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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
ネタの大小にかかわらず、江川英龍ネタは保存したいので。

【古式銃のテクノロジー・後編】重工業技術の基礎として
日本に伝わった鉄砲は、当地の職人たちに「鉄鍛造の限界」という課題を与えた。

日本の刀鍛冶たちは、初めて目にした火縄銃をたった1年でコピーしてしまったばかりか、ネジ製造の技術まで習得した。あとはひたすら、銃の大型化に邁進したのだ。ポルトガル人は確かに日本へ鉄砲を持ってきたが、それを巨大にする方法など教えたことはない。何しろ、ポルトガルにもそのような技術は存在しなかった。

日本の火縄銃は、今でも海外のマスケットガンナーの間で人気を博している。「射程が長く命中精度もいい」という定評がある。それはすなわち、尾栓ネジの隙間から漏れる燃焼ガスの量が極めて少ないという意味だ。発射機構の改良に重点を置いたヨーロッパの鉄砲鍛冶とは違い、日本人はこうした「表からは見えない点」にいつも注目し続けていたのである。



江戸時代以降の「進化」

長く続いた戦乱期が終わり、徳川幕府の統治下による安定期が到来すると、火縄銃の生産も縮小された。

だがそれは、銃の開発を一切諦めたというわけではない。実は江戸の富裕層の間で、火縄銃射撃がブームになったことがある。この頃になると命中精度が最重要視されたため、銃は小口径化が進んだ。兵器としての使用ではないため、銃身や銃床に華美な装飾が施された銃も多い。

その頃のヨーロッパでは、先述の通り発射機構の改良を中心にした新式銃開発が行われていた。18世紀に入ると主流は火打ち石銃になっていたが、実を言うと「球形の弾丸を使った滑腔銃」という点では火縄銃とまったく変わっていない。

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ヨーロッパの場合は、両軍が歩兵の密集陣形をぶつけ合うため、日本の銃ほど命中精度を求められなかった。代わりに兵士が集団の中にいても扱いやすいよう、着火媒体を火縄から火打ち石にしたのだ。

つまり銃というのは、ざっと見ても300年は基本構造が変化しなかった武器なのだ。ただその300年の間に、銃は日本人の工業技術力を大いに飛躍させた。

ひとつ例を挙げれば、自転車製造大手のミヤタサイクルはもともと常陸笠間藩お抱えの鉄砲鍛冶が立ち上げたものだ。もちろん当初は銃を生産していたが、息子の代になって銃の規制法案が成立し、また同時に自転車の需要が増加した。ならば看板を換えてしまおうということで、自転車生産を始めたのだ。

鉄で銃身を作る技術は、そのまま自転車のフレーム生産に応用できる。実はこうしたことはミヤタサイクルだけの話ではなく、欧米各国を見ても銃器製造で栄えた町は自転車や二輪車の生産拠点になっている場合が多い。



反射炉が世界遺産になった理由

静岡県伊豆の国市に韮山反射炉がある。去年世界文化遺産に指定されたばかりの史跡だ。

この反射炉は、ペリー提督の来航を受け急遽建設されたものである。黒船が積んでいた鉄製の大口径砲にショックを受けた江戸幕府は、ようやくながら鉄生産の重要性に気付いた。鉄の鍛造でできるのはせいぜい二百匁筒で、中には芝辻理右衛門という職人が徳川家康の命を受けて製造した一貫五百匁砲という化物も存在するが、さすがにこれは量産ができない。兵器というのは、常に量産可能であることが前提である。

いずれにせよ、鉄製の大砲を量産するとしたら鋳造技術が欠かせない。具体的に言えば、鉄に摂氏1,500℃以上の熱を与える技術である。

そのためには反射炉が必要だ。だからこそ幕府は、選りすぐりの官僚である江川英龍に反射炉の建設を命じた。江川は幕府に先行して反射炉を建設していた佐賀藩の力を借りつつ、幕命を受けてから4年ほどで韮山反射炉を完成させた。ちなみに江川は、この反射炉を見ることなく道半ばで他界している。

韮山反射炉が世界遺産に指定された時、「意外な物件が世界遺産になった」と言われていた。それ以前からどちらかといえばダークホース扱いされていた韮山反射炉だが、以上に挙げた歴史的背景と「世界唯一の現存製鉄反射炉」という点がユネスコで評価されたのだ。

種子島にやって来たポルトガル人の鉄砲は、今も我々現代日本人に多大な影響を与えている。そう、すべては「種子島」から始まったのだ。


身近なところにある古式銃

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世界的にも厳格な銃規制が施されている日本だが、古式銃に関しては誰でも所持できる。

1867年より前の銃は、各地域の教育委員会が発行する登録証を添付することで売買及び譲渡が可能だ。江戸時代に製造された古式銃も、今やショッピングサイトで購入できる。

筆者がざっと見た計算だが、30万円もあればそれなりの品を買い求めることができる。これを高いか安いかと考えるのは各人によるが、もっと安価で済ませたいのであれが10万円台からでも商品はある。

古式銃保存会も、全国各地に存在する。特に戦国時代に関連するイベントなどでは、その保存会が射撃演舞をよく行っている。

我々が考えている以上に、火縄銃というものは非常に近しい距離にあるのだ。

静岡
農兵節継承へ、体育祭で披露 三島・中郷西中 /静岡
 「富士の白雪ノーエ…」で始まる農兵節を継承しようと、三島市立中郷西中学校(同市梅名、野口厚校長)が24日の体育祭で全校の生徒らが農兵節を踊る。体育祭本番を控え、12日、三島農兵節普及会の指導で全校生徒が約50分間踊りの振り付けを習った。

 中学校周辺は伊豆の穀倉とも呼ばれる田園地帯。かつて地域の農民は江川英龍(坦庵)創設の農兵隊に加わった。農兵隊にちなむ農兵節を継承してほしいという地域の要望を受け、中学校は2014年から体育祭に農兵節を取り入れた。三島市教委によると、市内中学校の体育祭で農兵節を踊るのは同校だけ。

 24日は午後1時からのPTA種目で農兵節を披露する予定。三島農兵節普及会の三味線や歌に合わせ、全校生徒や保護者、住民ら約500人が踊る。全学年がそろって踊るのは今年が初めて。

 同校の土屋康徳教頭(55)は「地域ぐるみで伝統を継承していきたい。一般の方もぜひ参加してほしい」と話している。【垂水友里香】

福島
松平容保公にスポット 鶴ケ城の博物館で企画展
 会津若松市の若松城天守閣郷土博物館の秋季企画展「松平容保」は9月16日、鶴ケ城内で始まった。11月7日まで。
 平成30年の戊辰戦争150年に向けた企画で、京都守護職を務めた幕末の会津藩主・松平容保公に焦点を当てた。
 容保公が肌身離さず持っていた孝明天皇の手紙「御宸翰(ごしんかん)」や一緒に賜った御製(和歌)をはじめ、「禁門の変図屏風(びょうぶ)」、京都の金戒光明寺が所蔵する和歌の短冊など約35点を展示している。
 午前8時半から午後4時半まで入館できる。入場料は天守閣と茶室麟閣との共通券で大人510円、小中学生150円。

(2016/09/17 11:30)
山口
幕末の諜報組織の存在示す 亀山八幡宮であす開催の文化講座、下関市・大浜さんが初公開 /山口
長州・清末藩から幕府に送り込む
 江戸幕府と長州が激しく対立した幕末期、萩藩の支藩・清末藩から幕府に送り込んだ諜報(ちょうほう)組織の存在を示す資料を下関市の大浜博之さん(70)が、亀山八幡宮で開催される文化講座で初めて公開する。大浜さんは「下関で発見されること自体あり得ないくらい貴重な資料。興味のある人はぜひ見てほしい」と話す。【仲田力行】

 大浜さんは1984年、幕末期の神奈川奉行支配組頭、脇屋卯三郎の子孫で千葉県に住む女性から手紙を受け取った。手紙には、脇屋が清末藩と関わりがあることが記されていた。その5年後、市立長府博物館の職員だった大浜さんは、清末藩士の家系で下関市内に住む故渡辺ノブさん方にあった大量の資料を譲り受けた。資料は、江戸城の土手や塀の位置を示す詳細な絵図、品川台場の砲台図などを描いた幕末期の幕府の機密資料だった。

 大浜さんは、清末藩士の手元に幕府の機密資料があったことと、千葉県の女性から受け取った手紙を基に、同藩の渡辺家と脇屋の関係が深いと推測。明治時代にまとめられた幕末・維新期の史料や清末藩の研究資料などを通じて長年調査してきた。

 その結果、資料を譲り受けた渡辺ノブさんの4代前の蘭学者、渡辺澄(きよし)が39歳だった1838(天保9)年、江戸藩邸から突然姿を消したことが判明。更に、澄の3人の息子が清末藩を追われ、日出(ひじ)藩(現大分県)に送られた次男が脇屋ということも分かった。澄の行方不明や3人の追放理由は明らかでないが、清末藩が幕府に対する諜報活動を展開するための措置だった可能性もある。

 脇屋は幕末、米国の初代駐日領事、ハリスの接待役にもあたったが、萩藩に機密を漏らした罪で1864(元治元)年10月、48歳で切腹させられた。幕府は脇屋と通じた罪で、江戸萩藩邸にいた遠藤太一郎を京都以西に追放処分とした。大浜さんの調査で、遠藤が澄の三男であることも確認された。幕府側と萩藩側に兄弟が分かれて機密情報を扱っていたとみられる。

 文化講座で大浜さんは、脇屋を中心とした清末藩士の人間関係や当時の藩の事情などを資料を示しながら話す予定だ。講座は9日午前10時から開かれる。問い合わせは亀山八幡宮(083・231・1323)。

佐賀
史跡巡り、工作で幕末佐賀を楽しく学習 19日まで本丸歴史館
 世界遺産に登録された三重津海軍所跡や佐賀藩の取り組みを体験する「幕末佐賀藩の歴史体験」が17日、佐賀市の県立佐賀城本丸歴史館で開かれた。来場者はツアーや工作を楽しみながら、佐賀にまつわる歴史に理解を深めた。19日まで。

 歴史体験は、三重津海軍所跡が世界遺産に登録されて1周年を記念して開いた。この日は、佐賀市柳町周辺の散策した後、バスに乗って佐賀市諸富町の筑後川昇開橋に向かい、海軍所跡までウオーキングなどして史跡を巡った。館内では海軍所跡に関連したかるたや缶バッジ作りがあった。

 きょうだいに連れられ来場した佐賀市の香月椋さん(9)は「かるたが楽しかった。佐賀城が2回、火事になったことを初めて知れてよかった」と話した。

 18、19日は午前10時半~正午、午後3時~同4時半まで、鯱の門の中を見学できる。館内では、世界遺産を学べる子ども向け講座のほか、蒸気船や箱カメラを作る幕末科学技術体験(先着30人)ができる。

【誰かに教えたくなる話】幕末のエラい人が残した、ちょっとハズカシイ手紙
江戸時代は「恋にドはまりすること」は、粋でないこと、野暮で格好悪いこととされました。だからほとんどの人がやせ我慢をし、自分はそんなに恋には夢中になってないと、涼しい顔をするのが「江戸っ子」だったのです。でも、実際はそんなにうまくはいきません。いつの時代も、男性をひきつけてやまない魅力的な女性はいるものです。そんな女性を前にすると、どんなにエラい人もただの人……。今回は、そんな幕末の偉人のエピソードをご紹介します。

頼山陽(らい・さんよう)という人物をご存知でしょうか。
幕末の歴史家であり、思想家。江戸時代後期の日本を代表する漢学者です。
彼の書いた歴史書『日本外史』はベストセラーとなり、幕末から明治初期の人々に大きな影響を与えました。
そんな偉大な歴史家である山陽が、夢中になった女性がいます。
江馬細香(えま・さいこう)という、女詩人です。

細香は、詩人としての才能もさることながら、見た目も大変美しい、いわゆる「才色兼備」の女性。
ひと目会ったときから、山陽は細香に夢中だったといいます。
その証拠が、彼が友人へあてた手紙の中に残されているのです。

「薄化粧で質素ではあるが品のいい身なりをしており、清楚にして秀麗なる外見にくわえ、その才能はまことにすぐれたものである。芸術的なもの・道徳的なもの・文化的なもの……すべて山陽にとって不足なものはない。この女性を得ずして他に誰があろう」

これはベタ惚れです。
細香は山陽に漢詩を師事していたので、詩の添削をしてもらっていたのですが、山陽はこんなことも書いています。

「細香は詩の添削などをしてほしいと頼んでくるが、私は詩よりも彼女の全身を添削したいと思っている」

まさに、公私混同!
これだけ惚れた女性ですが、細香側の両親に大反対され、山陽は別の女性と結婚。
ですが結婚後、二人の愛人関係は30年以上も続いたのだそう。

情熱的な手紙は素敵ですが、真面目な歴史家がこんなことを書いていたかと思うと、ちょっと笑ってしまいますね。

文/岡本清香
 どうかこのシリーズに土方さんのモテ自慢レターが取り上げられませんように……。


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