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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日のお昼のニュースでは、朝から東急渋谷駅にニホンザルが迷い込んだとか。警察官などが保護しようとしたけど、原宿方面に逃走中……事故に遭う前に、保護されるといいなぁ……。

秋田
掛け軸:西郷隆盛の手跡に酷似 毎日書道展審査会員が写真鑑定 /秋田
◇湯沢の前田さん所蔵
 湯沢市の建築板金業、前田房二さん(78)が所蔵する掛け軸の書について、毎日書道展審査会員の下田耿禾(こうか)さん=横手市=が毎日新聞の依頼で写真鑑定したところ、明治維新を成し遂げた西郷隆盛の手跡に酷似していることが分かった。
 掛け軸は縦2・1メートル、横60センチ。下田さんによると「権倒一世之知勇 開拓萬古之心胸」の14文字がしたためられ、右肩に「獄中仁恵及毛公」、左下に「藤隆盛印」「南洲」の印がある。
 左回りの印の頭文字が「西郷」でなく「藤」となっているのは、名門・藤原家の家系を名乗った――とも推察されるという。南洲は隆盛の号。
 薩摩藩士で倒幕の中心となった西郷隆盛は、人気のNHK大河ドラマ「篤姫(あつひめ)」の主要人物でもある。下田さんは「強い字で、県外の研究家にも聞いて判読した。西郷どんが獄に入ったとき、壮大な心境をうたったものかもしれない。コピー(模写)かどうか分からないので自信はないが、直筆だと思う」と話した。
 一方、前田さんは「掛け軸は戦後、亡くなった母から『お前が持っていなさい』と託された。しかし、誰の書か意味も分からず、ずっと気になっていた」と喜びを語った。【佐藤正伸】


宮城
綾里・砂子浜 千田家で古文書調査
 大船渡市三陸町綾里の「砂子浜大家(すなごはま・おおや)」千田家で、三陸古文書調査研究会(代表・高橋美貴東京農工大大学院准教授)による第二次古文書調査が二十日まで行われている。これまで、江戸末期の『御用廻文留』(触書の控え)などが見つかり、幕末の動乱期に気仙が置かれていた社会状況の一端を知ることができる資料として注目を集めている。
 藩政時代に代々肝入(きもいり)を務めた砂子浜大家・千田家は、江戸時代初頭から漁業経営、廻船交易、山林経営などに従事し、海産物交易などで財を築いた。
 古文書調査は、文部科学省の研究事業の一環。近世の奥州海村の人々の暮らしや生業の実態を明らかにしようと、千田家の土蔵に眠る膨大な史料を繙いている。
 三陸古文書調査研究会のメンバーが中核となり、第一次調査(十七~十九年度)に引き続き、第二次調査(二十~二十二年度まで)が十七日から二十日まで四日間の日程で千田家で行われている。
 調査チームは、高橋代表はじめ事務局の斎藤善之東北学院大学教授、平川新東北大学教授ら十七人。地元の大船渡古文書の会(千葉敏郎会長)の会員らがボランティアで協力している。
 調査は、土蔵二階にある三つの長櫃(ながびつ)に収められている海産物などの売買証文(仕切り書)や書簡などの古文書類を仕分けし、母屋に搬出。一点ごと史料番号をつけながら十基の固定カメラで一ページずつ丹念に撮影している。
 今回の調査では、安政二年(一八五五)や元治二年(一八六五)の『御用廻文留』などが出てきている。この時期は、黒船来航の数年後で、NHK大河ドラマ天璋院篤姫に見られる安政の大獄、公武合体など幕末の動乱期に当たる。
 『御用廻文留』とは、村に送達された触書、達書などを隣村に廻す前に、肝入らが備忘のために書き写した、いわば「お上の通達の控え」となるもの。
 解読している東北大学東北アジア研究センターの佐藤大介氏によると「例えば海産物の納入やスギの植林関係の通達、役人接待は極力簡素にすること、米の抜け荷の見回り対応など、仙台藩の支配関係や幕末期に気仙郡が置かれていた社会状況が見えてくる」と指摘する。
 第一次調査では、長櫃一つ分の資料整理を終えている。斎藤教授は「今回は『御用廻文留』や『御林書上』など帳簿関係が多いようだ。資料の整理にはまだ多くの時間を要するが、調査が進めば、海産関係や海上交通、遠方の商人とのつながりなど、気仙地方と中央の広域交流の実態解明につながるのでは」と話している。
 砂子浜大家の十四代当主・千田基久兵衛さん(80)は「これまで大事にしてきた当家の古文書が、少しでも後世の役に立つのであれば先祖も喜んでくれると思います」と語り、自ら精力的に写真撮影作業を手伝っていた。


茨城
水戸の誇りだ「桜田門外の変」映画に 地元あげ支援
 幕末に水戸藩士らが起こした「桜田門外の変」の映画化を応援する動きが本格化している。製作会社も決まり、撮影開始は09年春。ロケ地を地元が提案する企画などで街おこしをしようと支援団体が結成され、住民を巻き込んだ映画づくりを目指す。明治維新に向かう歴史を加速した「事件」を通じて、地域に元気を取り戻そうと意気込んでいる。
 06年1月、地域おこしに関心のある4~5人が水戸市の居酒屋に集まったのがきっかけだった。09年が水戸開藩400周年にあたることも考え、桜田門外の変の映画化が決まっていった。
 「桜田門外の変は誇りを持って語れる歴史なのに、郷土教育でも敬遠して扱わない。地元だからこそ、もっと正面から取り上げていい」。支援団体の事務局長を務める三上靖彦さん(49)はテーマ選定の理由を語る。
 まもなく、実際の映画製作は都内の製作会社が担うことに決まった。原作は吉村昭さんの歴史小説「桜田門外ノ変」になった。脚本は映画「陰陽師」で脚本を手がけた江良至さん。10年正月ごろ、全国公開の予定だ。
 三上さんらは今月7日、「映画化支援の会」を立ち上げた。具体的な取り組みを記したスケジュール表には約80の事業がずらりと並ぶ。
 例えば、来月からは「ロケ地推薦コンクール」が始まる。吉村昭さんの原作を読んで、「この場面では我が家の裏山をロケ地に使ってほしい」などと売り込む企画。候補地は、支援の会が製作会社に推薦する。
 ほかにも、10月18日には「水戸八景ツーリング」を企画。水戸藩主徳川斉昭が選定した偕楽園など水戸市近辺の名所8地点を自転車でめぐるイベントだ。郷土史家による講演会や史跡巡りも予定されている。
 これらの事業は、内閣府の「地方の元気再生事業」に選ばれ、約2400万円の補助を受けることも決まった。
 三上さんは「地域の歴史、自然、文化はそこに住む人たちの財産。映画づくりを通じてそれらを再発見し、郷土への愛着を深めてほしい」と、呼びかけている。(吉野慶祐)

     ◇

 〈桜田門外の変〉 1860年3月、「安政の大獄」で水戸老公・徳川斉昭に永蟄居(ちっきょ)(終身謹慎処分)を命じた江戸幕府の大老・井伊直弼に不満を募らせた水戸浪士らが、江戸城桜田門外で井伊のかごを襲撃、暗殺した事件。以後の倒幕運動につながったと影響を指摘する説は多い。


栃木
10月の宇都宮城址まつりで本格的な大名行列再現
【宇都宮】「よみがえれ!宇都宮城 市民の会」(藤井清会長)は十月十八、十九の両日に実施する「宇都宮城址まつり」で、宇都宮藩主が幕末に将軍に代わって参拝した日光社参の大名行列を再現する。櫓の復元を機にまつりを本格的な年中行事に定着させるためで、総勢三百七十人による時代絵巻が繰り広げられる。一部は実際に日光から宇都宮までを歩き、まつりを盛り上げる。同会は一般の参加を呼び掛けている。
 再現するのは、一八六三(文久三)年に宇都宮藩主戸田忠恕が十四代将軍徳川家茂に代わって三代将軍家光をまつった大猷院廟を参拝した行列。その様子は同行した旧藩士が一九〇三(明治三十六)年に描いた「入城之図」に残されている。同藩の大名行列を描いた唯一のものだ。
 行列は二百人からなる社参行列本隊のほか、歴代城主家紋隊(四十人)、火消しや鉄砲持ちに扮する地区参加隊(七十八人)と社参ウオーク隊(五十人)を編成する。
 社参ウオーク隊は十八日に日光東照宮を出発し富屋地区市民センターまでの三十キロと、十九日に同センターから宇都宮城址公園までの十キロの計四十キロ。本隊は十九日にユニオン通り-城址公園の市内二キロを歩く。
 募集するのは社参ウオーク隊の三十人と、行列本隊の百人。このほか同公園内で和をテーマに演奏や踊りを披露するグループと、模擬店や宇都宮をPRする展示ブースなど。行列への参加は保険料など千円が必要。そのほかは無料。二十二日までに申し込む。
 まつりは十八日午後四時から前夜祭、十九日は午前十時から始まる。同会事務局の市は「宇都宮城の新しいステージが始まるので、ぜひ参加を」と呼び掛けている。問い合わせは同事務局電話028・632・2989へ。


京都
夜久野町史第3巻が完成 江戸期からの資料集める夜久野町史第3巻が完成 江戸期からの資料集める
 福知山市の夜久野町史第3巻「資料編II」が完成した。江戸時代から夜久野町が成立した昭和34年(1959)までの貴重な資料を、近世、近現代に分けてまとめている。
 町史編さん事業は02年度に始まり、全4巻構成で編さんを進めている。これまでに第1巻「自然科学・民俗編」、第2巻「資料編」を刊行した。  A5判、本文610ページ、口絵写真12ページ。
 近世編には、江戸時代に庄屋だった旧家伝来の古文書、区有文書、寺院伝来の文書など236点を「支配・領主」「土地」「年貢・諸役」など11の主題別に分けて掲載した。
  近現代編には、旧夜久野町域の歴史を具体的に示す資料197点を収録。年代順に「夜久野の明治維新」「夜久野の近代化」「日露戦後の夜久野」「総力戦体制下の夜久野」「夜久野町の成立」の5章に分類して紹介している。
  値段は4200円(税込み)。市役所会計室、市夜久野支所、市郷土資料館で販売している。第1巻、第2巻もある。


兵庫
幕末・明治のユニーク写真ずらり 尼崎で展覧会
 タイトルに引かれ、足を運んだ。尼崎市総合文化センター(同市昭和通二)で開かれている「幕末・明治のおもろい写真!」展。着飾った女性が凧(たこ)に、気球に、果てはツルに乗り、すまし顔…。何とも不思議な世界が広がっていた。(新開真理)
 同市は、幕末から明治にかけて活動し、日本の「写真の祖」と称される上野彦馬の名を冠した写真コンテストの受賞作品展を毎年開催。上野が残した作品とともに、同時代のユニークな写真を紹介しようと、今回の展示を企画した。
 出展作はいずれも、古写真を収集する故石黒敬七氏と息子の敬章氏=東京都=のコレクションを借り受けた。
 数々の記念写真が目を引く。女性が大きなツルの作り物に乗っていたり、ちょんまげ姿の男性がガイコツと並んで撮影したり…。当時、写真は非常に高価であり、とっておきの一枚への強い思いが伝わる。
 また明治初期に作成されたモンタージュ写真もあり、その技術の高さに驚く。
 このほか、諏訪山(神戸市中央区)で、金星が太陽の前を横切る現象を観測するフランスの科学者らをとらえた一枚など、神戸や大阪で撮影されたショットも並ぶ。



鹿児島
鹿児島発の映画・ドラマ増やせ ロケ誘致・支援組織発足 20日設立総会
鹿児島発の映画・ドラマ増やせ ロケ誘致・支援組織発足 20日設立総会
 鹿児島発の映画やドラマを増やして観光振興にも役立てようと、県内の民間企業や特定非営利活動法人(NPO法人)の関係者らが発起人となり、映画・テレビ番組のロケ誘致や制作支援をする組織「鹿児島フィルム・オフィス」を20日に発足させる。
 県内では、このところ「海猿」「チェスト」「篤姫(あつひめ)」などの人気映画・ドラマの撮影が行われている。しかし、撮影を支援する地元組織はなく、映画を生かした地域づくりに取り組む鹿児島青年会議所(JC)や各地方自治体などがその都度、協力していた。
 映画やドラマの舞台になると、全国的に注目度が高まり、観光振興にもつながる。そこで、同JC元理事長の津曲貞利・日本ガス社長ら6人が発起人となって、ロケ誘致・支援組織を設立することにした。2011年春の九州新幹線鹿児島ルート全線開業も見据えた動きでもある。組織には県や鹿児島市、県観光連盟などもオブザーバー参加して側面協力する。今後、映画・ドラマ制作会社に県内のロケ地を紹介したり、ロケを行いやすい環境づくり、現場での撮影協力に取り組む。
 20日は鹿児島市内で設立総会をする。幕末の薩摩武士、桐野利秋(中村半次郎)を取り上げる映画を支援第1弾とし、その制作発表もある。発起人の1人で、U・Iターンの支援などを進めるNPO法人カゴシマライフネットの西田建一理事長は「映像制作にかかわる人材の育成も進め、将来的には映画やドラマの制作にも挑戦したい」と話している。

 中村半次郎が主人公の映画と聞いて、色めき立つ幕末ファンも多いのではないでしょうか。私も気になります^_^;。


コラム
特集ワイド:どうなっていたの!?江戸経済 歴史家・安藤優一郎さん
 かつての江戸は、現在以上に、経済の一極集中が進んでいた--。その理由は、全国の大名屋敷が江戸に集中していたからだが、そこでは、意外なビジネスも行われていた。歴史家の安藤優一郎さんの案内で、経済都市、江戸のあまり知られていない裏道を歩いてみよう。【西和久】

 ◇既に一極集中
 ・武家地7割

 ・藩財政の半分消費

 ・レンタル本ビジネスも

 ・「御用聞き農民」の利権とは

 「江戸の町の景色は、皆さんの想像とは、少し違うかもしれませんね」と、安藤さんはいう。

 というのは、江戸の総面積の70%が武家地で占められていた。その半分以上が大名屋敷、残りは旗本、御家人などの幕臣の武家屋敷である。そして残り30%の半分が寺社地で、町人たちが住んで活動していたのは、たった15%の土地にすぎなかった。

 江戸城の周囲は、長い塀と門で囲まれた広大な大名屋敷や武家屋敷が建ち並んでいた。唯一、日本橋(中央区)が江戸城の出入り商人の町となっていただけである。

 18世紀初めに、江戸の町人の人口は、50万人を超えていた。15%の土地に50万人がひしめいていたことになる。一方、大名屋敷はじめ武家の人口も約50万人と推定されている。

     ■

 経済ということになれば、大名屋敷の存在が大きかった。約50万人の侍たちが、国元から持ってきたお金を江戸で使うのだから、江戸の消費経済は大きく膨らんだ。各大名は、毎年の藩財政の半分を、江戸で消費したといわれている。

 その額は諸大名合わせて数百万両にも及んだろうという。1両=10万円で換算すれば、なんと数千億円。この数字はともかく、全国の自治体の公的支出の半分が江戸1カ所に落とされていたわけで、「当時の経済一極集中は現在の比ではなかったのでは」と安藤さんはみる。

 18世紀初め、第八代将軍の徳川吉宗が幕府財政を立て直すため、各大名に米の上納を命じたことがあった。その代わりに、参勤交代が緩和され、江戸在府期間が1年から半年に短縮された。そうすると、たちまち江戸は不景気に陥った。大名屋敷の落とすお金が半分になったからだ。そこで当時、町奉行だった大岡越前守忠相は、町人に対して「遠慮せずに普請(ふしん)や遊山(ゆさん)をするように」という触れ書きを出している。外需(大名)がだめになったら、慌てて内需(町人)の喚起に走る、いまの経済政策を見ているような右往左往ぶりだ。

     ■

 ところで、塀に囲まれ一見とりつく島もなさそうな大名屋敷にも、ずいぶんいろんな人たちが出入りしていた。大名屋敷を相手に、さまざまなビジネスを展開する御用達(ごようたし)商人(あるいは御用聞きとも)たちだ。そのなかには、出張レンタル本などというビジネスもあった。

 大名屋敷にいる侍たちの大半は殿様とともに江戸にきて、1年間だけ滞在する家臣たちだった。みな単身赴任だったから、江戸の町で散財したり、トラブルを起こすことを避けるために、外出が制限されていた。だから、楽しみとして貸本の需要があったのだ。

 出張貸本屋は、大きな包みに本を詰めて大名屋敷にやってきた。侍が外で読むのがはばかられるような色恋ざたの人情本や廓(くるわ)での遊びを描いた洒落(しゃれ)本、さらにお家騒動ものは版本にできないので、写本で持ってきた。春画もあったらしい。

     ■

 大名屋敷に出入りしたのは、商人だけではなかった。安藤さんが注目したのは、「御用聞き農民」の存在だった。武蔵国豊島郡戸塚村(新宿区)で名主役をつとめていた中村家で、90年に新たに見つかった文書がある。当主の歴代中村甚右衛門による大名屋敷(尾張徳川家)での御用聞きの記録だった。それが、江戸近郊の知られざる農民像を浮かび上がらせたと安藤さんはいう。

 その中村甚右衛門が、19世紀初めに、他の豪農と競って手に入れようとした尾張藩邸の利権があった。それは何かというと、トイレのくみ取りの権利だ。お金を払って、くみ取りをさせてもらうのだ。

 当時、膨れあがる江戸の人口に対応して、近郊農家による野菜の栽培が盛んで、肥料としての下肥の需要が大きかった。だから、くみ取りはお金になった。甚右衛門は自分でくみ取りをするのではなく、近郊農家から料金を徴収してくみ取らせ、利益を上げていた。「一種のコミッションビジネスだった」と安藤さん。

 くみ取りは大名屋敷だけではなく、町民の長屋などでも行われていたが、排せつ物にランクがあった。武家のものの値段は町民の2倍。さらに、遊郭である吉原や芝居町のほうが武家よりも高かったというから、「身分差別というより、食べ物の違いで値段が決まったらしい」(安藤さん)。

     ■

 中村甚右衛門のような御用聞き農民は、くみ取りをベースに、大名屋敷からさまざまなビジネスを受注した。馬の飼料である干し草の調達や、屋敷の敷地内での農作業や開墾のための人足確保(大名屋敷の敷地は畑をつくれるぐらいに広かった)。また、広大な庭園の手入れなども請け負った。

 甚右衛門ら御用聞きが大もうけしたのが、幕末の混乱に伴う特需だった。薩摩藩の大名行列が前を横切った英国人を殺傷した生麦事件(1862年)の後、英国とあわや開戦という事態になった。戦争になれば、大量の馬や人足が必要になる。尾張藩はその調達を甚右衛門に請け負わせた。ところが、戦争が始まらないために、尾張藩は、2カ月余りの待機料として約800両を支払う結果となった。甚右衛門にすれば、まさにボロもうけである。

 それでも、甚右衛門が望んだのはもうけだけではなかった。尾張藩から「待機料を何とかならないか」と相談を受けた甚右衛門の返事は、待機料を受け取らない代わりに、武士にしてほしい--というものだった。

 現代からみれば、これだけもうけているのに、いまさら武士になる必要はないと思うのだが、「あの時代、武士へのあこがれは、かなしいほど特別なものだった」と安藤さんはいう。しかし、甚右衛門の願いはかなえられなかった。明治維新で、武士の身分がなくなるのは、それからわずか5年後のことだった。

 最近読んだ本の中には、7割の武家地の中でも、一部には町方衆に家屋を貸し出す場合もあったという説明があった気がします。

明治の偉人・赤松則良を思う
室久 敏三郎(むろひさ・びんざぶろう)(79)
 先月4、5日、「新老人の会」第2回ジャンボリー静岡大会が浜松市で開かれました。全国から集まった会員と浜松市民、合わせて1300人が参加したフォーラムから、同市立有玉(ありたま)小学校5年生による「いのちの授業」感想文の発表まで、テーマに掲げられた「新老人が若い人とどう手をつなぐか」にふさわしい大会でした。
 日野原重明会長の夢多き活動の一つである「ジョン万次郎(中浜万次郎)基金」については、今大会でも多くの方々が共感されました。その中には、幕臣として咸臨丸にも乗り込んだ、赤松則良(1841~1920)のご子孫との感動的な出会いがありました。改めて、この出会いの意味を考えてみたいと思います。
 常に国益を考え、人材を育てた江戸幕府と明治政府。維新のころ、多くの人々には党派を超えて、国を思う心があったに違いないのです。だからこそ、「若者を育てなければこの国の将来はない」と考えたのではないでしょうか。
 1860年、咸臨丸に乗り込んだ、初の遣米使節団には、ジョン万次郎が随行し、通訳・航海士として貢献しました。使節団の一員として乗船していた、少壮気鋭の侍(当時19歳)が、磐田の地で晩年を送った赤松則良です。
 赤松は江戸深川に生まれ、オランダ語を学び、16歳で長崎海軍伝習所に入所しました。咸臨丸で渡米した後には、榎本武揚らとオランダに留学、軍艦の運用術、砲術、造船術などを学びました。帰国したのは、4年後の68年。江戸幕府が瓦解(がかい)する寸前でした。一度は、官軍に反旗を翻しましたが、江戸幕府が静岡藩という一大名になるや、磐田に移り住み、磐田原の茶園開墾に着手しました。
 しかし、29歳の時に、明治政府の命により兵部省に出仕。後に、海軍兵学校大教授となり、海軍の育成に尽力しました。男爵位を授与されたほか、海軍中将などを歴任、貴族院議員となり、78歳で逝去したのです。長女登志子の夫は、文豪・森鴎外です。
 ジョン万次郎と赤松則良。当時の偉大な人たちの鼓動が聞こえてくるような気がしてなりません。(「新老人の会」静岡支部世話人代表、県西部浜松医療センター名誉院長)
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