演会で講演した和泉屋旅館代表の田代芳寛さん(62)が4日、田代茂樹塩原温泉観光協会長らに成果を報告した。

 幕府支援のため江戸藩邸の藩士で結成された凌霜隊は会津での敗戦で賊軍とされた。塩原には旧暦の5月11日~8月23日、和泉屋と隣の丸屋旅館に駐留した。

 凌霜隊士の謹慎が解かれて140年の今年、顕彰事業として記念講演会や隊士の子孫らが出席した記念フォーラムが企画された。

 田代さんは「伝え聞く凌霜隊」と題し講演。父で詩人の故泉漾太郎さんが郡上おどりを全国に紹介した縁で始まった和泉屋と郡上の交流、隊士が残した塩原に関する漢詩などを紹介。「栃木では凌霜隊を誤解した記述、出版があり、講演を契機に正しい凌霜隊像を伝えたい」と語った。塩原温泉観光協会長のメッセージも披露し、「郡上との文化、経済交流が図れれば」と結んだ。

 報告会で田代さんは「塩原では戊辰戦争ごろの歴史が空白」とし、郡上の郷土史家招聘を提案。田代会長も「郷土史家の講演から交流を始めたい」とし、郡上おどりの関係者を招いた盆踊りの復活も検討するという。


神奈川
掘り出しニュース:「神奈川へ出張し、返事が遅れた…」 横浜の歴史愛好家、勝海舟自筆の手紙入手
【神奈川】幕末の志士・坂本龍馬が師事した勝海舟と神奈川を結ぶ自筆の手紙が、見つかった。歴史愛好家の山本博士さん(40)=横浜市神奈川区=が京都の古美術店で入手した。歴史研究家も「貴重な史料」と評価する。

 「神奈川表へ罷(まかり)」と筆で和紙に書かれた手紙は、1862(文久2)年4月4日付。「麟太郎」の名前で、40歳の勝が福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)の家来あてに出した。「神奈川へ出張し、返事が遅れた」との内容だ。

 文中に「函館表之御船にて外国行之御用」とあるのは、幕府が主導した「健順丸」で勝が艦長として香港やジャワへ渡航する計画だった。2年前に咸臨丸で渡米した勝は、海軍と西洋砲術の専門家で、当時は講武所砲術師範役だった。

 「勝海舟」(筑摩書房)を著した桃山学院大元教授の松浦玲さん(78)=京都市=は「癖のある字で、勝の手紙に間違いない。既刊の全集ものにも未収録で、私も入手したかった。健順丸計画は中止になったが、勝は横浜港の外国の外交官や商人に会い、ジャワなど外国の情報を聞き準備していたとみられる」と指摘する。

 山本さんは昨年、勝が設計した神奈川台場(横浜市神奈川区)の古写真を入手。経営する「三陽物産」(同市中区)から台場型の菓子「勝サブレ」を今春発売した。「勝が龍馬と知り合ったころの手紙で、この4カ月後に生麦事件が発生した。勝と神奈川とのゆかりが深まり、さらに研究を進めたい」と話している。【網谷利一郎、写真も】


勝海舟:自筆の手紙 横浜の歴史愛好家・山本さん、京都で入手 /神奈川
◇「神奈川へ出張し、返事が遅れた…」
 幕末の志士・坂本龍馬が師事した勝海舟と神奈川を結ぶ自筆の手紙が、見つかった。歴史愛好家の山本博士さん(40)=横浜市神奈川区=が京都の古美術店で入手した。歴史研究家も「貴重な史料」と評価する。

 「神奈川表へ罷(まかり)」と筆で和紙に書かれた手紙は、1862(文久2)年4月4日付。「麟太郎」の名前で、40歳の勝が福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)の家来あてに出した。「神奈川へ出張し、返事が遅れた」との内容だ。

 文中に「函館表之御船にて外国行之御用」とあるのは、幕府が主導した「健順丸」で勝が艦長として香港やジャワへ渡航する計画だった。2年前に咸臨丸で渡米した勝は、海軍と西洋砲術の専門家で、当時は講武所砲術師範役だった。

 「勝海舟」(筑摩書房)を著した桃山学院大元教授の松浦玲さん(78)=京都市=は「癖のある字で、勝の手紙に間違いない。既刊の全集ものにも未収録で、私も入手したかった。健順丸計画は中止になったが、勝は横浜港の外国の外交官や商人に会い、ジャワなど外国の情報を聞き準備していたとみられる」と指摘する。

 山本さんは昨年、勝が設計した神奈川台場(横浜市神奈川区)の古写真を入手。経営する「三陽物産」(同市中区)から台場型の菓子「勝サブレ」を今春発売した。「勝が龍馬と知り合ったころの手紙で、この4カ月後に生麦事件が発生した。勝と神奈川とのゆかりが深まり、さらに研究を進めたい」と話している。【網谷利一郎】


静岡
龍馬の足跡たどるパネル48点 中区、肖像画も
幕末の志士、坂本竜馬の足跡をたどるパネル展「龍馬 飛翔伝」が20日まで、浜松市中区板屋町のオークラアクトシティホテル浜松展望回廊で開かれている。
 同ホテルが企画した。竜馬ゆかりの人物や旅館の写真48枚を年代順に並べ、竜馬の人物像や33年の生涯で為し遂げた功績を分かりやすく伝えている。「世に生を得るは事を為すにあり」など、竜馬が残した印象的な言葉も多数紹介している。
 名古屋市のコレクターが所有する、明治~昭和初期の画家公文菊僊が描いた坂本竜馬の肖像画も展示され、注目を集めている。展望回廊への入場料500円、小学生以下300円。



石川
北前船?の碇珠洲で保存作業
珠洲市沖で見つかった古い碇(いかり)を文化財として残そうと、国士舘大の沢田正昭教授や大学生らが12日から、同市の珠洲焼資料館周辺で、保存のためのさび取りや補強などの作業を始めた。14日まで作業した後、市が保管して展示などに活用する。

 碇は3本あり、長さ1・2~1・7メートル、重さ30~50キロの鉄製。幕末から明治の間に北前船などの輸送船で使われたとみられ、地元漁師が網にかかって保管していたものを、文化財保存が専門の沢田教授らが引き受け、6月からさび止めなどを行ってきた。

 この日は学生ら8人が参加し、碇の腐食状況などを調査。今後は腐食した表面をグラインダーなどで削ったり、樹脂で補強したりする。同館の大安尚寿学芸員は「北前船に代表される珠洲周辺の海運の歴史を示す大切な資料」と、碇保存の重要性を強調した。

 14日午後1時からは同館で碇保存に関するフォーラムも開かれる。参加無料。問い合わせは同館((電)0768・82・6200)。

 
兵庫
銅像 ゆかりの神戸へ
 初代駐神戸オランダ領事を務めたA・J・ボードウィン(1829~90年)の銅像が10月下旬、神戸市中央区のポートアイランド北公園に設置される。東京・上野公園の「生みの親」として知られる兄の軍医、A・F・ボードウィン博士(1820~85年)の像が同公園に建てられた際、兄と取り違えられモデルとなったが、大阪市内の住職の尽力で2006年、兄をモデルに建て替え後、撤去されていた。関係者は「没後120年の節目に、ようやく一件落着となった」と喜んでいる。

 A・J・ボードウィンは1858年、オランダ貿易会社(オランダ東インド会社の後身)から日本に派遣され、貿易商として活躍。68年、初代のオランダ領事に任命され、74年に帰国した。

 兄のボードウィン博士は、弟がいた縁で幕末から明治初期に来日して西洋医学を教え、医学校と病院の建設予定地だった上野の山を公園として残すよう日本政府に進言、上野公園ができるきっかけとなった。

 1973年、功績をたたえる銅像をオランダ大使館などが公園内に建てたが、84年、顔が弟と取り違えられていたことが判明。博士が寄宿したことがある大阪市中央区の法性(ほっしょう)寺住職、山本信行(しんぎょう)さん(63)の尽力で、2006年に銅像が建て替えられた。

 弟とわかった銅像は修復後、オランダ大使館で保管しているが、09年2月、日蘭通商400周年を記念して在大阪・神戸オランダ総領事館(大阪市中央区)が神戸市に寄贈を打診。今年7月、同市から設置の了解を得た。同総領事館のジュリアン・リクート報道・文化担当官は「A・J・ボードウィンは、日蘭の通商関係の象徴。銅像を適切な場所に設置できるのは喜ばしい」と話す。

 移設費用は同総領事館と神戸市が負担するが、山本さんは「銅像が撤去されるきっかけになったから」と寄付を募ることに。「幅広く募金を募ることで、ボードウィン兄弟と関西のかかわりを多くの人に知ってほしい」と話している。問い合わせは法性寺(06・6761・5695)。


広島
反幕勢力から防御? 県史跡上下代官所跡の発掘調査 広島・府中市
 府中市上下町の県史跡上下代官所跡の発掘調査で、石垣の一部や建物の礎石跡が見つかり、同市教委が現地説明会を開いた。南側の石垣は大きく外側に突出するような構造で、市教委は「幕末、反幕府勢力に備えるための防御的な意図で築造されたのではないか」と推定している。
 上下代官所は元禄13(1700)年に置かれ、明治以降は学校や上下町役場、市上下支所となった。発掘調査は3年目で、6月から4カ所計約100平方メートルで試掘調査を実施した。
 南側の石垣調査では石垣はほとんど残っておらず、明治に学校敷地拡張のため、石垣を壊して石材を抜き取った跡を発見。石垣はわずかに2段分(長さ約1メートル)が出土。明治2(1869)年の絵図には、石垣が東に突出している部分が描かれ、今回の調査でもこうした構造が確認された。
 市教委の土井基司主任によると、石垣は幕末ごろの築造。当時の情勢から「有力商人や役所が焼き討ちなどに遭っており、こうした襲撃に備えるためではないか」としている。
 一方、北西部分から礎石跡が出土。礎石の間隔は一間(1・8メートル)で建物の土台(基壇)を区切っていたとみられる溝(幅80~120センチ)もあった。西端部分の調査でも溝(幅約1メートル)を確認。西側の山を削って敷地を広げたらしく、山側からの排水溝とみられる。
 市教委では、代官所遺構復元への基礎資料を得ることができたとし、跡地活用策を検討していく方針。


高知
龍馬との接点も 樋口真吉を紹介
四万十市中村の為松公園にある市立郷土資料館で、企画展「龍馬を見抜いていた男 土佐西部勤王党首領 樋口真吉展」が開かれている。資料約50点を展示し、坂本龍馬との接点などを紹介している。11月30日まで。
 樋口真吉(1815~70)は現在の同市中村小姓町の郷士の家に生まれた。19歳で学問を志し、諸国で剣術や砲術を学んだ。帰郷後に家塾を開き、門弟千人以上を集めた。36歳の時、四万十川の堤防復旧工事に藩命で動員された16歳の龍馬と初めて出会ったとされる。
 真吉の土佐勤王運動に関する日記「遣倦録」には、龍馬を有為の人材と認め、龍馬の剣術修行名目の出国を竜が天に飛び上がる様子とかけて「坂竜飛騰」と記述している。また、脱藩後の龍馬と大阪で偶然出会い、1両を贈った出来事を「逢竜馬贈一円」と書き残している。
 真吉の剣術練習用の長剣「砂斬り刀」や真吉が描いた大砲の絵、下田砲台配置図、戊辰戦争で使われたスペンサー銃なども展示されている。
 入館料は大人400円、高校生200円、中学生以下無料。開館は午前8時半~午後5時。期間中無休。問い合わせは同資料館(0880・35・4096)へ。


佐賀
戊辰戦争、秋田に眠る佐賀藩士慰霊 10月ツアー
 約140年前の戊辰戦争で秋田藩の援軍として出兵し、命を落とした佐賀藩士を慰霊するためのツアーが、10月16~18日に行われる。参加者は秋田での慰霊祭に出席。郷土の先人に思いをはせるとともに、毎年慰霊祭を続けている秋田の人たちに感謝する。

 戊辰戦争の時、秋田には武雄領の兵士約千人が出兵した。佐賀藩士の慰霊碑がある秋田市新屋の「葉隠墓苑」では、「戦火から救ってくれた」と、地元の人たちが毎年慰霊祭を続けている。

 今回のツアーは「出兵の史実や秋田の慰霊活動を多くの人たちに知ってほしい」と、昨年の慰霊祭に参加した武雄ロータリークラブが発起人となって企画。

 市内の文化団体などでつくる「市民墓参団実行委員会」(実行委員長=古賀行雄・武雄市文化会議会長)や市などとの共催で、武雄領の兵士の墓がある忠専寺や天龍寺なども訪れる。

 旅費は約10万円で、定員は約30人。武雄市外からも参加できる。実行委は「佐賀のことを大切に思ってくれている秋田の人たちに、感謝の気持ちを伝えたい。ふるさとの先人に誇りを持つ機会になれば」と語る。申し込みは8月末まで。問い合わせは武雄ロータリークラブ内の実行委事務局、電話0954(22)3644へ。

【写真】佐賀藩士の冥福を祈った昨年10月の慰霊祭。武雄ロータリークラブも参加した=秋田市新屋の葉隠墓苑(秋田魁新報提供)


長崎
まちなか龍馬館が入館10万人 開館7カ月で達成
 坂本龍馬を中心に、幕末の長崎で活躍した人物や歴史を紹介している「長崎まちなか龍馬館」(長崎市浜町)の入館者数が12日、10万人を突破。田上富久市長が10万人目となった同市の会社員、大塚勇作さん(42)に記念品を贈った。

 同館は1月2日オープン。写真やパネル、調度品などで龍馬や岩崎弥太郎、上野彦馬などを紹介している。これに加え、7月からは龍馬らが訪れた引田屋(現・史跡料亭花月)ゆかりの亀山焼を、8月からは新上五島町にある「五島祈りの龍馬像」のレプリカを展示している。

 開館7カ月あまりの10万人達成に「おおむね順調」と担当者。NHK大河ドラマ「龍馬伝」の長崎編開始と夏休みの相乗効果で7月の来場者数は1日平均450人(6月は同250人)、今月は同800人と好調に推移している。

 大塚さんは熊本市出身で現在、単身赴任中。中学生の娘(13)と龍馬ゆかりの地を巡っており、「“龍馬ファン”なので感激」と喜びを語った。

 31日まで、「広報ながさき」8月号の「龍馬伝」特集ページに掲載している券を持参すると、市内の小中学生の入館料(通常150円)が無料になる。


大村市で幕末を体感 20-24日、史跡巡りイベント
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、幕末ゆかりの史跡を巡る観光イベント「夏の海さるく」が20-24日、大村市内で行われる。主催の市観光コンベンション協会が参加者を募集している。

 同市では大村湾に浮かぶ寺島周辺の海上で龍馬伝のロケが行われた。品川沖との設定で、坂本竜馬らが伝馬船から咸臨丸に乗り込むシーンとして放映された。

 イベントでは寺島周辺を船で巡るほか、大村藩主が藩校を訪れる際に使った「五教館(ごこうかん)御成門」(県指定史跡)や、藩の船を格納していた「大村藩お船蔵跡」(同)などをボランティアガイドの案内で訪ねる。市観光振興課は「ほぼ江戸期のまま残されているお船蔵など、見どころは多い」と話している。

 午前10時半から約3時間の行程で、事前に予約が必要。昼食付き1500円。同協会=0957(52)3605。


近藤長次郎の顕彰碑を長崎に 「建立する会」発足準備中
幕末の志士坂本龍馬の片腕といわれた近藤長次郎の顕彰碑を長崎市に建立しようと、長次郎の子孫らが準備中だ。子孫らは「関心がある人は力を貸してほしい」と呼び掛けている。

 「近藤長次郎の顕彰碑を建立する会」(仮称)を結成しようとしているのは、長次郎のひ孫川邉篤次郎さん(78)=北九州市=と歴史研究グループ「歴史人研究塾」主宰の整体師宮崎秀隆さん(57)=長崎市元船町=。

 長次郎は高知の菓子商出身で、龍馬が長崎に設立した貿易結社亀山社中の中心人物として活躍。長州藩に供給する軍艦と銃の買い付けを担当し、薩長同盟の成立に貢献した。慶応2(1866)年1月、秘密裏に計画した英国留学が露見し、長崎の小曽根邸(現万才町)で切腹。29歳の短い生涯を終えた。

 「長次郎が活躍した長崎に顕彰碑を建てたい」という川邉さんの願いを受け、宮崎さんが奔走。現在、碑の建立場所について長崎市と折衝している。建立費用は募金でまかなう計画で、「建立する会」を近々発足して寄付を募る。


 長崎史談会、長崎龍馬会、亀山社中ば活(い)かす会なども協力する意向。川邉さんは「長崎は長次郎にとって第二の故郷。県民の皆さんに力を貸していただければ」と話している。

 「建立する会」の運営を手伝うスタッフを募集中。問い合わせは宮崎さん(電080・1727・6849)。

熊本
横井小楠記念館・四時軒の入館者増える 熊本市
 熊本市沼山津にある横井小楠記念館・四時軒の入館者数が、小楠も登場したNHKの大河ドラマ「龍馬伝」人気の波及効果で大幅に増えている。本年度は7月末時点で過去最高だった前年度の2・6倍増。坂本竜馬は親交があった小楠の私邸四時軒を3度訪問しており、来館した歴史ファンは、日本の針路について議論をたたかわせた2人に思いをはせている。

 小楠は幕末・維新期の思想家で、竜馬とは小楠が福井藩に招かれ、藩政改革などを進めているころから親交があった。

 市の小楠記念館は1982年6月、四時軒の敷地内に開館。毎年度の入館者は例年3千~4千人だが、小楠の生誕200年にあたった2009年度は関連イベントが企画されたことから過去最高の約5500人が訪れた。

 だが、ことしの竜馬ブームは「生誕200年」以上の追い風だ。大型連休があり、小楠が大河ドラマに登場した5月は、1カ月間の入館者数としては異例の1500人以上が来場。7月まで4カ月間の入館者数は3470人で、秋にも前年度実績を超す勢いだ。

 同館は「北海道や関東など全国はもちろん、市内からの来館者も増えた。小中学生の竜馬ファンなど若い世代も多い」。年に数回だった旅行会社のバスツアーも月6~7回程度に増えているという。

 小楠が四季の景色の素晴らしさから命名した四時軒。明治から大正期に2度火災に遭ったが、竜馬と小楠が会談した客間(12畳)は焼け残ったという。

 庭からは飯田山などの眺望が広がり、すぐ近くには秋津川が流れる。「小楠先生と竜馬が一緒に見た風景は、ほとんど変わっていない」と堀内徹也館長(64)。

 「昔から竜馬ファンだが、熊本とつながりがあるのは知らなかった」と大分県日田市の自営業岩下豊記さん(59)。四時軒からの眺めに「竜馬もこの景色を見ていたのですね」とかみしめていた。(岩崎健示)


文化芸能
堺雅人主演作『武士の家計簿』がモントリオール世界映画祭に出品
歴史家・磯田道史のベストセラー[武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新]を森田芳光監督が映画化した『武士の家計簿』が、モントリオール映画祭World Greats部門に出品されると、配給会社の松竹が発表した。

『武士の家計簿』作品紹介

アカデミー賞外国語映画賞に輝いた滝田洋二郎監督の『おくりびと』も、2008年に同映画祭のグランプリを受賞。昨年は、『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』の根岸吉太郎監督が、最優秀監督賞を受賞している。

World Greats部門は、過去に同映画祭に出品経験のある監督による作品を30作品ほど上映する部門で、森田監督はこれまで『失楽園』『阿修羅のごとく』などを出品しており、それらの功績が認められ今回の出品につながったという。

『武士の家計簿』は、幕末から明治にかけての激動期を、刀ではなくそろばんを武器に生き抜いた武士とその家族の姿を人情味豊かに描いた作品で、主人公の武士を堺雅人が、その妻を仲間由紀恵が演じる。公開は12月4日から(石川県先行公開)。

また、今年のモントリオール世界映画祭は、8月26日~9月6日の期間で開催される。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(74)東大教授・山内昌之 志賀重昂
アラブの王様に会った武士 
 9日からアラビア半島の東南にあるオマーンに滞在中である。ホルムズ海峡を挟んでイランと向かい合っているアラブの国にほかならない。カーブース・イブン・サイードをスルターン(君侯(くんこう))とするイバード派(イスラームでいちばん早く成立した分派)の国であるが、人材開発を軸に近代化を短期のうちに達成したことで知られる。
 また、香水と花を愛する治安のよい平和国家でもある。2010年の世界平和度指数では、149カ国中オマーンは23位であり、中東・アジアでは日本の3位、カタールの15位、マレーシアの22位に次ぐ。世界最高級の香水「アムアージュ」や乳香(にゅうこう)はもとより、山々に咲く多彩なバラでローズウオーターも作られていることは、旅行案内にも詳しい。
 この国を最初に訪れた日本人は17世紀初頭、ローマで司祭になりながら日本に戻り殉教者となったペトロ岐部(きべ)との説もある。明治13(1880)年には伊東祐享(すけゆき)海軍中佐らも訪問したというが、一番有名なのは、志賀重昂である。徳川譜代の岡崎藩の出身だったために、官に志を得なかった志賀は札幌農学校を卒業後、英露関係の緊張激化を見て対馬の重要性を指摘、南太平洋への探検によって『南洋時事』を著し一躍地理学者として名をあげた。さらに、『日本風景論』で地理評論家、雑誌『日本人』で日本精神を鼓舞し経世家としての地位を確立した。
堂々とオマーン王宮へ
 彼は大正12(1923)年12月にインド、イラン、イラク、アラビア半島、パレスチナ、欧米などに向かった際に、13年2月にオマーンに入った。わざわざ熱暑の中東各地に踏み入った彼の事績は『志賀重昂全集』に所収された「知られざる国々」から知ることができる。現オマーン大使の森元誠二氏が大使館ホームページに載せた好エッセーもこの記事に依拠しているようだ。
 志賀によれば、当時の人口は50万人、首都マスカットは奇観(きかん)たる断崖(だんがい)を隔てた土地を合わせても2万人ほどで、輸出品はナツメヤシの実、干し魚、フカひれ、塩、ザクロ、レモンにすぎなかった。今なら日本で冬場のスーパーに並ぶオマーン産の「いんげんまめ」も逸してはならない。いずれにせよ、産油国として活況を呈する今日とは隔世の感がある。
 1人当たりのGDPは2008年時に約1万9千ドルである。日本の約3万8千ドルや韓国の約1万9千ドルと比べると同国の豊かさがうかがえる。しかし志賀の時代には、銅貨以外に金銀貨はなく、英領インドの銀貨や白銅貨が流通していただけだ。インドの紙幣も割引せずに受け取ってくれたと志賀は語るが、ここにオマーンとインドとの経済的紐帯(ちゅうたい)が見られるという森元大使の指摘は正しいのである。
 幕末維新から明治を生き抜いた志賀の豪胆さは、海岸沿いの王宮を不意に訪れスルターンへの拝謁(はいえつ)を申し入れたことだ。寸毫(すんごう)も卑屈な点がないのは、武士のリアリズムや誇りがあったからである。志賀が「セイード・チムル・ビン・ファイサル」と呼んでいるスルターンは、サイード・タイムール・イブン・ファイサルのことだろう。不惑がらみの絵画の諸葛孔明のような「好丈夫」であり、頭上より「純白雪の如(ごと)きカシゥミル絹」をまとい、素足のまま悠然と西洋輸入のソファに腰かけていたと描写する。この印象的光景は森元大使も引用しているところだ。
 スルターンは志賀に向かって、日本がこの地で商売や産業を振興させ、相互の親睦(しんぼく)を図ればアラブの復興にもつながり、たがいに利益をあげられると懇篤(こんとく)に説いた。「何故に日本人は疾(と)くアラビスタンに来らざるや」と。
 ◆虚心坦懐に話し合う
 感激した志賀はスルターンに拝謁するまで、アラブ人を「獰猛(どうもう)」かつ「殺人的」だと思いこんでいたが、この君主が「殊に都雅(とが)なる」を知って外国人の陥りがちな偏見や誤解を反省している。
 幕末維新をくぐりぬけた武士が世界を旅行し虚心坦懐(きょしんたんかい)に王侯と平民を問わずアラブ人とも懇(ねんご)ろに付き合えたのは、統一国家日本への誇りと健全な愛国心があったればこそだ。小笠原諸島の南方マーカス島の領有問題が1898年に起こった時、その地を南鳥島と改称し東京府の管轄たらしめた功労者は志賀重昂である。竹島や尖閣諸島など領土問題でいつも毅然(きぜん)としたところのない戦後日本の政府や政党などは、冷静な学問的知見と愛国的使命感をバランスよく兼備した志賀に学ぶべき点が多い。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】志賀重昂
 しが・しげたか 文久3(1863)年、三河国(愛知県)岡崎生まれ。札幌農学校卒業後、教員生活をへて南洋諸国を歴訪して『南洋時事』を発表。三宅雪嶺(せつれい)らと雑誌『日本人』を創刊、国粋主義を訴えた。明治27(1894)年に刊行した『日本風景論』はベストセラーとなり、国会議員も務めた。昭和2(1927)年、63歳で死去。


なぜ首都は東京? 定義は? 明確な根拠なく既成事実化
【社会部オンデマンド】

 「日本の首都はなぜ、東京なのでしょうか。首都機能移転計画の議論などもありましたが、首都の定義について教えてください」=岡山県倉敷市の会社員、中川真人さん(29)

 ■“誕生日”のない東京

 高校の教科書では「1869(明治2)年には京都から東京に首都を移した」と説明されており、広辞苑は首都を「その国の中央政府のある都市」と定義している。東京が首都という位置付けは常識ともいえるが、実は天皇の詔勅(しょうちょく)や政府の布告はなく、京都から遷都が正式に宣言された記録はない。

 では、なぜ明治2年が遷都とされているのか。

 奈良大学の佐々木克教授(日本近代史)によると、明治維新の新政府樹立に伴い、大久保利通らを中心に天皇を政治の表舞台に出し、新天地で改革を断行するための遷都論が浮上。その中で、当時世界最大の都市だった江戸が重要視され、明治元年、東京設置が発令された。

 国家の最高機関である太政官など首都機能が次々に東京に移され、天皇が皇居(江戸城)に到着した明治2年3月28日、「江戸城」が官庁を有する意味の「皇城」に改められた。天皇の住まいと中央政府(官庁)が一体となったこの時点を遷都と解釈できるのだという。

 遷都宣言がなかった理由としては、民心の安定を優先したという説や、遷都に反対する京都の尊皇攘夷派を刺激しないように考えた政府が、発令のタイミングを失ったなど諸説あるが定かではない。

 その後、天皇と中央政府が所在し続ける東京を首都とする考えは時代の流れとともに既成事実化していく。戦後復興期の昭和25年に出された首都建設法で「東京都を新しく我が平和国家の首都として…計画し、建設する」などと法的に首都が東京と明記されると、「東京=首都」の考えが普及した。

 ただ、首都建設法は明確に首都を定義づけるための法律でもなく、廃止となったため、国会などの首都機能移転問題を所管する国土交通省は「首都が東京を大前提に移転の議論を進めているが、明確な定義や根拠は分からない」とする。

 また、東京都は「首都の定義がない。国会の質問で、国からも『定義したものはない』との回答があった」などと首都を自認できない状況が続いている。

 ■首都機能移転論争

 明確に首都と定義されない中、人口が増え続けた東京は次第に過密に伴う弊害が顕在化。昭和30年代から一極集中が問題視されるようになり、政府も第三次全国総合開発計画(52年)などで首都機能移転を検討。だが、実際の議論は「浮かんでは消え」を繰り返した。

 平成4年に「国会等の移転に関する法律」が制定され、11年には首相の諮問機関が移転先候補地を答申。「栃木・福島地域」▽「岐阜・愛知地域」▽「三重・畿央地域」(滋賀、京都、三重、奈良)-の3地域が対象地域に選ばれたものの、17年10月の両院協議会を最後に議論はストップしたままだ。

 もともと、主要機関を各都市に分散配置する「分都」の考えや国会移転そのものを「遷都」とする議論は国会や研究者らの間で重ねられたが、当事者の国と東京都の主張には大きな開きがある。

 国は一極集中の是正や災害対応力の強化を主張する一方、東京都は莫大(ばくだい)な費用がかかる点や災害に備えたバックアップ体制充実を優先すべきだと反対し、議論は平行線。

 東京都は現状について「特に動きはなく、全くの膠着(こうちゃく)状態で先は見えてこない」と説明。国交省は「移転は大きな政策で、慎重にならざるをえない。国会で議論される話」と移転の行方は定まっていない。

 一方、国交省の資料によると、海外の主な首都機能移転では、米国やカナダ、ドイツなど首都そのものが移転したケースや、国会だけが移転したチリなどの例がある。首都機能の一部(省庁や最高裁判所)移転を計画するマレーシアは、慢性的な交通渋滞の解消や電子政府化の推進を目的とするなど移転の背景は多岐にわたる。

 佐々木教授は「東京の移転の場合は国民の関心も低く、現実的ではない。歴史上、遷都は新しい政治のために行われる切実なものだった。これまでの議論でそこまでの明白な理由は示されておらず、国民全体の合意形成は難しい」としている。(楠城泰介)






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