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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 初笑いにと、立川談春の『紺屋高尾』と『明烏』のCDをレンタルして聴いて、泣き笑いしてしまいました。しばらく江戸落語にはまりそうです。

地元出身の志士を肖像画などで紹介 かすみがうら市郷土資料館
 かすみがうら市坂の市郷土資料館で、幕末に生きた地元出身の志士たちを紹介する特別展「かすみがうら市の幕末群像-新選組・天狗(てんぐ)党の人物列伝」が開かれている。
 新選組参謀として知られた伊東甲子(きね)太郎は天保三(一八三五)年、同市中志筑に生まれた。弟の鈴木三樹三郎も新選組の隊士だった。甲子太郎の肖像画や妻にあてた手紙、三樹三郎の晩年の写真などを展示。天狗党では、三総裁の一人で同市安食に生まれた竹内百太郎の書簡や短冊、同じく総裁の岩谷敬一郎の肖像画と愛用した硯(すずり)。このほか水戸藩郷士の太宰清右衛門が、桜田門外の変のために用意した肌着や大正時代の生家の写真など、貴重な資料を紹介している。
 同館の担当者は「郷土の志士たちから、幕末という時代を学び取ってもらえれば」と話している。来年二月七日まで。問い合わせは同館=(電)029(896)0017=へ。 (塙幸雄)

 ……えーと、読みは「かしたろう」の方が可能性高いです、「樫太郎」という記録もありますので(汗)。
 鈴木兄弟が出た志筑は「かすみがうら市」、芹澤鴨や平間重助が出た玉造は「行方市」と、町村合併して所属する自治体の名前が変わっちゃったなぁ……。

東京
東京・丸の内で竜馬ゆかりの品々を展示
 幕末に活躍した坂本竜馬直筆の書簡などを集めた「龍馬と土佐の志士たち」の展示が2日、東京都千代田区の丸ビルで始まった。幕末の志士たちの息づかいを感じさせる品々が展示されている。同展は11日まで、入場無料 【時事通信社】



広島
ポニョの浦、平成の海援隊が行く 「いろは丸」9日就航
 幕末に坂本龍馬率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」をモデルに、広島県福山市が建造した市営渡船(19トン)が9日から鞆(とも)の浦と沖合約600メートルの島を結ぶ航路に就く。定員99人。
 黒を基調にした「平成いろは丸」は全長20メートルで、高さ約10メートルの3本のマストが並ぶ。船内はレトロ調の照明や子どもも触れるハンドル型の舵輪(だりん)、龍馬を紹介する写真パネルなどが取りつけられ、幕末の航海を模擬体験できる。
 いろは丸は1867(慶応3)年、鞆の浦沖で紀州藩の軍艦と衝突して沈み、龍馬が鞆の浦の町家などで藩と談判して多額の賠償金を得たことでも知られる。この史実をPRしようと福山市が約8千万円で建造した。(吉田博行)


佐賀
龍馬の焼酎グラス有田焼商社、新年から発売
 幕末の志士、坂本龍馬のイラストを絵付けした焼酎グラス=写真=が1月、有田町の陶磁器商社から発売される。NHKの新大河ドラマ「龍馬伝」の人気にあやかろうと企画。長州藩の高杉晋作、新撰組の土方歳三のグラスもある。
 有田焼卸団地協同組合の企画商品「匠の蔵」シリーズの焼酎グラス(直径9・7センチ、高さ9・5センチ)をもとに、金照堂(金子真次社長)が同町内の窯元に製作を依頼した。
 龍馬グラスは、白磁に黒絵の具で龍馬の横顔とピストルをあしらった。「龍馬は鹿児島を訪れており、焼酎も飲んだのでは?」と金子社長。晋作は三味線を持つ後ろ姿、土方は刀を描いている。各2100円。問い合わせは同社(0955・43・2007)へ。

 坂本龍馬・高杉晋作・土方歳三と、土方さんが三番手につけているのは、ちょっと嬉しかったりして。

幕末・維新の佐賀再発見 「近代との遭遇」展開幕
 佐賀県立佐賀城本丸歴史館の開館5周年を記念した特別展「近代との遭遇-世界を見る・日本を創(つく)る-」(本丸歴史館、美術館、佐賀新聞社でつくる実行委員会主催)が1日、隣接する県立美術館で始まった。
 初もうでの帰りに立ち寄る人もみられ、正月で東京から帰省中の男性会社員(32)は、岡田三郎助の「月夜」の前にたたずみ、「岡田というと女性画のイメージが強いが、風物を描いた作品は珍しく、新しい発見だった」と話していた。
 会場では県立美術館の学芸員らによるギャラリートークも行われ、黒田清輝が描いた大隈重信の肖像画について、「黒田のもとには来客が多く、完成するまで時間がかかった」などと作品にまつわるエピソードを語っていた。
 展示は1部「開かれた近代の扉」と、2部「描くことの近代」で構成。1部では1871(明治4)年に欧米へ派遣された岩倉使節団の一員で佐賀出身の久米邦武が編集した「米欧回覧実記」などの史料や、江戸時代の風俗が描かれたつぼなどが並ぶ。2部では百武兼行、久米桂一郎、岡田三郎助ら佐賀で生まれ、ヨーロッパで絵を学んだ人々の作品を中心に展示。緻密(ちみつ)に描かれた裸婦画や、優しい印象を与える風景画などが目を引く。
 会期は2月14日まで。ギャラリートークは毎週土曜日午後2時からで、2日も午後2時から行われた。観覧料は一般千円、大学生800円、高校生以下と障害者は無料。


長崎
<薩摩藩>長崎の蔵屋敷の写真発見…坂本龍馬の活動拠点か
 江戸時代に薩摩藩が長崎に設けた蔵屋敷の写真が長崎大学付属図書館(長崎市)で見つかった。商社「亀山社中」を設立して活動していた坂本龍馬も出入りしていたとみられ、研究者は「龍馬が長崎で活動していた時期に重なり、貴重だ」と話している。
 確認したのは、長崎の近世近代史に詳しい原田博二・長崎歴史文化研究所長(63)。所蔵する古い写真を超精細化して公開している長崎大のデータベースを調べる中で、長崎港近くで白塀に囲まれた武家屋敷の写真を発見。長崎歴史文化博物館(長崎市)に所蔵されている明治中期の地図と照合して薩摩藩蔵屋敷と特定した。
 英国人写真家のフェリックス・ベアト(1825年~?)による撮影で、「亀山社中」設立翌年の1866(慶応2)年に写されていた。ベアトは、長州藩と4カ国連合艦隊による下関戦争なども撮影している。
 龍馬は、薩摩藩家老の小松帯刀(1835~70年)の協力を得て亀山社中を設立した。薩摩藩蔵屋敷に出入りしたとの史料は残っていないが、後に京都や大坂(大阪)などでは薩摩藩邸を拠点としており、原田所長は「蔵屋敷には当時、お尋ね者だった長州藩の伊藤俊輔(博文)もかくまわれていた。龍馬も同様で、長崎で頼れるのは薩摩藩しかなかったはず」とみる。
 長崎市銅座町にある蔵屋敷跡には現在、三菱UFJ信託銀行長崎支店が建つ。駐車場に立つクスノキは幕末当時から残るといわれ、今回見つかった写真でも確認されている。原田所長は「雄藩らしく、かなり立派な武家屋敷なのが分かる。龍馬の長崎での足跡がリアルに感じられる」と話している。【錦織祐一】



各地
龍馬の足跡、焼酎でたどる 立志・希望・風雲の3種発売
 幕末に坂本龍馬が活躍した高知県、長崎県、京都府の酒造3社が、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を前に、同名の焼酎3種を企画し、発売した。
 高知は芋「立志篇(へん)」(1600円)、長崎は麦「希望篇」、京都は米「風雲篇」(各1470円)。各社は「それぞれの地での龍馬の心境を味わって」。
 3本セットで買うと、化粧箱の日本地図が完成。全国を駆けた龍馬に思いをはせてもらう趣向だ。問い合わせは「壱岐の華」(0920・45・0041)へ。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(43)東大教授・山内昌之 坂本龍馬(上)
志士とインテリゲンツィア

 日本人はなぜ、坂本龍馬を好きなのだろうか。
 理由は、龍馬がいちばん志士らしい志士だからという点に尽きる。自ら求めた政治の理想や目標を実現する志に忠実な人物こそ志士なのである。志を果たすためには、既成の権威から迫害を受けることもあり、その結果として死の悲劇に行きつくこともある。
  

一身を犠牲にする覚悟

 この意味で志士は、ロシアでいう「インテリゲンツィア」と似たところがある。インテリゲンツィアは、英語の「インテレクチュアル」(知識人)と似て非なるものだ。インテリゲンツィアは、理想社会や人民の幸福を求める志のために、一身を犠牲にする覚悟のある知識人を意味する。
 机上の議論だけでなく、実践において自らの知性や抱負を世に問うのである。19世紀ロシアのナロードニキ運動(「人民のなかへ」と呼びかけ、帝政の変革を求めた運動)の指導者らは、どこか坂本龍馬のような幕末の志士を彷彿(ほうふつ)させないだろうか。
 山脈と大洋に挟まれた土佐人ほど性格が類型化される例も珍しいだろう。井上勲氏の近著『坂本龍馬』(山川出版社)は、土佐人に山岳型と海洋型の2種類の志士を見いだした先人の説を紹介している。それによれば、自己の主義を直截(ちょくせつ)に語り続けることで志を実現するタイプと、変化してやまない海洋の様相が育てる、異質な他者に寛容なタイプの2つにほかならない。前者は武市半平太や中岡慎太郎であり、後者は坂本龍馬だというのである。
 屈曲した歴史の構図を整理し、複雑な人間模様を解剖してみせる井上氏の技量は、出されたばかりの小ぶりの書物でも発揮されている。そこで井上氏は、龍馬が姉たちとともに和歌や随筆といった和書の古典に親しんでいた事実を重視した。
 確かに、有名な「日本のせんたく」論はじめ、龍馬には仮名の多い気取らぬ文章が多い。漢語は、文字から連想させる観念に、抽象的にからめとられる危険もある。
  
気取りのなさ好かれる

しかし、仮名は事物の具体性を浮かび上がらせながら、明快に論理に従った文章を書くのに都合がよい便法なのだ。
 日本人に龍馬が好かれる原因は、この気取りのなさにもあるのではないか。女性に龍馬ファンが多いのも、姉にあてた簡明な文章が分かりやすく、人柄を素直に浮かび上がらせる点と無縁ではない。
 師として仰いだ勝海舟の素晴らしさを描写するときでも、「達人の見るまなこ(眼)は、少しも誤る所あるべからず」と『徒然草』の表現をもじる作文は、武士にしては珍しいほど洒脱(しゃだつ)に富む。
 『徒然草』とは、隠者の文学である以上、歴々の武士がなじむ古典でなく、郷士の気楽さゆえに姉と一緒に読めた面白い作品なのだ。こうしたとらわれのなさこそ、それと知らぬ女性さえ引き付ける龍馬の魅力がある所以(ゆえん)なのだろう。  

脱藩が悲劇の遠因に

 また、独立自尊と自由闊達(かったつ)さも龍馬の個性にふさわしい形容である。封建制度の只中(ただなか)に生まれながら、そこから自然に脱皮しようとするコスモポリタンぶりが平成の日本人に好かれる点なのだろう。
 しかし、この龍馬でさえ、脱藩という“重大犯罪”のツケのために苦しんだ。
 「脱藩は藩主の命に背いて藩を捨てることを意味していたから、謀反に近いのである」という井上氏の指摘は、身命を賭(と)した脱藩という決断の行動こそ龍馬が最期に陥る死の悲劇をもたらす遠因だったことをさりげなく示唆している。(やまうち まさゆき)
                   ◇

【プロフィル】坂本龍馬
 さかもと・りょうま 天保6(1835)年、土佐藩郷士の家に生まれる。土佐勤王党に加わり、脱藩。江戸に出て勝海舟に入門、航海術を学び、神戸海軍操練所の開設を助ける。慶応元年、長崎に商社「亀山社中」(後の海援隊)を設立し、海運、貿易に従事。西郷隆盛、木戸孝允(たかよし)らを仲介して薩長連合を助け、大政奉還の実現に尽力する。幕政返上、議会開設など公議政体論に基づく国家構想「船中八策」を伝えたとされる。慶応3(1867)年、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された。享年33。






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