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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日は箱根駅伝復路の10区の沿道で声援を送りました。選手達はあっという間に目の前を駆け抜けていってしまいましたが、昨日今日と印象深い大会でした。


長野
小布施で小林一茶の未知の句を発見
 「猫の子が 手でおとす也(なり) 耳の雪」。上水内郡信濃町出身の俳人小林一茶(1763~1827年)が、これまで知られていなかった句を記した晩年の書状が2日までに、上高井郡小布施町の民家で見つかった。一茶を研究している矢羽勝幸・二松学舎大教授(上田市)は「子猫のかわいらしさが伝わる。動物をよく観察する猫好きな一茶らしい句だ」と話している。
 書状を鑑定した信濃町立一茶記念館の中村敦子学芸員によると、一茶は当時、信濃町に住み、北信地方の門人を訪ねて俳句を教えていた。書状は小布施地区の豪農の息子あてで、晩年の一茶の暮らしぶりがうかがえる貴重な史料としている。
 書状は縦15センチ、横37・8センチ。2双ある銀びょうぶの一角に張られていた。日付は11月12日。現在の暦で12月半ばに相当する。滞在していた現在の小布施町六川地区から、翌13日に長野市長沼地区の門人を訪ねるため、千曲川を渡る船の用意を依頼する内容だ。
 年号は記されていないが、一茶が俳句と一緒に日々の出来事や天気をつづった句日記「文政句帖」と照合、1823(文政6)年と特定した。句帖には、11月9日に3寸(約9センチ)の降雪があり、10日に六川地区、13日に長沼地区をそれぞれ訪ねたとある。
 びょうぶは、小布施町でかつて質屋を営み、一帯の地主だった人の子孫宅の土蔵で家人が昨年8月に見つけた。書状に「一茶」とあったため一茶記念館に連絡。3句書かれたうちの一つが「猫の子が-」だった。びょうぶが残っていた詳しい経緯は不明という。
 ほかにも、小布施の豪商で文化人の高井鴻山(こうざん)(1806~83年)が描いた妖怪画の短冊、「幕末三筆」と呼ばれる書家の巻菱湖(まき・りょうこ)(1777~1843年)が書いたとみられる手紙など計約40枚が一緒に張られていた。
 一茶記念館などによると、一茶は1809(文化6)年ごろから六川地区などの門人と交流を重ね、現在の小布施町は頻繁に訪れていた地域の一つという。



岐阜
儒学者・佐藤一斎を知る史料展示
 美濃岩村藩出身で江戸時代後期の儒学者佐藤一斎(1772~1859)を紹介する史料展「佐藤一斎~その人と教え~」が、関市小屋名の県博物館マイミュージアムギャラリーで開かれている。1月17日まで。
 一斎は同藩家老の次男として出生。1133条の教えをまとめた全4書の「言志四録」などを残し、幕末から明治維新期に活躍した指導者に影響を与えたといわれる。門下生には佐久間象山や渡辺崋山らがいる。
 展示会は、佐藤一斎顕彰会とNPO法人いわむら一斎塾が出展し、会場に約180点を並べた。一斎を研究した書籍や言志四録を扱う昭和初期の教科書などを展示。小泉純一郎元首相が2001年5月、衆議院本会議で教育観を語る際に言志四録の一部を引用したことが縁で、一斎座像の銘板にするために小泉元首相が揮毫(きごう)した書も飾られており、来場者の関心を集めている。


山口
頑張る!新長州人:/1 萩市特別学芸員・一坂太郎さん /山口
◇「歴史の宝庫」振興に尽力--一坂太郎さん(43)=兵庫県芦屋市出身

 長州藩の本拠地、萩市の萩博物館に勤め、幕末維新史の研究のほか、県内外で年間数十回の講演・講座に飛び回る。城下町にある博物館には観光のお年寄りらに交じり、「歴女(れきじょ)」(歴史好きの女性)なのか、若い女性の姿もちらほら。
 「東京で講演すると、女性にサインを求められることもあります」と照れ笑いする。全国的な歴史ブームに乗って、山口県の「観光大使」役も担う。
 兵庫県芦屋市の生まれで、少年時代から歴史マニア。東京の大正大在学中は、奇兵隊を作った幕末の志士、高杉晋作(1839~67、号・東行(とうぎょう))の手記や手紙を収めた上下2巻の全集を愛読書にするほどだった。
 卒業後「山口で生活しながら本物の歴史を知りたい」と下関市吉田の東行記念館に就職し、23歳であこがれの地・長州に移り住んだ。地元に伝わる古文書を読んだり、古老の話を聞き、小説やドラマで知られる栄光の歴史とは逆の「悲劇」が浮かび上がった。
 維新直後、晋作の姪(めい)は地元の萩で嫁入り先がなかったという。特権を奪われた旧武士階級から、晋作の親族まで目の敵にされた。実働部隊になった奇兵隊にも悲話が……。維新後、除隊させられた農民出身の元隊員らは生活が困窮。藩内で武力蜂起したが、今度はかつて同志だった藩の常備軍に鎮圧され、首謀者は処刑された。
 「県内で聞く維新の話は、決して『勝者』だけではない」
 移住して12年目。敗者たちの維新史をまとめた「長州奇兵隊」(02年、中公新書)を出版。その後、萩市特別学芸員に就任した。
 萩市内は吉田松陰や晋作ら志士たちの生まれ故郷。城下町には江戸時代とほとんど変わらぬ街筋が残る。また、参勤交代で殿様の駕籠(かご)や、武士らが通った萩から瀬戸内海側へ抜ける「萩往還」(約50キロ)沿いも風情がある。
 「幕末の志士らと同じ道をウオーキングできる歴史の宝庫。大量退職する団塊の世代を呼び込めるのではないか」。「第二の古里」の振興へ、思いは強い。【中尾祐児】

  ◇   ◇

 1日付で県内のゆかりの地を紹介した幕末の風雲児、坂本龍馬は四国の土佐出身だが、長州藩の志士たちと手を取り合い、新しい日本の建設を目指した。現代でも多くの個性的な県外出身者たちが県内各地で活躍している。そんな「新長州人」を紹介する。
〔山口版〕



佐賀
「佐賀偉人伝」出版へ 県教委、5年計画で15人
 佐賀県教委は幕末・明治期に活躍した佐賀の偉人を広く知ってもらうおうと、「佐賀偉人伝」の出版に乗り出す。新年度から5年計画で「佐賀の七賢人」を含む15人の偉人伝をシリーズで出版、県内外の書店で販売する。県民の郷土に対する誇りや愛着を高めるとともに、佐賀藩の造船施設が候補となっている「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産登録に向けて機運を盛り上げる。
 偉人伝は県立佐賀城本丸歴史館が出版する予定で、偉人1人を1冊にまとめ、1年に3冊ずつ出版する。伝記と功績の解説、略年譜などで構成。史実に基づいて編集するが、手軽に読めるように専門書より平易な内容にする。体裁はA5版、100ページ程度で、できるだけ安い価格で販売する。事業費は、新年度当初予算に盛り込む方向で検討している。
 取り上げる偉人は10代藩主鍋島直正や大隈重信、江藤新平ら「佐賀の七賢人」のほか、幕末・明治期の日本をリードした8人。人材育成に尽くした枝吉神陽や近代歴史学の先駆者久米邦武、近代建築の辰野金吾ら多くの候補が挙がっており、編集委員会を設けて選定する。
 執筆は、郷土史家などから選んで依頼。新年度は県立図書館や博物館などに所蔵している明治期の古文書も検証する計画で、偉人伝には最新の研究成果を取り入れる。出版後は著者の講演会などを開き、県民の関心を高める。
 出版事業のきっかけとなったのは、世界遺産暫定リスト入りした「九州・山口の近代化産業遺産群」。県内からは三重津海軍所跡(佐賀市)が選ばれているが、世界遺産登録に向けて機運を醸成するには「近代化に貢献した人物を知ってもらうことが重要」と出版を計画した。
 1日からは県立美術館で、海外へ渡った佐賀人の足跡をたどる特別展「近代との遭遇」も始まり、今年は幕末・明治期にスポットがあたる年になりそう。県教委は「日本の近代化の過程で、佐賀の偉人たちが活躍したことを知ってほしい。貴重な資料や写真を使い、多くの人に読んでもらえる本にしたい」と話す。


長崎
「みんなの街」目指して!:バリアフリーの現在・長崎/1 利用者ゼロ /長崎
 坂の多い県内のバリアフリー度はどこまで進んでいるのか。さらに進ませるためには今後どうしたらいいのか--。さまざまな視点から、各地のバリアフリーの実態や現状を報告し、進むべき道を模索・報告する。

◇長崎さるく車椅子利用者コース、英雄編で知名度アップへ
 06年に日本初のまち歩き博覧会「長崎さるく博」を開催し、その後もまち歩きを観光政策の中心に据える長崎市。「もちろん、障害のある方にも長崎の街を楽しんでほしい」と、市さるく観光課の股張一男主幹(47)は語る。特に今年はNHK大河ドラマ「龍馬伝」で観光客の増加が予想され、幅広い客層の受け入れは必須だ。
 さるく博や、翌07年以降も続く「長崎さるく」では、聴覚や視覚の障害者は手話通訳をつけるなど対応してきたが、課題は車椅子。「坂の街」を散策するのは至難の業で、全53コースのうち車椅子で回れるのはわずか。江戸時代から続く石段や石畳の街並みもバリアフリーには程遠い。
 実は、市は07年11月からさるくコースでの車椅子利用者の受け入れを始めている。長崎港周辺や浜町アーケードなど平たんな3コースを選び、市民ボランティアガイドが市社会福祉協議会と車椅子の介助方法を実地で研修。現在は26人がガイドの資格を持つ。
 だが実際に利用したのは、修学旅行で車椅子の児童・生徒を受け入れたのを除けばこの3年間でゼロ。「市民にまだまだ知られていない。障害者団体などにPRを徹底しなければ」と股張主幹は率直に認める。
 しかし、追い風になりそうな要素もある。2日に始まった「長崎さるく英雄(ヒーロー)編」では、亀山社中跡付近から旧外国人居留地までを結ぶ2・7キロを「長崎龍馬の道」と命名。この一本道は周囲に坂本龍馬や幕末ゆかりの史跡が多く、市は案内表示を充実させた。しかも平たんで、この道をたどるまち歩きは車椅子での参加は十分可能だ。
 市は亀山社中跡近くに車椅子用のトイレも新設。「龍馬たちの息吹を障害に関係なく多くの方に感じてもらう」(股張主幹)ためには、課題を一つ一つ解決していくしかない。【錦織祐一】
〔長崎版〕


長崎まちなか龍馬館開館祝う 市民3000人乾杯
 坂本龍馬に関する史料などを展示する「長崎まちなか龍馬館」が2日、長崎市浜町のアーケード内にオープンした。
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映に合わせ、長崎市や長崎商工会議所などで作る実行委員会が2011年2月28日まで、観光拠点として期間限定で運営する。
 龍馬館は1階と地下1階で、地下1階は、「長崎龍馬の道ミュージアム」(一般300円、高校生200円、小・中学生150円)で、亀山社中や茶貿易商・大浦慶の庭園を再現したコーナー、写真家・上野彦馬の写真の展示など、8ブースに分けて、龍馬や長崎の歴史について紹介。1階では、観光案内所のほか、酒器や文房具などの龍馬グッズや、長崎ゆかりの土産物を扱う。
 この日は、龍馬ゆかりの名所を案内板で紹介する「長崎龍馬の道」(長崎市新大工町―南山手町、約3キロ)と、幕末の偉人にスポットを当てた町歩きコース「長崎さるく英雄(ヒーロー)編」もスタート。
 記念式典で、来賓の田上富久市長は「龍馬や長崎がメディアで取り上げられ、長崎も熱気を帯びてきた。長崎ファンが増えるよう、皆さんと力を合わせたい」とあいさつした。
 また、この日夜には、アーケードで、市民約3000人がビールやお茶などで乾杯する記念イベントが行われ、開館を祝った。
(2010年1月3日 読売新聞)


龍馬の夢実現させたカンパニー 亀山社中
 異国情緒がただよう長崎の市街地に急勾配(こうばい)で続く石段。人がようやくすれ違えるほどの幅しかないが、週末になると観光客らがひんぱんに行き交う。かつて坂本龍馬が往来したとされるこの坂道は「龍馬通り」と呼ばれる。そして、訪れた人たちは地元の人が整備した手作りの案内板を読んだり、カメラを構えたりして歴史散歩を楽しんでいる。
 龍馬通りを5分ほどかけて登ると、平成21年夏に開館した龍馬ゆかりの「亀山社中記念館」がある。長崎市が管理運営し、開館2カ月で約2万6千人が来館。22年にはNHK大河ドラマ『龍馬伝』が放映され、「さらに来館者が増えるのは間違いない」と期待のかかる新名所だ。
 改修前の建物は、昭和40年に出版された司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく-怒濤編」のあとがきに、解体されそうになっていると記され、一躍注目を集めた。明治以降、建物の所有者が何度か代わり、当時のオーナーも、このときまで建物の由来を知らなかったという。即座に解体を取りやめ、全国から訪れるようになった龍馬ファンや司馬ファンをもてなしたという。
 平成元年には地元の住民らを中心に「亀山社中ば活かす会」が結成され、一時的に建物を管理。21年から10年間、長崎市に無償貸与されることが決まり、これに合わせて改修された。
 亀山社中ば活かす会幹事の黒岩信元さんは「社中だった当時、土間と3畳、8畳、10畳の3間あり、中2階もあったと推定され、今回の改修でその間取りが復元された」と感慨深げだ。
 龍馬は、勝海舟が主宰する神戸海軍操練所の塾頭を務めていた元治元(1864)年2月23日、初めて長崎を訪れた。関門海峡で外国船を砲撃する攘夷を決行した長州藩への報復準備を進めていた米、英、仏などの連合艦隊に、攻撃を思いとどまるよう説得に向かった勝に同行していたのである。
 6月、長州藩や土佐脱藩の志士らが京の旅館で新撰組に襲われる池田屋騒動が起き、7月には御所に突入しようとした長州藩兵が、薩摩藩や会津藩を中心とする警護兵らと市街戦を繰り広げた蛤御門の変が勃発(ぼっぱつ)。長州藩に同情的な練習生が多かったという神戸海軍操練所は、反幕的活動と疑いの目を向けられて10月に閉鎖され、勝も軍艦奉行を免職となった。
 龍馬は、操練所閉鎖に伴う帰国命令に従わなかったことから再び脱藩、慶応元(1865)年9月に練習生のうち土佐系を中心にした脱藩者を引き連れて長崎に移った。このとき、亀山と呼ばれる小高い丘の中腹にある建物を本拠に、商社と海運業、政治結社を兼ねた組織として立ち上げたのが亀山社中だった。
 亀山社中の設立には、地元の支援もあったようだ。なかでも、長崎の豪商、小曽根英四郎と、長男の乾堂ら親子は龍馬と深くかかわっていた。長崎市小曽根町にある小曽根家の17代目当主、吉郎さん(62)は、当時のエピソードを語る。
 「亀山社中の建物は、近くにあった亀山焼の陶工の宿舎だったものを、乾堂が世話したと思われる。発足したばかりの亀山社中は経済的に苦しかったので、長崎に寄港する船に井戸の水を売るアルバイトをしていたとも伝えられている」
 亀山社中は第二次幕長戦争で、長州藩が購入した汽船ユニオン号に乗り組んで勝利に貢献したが、終戦とともに事実上、活動は休止した。難局打開のためもあって、龍馬は慶応3年2月、長崎の料亭で土佐藩の家老、後藤象二郎と会談し、土佐藩との提携を決定。翌3月、亀山社中は土佐藩の資金で運営する「海援隊」に改組し、本部を小曽根家の邸宅に置いた。
 現在の小曽根家当主、吉郎さんの自宅には、龍馬ゆかりの数々の遺品が残されているが、中でも目を引くのは、妻のお龍が愛用した月琴だ。龍馬らが第二次幕長戦争で長州側に立って参戦した際、小曽根家に預けられたお龍が練習に使っていたという。
 吉郎さんの妻、育代さん(61)は、月琴をつま弾きながら当時をしのぶ。
 「装飾のない簡素なつくりなのは、練習用だから。弾き方を教えたのは、当時12歳だった乾堂の娘、キクです」
 龍馬の生きざまに、小曽根家は共感し、あらゆる協力を惜しまなかったという。
 「亀山社中」 龍馬らが薩摩藩などの援助で設立。日本初の「カンパニー」ともいわれる。発足から約1年半後の慶応3(1857)年春、土佐藩の外郭機関「海援隊」に改組した。設立時のメンバーは20人余。日清戦争時の外務大臣で、幕末に結ばれた諸外国との不平等条約の改正や治外法権の撤廃に尽力した陸奥宗光や、龍馬の秘書役として活躍し2代目海援隊長を務めた長岡謙吉、自由民権運動の指導者のひとりで初代衆議院議長に就任した中島作太郎らが参加していた。(服部幸一)


鹿児島
おいどんと写ろう 鹿児島、そっくり西郷さんと記念撮影
 鹿児島市の「維新ふるさと館」で2日、西郷隆盛のそっくりさんが登場。「写真撮らせて」と引っ張りだこだった。
 そっくりさんは、市内の自営業斉野俊也さん(42)。3年前、仕事で同館を訪れ、福田賢治館長(68)が「顔だけじゃなく、かっぷくまで同じ」とほれ込んだという。
 同館によると、西郷隆盛は身長178センチ、体重105~120キロ。斉野さんは179センチ、108キロ。浴衣にわらじ姿で館内を歩き「郷土の偉人ですから光栄です」。



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