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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 朝から雨、気温も20度未満と低いようです。気になるのは台風の行方と世界の株式市場の様子です(汗)。

北海道
館城跡から多量の炭化コメ
【厚沢部】140年前の1868(明治元)年、松前藩が築いた館城跡(国指定史跡、厚沢部町城丘)で町教委が進めている発掘調査でこのほど、「米倉跡」とされる地点から多量の焼け焦げたコメが出土した。館城は築城から半月余で旧幕府軍の攻撃で落城しており、町教委は米倉など城内の建物とともにコメも炎上したものとみている。
 米倉跡は城跡の北東部に位置する。地表から数センチ程度のごく浅い所から、焼け焦げて炭化したコメが多量に出土した。付近では広範囲に土壌も赤く焼けており、石井学芸員は「相当の高温が長時間続いたと考えられる」としている。
 同じ場所では、焼けていない“もみ殻”が付いたままのコメも炭化したコメと重なり合うようにして見つかった。焼失を免れたコメと炭化したコメが同じ場所から出土する理由は分かっていない。石井学芸員は「館城は落城後も20年近く放置されていた。付近では数十年前から多量の米が出てくることが知られていた」とし、出土状況などを詳しく調べている。
 館城は、現在の松前町から厚沢部町に拠点を移した松前藩が1868年9月に築城を開始。箱館戦争の戦火が迫る中で10月25日に完成した。ところが、11月15日には旧幕府軍の攻撃で落城。建物の大半は焼け落ちたという。
 館城跡に関する詳しい史料は残されておらず、町教委は2005年度から、遺構の保存管理計画策定や史跡公園の整備に向けた発掘調査を続けている。本年度の発掘は1500平方メートルが対象。南西側では堀、土塁、柵列などの遺構を確認した。
 28日には町教委主催の現地説明会も開かれ、地域住民ら約20人が参加。箱館戦争当時の激戦を物語る“証し”である炭化したコメの塊などに熱心に見入りながら、わずか75日で落城した、悲運の館城の姿に思いをはせていた。

 館城は松岡四郎次郎が率いる別働隊によって攻略されましたね(本隊は江差へ……そして江差に支援に来た開陽丸と神速丸を失ってしまうのでした)。藩主が津軽に逃げてしまった後は戦略的な価値がないと判断されて旧幕府軍に放置されたんじゃないかなーと、館城跡を見学したことのある自分は思います。

佐賀
「遠山の金さん」父の乗船記録確認 佐賀県立名護屋城博物館
 江戸時代に唐津藩(佐賀県)で船の運航管理などに従事していた役人「船手」が残した資料約1000点を、佐賀県立名護屋城博物館(唐津市)が整理し、測量家の伊能忠敬や「遠山の金さん」の父親の乗船記録を確認した。
 調査に当たった九州大の宮崎克則准教授(日本史)は「もともと水軍だった船手は、戦争がない江戸時代には位が下がったせいか、残存資料が少ない。当時の交通網、流通網を知る上で貴重だ」と話している。
 資料は18世紀半ばから幕末にかけ、船手に従事した一族が作成。1812年の「測量方御用諸事覚帳」には、測量に訪れた伊能忠敬の名が「伊能勘解由」として、唐津藩の船に乗った一行の名簿に記されていた。その前年の資料には「遠山の金さん」のモデルとされる遠山景元の父、景晋が朝鮮通信使の接待のため対馬へ渡った記録もあった。 


伊能忠敬らの乗船記録確認 唐津藩の役人「船手」資料
 江戸時代に唐津藩(佐賀県)で船の運航管理などに従事していた役人「船手(ふなて)」が残した資料約1000点を、佐賀県立名護屋城博物館(唐津市)が整理し、測量家の伊能忠敬や「遠山の金さん」の父親の乗船記録を確認した。
 調査に当たった九州大の宮崎克則准教授(日本史)は「もともと水軍だった船手は、戦争がない江戸時代には位が下がったせいか、残存資料が少ない。当時の交通網、流通網を知る上で貴重だ」と話している。
 資料は18世紀半ばから幕末にかけ、船手に従事した一族が作成。1812年の「測量方御用諸事覚帳」には、測量に訪れた伊能忠敬の名が「伊能勘解由」として、唐津藩の船に乗った一行の名簿に記されていた。
 また、その前年の資料には「遠山の金さん」のモデルとされる遠山景元の父、景晋が朝鮮通信使の接待のため対馬へ渡った記録もあった。
 資料は、唐津市に住む船手の末裔(まつえい)の一家が1994年に同博物館へ寄贈。船手が日常生活について書いた日記なども含まれ、点数が多く手つかずだったが、同館が九州大などの協力で7月から整理していた。
(共同)


文化
【写眼】中里和人「東亰(とうけい)」(2006年)より
 荒川や隅田川に囲まれた三角地帯。東京都墨田区の向島地域には、戦災を逃れた木造長屋や古い工場が密集する迷路のような路地が残っている。
(中略)
 明治維新を機に、江戸は東京と改称された。「東の京」。どこか従属的なイメージがする地名に反発した江戸の人々は、明治の一時期まで、京の字に横棒を一本加えて自ら「東亰(とうけい)」と呼んだという。いつしか霧のように消えた幻の東京だ。

【写眼】中里和人「東亰(とうけい)」(2006年)より
 「京」の漢字に一本横棒が入っていたとは初めて知りました^_^;。
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