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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 ちょっと貯め込んでしまいました〜。

北海道
本願寺函館別院 明治期の外観再現へ 来年度着工
【函館】浄土真宗本願寺派の本願寺函館別院(中尾史峰輪番)は、明治期のれんが造りの本堂を市内東川町の境内に再現しようと、2011年度着工に向けて設計作業を本格化している。総事業費8億円余りをかけ、12年度の完成を目指す。

 函館別院は幕末に道内布教の拠点として設けられた。本堂は大火で2度焼失した後、1907年(明治40年)に不燃質のれんがを外装に使って再建され、洋風のユニークな寺として知られていた。しかし、1934年(昭和9年)の大火で窓から火の粉が入り木造の内部を全焼。現本堂は50年、仮本堂として建てられたが、老朽化が著しい。

 計画によると、新本堂は鉄筋コンクリート造2階建て延べ2372平方メートル。明治期の写真などを基に外観を再現する。内部には吹き抜けの参拝席や中庭などを設け、節電に役立つ採光窓を多くして、段差のないバリアフリー設計にする。

 資金は道南をはじめ、胆振、日高管内にある末寺や信者らの寄付などで賄う予定で、22日まで市内各所で説明会を開いている。副輪番の神田憲量さん(48)は「市民にも協力を願い、観光名所の一つに加えたい」と話す。

 函館では火災から守るために、れんが建築が明治から大正期にかけて西部地区を中心に流行し、かつての本堂はその中でも異彩を放っていた。市立函館博物館の田原良信館長(57)は「れんがの積み方などを再現することで、当時の街並みに近づける」と期待している。(山村晋)


岩手
企画展:啄木と龍馬の共通点探る 書簡や歌など350点、高知県と交流事業 /岩手
◇盛岡の記念館で
 岩手の歌人・石川啄木(1886~1912)と幕末の志士・坂本龍馬(1835~67)の歌や手紙から2人の共通点を探る「啄木と龍馬展~二人の目線」が、盛岡市玉山区渋民の石川啄木記念館で開かれている。10月17日まで。

 啄木の父一禎(いってい)(1850~1927)が晩年を過ごした高知市で昨年9月、啄木父子の歌碑が建てられたことなどから高知、岩手両県が交流事業を企画した。

 高知市の県立坂本龍馬記念館と共催。同館でも4月16日から3カ月間、同様の企画展を開き、延べ約13万3000人の来場者を集めたという。

 会場には、龍馬が姉乙女に送った書簡(複製)や龍馬の肖像画、ブーツ(同)など龍馬記念館から貸し出された資料51点、啄木関係では金田一京助あて書簡など約300点がそれぞれ展示されている。

 啄木記念館の山本玲子学芸員は龍馬が「日本を今一度せんたくいたし申候」の言葉を残し、啄木が「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」と短歌を詠んだことに着目する。「新しい時代、明日を見つめていたところに共通点がある」と話す。龍馬記念館の前田由紀枝学芸主任も「100年後の私たちにも大きなメッセージを訴えかけている」と魅力を語る。

 問い合わせは石川啄木記念館(019・683・2315)。【山口圭一】

茨城
「水戸の歴史を楽しむ」ツアー開催へ-五反田・全国歴史研究会が企画
 全国歴史研究会(本部=品川区西五反田2、TEL 03-3779-3127)は8月29日、バスツアーイベント「歴史を楽しむ会 in 水戸」開催する。

 1958(昭和33)年、全国歴史愛好家の親睦交流会と研究発表の場作りを目的に発足した同研究会。当初40人の会員数は現在、約1万6,000人を数えるほどになった。5月に「水戸の歴史を応援する会」(通称=水戸の会)が発足し、同イベントはその設立を記念したもの。

 設立の経緯について、同研究会担当者は「水戸藩には『桜田門外の変』や『水戸天狗党(元治甲子の変)』など、土地に遺恨を残す歴史的な事件が多く、いまだに当事者である茨城県在住の方々は口を閉ざしている方が多い。幕末において全国的にも影響力の大きかった水戸藩について再評価し、語り合う機会が持てないかという話が出ていた」と話す。「あえて東京で設立し、『外部から応援』することで地元の人々がさまざまな枠を超えて交流を深めてほしい」とも。

 今年は「桜田門外の変」から150年ということもあり、10月には大沢たかおさん主演の映画「桜田門外ノ変」も公開予定。水戸では期間限定で同映画のオープンセットが公開されており、ツアーにも組み込まれている。ツアーには、「幕末明治の博物館」「徳川博物館」などの見学会などのほか、祇園寺(水戸市八幡町)で講演会と懇親会も行う。

 同会主幹の吉成勇さんは「明るく楽しく歴史を語らう事が我々のモットー。水戸の歴史に興味がある方ならどなたでも歓迎している。公平な目線を大切に今後も活動していきたい」と話す。

 ツアーは五反田の東興ホテル前発着。料金は、全コース参加=1万円、講演会のみ参加=500円。申し込みは、同会が郵送・ファックス・電話で受け付ける。


栃木
坂本龍馬:高橋泥舟の史料「公雑筆記」に名前記述 足利学校で発見 /栃木
◇明海大・岩下教授「一目置かれる存在」と評価
 足利市昌平町の国史跡・足利学校で所蔵する幕末の幕臣、高橋泥舟(でいしゅう)(1835~1903年)の史料の中に、坂本龍馬の名前が記述されていることが分かった。泥舟が京都で諸藩の藩士と交流した時に書き留めたとみられ、発見した明海大ホスピタリティ・ツーリズム学部の岩下哲典教授(幕末史専攻)は「龍馬が一目置かれる存在だったことが分かる史料」と評価している。

 「龍馬」の記述は、泥舟の遺書16冊のうちの手控え帳の一つ、「公雑筆記」(縦12センチ、横19センチ)にあった。岩下教授が12日に、泥舟の伝記執筆のため足利学校に関係資料の調査に訪れ見つけた。

 「龍馬」ではなく「良馬」と表記されているのは聞き書きのためらしい。土佐藩士の間崎哲馬と並んでおり、横には「土佐の3人のうちの1人」と書かれ、岩下教授は「龍馬に間違いない」と説明している。

 公雑筆記は泥舟が十五代将軍、徳川慶喜に従い上洛した1862、63年ごろに書いたとみられ、水戸藩の武田耕雲斎や、龍馬の盟友である土佐藩の中岡慎太郎らの名前もある。

 泥舟は幕末から明治にかけてのやりの名人。幕府軍の遊撃隊頭取などを務め、勝海舟や山岡鉄舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれる。公雑筆記は21日~9月5日に足利学校遺蹟図書館で公開される。問い合わせは同学校(電話0284・41・2655)。【古賀三男】


足利学校所蔵の史料から竜馬の名
 足利市昌平町の国史跡・足利学校が所蔵する幕末の幕臣・高橋泥舟(でいしゅう)(一八三五~一九〇三年)が残した史料に、坂本竜馬の名前が記されていることが分かった。泥舟が京都で諸藩の藩士と交流した際に、見どころがある者の名を書き留めたとみられ、専門家は「竜馬が、泥舟と面識があり、一目置かれる存在だったことが分かる発見」と意義を説明している。
 竜馬の名が記されているのは、手控え帳の一つ「公雑筆記」。泥舟の伝記を執筆している明海大ホスピタリティ・ツーリズム学部の岩下哲典教授が今月十二日、同学校を調査に訪れた際に見つけた。漢字を確認しなかったとみられ「坂本良馬」と書かれているが、土佐藩士間崎哲馬と並べられており、竜馬に間違いないという。
 泥舟は江戸の旗本の家に生まれ、やりを極めて名を上げた。幕府軍の遊撃隊頭取などを務め、勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。
 公雑筆記は、泥舟が一橋慶喜(後の将軍徳川慶喜)に従って上洛(じょうらく)した一八六二年末から六三年春の間に書かれたと考えられ、竜馬のほか武田耕雲斎(水戸藩)、秋月悌次郎(会津藩)、中岡慎太郎(土佐藩)らの名がある。
 竜馬の名の横には「土佐の三人のうちの一人」と記されており、岩下教授は「間崎哲馬らとともに土佐の『有望藩士』三人の一人として認識していたのだろう」と推察している。
 史料は二十一日から九月五日まで同学校遺蹟図書館で公開される。問い合わせは同学校=電0284(41)2655=へ。 (清水祐樹)


足利学校所蔵資料に竜馬の名 高橋泥舟の雑記帳、近く公開
【足利】史跡足利学校が所蔵する高橋泥舟(1835~1903年)に関する資料に、坂本竜馬の名前の記述があったことが18日までに分かった。同学校は21日から9月5日まで、この資料を特別公開する。

 高橋は幕末から明治にかけて生きた槍の名人。幕末に江戸を戦火から救った幕臣で勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。

 高橋の伝記を書くため、明海大の岩下哲典教授(幕末史専攻)が8月12日、同学校で資料を調べたところ、竜馬の名前の記述を見つけた。この資料は高橋の遺書16冊のうちの「公雑筆記」(1948年・個人寄贈)で、1862、63年ごろ高橋が知り合った人物21人を書き留めた雑記帳。「坂本良馬」と記されている。

 聞き書きなので、竜馬を「良馬」と記したとされる。また「土藩三人之内一人之由」との記述もあり、岩下教授は「竜馬を当時、土佐藩で有名な人物の一人と評価していたのでは」と推察している。

 竜馬と志を同じくした幕末の志士、中岡慎太郎(土佐藩)や水戸藩・天狗党の首領、武田耕雲斎らの名前もあった。日本の大きな変革期に、高橋が京都で諸藩の重要な人物と交流があったことを物語る。

 問い合わせは同学校事務所電話0284・41・2655。

京都
白虎隊:祖父の文書から新説 隊士の子孫・飯沼一元さん、下京区であす講演 /京都
 戊辰(ぼしん)戦争で集団自刃した会津藩(福島県)白虎隊士のうち、唯一生き残った飯沼貞吉(後の貞雄、1854~1931)の孫、飯沼一元さん(67)=東京都=が22日午後3時から、京都市下京区の「ひと・まち交流館 京都」で講演する。飯沼さんは「京都は幕末の会津藩主、松平容保が京都守護職を務めた因縁の地。その後、白虎隊が貫いた『義』の精神を知ってほしい」と話している。【五十嵐和大】

 貞吉は明治維新後、逓信省(当時)の電信技師となったが、戊辰戦争直後の詳しい足取りについては、自身が多くを語っていない。一元さんは歴史家の研究に自ら調査した結果を加味し、「現在の山口県美祢市で、長州藩士に一時養育されていた」とする説について講演。また、新政府軍に追いつめられた白虎隊が飯盛山(福島県会津若松市)で自刃した経緯についても、貞吉らが後年書き残した文書に基づく新説を明らかにする。京都での講演は、山口県出身で一元さんとともに顕彰団体「白虎隊の会」をつくった中村正・京都史跡ガイドボランティア協会幹事らの招きで実現した。入場料500円。問い合わせは中村さん(090・8168・3456)へ。


龍馬ファンの時代劇俳優 木屋町舞台にガイド熱演
 坂本龍馬が活躍した京都市中京区の木屋町かいわいを舞台に、龍馬ファンの時代劇俳優がボランティアで観光ガイドをしている。木屋町通二条下ルの高瀬川一之船入(いちのふないり)の前で掃除をし、観光客らを案内する光景が地域で評判となっている。

 京都市右京区の吉田信夫さん(60)。主に切られ役や通行人役として「水戸黄門」などに出演してきた。時代劇の制作が減り、役者の世代交代も進んだため、空いた時間に本業を生かせる活動を、とガイドを志した。

 6月から一之船入前にほぼ毎日常駐、午前10時から、「働き場をきれいにするのは当たり前」と一帯を掃除し、ガイドを始める。

 初めは観光客や住民に「怪しい人かと疑われた」と吉田さん。復元された高瀬舟を見に訪れる歴史ファンに声をかけ、依頼があれば、土佐藩邸跡や長州藩邸跡、近江屋跡などを1時間10分かけて無料で案内する。龍馬が尽力した薩長同盟の背景などを、時代劇で養ってきた歴史知識を披露しながら、演じるような口調で話す。

 無料ガイドの一方で、吉田さんは俳優の活躍できる場をつくろうと、扮装(ふんそう)案内人を名乗って京都観光「龍馬組」というグループを立ち上げた。「無料ガイドで気に入っていただけたら、次の機会は龍馬の時代衣装でガイドします」とPRしている。

 地元の上木屋町町内会の伊藤高華会長(79)は「地域をアピールしてくれてありがたい」と活動を評価。9月23日開催の「高瀬川舟まつり」では吉田さんらによるチャンバラ教室が開かれる。吉田さんは「幕末の志士たちが活躍した地をガイドし、思いを伝えるのは俳優の仕事と通じるところがある」と話す。問い合わせは吉田さん携帯電話080(6126)6835。


企画展:幕末・維新期の京都に焦点 左京の府立資料館で、瓦版や本など /京都
 幕末・維新期の京都に焦点を当てた企画展「語り継がれる幕末・維新の京都」が、左京区の府立総合資料館で開催されている。22日まで。

 ペリー来航の様子を描いた「亜米利加ペルリ上陸図」、禁門の変(1864年)による京都の大火など、幕末から明治期の事件を報じた瓦版、龍馬ブームの原点を作った人物とされる坂崎紫瀾(しらん)著「坂本龍馬」、元新撰組隊士が実戦の様子をつづった「新撰組往時実戦談書」など、幕末・維新当時の資料と、その後、時を経るに従って変遷する幕末・維新観を示す資料も併せ約90点が展示されている。

 午前9時~午後4時半。入場無料。同館(電話075・723・4831)。【野宮珠里】


愛媛
龍馬と同型拳銃 松山の男性が記念館に寄贈
 幕末の志士高杉晋作が坂本龍馬に贈った拳銃と同型の拳銃が、松山市の個人宅で見つかり、坂本龍馬記念館(高知市)に寄贈された。今月末から同館で展示する。
 拳銃は米国スミス・アンド・ウェッソン社製の「モデル2アーミー」(長さ27センチ)。アメリカ南北戦争の際に製造され、日本にも輸入された。製造番号から明治後期に造られた可能性が高いという。
 同館によると、高杉晋作は同型の拳銃を上海で購入して龍馬に進呈した。寺田屋事件で伏見奉行所の捕り方に襲われた龍馬は、この拳銃で応戦。危機は脱したが、手を負傷し拳銃を落としたとされ、実物は残っていない。森健志郎館長は「今はレプリカを飾っているが本物は迫力が違う」と喜んでいる。


龍馬と同型拳銃記念館に寄贈
 幕末の志士・坂本龍馬が持っていたとされるものと同型の拳銃を、松山市の男性が、県立坂本龍馬記念館(高知市浦戸)に寄贈した。同館は20日から常設展示する予定で、森健志郎館長は「これまで展示していたレプリカとは違う、本物の迫力が感じられる。龍馬の手紙と一緒に眺めてほしい」と喜んでいる。

 拳銃は米国スミス・アンド・ウエッソン(S&W)社製の32口径6連発式で、全長27センチ。龍馬は同社の拳銃を高杉晋作から贈られ、1866年(慶応2年)に京都・寺田屋で伏見奉行所に襲撃された時には発砲して応戦したとされる。ただ、寺田屋で落としたため、実物は残っていない。

 寄贈した松山市の電気工事会社社長、岩田秀樹さん(66)によると、拳銃は愛媛県宇和島市の旧家が解体された際に出たもの。岩田さんは、龍馬関係の雑誌を読んで同社の拳銃を龍馬が持っていたと知り、「せっかくなら龍馬ゆかりの場所で飾ってほしい」と思い立ち、寄贈した。

 同型の拳銃は佐川町立青山文庫でも保管されている。


竜馬愛用と同型の拳銃発見 米国製、記念館に寄贈
 幕末の志士高杉晋作が、坂本竜馬に贈った拳銃と同型の拳銃が松山市の個人宅で見つかり、18日までに、坂本竜馬記念館(高知市)に寄贈された。今月末から同館で展示する。

 寄贈された拳銃は米国スミス・アンド・ウェッソン社製の「モデル2アーミー」で長さは27センチ。アメリカ南北戦争の際に製造され、日本にも輸入された。製造番号から明治後期に造られた可能性が高いという。

 同館によると、高杉晋作は同型の拳銃を上海で購入して竜馬に進呈した。寺田屋事件で伏見奉行所の捕り方に襲われた竜馬は、この拳銃で応戦。危機は脱したものの、手を負傷し拳銃を落としたとされ、実物は残っていない。

 7月下旬、松山市の古物愛好家の男性から同館に連絡があり寄贈が決まった。森健志郎館長は「今はレプリカを飾っているが本物は迫力が違う」と喜んでいる。


福岡
大名に「龍馬カフェ」期間限定 8月末まで
 幕末の志士、坂本竜馬にちなんだメニューと、長崎県の観光情報を発信する8月末までの期間限定「長崎・龍馬カフェ」が、中央区大名1丁目の飲食店「アペゼセントラルカフェ」内に登場。NHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気と相まって、ファンの注目を集めている。

 長崎県観光連盟が同店とタッグを組んで実現。等身大の竜馬の写真が客を出迎え、海援隊が交易に使った蒸気船いろは丸をイメージした「龍馬パフェ」や長崎名物トルコライスなどを用意。観光パンフレットが並ぶほか、アンケートに答えるとハウステンボス(長崎県佐世保市)の施設入場券などが抽選で当たる。坂口皓一(こういち)店長は「ドラマの舞台が長崎に移ったのに合わせて客が増え、売り上げは例年の2倍近くにアップ。竜馬パワーはすごいです」と話している。同カフェ=092(713)0501。


佐賀
築地反射炉:幕末遺産の発掘調査 廃棄土坑2カ所確認--佐賀市教委 /佐賀
◇本体位置特定に前進
 佐賀市が世界遺産登録を目指す幕末遺産の一つ、築地反射炉跡の発掘調査で、鉄くずなどが埋まった幕末期の土坑(縦穴)が2カ所並んで見つかった。穴の形はともに四角に近い形。操業で出た鉄くずなどを捨てるため、反射炉近くにあった廃棄土坑の可能性があり、市教委は「反射炉本体の位置を特定する有力な資料」と位置づけている。

 築地反射炉は佐賀藩が築いた国内初の実用的反射炉で、同市長瀬町の市立日新小が跡地とされる。今年1月の試掘で土坑の一部が見つかり、今回の調査でその土坑の規模(縦4・8メートル、横約5メートル)が確認された。並んで別の土坑(縦4・5メートル、横6メートル以上)も出土した。

 土坑からは大量の鉄くず、耐火レンガ、木炭とともに幕末期の磁器が見つかり、遺構の年代は1850~53年とされる築地反射炉の操業期と重なる。大砲鋳型の一部の可能性がある遺物や、木製の下駄も出土した。

 廃棄土坑は反射炉本体の近くにあったと考えられ、廃棄物がどの方向から捨てられたかを分析すれば、本体があった方角が推測できるという。

 ◇22日現地説明会
 22日午前9時半~正午、現地説明会が開かれる。少雨決行。【姜弘修】


日新小から大砲の鋳型 反射炉の有力根拠に
 佐賀市教委は19日、幕末期に佐賀藩が鉄製大砲を鋳造するために築いた「築地(ついじ)反射炉」の跡地とされる同市長瀬町の日新小で、大型の鉄滓(てっさい)(鉄を溶かす際に出るかす)や大砲の鋳型とみられる粘土の破片が見つかったと発表した。いずれも反射炉があったことを裏付ける遺物。本体遺構の発見に向けて周辺の発掘調査を続けている。

 8月上旬から、反射炉操業時に排出された鉄くずなどが集まった「廃棄土坑(どこう)」とされる部分と周辺の約110平方メートルを1メートル掘り下げて調査している。確認した鉄滓は長さ1メートル、幅30~40センチでさらに地中に埋まっている。大きさから大砲鋳造の際にできたとみられる。粘土の破片は円形で、幅22センチ、厚さ8センチ。形や1200度以上の高温に当たった跡などから大砲鋳型の一部と類推されるという。

 土坑の中からは幕末期の陶磁器も見つかっており、反射炉が使われた時期と重なる。市教委は「近くに反射炉があったことを示しており、本体の位置を推定する有力な資料」としている。

 築地反射炉は、1852年までに本格稼働した日本初の洋式実用反射炉で、幕末の近代化をけん引した佐賀藩を象徴する施設。市は世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産に加わるよう昨年8月から調査を続けている。今年1月に廃棄土坑の一部を発見、周辺を発掘していた。まだ本体遺構はなく、引き続き調査する。

 前田達男市教委世界遺産調査室長は「構成資産入りや史跡指定のためには本体遺構の発掘が不可欠。今回見つかった手がかりを頼りに調査を進めたい」と話す。22日午前9時半から正午まで現地説明会を開く。

【写真】築地反射炉の跡地で確認された鉄の不純物のかたまり=佐賀市長瀬町の日新小


戊辰戦争で活躍 最後の武雄領主 鍋島茂昌の激動つづる 展覧会29日まで 初公開資料含む120点
 没後100年を機に、最後の武雄領主鍋島茂昌(しげはる)(1832-1910)に焦点を当てた初の展覧会が29日まで、武雄市の市図書館・歴史資料館で開かれている。蘭学を導入した鍋島茂義の長男として生まれた茂昌は西洋式軍事の教練に務め、戊辰(ぼしん)戦争で活躍。その後版籍奉還で領主権を失うなど、激動の時代に生きた姿を多彩な資料で明らかにしている。

 茂昌は満6歳で武雄鍋島家の家督を継いだ。1868年、旧幕府軍と新政府軍の間で戊辰戦争が起こると、強力な洋式軍事力が評価を受けて新政府から出兵を命じられ、約千人の武雄隊を連れて秋田へ出兵した。

 秋田では佐賀藩主鍋島直正から佐賀藩全軍4千人の総司令官に任命され、7連発のスペンサー銃、アームストロング砲などを用いて奮闘。最先端の軍事力で新時代の到来を後押しした。

 1870年、明治政府から陸軍の要職への就任を求められたが、これを辞退。翌年の誘いも断り、その後は武雄で乗馬などの趣味にいそしんだ。1897年に男爵を授けられている。

 展覧会ではこうした激動の時代を生きた茂昌の歩みを書状や絵図、写真など約120点の資料で振り返る。うち3分の1が初公開。同館の川副義敦副館長は「働き盛りの30代半ばで幕末期を迎え、時代の波に翻弄(ほんろう)された茂昌が何をなしたのかをこの機会に知ってほしい」と話している。

 入場無料。休館日は19日、23日。21日は午後1時半から担当学芸員によるギャラリートークがある。同館=0954(20)0222。


長崎
「咸臨丸、近代化に貢献」 長崎市で乗員の子孫講演
 幕末に勝海舟らを乗せて米国へ航海した「咸臨丸」の乗組員だった小杉雅之進(1843-1909)のひ孫で「咸臨丸子孫の会」事務局長の小杉伸一さん(58)=横浜市=が21日、長崎市の原爆資料館で「子孫から見た咸臨丸の歴史」と題して講演した。

 1857年に完成した幕府軍艦の咸臨丸は、長崎海軍伝習所の練習艦としても使われ、60年に太平洋を横断した。小杉さんは200枚以上の写真を使い、現地取材したエピソードを交えながら、咸臨丸誕生のきっかけとなった黒船来航から座礁沈没までの19年間の歴史について語った。

 小杉さんは「米国での見聞が日本の近代化に貢献したのは間違いない」と語り「激動の幕末維新での出会いで養われた先祖同士のきずなは、今日まで脈々とつながっている」と締めくくった。


タウンたうん:幕末英雄たんけん隊--長崎 /長崎
 長崎市シーボルト記念館(長崎市鳴滝2、大石幸雄館長)は19日、子供向け学習会「幕末ヒーローたんけん隊」を開催。親子連れ11人が参加し、シーボルトや坂本龍馬ら長崎で活躍した幕末の偉人ゆかりの地を巡った。

 一行は「現代龍馬学会」会員で記念館係長の織田毅さん(48)の案内で、同館から亀山社中に向けて約2時間の道のりを散策。途中、上野彦馬の写真館「上野撮影局」跡(伊勢町)では、龍馬が当地で写真を撮影した史実とともに「当時写真は1枚3万~4万円といわれ、撮影にも30秒~1分かかった。それでも龍馬の写真がたくさん残っているのは、彼がハイカラだったから」と説明した。長崎大付属小5年、原田咲紀さん(10)は「初めて知ることばかり。夏休みの宿題に役立ちます」と喜んでいた。

 同館では特別展「シーボルトと幕末英雄(ヒーロー)展」を9月20日まで開催中。山口県内の博物館などの協力を得て、吉田松陰の書状や木戸孝允直筆の戯画、高杉晋作が使った編笠など貴重な史料約50点を展示している。【錦織祐一】


咸臨丸子孫の会:「長崎出身乗組員の子孫名乗り出て」 事務局長が来崎 /長崎
 150年前に太平洋を横断した江戸幕府の軍艦「咸臨(かんりん)丸」乗組員の子孫でつくる「咸臨丸子孫の会」事務局長の会社員、小杉伸一さん(58)=横浜市=が20日、田上富久長崎市長を表敬訪問し「長崎出身の乗組員の子孫にぜひ名乗り出てほしい」と話した。

 小杉さんの曽祖父・小杉雅之進(1843~1909年)は幕臣で、長崎海軍伝習所で学んだ。1860年に咸臨丸の蒸気方(機関長)手伝いとして太平洋を横断。戊辰(ぼしん)戦争では開陽丸蒸気方として将軍・徳川慶喜の大坂脱出に従い、明治政府にも出仕した。

 小杉さんは「曽祖父は長崎に3年ほどいて縁が深い。長崎出身の乗組員は約30人いて、名前も分かっている」と話した。田上市長は「市民の歴史への関心も高まっている。盛り上げてほしい」と応じた。

 長崎市歴史民俗資料館(平野町)が開催中の特別企画展「長崎の海と船展」の一環で、小杉さんは21日午後2時から近くの長崎原爆資料館で「子孫から見た咸臨丸の歴史」と題して講演する。参加無料。【錦織祐一】


文化芸能
「十三人の刺客」9月19日東京で試写会
 徳川の世の江戸時代末期、明石藩で事件は起こった。家老の間宮が切腹自殺した。それは、残虐な藩主・松平斉韶(稲垣吾郎)による余りに不条理な暴君振りに抗議してのものだった。将軍・家慶の弟に当たる血筋から翌年には老中への就任が内定している斉韶。目に余る残虐さに老中・土井(平幹二朗)は、御目付役・島田新左衛門(役所広司)に暗殺の密命を下す。大事決行の為、次々と集結する男たち。斉韶を狙うのは参勤交代の帰国で江戸から明石への道中と決した。集まった“十三人の刺客”は、斉韶の腹心・鬼頭半兵衛(市村正親)との謀略戦の末、幕末最大のミッションに挑む。その他の出演は山田孝之、伊勢谷友介、沢村一樹、古田新太、高岡蒼甫。

 9月25日より全国東宝系で公開する「十三人の刺客」の試写会に50組100人をご招待。9月19日(日)有楽町・朝日ホール。19時開映(30分前開場)。2時間21分。申し込み方法は、電子メール本文に〒住所、氏名、電話番号を、件名に「十三人の刺客」係宛とご記入のうえ、mk@hochi.co.jpへ。9月9日(木)必着。


コラム
【幕末から学ぶ現在】(75)東大教授・山内昌之 武田耕雲斎
派閥抗争の悲劇とは
 9月の代表選挙を控えて民主党の内訌(ないこう)(内輪もめ)がはなはだしい。ひたすら権力を目指した派閥間の古典的な争いだった自民党の事例とも異なり、イデオロギーや路線をめぐる理論闘争の感もあった旧社会党の派閥争いとも違う独特な対立構造が民主党にはあるようだ。
 それは、自民党や社会党の議員だったベテラン政治家から市民運動や新左翼運動の活動家にいたる雑多な分子から成っているために、民主党には政治の筋や主義主張だけで結合しない“人間臭さ”や“いい加減さ”があることだ。分かりやすくいうと、あれこれの人間の好き嫌いで動く単純な面も民主党にあるのではないか。
 政治には人の好き嫌いがつきものである。しかし、他人への好悪の感情が強烈なイデオロギーと結びつくと、そこには政治のリアリズムが要求する妥協の芸術を排除する結果にもなりかねない。この面での幕末最大の悲劇は、水戸藩の内訌であり天狗(てんぐ)党をめぐる人間ドラマであろう。
  
理想主義とテロリズム
 天狗党は、水戸を攘夷の魁(さきがけ)にせんとする理想主義と、目的のために手段を選ばぬテロリズムの両面をもっていた。この二面性は、藩執政でもあった武田耕雲斎にも表れている。
 水戸藩は貧しかったために、300石の食禄の耕雲斎でも若党(武士の従者)1人、下男1人、下女1人しか雇えず、来客があれば座卓の脚が1本折れて危ないために碁盤を入れて支えにしたという。人間は貧しいとどうしても観念的になりがちである。観念だけの世界から脱出するには、藩や志士も物心両面で豊かでないとダメなのだ。

 幕末の長州や薩摩にあって水戸に無かったのは、この豊かさなのである。水戸人も俗に認めるという「水戸の3ぽい」なる特性も貧しさと無縁でないだろう。「怒りっぽい、理屈っぽい、ひがみっぽい」という個性は、どちらかといえば余裕のある金持ちには遠い個性である。
 こういう“難治(なんじ)の地”で武田耕雲斎は精いっぱい努力したのではないか。主君の徳川斉昭(なりあき)が死ぬと派閥抗争の混乱の調整に当たった耕雲斎は、こと志に反して元治元(1864)年に藤田小四郎(儒学者、藤田東湖(とうこ)の四男)が起こした天狗党の乱を戒めながら、領袖に推されると断りきれなかった。
 作家、島崎藤村が『夜明け前』に馬籠(まごめ)の宿(岐阜県)を通る天狗党一行を描いたように、耕雲斎は800人の士を率いて中山道を進軍した。ついに敦賀(越前国新保)で力が尽き、幕府の追討軍に屈した。その悲劇は何重にもむごいものだ。天狗党は京都の徳川慶喜を頼って進んだのに、当の慶喜は反逆者として耕雲斎らの追討の先頭に立ったのである。
 徳川幕府の扱いは武士の情けと無縁の苛酷(かこく)きわまるものであり、鰊(にしん)倉に押し込められた天狗党の悲惨さは慶喜の卑劣さとともに永久に記憶されるだろう。斬首された耕雲斎は、妻と2人の子と3人の孫の斬殺とともに、処刑された天狗党352人の悲劇の象徴となった。
 首級を水戸にさらされた天狗党の怨念(おんねん)は、耕雲斎の孫、金次郎に受け継がれる。維新の結果、晴れて故郷に戻った金次郎は、仇敵(きゅうてき)の諸生党(水戸の保守派)に白昼堂々と天誅(てんちゅう)や朝敵と称し復讐(ふくしゅう)を繰り返す。尊攘運動の穏健派さえ容赦せずに暗殺しまくり、藩内を恐怖状態に陥れた。もはやそこにあるのは政治の信念ではなく、一途(いちず)な復讐の精神といったテロリストの本性でしかない。

大官からの零落
 天誅テロは明治2、3年になって一段落するが、血に汚れた金次郎らに新時代を担う資格があるはずもない。版籍奉還後に水戸藩の権大参事を務めながら、廃藩置県後に経済的に窮迫し、一説には伊香保温泉で晩年風呂番をしたと伝えられる零落ぶりであった。明治28(1895)年に48歳で病死したとき、その瞼(まぶた)には祖父、耕雲斎の雄姿が浮かんでいたのだろうか。それとも内訌で自壊した水戸人への愛惜と反省の念も湧(わ)いてもいたのだろうか。
 いずれにせよ、深刻な対立や分裂の危機を克服してこそ、大きな政治目的が達せられる点は現代でも変わりがない。水戸藩のように分裂で人材を枯渇させた事例がすぐに当てはまらないにせよ、政権を奪取した民主党の政治家に必要なのは、大局観に立ち大同団結する懐の深さを共有することであろう。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】武田耕雲斎
 たけだ・こううんさい 享和3(1803)年、水戸生まれ。9代藩主、徳川斉昭に仕えて家老職に上った。元治元(1864)年、筑波山で挙兵した藤田小四郎らに推され天狗党首領に。京都に向かって中山道を進軍するが、幕府軍の追討を受け、加賀藩に降伏。元治2(1865)年、越前敦賀で処刑された。享年63。





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