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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 台風15号が台湾を通過した後、進路を変えて日本の南側を西から東に横断しそうな気配です。前線の影響を受けて、今日の東京は最高気温が昨日に引き続き20度を割った寒い一日になりました。予報では、明日朝からは少し寒さも緩むようですが、暖かくしてお休みください。

福島
会場にキク咲き誇る/1日から二本松菊人形
 秋恒例の菊の祭典「第54回二本松の菊人形」は10月1日、二本松市の県立霞ヶ城公園で開幕する。
 29日までに、国史跡の二本松城跡(霞ヶ城跡)の約2万平方メートルに約3万株の美しいキクが咲き誇る会場の準備がほぼ整った。
 今年は第1会場に大河ドラマ「篤姫」はじめ、過去に展示し好評だった「独眼竜政宗」「新選組」の名場面、戊辰戦争140年記念の二本松少年隊顕彰特別場面、2年ぶりに復活した鯉の滝登りなどが登場する。
 第2会場は地元の祭りを集めた「二本松のちょうちん祭り」「針道のあばれ山車」「木幡の幡まつり」など、第3会場は菊人形歌舞伎「140年特別上演・二本松少年隊(段返し)」となっている。
 11月23日まで。
 開場時間は午前9時から午後5時まで。
 入場料は大人1000円、小中学生は500円。
 就学前の幼児は無料で各種割引もある。
 問い合わせは二本松菊栄会(市観光課)電話0243(55)5122か会場内事務局電話0243(23)5626へ。



東京
日野 新選組・井上源三郎 しのび140回忌法要
 新選組の六番隊組長井上源三郎の百四十回忌法要が二十七日、日野市本町の宝泉寺で営まれた。今年三月には源三郎の埋葬地が判明したり、首級を埋めたおいの写真が見つかったりしており、出席者は感慨深げな様子だった。
 法要は鳥羽伏見の戦い(一八六八年)で戦死した源三郎の墓がある同寺で、百三十回忌以来、十年ぶりに開催。源三郎の子孫、井上雅雄さんや、新選組局長だった近藤勇の子孫にあたる宮川清蔵さんらが、墓碑の前に集まった。
 境内では、天然理心流の演武が行われたほか、源三郎のおいで源三郎の首級を埋めた泰助の写真を見て雅雄さんが作詞し、ロックバンドのドラマー、藤田勉さんが作曲した「義」「砂の舟」の二曲も披露。出席者は、源三郎を身近に感じながらしのんでいる様子だった。 (布施谷航)

 淀で源さんが埋葬された地が特定されたことですし、ご子孫の方々にとっては感慨深い140回忌法要だったかと存じます。合掌。

長崎
「亀山社中」跡再び公開へ、龍馬らが設立した日本初の商社
 坂本龍馬らが設けた日本初の商社とされる「亀山社中」跡(長崎市伊良林)が来年、再び公開される見通しとなった。NHKの2010年の大河ドラマが「龍馬伝」に決まったこともあり、長崎市が所有者と合意した。市は、幕末期に重要な役割を果たした社中跡を観光振興の起爆剤にと、再整備を計画している。
 亀山社中は、龍馬らが薩摩藩や長崎の豪商の支援を受け、1865年(慶応元年)に設立。艦船や武器の取引などを行った。
 当時は平屋だったが、2階建てに増築されている。司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で、龍馬が寄りかかったと紹介される「竜馬柱」や、押し入れ上段に取り付けられた隠れ部屋などがある。
 1985年5月から、市民グループ「亀山社中ば活(い)かす会」が所有者から土地、建物を借りて公開してきたが、2006年3月に中断された。
 長崎市は再公開に向けて所有者と交渉を続け、10年間、無償で借り受けることで覚書を交わした。
 市は所有者の許可を得て家屋を当時の姿に戻すとともに、龍馬関連の資料の収集も行う。市文化観光総務課は「全国の博物館などの協力を得て、写真や書簡、龍馬の愛用品などを展示したい」としている。
 市内には、龍馬らと取引をしたトーマス・グラバーゆかりの史跡や、龍馬も立ち寄ったと言われる日本初の西洋料理店「良林亭」跡などが点在する。同課は「幕末の志士の活躍や日本の近代化の歴史について学ぶ素材になる」と、社中跡の観光ルート化についても検討している。


コラム
【温故地震】都司嘉宣 安政江戸地震(1855)の地震地蔵
■刻文が物語る揺れの強さ

 安政江戸地震は幕末の安政2(1855)年10月2日夜、江戸を襲った直下型地震である。江戸市中の死者は約1万人と推定され、被害は関東地方中央部や南部にも広がった。
 今回紹介するのは、千葉県印西市にある「地震地蔵」だ。JR成田線の小林駅から約15分歩いた国道356号わきにある。下には一辺約40センチの立方体の台座があり、四面に文字が刻まれている。
 正面には「享保六歳 丑八月日、奉建立地蔵菩薩」とあり、初めて置かれたのは享保6(1721)年で、安政江戸地震より134年前だったとわかる。
 背面には、「安政2年10月2日夜の大地震で、台座石の上の部分が全壊してしまった。そこで、安政3(1856)年9月に、小林新田の堤外の念仏講が再建した」と刻まれ、安政江戸地震の1年後に作り直されたものであると伝えている。
 安政江戸地震のとき、どれほどの水平加速度がかかったのであろうか? この地蔵は、重心が低い上に蓮台の下部が広がっているため、単純な墓石形よりは倒れにくそうだ。それが倒壊したのだから200ガルぐらい、震度6弱程度の強い揺れだったのではないかと推定される。

【温故地震】都司嘉宣 安政江戸地震(1855)の地震地蔵
 左面には「左 てうし、右 なりた 道」の文字。これは、地蔵が本来、銚子(ちょうし=てうし)への道と成田への道の分岐点にあり、道しるべを兼ねていたことを物語っている。
 また、右面の中央には「右 さくらミち 願主 浄安」と、明らかに江戸時代の書体で刻まれている。右端には「昭和四十一年十月吉日遷座」の文字があり、この地蔵像が道路拡張工事に伴い、本来の位置から少し移動したことを証言している。
 このように、台座石には享保6年、安政3年、昭和41年の文字が混在し、地蔵像の変遷とともに、刻文が加えられていった歴史を明瞭(めいりょう)にたどれる。
 現代の地震研究者に貴重なデータをもたらす地震地蔵、印西市の誇りとして、永く後世に伝えてほしいものである。(つじ・よしのぶ 東大地震研究所)
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