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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 Aki_1031さんのブログ『Go Plain!』の記事「お江戸の桜09年その2~浅草墨堤桜と浜離宮」コメント欄でAki_1031さん・はな。さんと遣り取りしていて、伊庭八郎ら遊撃隊の足取りを確認したくなったので、『脱藩大名の戊辰戦争 上総請西藩主・林忠崇の生涯』を拾い読み。



 この新書を初めて読んだ頃は韮山代官所の江川家に関心が薄かったからなぁ……林忠崇と旧幕府軍遊撃隊が小田原・箱根で戦闘したのはもちろん記憶していたのだが、韮山代官所と接点があったことは認識してなかった(汗)。

 で、該当箇所を拾い読み。

 中村彰彦さん、綿密な時代考証が定評ある作家でらっしゃるんですが、韮山代官所について小さなミスを発見してしまった(汗)。

 63~64ページから。
 ふたたび遊撃隊と合流した忠崇が、(白牡丹注・小田原の)つぎに目指したのは伊豆の韮山代官所であった。武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐五カ国の幕領のうちに二十六万石の所管地を持つ韮山代官所は、先代の江川太郎左衛門英龍(坦庵)の時代以来、反射炉を設けて鉄砲の鋳造を手びろく行い、門人四千人と農兵多数とを育成していた。だから忠崇たちは、小田原藩よりは韮山代官所の兵力に期待していたのかも知れない。


第三十六代江川太郎左右門英龍 代官在職は天保6年(1835)~安政2年(1855)
第三十七代江川太郎左衛門英敏 代官在職は安政2年(1855)~文久2年(1862)
第三十八代江川太郎左衛門英武 代官在職は文久2年~明治維新、廃藩置県後の初代韮山県令
 リンク先はwikipediaの各項目、ただし英武は独立した項目がないので「江川太郎左衛門」の項にリンク。

 林忠崇と旧幕府遊撃隊が韮山代官所と接触した慶応四年(1868)閏4月当時の韮山代官は英武で、英龍(坦庵公)さまは「先代」でなく「先々代」になります。第37代の英敏様が24歳で夭折されているので、数え違いをされたかと(汗)。ともに英龍さま(坦庵公)の血を引いた息子さんたちで、夭折された英敏様には嫡子がいなかったため、弟の英武様が代官職を引き継いだという経緯です。

 あともう一ヵ所、幕末の江川家の歴史を多少知っている者には物足りない記述が(汗)。

 しかし、その日夕方にかれらを迎えた韮山代官所側の反応は、意外なものであった。
 代官所の手代のひとりだろうか、柏木総蔵という者に募兵と軍資金の調達を申し入れると、柏木は答えた。
「当主江川太郎左衛門(英武)は未だ少年にして、太政官に召され京都に在り、不在中たり。農兵、銃器等、先代太郎左衛門没後多くの星霜経たる今日、ほとんど痕跡なし」(『人美寧履歴書』)


 後半、文脈的には英龍のことでしょうから、正しくは「先代」ではなく「先々代」。人見勝太郎さんが聞き違えたのかな(汗)。

 それはいいのですが「代官所の手代のひとりだろうか」とは、あんまりな(苦笑)。柏木総蔵は確かに「代官所の手代のひとり」ではありますが、江川英龍さま亡き後に若く経験不足な当主さまふたりを支えてきた江川家ナンバー2です(もう少し正確に言えば、練兵館を創設した斎藤弥九郎と並んで、江川家家臣の両輪のひとつ)。廃藩置県後は足柄県令・柏木忠俊です。

 Aki_1031さんのブログでコメントした、柏木総蔵(忠俊)と福澤諭吉の交流については、慶応大学出版会のサイトで見かけた下記の寄稿に詳しいです。
福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
~慶應義塾大学出版会のルーツを探る~
第4回:「福沢屋諭吉」の営業活動(その1)

 この書簡の宛名の柏木?蔵は、文政7(1824)年伊豆韮山(にらやま)に生まれた。韮山代官江川太郎左衛門英竜邸の書生となり、嘉永7(1854)年に航海術を習得するため長崎へ派遣された。この嘉永7年は、たまたま福沢が蘭学修業のため長崎に赴いた年でもあり、おそらく両者は長崎の地において出会い、その後も親交が続いたのであろう。後に柏木は韮山反射炉や品川台場の築造に従事し、維新後も新政府の会計官権判事となった。しかし健康を害して、地元の韮山県(後に足柄県を経て現在の静岡県の一部)への出張を命じられ、韮山県判事を経て、この書簡の当時は韮山県大参事を務めていた。

 福沢は長崎以来、自分よりも十歳ばかり年長の柏木に深い信頼を寄せていたことが、何通かの柏木宛福沢書簡(いずれも前掲『福沢諭吉書簡集 第一巻』所収)から読み取れる。新政府の中で開明的な地方官僚としての柏木に対する福沢の期待は、特に地方教育の面にあった。先の書簡の末尾をここでもう一度ご覧いただきたい。


えーと、生まれは韮山だったかな(汗)。確か、坦庵公の意を受けて高野長英をかくまっていた足柄郡の名主が、柏木の実家だったと記憶しているのだけど。

 あと、この座談会の記事でも、柏木忠俊と福澤諭吉の交友について触れられていました。

有隣堂サイト 有鄰 No.476 P1 座談会:箱根に命を吹き込んだ人びと (1)
福沢と柏木県令は長崎留学時代からの親友

金原   もう1人忘れてはならない人物が、足柄県令の柏木忠俊です。 小田原、箱根あたりが足柄県だった時期があります。 明治4年11月から明治9年4月までの4年5か月です。 その前に、わずか3か月ですが小田原県もありました。

私はこの柏木県令を開明知事と言っているんです。 進取な気性の福住正兄、福沢諭吉は経済指南役と銘打って、それは間違ってはいないと思っているんですが、やはり柏木の存在なくしては福沢と正兄の関係もないと思う。 福沢と柏木は親友なんですよ。

松沢   柏木県令はもともとは武士ですか。 

金原   柏木家は代々、伊豆韮山で江川代官邸の元締手代(役人総代)を勤めていました。 彼が14歳のとき、あまり聡明なので、江川太郎左衛門(英龍)が抜擢して手代にしたんです。 それで、江川が幕府の海防掛になったときには、彼を連れて三浦半島から江戸湾の一帯を調査しています。 伊豆七島付近まで行ったこともあります。 嘉永6年にペリーが来航しますが、その翌年、江川は彼ともうふたりを長崎に短期留学させる。 そのとき福沢諭吉も長崎に留学していて、そこで彼らは知り合ったんじゃないかと推定しています。

松沢   福沢は箱根の山の道があまりにもひどいので腹を立てて、柏木県令に、こんなんじゃだめだと手紙を出していますね。 そういう親交があったんでしょうか。 箱根の道路の開削はもちろん民の力でやっていったわけだけど、柏木県令は多分さまざまなサポートをしているんでしょうね。 

金原   していますね。 柏木も福沢諭吉のアドバイスをよく聞いているみたいです。 それから福住正兄をものすごく重用している。 これが非常に大きいと思います。

 この座談会では「親友」って云われてます(笑)。

 ちなみに、剣客としての印象が強い斎藤弥九郎ですが、慶応四年(1868)一月に鳥羽伏見の戦いで敗北した旧幕府軍が江戸に帰還し始めた頃に早くも旧幕府側の先を見通し、柏木総蔵と共に江川家を西軍側に恭順降伏させる活動をしていました。彰義隊の首領になって欲しいという要請も断っており、明治政府に出仕もしています……練兵館で長州藩士を指導していた経緯、また水戸藩の藤田東湖らとの交流もあって、チーム箱館に加わった旧幕臣たちとは違うものの見方をしていた人なんかなーと思います。

 鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜が降伏恭順する前に、東海道の要地である箱根の西側と東側の旧幕府直轄地を管轄していた江川家が西軍に降伏恭順したということは、戦略的に大きなダメージだったよなぁ、と思います。西洋砲術を広めた江川塾を通じて、旧幕府の海軍陸軍を創設した関係者を養成したと同時に、旧幕府を倒した薩長側にも江川塾の出身者が数多くいたということが、幕府に殉じて亡くなったとも云える坦庵公とは違う時代観や近代日本の方向性を斎藤弥九郎や柏木総蔵に持たせたんじゃないだろうか、と、漠然と考えてます。

 ただ、西軍というか新政府側にまず安堵されたのは江川家が代々管轄していた韮山郡です。

 彰義隊壊滅の時期まで、江川家が管轄していた多摩の一部が旧幕府というか徳川家寄りの行動を選んだのは多摩独自の歴史と文化ゆえでしょうね。私見ですが、江川家が韮山以外の所轄地の安堵については優先度を下げて西軍というか新政府側に恭順を申し出ていた間に、多摩は徳川家との深い歴史的結びつきゆえに代官家のコントロールを離れて徳川家寄りの行動を取ったのかな、と思います。

 どうも、まだ、きれいに整理した言葉で言えてませんが(汗)。

 


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無題
by Aki_1031 2009/04/10 13:22 編集
リンクありがとうございます。
「~履歴書」は恐らく後に回想しながら書かれたものと思いますので
多少のズレはあるように思います。
各日付もはっきりと明記されてはいませんし(苦笑)。

遊撃隊は元々幕臣であっても御徒あがりが主力メンバーなので
情報に疎かった…もっと言うと
江川家当主が変わっていたことさえ知らずに
とりあえず行ってみようよ的なノリで訪ねたのではないかと思っています。
それこそあまり後先考えない江戸っ子のノリで(苦笑)。

庄内藩のように藩士らを各地の砲術家や兵学家に
がんがん派遣して情報や技術伝達を緊密にしていれば
当時の情勢や人材、技術力も理解できていたかもしれませんが、
陪臣とは異なりますし、なにせ若者の集団だし、そこまでは難しかったのかもしれませんね。
    
コメントありがとうございます
by 白牡丹 2009/04/10 14:03 編集
Aki_1031さん、
コメントありがとうございます。当時の情報通信技術のことを考えるとやむを得ないところもありますが、旧幕府の抗戦派がもちっと連携できていたら歴史はどうなっていただろうかと思います。もっとも、おかげさまで江戸が戦場にならずに済んだというのも確かでしょうねぇ。
    
無題
by ef 2009/11/07 14:43 編集
代官としての英武は英龍の次の次の代ですが、英敏の弟(後に養子)なので称したくなるもの合点が以下ないわけではありません。     
ファンならではの
by 白牡丹 URL 2009/11/07 16:41 編集
efさん、コメントありがとうございます。

要は、ファンならではの細かいツッコミというやつですのでお目こぼしください。
    
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