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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 暑いことは暑いですが、空気が乾燥して涼しい風が通り、過ごしやすくなりました。

福井
資料で弾圧の背景検証 「橋本左内と安政の大獄」展
 幕末の福井藩士、橋本左内の刑死の真相を探る「橋本左内と安政の大獄」展が14日、福井市立郷土歴史博物館で始まった。20代半ばで短い生涯を終えた左内の活動を紹介しながら、弾圧した者と処分された者の双方の資料約40点から、背景を検証する企画だ。10月12日まで。
 当時の福井藩主、松平春嶽の意向に基づいて将軍継承問題に奔走した左内の活動や、立場を異にした大老井伊直弼との政争に敗れて安政の大獄に至る過程や、左内と同時に処罰された吉田松陰についても紹介している。左内が刑死した後、その偉業を残した史料も展示されている。
 会場は5つのコーナーに分かれ、左内の優れた見識を評価し恐れていた人たちの思いが春獄の書や松陰の手記、大獄関係者処罰案などに記されている。互いに会うことを望みながら、対面が実現しなかった松陰への思いをつづった詩は、刑死した後に松陰に渡されたという。
 左内没後は春獄をはじめ、多くの人がその死を悼み、左内とともに「明治」という時代の扉を押し開いた中根雪江による左内の伝記もある。(梅沢あゆみ)


散策路にレトロなガス灯 福井・足羽川右岸堤防
 福井市中央3丁目の足羽川右岸堤防の散策路に、昔懐かしいガス灯がお目見えし13日夕、点灯式が行われた。夕闇が迫る川沿いに幻想的な明かりがともった。
 付近の通称・浜町通りかいわいは、幕末の横井小楠ら偉人ゆかりの地で、近代は行政の中心地、高級料亭街としても栄えた。市は、足羽川右岸の幸橋から九十九橋までの堤防沿いの市道を「さくらの小径(こみち)」として整備し、歴史や「和」が感じられるような一帯へと景観形成を図っている。ガス灯設置もその一環。
 ガス灯は高さ2・8メートルの三灯式で明治期の趣が漂うレトロな外観。約200メートルの間に約10メートル間隔で12基を設置し、両端のガス灯はデザインが異なるあんどん形となっている。
 点灯式は幸橋近くで行われ、吹矢清和副市長ら約50人が参加。関係者がスイッチを押すと、温かい色合いの照明がともり、居合わせた市民から「きれいね」と声が上がっていた。ガス灯はタイマー付きで、当面は午後7時から同11時ごろまで点灯する。(藤井雄次)


愛知
円龍の屏風を長野さんが修復 春日井「密蔵院」江戸末期の僧
 江戸末期、天台宗の名刹(めいさつ)・密蔵院(春日井市熊野町)の住職を務め、風流人としても知られた僧侶、円龍の屏風(びょうぶ)を、知多市南粕谷の表具デザイナー長野修二郎さん(69)が修復した。ゆかりの品々とともに、10月4日に開かれる同院の寺宝展で特別展示される。
 屏風は1860年作の六曲で、高さ1・4メートル、全幅3メートル。ふすま紙に墨で梅、菊、竹、ランが描かれている。6年前に円龍の弟子筋に当たる知多市内の旧家が引っ越す際、処分する予定だった品の一つだった。
 処分するはずだっただけに傷みは激しかったが、下張りに使われる不用な手紙や習字などが貴重な史料になるため、地元愛好家らでつくる「知多歴史民俗研究会」に当時から所属している長野さんが「解体して調べたい」と引き取った。
 「墨だけで六曲をもたせるのは、腕も良い証拠」と、絵柄も気に入ったことから、長野さんが2年がかりで修復。当初は誰の作かも分からなかったが、絵の左上に記された「月道人(げつどうじん)」の雅号や、下張りの手紙などに書かれた内容を手掛かりに作者を円龍と特定した。
 円龍に関する知識を深めようと、長野さんは昨年から、密蔵院と寺宝展を毎年開いているグループ「密蔵院語り部の会」にも入会。今年の展示企画が検討される中で、屏風の出品を持ち掛けて展示が実現、円龍に焦点を当てた寺宝展開催が固まった。
 同会代表の大島信衛さん(74)=春日井市岩成台=は「知多市で見つかったのは(密蔵院が)広く交流があった証し。円龍に焦点を当てる寺宝展は初めてで、屏風は目玉の一つ」と話している。(田中富隆)


兵庫
幕末ロマン、神戸へ 竜馬ゆかりの帆船初入港
 江戸時代にオランダから幕府に寄贈され、坂本龍馬が航海術を学んだ帆船を復元した「観光丸」が神戸港に初入港し、14日、見学イベントが開かれた。朝早くから親子連れなど約200人が列を作り、約4200人が大きな白い帆や忠実に再現された船内の飾りに見入った。
 来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映を前に、長崎県の観光推進で来港。観光丸は1855年に寄贈され、龍馬や勝海舟らが乗船し、操舵方法を学んだ。1867年に解体されたが、1988年オランダに残っていた設計図と模型から約1年かけて復元。現在は、同県佐世保市のテーマパーク「ハウステンボス」で航行している。
 船内は、当時使われたイロコ材という木材を使い、飾りの彫刻も設計図通りに忠実に再現されている。帆は海面から約32メートルの高さで張られており、最大で約40畳もあるため迫力満点。龍馬が履いていたブーツのレプリカの展示のほか、オランダ木靴の絵付け体験もあり、訪れた人たちが興味深そうに見つめていた。
 兵庫区の主婦(55)は「船内はレトロな感じで落ち着けた。長崎に行って、走っている観光丸に乗ってみたい」と話した。
 観光丸は同日午後6時に神戸港を出発。22日まで広島や松山など、龍馬ゆかりの4港を巡る。(中務庸子)


コラム
【次代への名言】8月16日・河井継之助
■「我が心事、天知る、地知る」(河井継之助)

 河井継之助は幕末の異才。歴史ファンには司馬遼太郎の名作『峠』の主人公としておなじみだろう。
 「勢(いきおい)と申す者ほど、恐る可(べ)き者は之(こ)れ無く候。追々(おいおい)、外人を真似(まね)て、風態・制度の一変せん事、或いは近きに在(あ)るか (中略)今日の洋風・洋式も、十年の後には怪しく無(な)き者に至る可きか」。徳川幕府の大老、井伊直弼が暗殺された直後の1860年4月(旧暦)の手紙にある。明治維新は68年だから、継之助の予感は的中する。また「勢」が非門閥の彼を長岡藩家老上席・軍事総裁に押し上げ、数倍の兵力の官軍に立ち向かわせた。
 冒頭は4カ月後に明治元年となる慶応4年5月、無益な流血を避けるための官軍との交渉が決裂したときのことば(東洋文庫『塵壼(ちりつぼ)』所収)。日の丸の扇子を手に戊辰戦争の最激戦を陣頭指揮した継之助だったが、流れ弾が左足に命中、その傷がもとで同じ年のきょう、死去する。
 享年41。「天下になくてはならぬ人となるか、有ってはならぬ人となれ」「どんなに偉くとも、人情に通ぜず、血と涙が無くては駄目(だめ)だ」-。継之助が後輩に残したことばだ。前者は「狂」、後者は「仁」。この両立が、いまもあせぬ彼の魅力でもある。


ブックレビュー
今週の本棚:三浦雅士・評 『江戸演劇史 上・下』=渡辺保・著
(講談社・各2940円)

 ◇浮かび上がる人間の演劇的な本性
 面白い。二冊で千頁(ページ)を越すが、読みやすい。司馬遼太郎が『日本全史』を書いたようなもの。

 渡辺保といえば劇評のベテラン。むろん演劇史にも詳しい。すでに『忠臣蔵』『娘道成寺』『東洲斎写楽』の江戸三部作、さらに『四代目市川団十郎』『黙阿弥の明治維新』などの大著がある。なにをいまさら江戸演劇の通史を書く必要があるか。本人もそう思ったという。だが、書いて良かった。通史を書かなければ見えてこないものがあるのだ。

 千頁を越すとはいえ、扱うのは三百年近い。勢いテンポが早くなる。改行を多くし、要点を列記する。「以上三点」という語が頻繁に登場する。が、必要な細部はじつに綿密。

 たとえば冒頭。信長、秀吉、家康の、能とのかかわりを列記する。信長は能のみならず、幸若(こうわか)舞、風流(ふりゅう)踊を愛した。風流踊は自ら女装して踊った。秀吉は自分の一生を能にして、自ら舞ったが、女装まではしなかった。むしろ自分の管轄下に置こうとした。家康は鑑賞するほうが好きで、能の厳粛さを利用し、幕府の式楽として制度化した。三人三様。

 ここで一転、後陽成天皇が登場する。秀吉の擁立したこの天皇の生母と愛妾(あいしょう)が芸能好きで、さまざまな芸能を参内させた。なかに、ややこ踊すなわち子どもの踊と、女能、女曲(くせ)舞も入る。この風潮のなかから「出雲のお国」が登場した。

 お国歌舞伎の特徴は、(1)能舞台を流用し、音楽も能仕立てだが、(2)内容は当時の「茶屋遊び」など現代風俗で、(3)女が男装し、男が女装したこと。以上三点。要は官能性で、それを利用したのが遊女屋。スポンサーとなって、高価な三味線を取り入れ、遊女歌舞伎としてショーアップした。これを江戸に移したのが猿若勘三郎、すなわち中村屋の先祖。

 江戸初期、北七大夫が登場し、喜多流を打ち立てる。その生涯の特徴は、(1)反骨、(2)反体制で、観世、宝生、金春(こんぱる)、金剛の大和四座体制に抗して新流を起こし、(3)能のテンポを極端に遅くして、幕府の権威に頼らない、能自体の権威を確立した。

 将軍家光は芸能好きで、能のみならず歌舞伎も上演させた。将軍綱吉も同じ。能役者を「廊下番」として抱え、「将軍の私設劇場の劇団員」にした。過ぎたるは禍(わざわい)のもと、逆に能の発展を阻害する。綱吉の死後、「廊下番」は制限され、能はあくまでも式楽に限定された。権力と芸能の均衡する一点だが、古典化された能は時代の先端を走る演劇ではなくなった。歌舞伎と明暗を分けた。

 その歌舞伎が力を得たのは浄瑠璃によってである。中世から続く語り物の伝統は、三味線を得た浄瑠璃によって一挙にその世界を深める。薩摩浄雲が登場し、竹本義太夫が、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)が登場する。そこから常磐津、富本、清元、新内が派生する。歌舞伎はまずこの音楽の官能性を我が物にした。

 近松門左衛門が力を発揮するのは坂田藤十郎と出会ったからではない。人形浄瑠璃に移って、物語の世界を十分に描いたからだ。さらにその浄瑠璃が歌舞伎に移されて、以前は狂言と踊りのコラージュにすぎなかった歌舞伎に、続きものの物語世界が生まれたのである。

 舞台装置と機構に一大転換をもたらした並木正三も凄(すご)いし、露骨に資本の論理を導入した大久保今助も面白い。だが、鶴屋南北も、河竹黙阿弥も、結局、近松と同じことをしたと思わせる一節はさらに面白い。

 南北は、今助の金融資本によるスター独占に抗するために、怪談と早替わりを考えだした。黙阿弥は、およそスター的な容姿ではなかった小団次を生かすために、(1)市井の庶民のリアルなドラマを取り上げ、(2)歌に近い七五調の台詞(せりふ)を編み出し、(3)浮世絵をそのまま芝居にした。作者の例を挙げたが、役者がどのように時代の人間像を象徴したかの例を挙げれば際限がない。

 俯瞰(ふかん)によって浮き彫りにされるのは、京、大坂、江戸三都市の盛衰。芝居が繁盛するそのつど幕府は弾圧する。いわゆる三大改革である。だが、武士でさえもその魅力に抗し切れなかったからこそ、弾圧したのだ。生きている人間たちによって担われた江戸時代が、これほど生々しく描かれた本は稀(まれ)だ。

 とはいえ本書はあくまでも演劇史。歴史を通して人間の演劇的な本性を露(あら)わにする。生きるとは演ずること。人はすべて二重三重に演じている。多くの指摘が、たとえばバレエの歴史にもそのまま当てはまる。

 結果的に本書は、不易流行の真理を見事に説明している。不易に達するためには流行を潜(くぐ)らなければならない。だが、流行を超えるためには不易に達する必要がある。そこで登場するのが歴史意識であり、それが不易すなわち古典=永遠と、流行すなわち新作=現在を結ぶ。この不易とはしかし、生きる人間の官能の歓(よろこ)びと哀(かな)しみにほかならない。だが、それこそ人間社会の本質ではないか。ときには舞台が目に見えるように、あるいは声と三味線が聞こえるように描かれた本書を読み終えて、名著の感を深くする理由だ。








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