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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 久しぶりにまとめてみました。

北海道
咸臨丸で町おこしを 木古内サミットに全国200人

 【木古内】日本初の太平洋横断を成し遂げた幕末14 件の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」が渡島管内木古内町の沖合に座礁沈没して今年で140年になることを記念し、全国のゆかりの地から関係者を集めた初の「咸臨丸全国まちづくりサミット」が24日、同町中央公民館で開かれた。

 咸臨丸の建造国であるオランダ大使館からも含め約200人が参加した。

 討論会では国内各地の代表者ら13人がそれぞれの取り組みを報告した後、木古内町サラキ岬沖に沈んでいるとみられる船体について議論した。



新選組サミット:維新期の海戦に思いはせ 「震災復興の力に」 宮古で11月 /岩手
 新選組副長の土方歳三や日露戦争時の連合艦隊司令長官、東郷平八郎らが明日の日本を夢見て死闘を繰り広げた「宮古湾海戦」の舞台となった宮古市で11月、「第12回全国新選組サミット」が開かれる。新選組ゆかりの全国各地の同好会と宮古市の有志が東日本大震災復興の理想を掲げて開催するもので、海戦戦没者や震災犠牲者を洋上から弔う供養も予定されている。【鬼山親芳】

 宮古開催は昨年11月、京都であったサミットで、宮古の関係者が宮古湾海戦の話をしたのがきっかけで内定していた。3月11日の大震災でいったんは立ち消えになったが、京都の関係者から「祇園祭は1000年に1度とされる貞観地震(869年)のあった時代に京の都に流行した疫病の汚れを払う復興の祈りが始まりだった」として震災復興のためにも宮古開催を望む声が出され、決定した。

 宮古市では「宮古港海戦の会」(会長・沢田克司宮古観光協会長)が中心となってイベントを企画。初日の11月5日には宮古駅前広場で、鍬ケ崎小学校児童による大漁祝い唄で幕を開け、新選組隊士の装束をした一団が目抜き通りの末広町商店街をパレード。鍬ケ崎小や周辺では祇園囃子の演奏や土方歳三の末えいによるトークショーなどのほか、夜はホテルを会場に交流会を予定。鎮魂の洋上供養は最終日の6日に行われる。

 沢田会長は「142年前、土方歳三らが宮古の海を駆け抜けていった歴史に思いをはせ、震災復興の力になってくれればうれしい」と話す。問い合わせは同会(電話0193・62・3632)。

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 ◇宮古湾(港)海戦
 明治2(1869)年3月25日(新暦5月6日)、箱館に独自の政権を樹立した榎本武揚ら旧幕府軍の軍艦「回天」が宮古湾に停泊する新政府(官軍)の「甲鉄」ら艦船に急襲をかけた海戦。午前5時ごろから約30分間の白兵戦だったが、敗走した回天側に艦長の甲賀源吾ら17人、官軍側にも4人の計21人の死者が出た(「宮古・閉伊秘話」小島俊一著)。


茨城
東日本大震災 「志士の墓」修復 秋季大祭で記念碑 水戸・回天神社
 東日本大震災で被害を受けた水戸市指定史跡「水戸殉難志士の墓」など回天神社(同市松本町)境内の復旧事業が終了し、14日に開かれる秋季大祭では「東日本大震災復旧記念碑」が建立される。震災でほぼ全てが倒壊した幕末志士の墓は約7カ月ぶりに復旧、関係者は安堵の表情を見せた。(三保谷浩輝)

                   ◇

 同神社は、幕末の安政の大獄や桜田門外の変、天狗(てんぐ)党の変、戊辰戦争などで亡くなった水戸藩に関係する志士らの霊を慰めるために建てられた。境内には昭和8年建立の「忠魂塔」や天狗党の変などで命を落とした志士らの墓、天狗党最後の地・敦賀(福井県)で一行が監禁された鰊蔵(にしんぐら)を移築した回天館などがある。

 震災では、回天館は無事だったが、「忠魂塔」の笠石(かさいし)などが落下したほか、本殿を取り囲む玉垣が全壊。また、大正3年に建てられた「水戸殉難志士の墓」371基のうち4基を残して倒れ、破損した。

 同神社代表役員の滝田昌生さん(79)は「被災であっちも駄目、こっちも…と、無残な状況におののいた」と振り返る。だが、4月には復旧事業を立ち上げ、秋季大祭を目指して順次工事を始めた。中でも志士の墓は、墓石が割れ、修復困難な10基を造り直すなどして今月4日に完成。約7カ月ぶりに371基がそろった。

 墓石の完成で復旧作業は完了。秋季大祭では「惨禍を忘れず災害復旧記念の証とす」などと記した東日本大震災復旧記念碑を建立、除幕式が開かれる。碑は台座を含めて高さ約2メートル、幅約90センチ。題字は天狗党の一勢力に名を連ねた水戸藩士の遺族で、本紙「正論」メンバーの田久保忠衛・杏林大学名誉教授が書いた。

 滝田さんは「復旧できてホッとした。これで明治維新回天の業の礎となった先人の思いを継承し、日本の国をよくする足がかりにできる」と話している。



東京
【街角モノがたり】「江戸四宿」の面影残る板橋
 JR埼京線で池袋の次が板橋。駅近くから北に延びる旧中山道は近代的な商店街に変貌しているが、地名の起こりになった橋「板橋」や新選組・近藤勇の墓碑など、名所旧跡に事欠かない。

 板橋は品川(東海道)、千住(日光・奥州街道)、内藤新宿(甲州街道)と並ぶ「江戸四宿」の一つ。昔の旅人は徒歩だったが、現在は地下鉄の都営三田線が移動に便利だ。新板橋から志村坂上へ北上して地上に出ると、国指定史跡「志村一里塚」がある。江戸日本橋から3番目の一里塚で、今も当時と同じ場所に立っている。

 板橋本町まで戻り、縁切榎を目指して南へ。悪縁切りを祈願する樹木として、3代目の今も信仰を集める。絵馬には配偶者や兄弟姉妹、職場の同僚との縁切りを願う強い思いが込められ、その切実さに胸を突かれる。

 石神井川に架かる板橋は、古くは源頼朝が渡ったとも伝えられる。現在はコンクリート製だが、木目調の欄干と木々の緑が調和して落ち着いたたたずまいを見せる。桜の季節にはたくさんの人が訪れるという。

 旧道の適度な道幅は人に優しい。行き交う自転車や歩く人々には、どこかのんびりとしたムードが漂い、並走する中山道(国道17号)の騒がしさは、まるで別世界の出来事のよう。

 橋の南から区役所前付近までが、一番にぎやかな仲宿商店街。江戸時代にも宿場で一番栄えた場所だが、「今も昔と変わっていないんだよね」と喫茶店のママさんは笑って話してくれた。

 短い旅の最後、板橋駅前の「むすびのけやき」に良縁をお願いした。歩き疲れて偶然口にした菓子店「はちや」の蜜蜂焼は絶品。これもご縁だろうか。

 【メモ】いたばし観光センターには、初代の縁切榎が保管されている。悪縁を切りたい人は念には念を入れたい。


府中の大國魂神社で8日から奉祝行事 能や狂言、歌舞伎など披露
 建立から1900年を迎えた大國魂神社(東京都府中市宮町)で8日から3日間、奉祝行事として能、狂言、歌舞伎などさまざまな郷土芸能が披露される。

 8日は前橋市指定無形文化財の「総社神楽」、台東区指定無形文化財の小野雅楽会による雅楽、10日はあきる野市に伝わる農村芸能の秋川歌舞伎や能、狂言などが演じられる。

 このほか、今年は江戸末期の新選組局長、近藤勇が同神社で天然理心流宗家の襲名披露をしてから150年目にあたり、これを記念して9日午後0時半から、近藤の生家の子孫ら12人による天然理心流の奉納演武が披露される。

 同神社では室町時代や江戸時代などに奉納され、宝物殿に所蔵している刀、脇差などの刀剣17本を初めて一般公開している。公開は30日まで。


新潟
河井継之助の遺徳しのび144年祭 新潟・長岡市の栄凉寺
 戊辰戦争で新政府軍に徹底抗戦した長岡藩の家老、河井継之助(1827-1868)の没後144年祭の法要が9日、継之助の眠る新潟県長岡市東神田の栄(えい)凉(りょう)寺でしめやかに営まれ、市民ら約40人が継之助の遺徳をしのんだ。

 継之助は藩財政を再建、フランス式調練を取り入れるなど軍を近代化。武装中立を唱えるが、戊辰戦争では軍事総督となり、1度は奪われた長岡城の奪還に成功したものの、その際に左ひざを負傷。再び城を奪われ、落ちのびる途中、会津・塩沢村(現福島県只見町)で死去した。現在の暦で10月1日だった。

 法要は河井継之助記念館友の会主催で、長岡藩牧野家17代当主の牧野忠昌さんが祭文を読みあげ、「不当なる要求を突きつけた新政府軍に敢然と戦いを挑んだ」と継之助をしのび、戦いの犠牲になった継之助や当時の長岡の人たちの冥福を祈った。

 河井家8代当主で、継之助のひ孫にあたる河井弘安さん(49)も東京都内から駆けつけて墓前に手を合わせ、「144年たち、今も皆さまから慕われていることはありがたい。本人も長岡のために尽くして良かったと思っているのではないか」と話していた。


京都
新選組:局長、近藤勇直筆の掛け軸 京都市内で発見
 幕末の京都で活躍した新選組局長、近藤勇(1834~68)直筆の掛け軸が京都市内で見つかったことが分かった。「英雄」をテーマにした自作の漢詩で、近藤が活動資金調達のために豪商などから金を借りる際にお礼として書いたものと見られる。近藤直筆の掛け軸は数点しか見つかっておらず、近藤の人間像を知るうえで貴重な発見という。

 掛け軸は縦196センチ、横63センチ(書は縦136センチ、横60センチ)。同市内の美術店が08年に大阪府内で入手して所蔵していたものを今月、広島県尾道市の医師が購入した。幕末を中心とした歴史博物館「霊山(りょうぜん)歴史館」(京都市東山区)に持ち込まれ、木村幸比古・学芸課長(幕末史)が筆跡や落款(らっかん)などから真筆と判定した。

 書の詳しい内容は未解明だが、「英雄」に対する心情を披露し、最後に「剣客士 近藤書」と書かれている。

 木村課長によると、近藤らが関東から入洛(にゅうらく)した文久3(1863)年ごろに書かれた掛け軸(東京国立博物館所蔵)と形式などが似ており、同時期の書と見られる。同年、近藤らは武功を評価されて「新選組」の名を与えられ、倒幕運動の過激派志士の取り締まりに当たった。大阪や京都の豪商らから強引に金を借り、こうした書を残すことがあったという。

 木村課長は「漢学者の頼山陽(らいさんよう)の書を好み、まねをしていた近藤の筆跡に間違いない。憧れの武士となって意気揚々としていた当時の近藤の様子が伝わってくる」と話している。【花澤茂人】


広島
幕末「神機隊」の歩み紹介
 江戸時代末期の倒幕運動に加わった、東広島市の「神機隊」関連資料の展示会「東広島の明治維新」が27日、同市西条町御薗宇のフジグラン東広島2階の市民ギャラリーで始まった。10月2日まで。無料。

 神機隊は幕末に志和町で結成され、農家の若者たち約1200人が入隊した。規律案や入隊希望者の推薦状などの資料に加え、主催する東広島郷土史研究会の会員が作った地図や年表を含む計54点を展示。時代の激動が庶民にも浸透していたことがうかがえる。

 午前10時~午後6時(最終日は午後5時まで)。

【写真説明】神機隊に関する資料に見入る来場者


高知
龍馬ふるさと博:JR高知駅前の新パビリオン好評 「龍馬伝・幕末志士社中」 /四国
◇ブーム逃さんぜよ
 ◇来場者数15万人へ、土佐の魅力アピール
 昨年放送されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」の反響で、空前の“龍馬ブーム”となった高知県。今年3月からは新観光イベント「志国高知 龍馬ふるさと博」が始まった。7月に高知市のJR高知駅前にオープンした新パビリオン「龍馬伝・幕末志士社中」は、今月17日で来場者が5万人に達し、好評を得ている。また、ご当地アイドル「土佐おもてなし勤王党」が結成されるなど、龍馬ブームの流れを止めてなるものかと、今年も県は観光事業に力を入れている。【倉沢仁志】

 年間来場者数15万人を目指す新パビリオンには「龍馬伝」の撮影で使用された生家セットが設置され、室内に水を引くなどして龍馬の生まれ育った家を忠実に再現した造りになっている。この他、龍馬を演じた福山雅治さんら各俳優の着用した衣装なども展示されている。

 JR高知駅前にある特設ステージでは「土佐おもてなし勤王党」や「よさこいおもてなし隊」が定期的にミュージカルや踊りを披露し、観光客に高知の魅力をアピール。さらに土佐勤王党結成150周年を記念し、JR高知駅前に坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎の「3志士像」を期間限定で設置して盛り上げている。

 10月1、2両日には、高知の食を味わってもらう企画「土佐豊穣祭」として、県内の素材を使ったB級グルメの出店ブースが3志士像近くに並ぶ。


樋口真吉:新写真見つかる 戊辰戦争前?刀差し、立ち姿 /高知
 坂本龍馬と親交があった土佐藩下級役人の樋口真吉(1815~70年)の新しい写真が30日、見つかった。四万十市立郷土資料館が子孫から預かっていたものを徳島大学の渋谷雅之名誉教授(69)が確認した。【真明薫】

 新しく見つかった写真は立ち姿で、右手に乗馬用の鞭(むち)を持ち、長い刀を左に差している。ガラス板を使った縦10センチ横7・5センチの湿板写真。顔や刀の長さが酷似し、撮影した場所のじゅうたんの模様、足下の石畳などから慶応4(1868)年4月ごろに横浜市内で撮影されたものらしい。真吉が53歳ごろのもので、戊辰戦争に行く前に撮影したとみられる。

 真吉は土佐・中村(現四万十市)生まれで、剣豪としても知られ、幡多郡の志士らの代表的存在。龍馬を少年期から目にかけ、隠れ家の手配をしたり、脱藩した龍馬に大阪で会い1両を渡すなどしたとされる。


長崎
洋食屋事始 「自由亭」幕末のメニュー
「長崎で今日のクリーニング店を開業しています」。さらに「日本人として最初の西洋式洗濯屋」だったと続く。

 草野丈吉(1840~86)について、玄孫(やしゃご)の草野敏彦さん(77)(大阪)が述べている談話(「日本の『創造力』」第3巻所収)は意外だった。

 丈吉らの小伝を記した私家版の「暁霞生彩(ぎょうかせいさい)」(星丘重一氏・編)にあるらしい。

 幕末、長崎・出島のオランダ人にボーイとして雇われた丈吉が習い覚えた西洋式の洗濯のわざを生かし、文久3年(1863年)に外国船の乗組員を相手に洗濯業を始めたというのだ。

 「なかでも丈吉がもっとも影響を受けたのはデ・ウィットのところにいたころでしょう」

 大阪市史編纂(へんさん)所長の堀田暁生さん(65)は、月刊誌に長期連載した「大阪開化自由亭物語」をはじめ、大阪の近代史の一ページを彩った丈吉の研究を四半世紀重ねてきた人だ。

 挙げたのは当時のオランダ総領事の名である。17歳で出島出入りの日本人商人に奉公した丈吉は2人のオランダ人を経て、そのデ・ウィットに雇われた。

 「料理、客をもてなす態度も仕込まれたでしょうね」。丈吉は江戸へも随行したようだ。農家出身の若者には洗濯屋、そして、やがて洋食屋の草分けとして名を残すことにつながる濃密な西洋体験の連続だったろう。

     ◎ 

 デ・ウィットの帰国後、丈吉は伊良林(長崎市)の実家に戻り、所帯を持って洗濯屋に。ほどなくして西洋料理の専門店「良林亭」も開く。

 洋食屋の誕生には五代才助(友厚)のすすめがあったと伝えられる。五代は、長崎においてはグラバーらとも親交があった薩摩藩士。薩英戦争などあわただしい時代に、丈吉とのどんな出会いがあったのだろうか。

 ともあれ五代が所望し食べたとされる西洋料理は、鮮魚のフライ、冷肉薫製、精肉の焼き肉、生野菜などだったようだ。

 その伊良林を、敏彦さんも4年前歩いた。住宅の密集する坂道に「良林亭跡」の看板がある。〈六畳一間の部屋で、6人以上のお客様はお断りだった〉当時の様子も記されている。

 良林亭はまもなく場所を移し、「自遊亭」「自由亭」と改称。長崎奉行らも訪れたそうだ。

 丈吉は慶応4年(68年)、土佐の後藤象二郎の求めで大阪へ向かい、山内容堂公にもかわいがられたという。そのころ、大阪に設けられた外国人止宿所の司長を任される。外国官権判事で、大阪にいた五代の依頼だったとみられている。

 西洋料理とクリーニング技術の習得が「ホテル経営につながった」。敏彦さんの談話(前掲書)に添えられた指摘はよくうなずけた。

     ◎ 

 明治10年(77年)には神戸で、明治天皇に自由亭の西洋料理が献じられた。その献立を載せた新聞記事が「自由亭物語」に登場する。〈ロブスタサラド(海老 花玉子 チシャ)〉、〈ゲンパイ(鴨 山鴨 鰻 鶉 豚 牛)〉などである。

 翌11年、丈吉は再び長崎市で自由亭を開く。店は諏訪神社前。12年には、長崎を訪れた前米大統領、グラント将軍も自由亭の料理を食したという。

 「伊太利国皇族接待日誌」というメニューのコピーを、「現代の名工」のシェフ坂本洋司さん(64)(長崎市)がみせてくれた。これも同じ年、自由亭の調理だそうだ。

 〈フライコローツキ〉はコロッケ、〈マカラニチイス〉がマカロニグラタンなど、現代につながる料理名がおもしろい。

 「丈吉はトップクラスの料理人」と坂本さんは絶賛する。堀田さんによれば、英国の外交官アーネスト・サトウ編集の旅行案内にも、大阪・中之島の自由亭ホテルの食事、サービスは優秀と紹介されているそうだ。

 長崎市歴史民俗資料館長の永松実さん(60)も丈吉にひかれる一人だ。「食を通じて著名な人たちとこれほどのつながりをもった丈吉は、もっと知られていい人物ですよ」

 一昨年12月から昨年2月にかけて資料館で、「西洋料理店の魁 草野丈吉展」を開いた。オランダの船で丈吉が訪れたとされる北海道・函館にも立ってみた。丈吉の物語をまとめたい思いが強くなったという。

 元高校教師の敏彦さんには、生い立ちを描いた著書「くるみの木」がある。そこでも、祖母が丈吉の孫で、一方の祖父は学者であったという系譜を大切にみつめている。後継ぎのなかった草野家の姓は父親が継いだ。だが、丈吉の味が子孫につながることはなかった。

 開化を彩ったホテル

 幕末の文久3年といえば、丈吉が長崎に洋食屋を開いた年だが、そのころ、開港地の横浜にレストランやバーのあるホテルが建てられた、と「日本のホテル小史」(村岡實・著)にある。

 東京では、築地ホテルが慶応3年(1867年)に起工、完成は翌年8月だった。暖炉やベランダなども備えられていたそうだ。それからまもなく、大阪にも「外国人止宿所」が設けられた。長崎の人・丈吉は、その外国人向けホテルの司長、〈ジェネラル・マネージャー〉(前掲書)となる。

 「大阪の歴史71」(大阪市史料調査会発行)所収の堀田さんの論考は、明治2年(69年)の英字新聞の広告から止宿所が当初から「自由亭ホテル」と名乗っていたと指摘している。その後、自由亭は西洋料理を調理できる場として名声を得ながら、5店舗に拡大。大阪・中之島にも14年、自由亭ホテルが開業した。

 19年、丈吉が急病で亡くなった後、長女の錦(きん)が後を継ぎ、28年に大阪ホテル東店、29年に同西店を開業させたが、錦を支えた星丘安信の没後、32年に売却。草野家と西洋料理とのかかわりも途絶えてしまう。

 「ホテル小史」に戻ると、明治3、4年に、長崎では4軒のホテルが相次いで開業し、好評だったと記されている。どのホテルにもボウリングやビリヤードといったレジャー施設がすでに整えられていたというのが興味深い。

 「150年前の料理」再現

 グラバー邸の一室に料理の模型がずらりと並んでいる。「150年前の西洋料理」と題し、坂本さんら料理人たちが当時の正月料理をこしらえ、模型にして残したものだ。2003年のこと。自由亭の献立記録などを参考にしたという。

 その後も時折、幕末・明治の西洋料理を再現する機会がある。「これは3年ほど前」と坂本さんが差し出した写真には、おいしそうな料理が盛られていた。一つずつ、「現代の名工」に解説してもらった。

 手前はロストルヒス。タイの塩焼きだ。前列を左へ、まずケレーフトソップ。伊勢エビを二つに割ってタマネギやパン粉などを詰め、ボートル(バター)で揚げ、ブイヨンを入れた白ブドウ酒で煮る。次のブラートルボックは野牛の股(もも)丸焼きで味つけは塩、コショウ、酢。左端のブラートルエンゲホーゲルは鴨(かも)肉の丸焼き。

 奥の列には、ホウレンソウとゆで卵のスペナーンや、シカ肉を焼くハルトベーストなど。豪華そうだが、坂本さんによれば「オランダの素朴な料理」という。

(2011年9月27日 読売新聞)

エンターテインメント
ちば賞大賞の新鋭・桐村海丸の新連載は新撰組の草創期
 本日10月6日に発売されたモーニング45号(講談社)にて、「しおかぜ」で第59回ちばてつや賞一般部門大賞を受賞した桐村海丸の短期集中連載「とんがらし」がスタートした。

「とんがらし」は新撰組22 件隊士の若き日々を描く物語。第1話では沖田総司と原田左之助の出会いが描かれた。

このほか今号では、うえやまとち「クッキングパパ」の江戸時代編「遠山のくっ金さん」を収録。巻頭カラーでは、同心1ヶ月分の給料で作れる、江戸時代のご馳走を再現したグルメ企画が行われている。


江口洋介 : 映画「るろうに剣心」で斉藤一を演じる 香川照之と吉川晃司も出演決定
 俳優の佐藤健さん主演で実写映画化される「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-」(大友啓史監督)の追加キャストが4日、発表され、俳優の江口洋介さんが旧幕府軍・新撰組三番隊組長の斉藤一を演じることが明らかになった。また、歌手で俳優の吉川晃司さんが浮浪(はぐれ)人斬り・鵜堂刃衛役、俳優の香川照之さんが悪の親玉・武田観柳役で出演することも発表された。江口さんは、作品について「今まで経験したことのない大友監督の撮影方法に新たな可能性を感じ、僕自身どう仕上がるのかが、今から楽しみでいます。きっと今までにないエンターテインメントをご披露できるのではないかと思いますので、ご期待ください」とコメントを寄せている。

 「るろうに剣心」は、94~99年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載され、コミックスは全28巻で累計5000万部以上を発行した大ヒットマンガ。幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた緋村剣心(ひむら・けんしん)が、明治維新後「不殺(ころさず)」を誓った流浪人(るろうに)として、さまざまな人たちとの出会いや、宿敵との戦いをへて、新たな時代の生き方を模索していくという物語で、映画では主人公の剣心を佐藤さん、ヒロイン・神谷薫を女優の武井咲さん、剣心を慕う美人女医の高荷恵を女優の蒼井優さんが演じる。大河ドラマ「龍馬伝」を手がけ、4月に20年間在籍したNHKを退局した大友監督がメガホンを取る。

 江口さんが演じる斉藤一は、新撰組を経て、明治維新後は明治政府の警官となり、密偵として暗躍する……という原作でも人気のキャラクター。江口さんは、作品の舞台について「明治になり国から魂である刀を奪われた。そんな人間たちが明治という時代をどう生き抜いていくのかが、この作品には詰まっている」と話し、「『るろうに剣心』を通して日本人が生きてきたルーツみたいなものを少しでもスクリーンの中から感じとってもらえればと思う」と作品への思いを語っている。

 また、吉川さんは、鵜堂刃衛について「敵味方の分別を忘れただひたすらに切りまくるは、己にふさわしい死に場所を得るためか。そのまとう寂しさに“ゾクッ”とさせられながら演じられる幸せ。奇々怪々です!」とコメント。「龍馬伝」から引き続き大友監督作品に出演する香川さんは「監督からは『新しい悪、ただの悪ではないもの』を目指すと言われて、役作りと同時に、いろいろな小道具だったり、メークだったり、髪の毛だったり、衣装だったり、外見の造作には非常にこだわっています。観柳は自由勝手に生きた人なので、僕も作品の中で自由に振る舞えればいいなと思っています」と意気込みを話している。

 製作はワーナー・ブラザース映画で、12年夏に公開予定。(毎日新聞デジタル)


実写版るろ剣に吉川晃司、江口洋介、香川照之が剣心のライバル役で登場!
 単行本全28巻の累計発行部数が5000万部を超える剣客漫画を実写映画化した『るろうに剣心』に、吉川晃司、江口洋介、香川照之が出演することがわかった。
本作の物語は、明治維新のために伝説の人斬りとして生きてきた剣心が、維新以後、殺さずの誓いをたて、町から町へ流浪の旅をしているというところから始まる。吉川、江口、香川は、緋村剣心(佐藤健)の前に立ちはだかる最強のライバルたちを演じる。
吉川晃司は、ただただ人を殺すことを楽しみ、己の欲望を満たすために金で人斬りを請け負っていた浮浪人斬りの鵜堂刃衛を演じる。吉川は「敵・味方の分別を忘れ、ただひたすらに斬りまくるは、己に相応しい死に場所を得るためか。そのまとう寂しさに、ゾクッとさせられながら演じられる幸せ。奇々怪々です!」と出演の喜びを語った。ただの殺人鬼ではなく、独自の殺しの美学を持つなど、剣心とは対照的な最凶キャラクターを演じる吉川のその圧倒的な存在感に今から期待が寄せられる。
維新時代に新政府の人斬りである剣心と対峙する旧幕府軍・新撰組三番隊組長・斎藤一を演じるのは江口洋介。維新後は明治政府の警察官となるが、剣心たちとは決して相容れない孤高のダークヒーローを熱演する。「江戸時代の頃、侍は刀を魂と信じて生きていた。それが明治になり、国から魂である刀を奪われた。そんな人間たちが明治という時代をどう生き抜いていくのかが、この作品には詰まっている。『るろうに剣心』を通して日本人が生きてきたルーツみたいなものを少しでもスクリーンの中から感じとってもらえれば」と本作の魅力を語る。初参加となる大友組については、「今まで経験したことのない大友監督の撮影方法に新たな可能性を感じ、僕自身、どう仕上がるのかが今から楽しみ。きっと今までにないエンターテインメントをご披露できるのではないか」と話しており、どのような化学反応を起こすかにも注目だ。
香川照之が演じるのは、高荷恵(蒼井優)を手下として利用し、薫(武井咲)が師範代を務める神谷道場を乗っ取ろうとし、さらに新政府に代わって自分の帝国を築こうとする悪の親玉・武田観柳だ。蒼井同様、大河ドラマ「龍馬伝」から引き続いて大友組に参加が決まった香川は、「監督からは『新しい悪、ただの悪ではないもの』を目指すと言われ、役作りと同時に、色々な小道具やメイク、髪の毛や衣裳など、外見の造作には非常にこだわっています。観柳は自由勝手に生きた人なので、僕も作品の中で自由に振る舞えれば良いなと思う」とコメントを寄せた。原作の持つ冷徹で不気味なキャラクターをどう演じるのか、香川版観柳への期待が高まると共に、観柳邸でのガトリングガンを使用したアクションシーンが実写でどう表現されているかも大きなポイントになるだろう。【Movie Walker】

 江口洋介が斉藤一……どんな感じだろう。問題は……蒼志様だな。

ブックレビュー
『新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか』大野敏明著
 新選組ブームだそうだ。新選組をテーマにした映画やテレビドラマ、あるいは小説は、数多く作られてきたが、著者は、それらの多くは歪められ、史実とは異なっているという。例えば池田屋事件は警察行動であったとする。「局中法度書」は本当にあったのか。松原忠司の死の真相は。分裂してからも行動をともにした高台寺党など。

 さらには土方歳三戦死後の新選組局長が、明治になってから切腹した話、十番組長の原田左之助が満州に行き、馬賊になったという説、沖田総司の姉が中国の大連で亡くなっていたことなど、テレビドラマからでは分からない新選組の物語が、あくまで史実にこだわってふんだんにつづられる。(じっぴコンパクト新書・800円)


6代目の描く山田方谷、前横浜税関総務部長が小説を出版/神奈川
 徳川幕府の政治指南役として15代将軍・慶喜や筆頭老中・板倉勝静(かつきよ)を支えた改革派の学者・山田方谷(ほうこく)(1805~1877)の生涯を通じて、幕末の政権交代のドラマをつづった「小説 山田方谷の夢」(明徳出版社、2415円)が出版された。

 作者は方谷の6代目にあたる野島透・財務省関東財務局総務部長(50)。執筆は前任の横浜税関総務部長(2009年7月~11年7月)の時代で「開港の地である横浜で生麦事件など歴史の現場に接し、先祖を振り返る気持ちが高まったことが理由」という。

 方谷は備中松山藩(現岡山県高梁(たかはし)市一帯)の藩主・勝静の下、財務大臣役を担って破綻状態にあった藩財政を立て直した。信頼を失った旧藩札の一斉焼却処分と新藩札の発行、鉄をはじめとした特産品の育成、農民の現金収入につながる河川改修など大規模公共事業の実施―といった七大政策は、財政再建のお手本として語り継がれている。

 藩政改革の功を評価され、勝静とともに幕政に携わった。大政奉還の案文も手掛けたという。方谷と新選組2 件のつながりなど、多彩な人間模様を交え先祖の功績をまとめた野島氏は「難局に立ち向かう幕末の人々の姿は、震災復興に臨む私たちに勇気を与えてくれる」と話している。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(132)東大教授・山内昌之 近藤勇

■甲州人と甲陽鎮撫隊

 甲州(甲斐)はいまの山梨県である。その政治風土は独特な気風をもっているようだ。

 そのせいか甲州は政党政治家でも、自民党幹事長を務めた故金丸信氏や、参院議員でありながら民主党幹事長に就任した輿石東氏など、野党との間にも太いパイプをもち、国会対策にも熟達する政党人を生んできた。

 ◆国会対策に熟達の政党人

 輿石氏の人脈の広さも相当のものらしい。小沢一郎氏との深い関係がある一方、前原誠司氏との仲も悪くないようだ。それでいて、小沢氏の党員資格停止処分の見直しに慎重であり、旧社会党や日教組の出身らしく「機関決定」を尊重する衆議一決のルールにも忠実である。政治家を外貌や印象だけで判断してはならない。存外に輿石氏は“懐が深い”のかもしれない。

 もちろん甲州が格別に閉鎖的であるとか、甲州人が排他的というわけではない。しかし、同じ内陸国でも「近江」(近い海)という琵琶湖をもつ江州(滋賀県)とも違う山がちの地として、武田信玄が隣国の塩攻めで苦しんだ過去もある。鮑(あわび)の煮貝(にがい)などの保存加工された海産物に蛋白(たんぱく)質を頼る、海のない国ぶりが人びとに忍耐を教え、戦国時代に「甲軍」と畏怖された精強さや粘り強さを甲州人に与えたのかもしれない。

 江戸時代でも、将軍綱吉から松平姓を賜った柳沢吉保(よしやす)の時代を例外として、甲州は天領か将軍一門の知行地であった。甲州人の耐久力を支えてきた要因として、武田信玄や徳川家康や将軍家に直轄統治されたというプライドの高さも無視できない。

 ◆歴史へのこだわりを察知

 実際に幕末の慶応4(1868)年3月、鳥羽伏見で敗れて江戸に戻った近藤勇ら新選組が甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と名を改め甲州を目指したとき、いまや若年寄格となった近藤は大久保大和、土方歳三(ひじかた・としぞう)は内藤隼人と改名した。これは、甲州人の歴史へのこだわりを察知し、武田家や甲州に縁のある大久保や内藤の姓をあえて称したためだという。

 面白いのは新政府軍のほうも同様だったことだ。東山道先鋒(とうさんどうせんぽう)総督府参謀だった土佐藩の乾(いぬい)退助は、信玄の宿老だった板垣信方(のぶかた)の死から320年にあたるため、甲斐源氏の流れを汲む板垣氏の苗裔(びょうえい)という家伝を示して板垣退助と姓を改めたのだ。この策で板垣は甲州人の支持を得て、勝沼の戦いで大久保大和こと近藤勇の甲陽鎮撫隊を撃破したという説もあるほどだ。

 近藤の甲陽鎮撫隊は、70人余の新選組に加え新規募集の浅草弾左衛門の配下約200名の陣容であったが、大砲2門と小銃500挺(ちょう)ではあまりにも火力に乏しく、軍資金5千両も武州三多摩の近藤や土方の故郷などで豪遊を繰り返すうちに乏しくなった。なにしろ若年寄や寄合になったというのだから、故郷に錦を飾りながら道々で歓待を受けたのも無理はない。

 そのうちに、空城だった甲府城の接収が板垣退助らの東山道軍に先んじられたのだからたまらない。いまの甲州市(旧勝沼町)で野戦に打って出たが、甲陽鎮撫隊の戦意は乏しく、兵器も優勢な新政府軍に撃破され1日たらずで壊滅してしまった。甲陽鎮撫隊は国境の上野原まで退却後、めいめいばらばらに江戸まで潰走する始末であった。

 近藤は甲州での敗戦後、京都以来の同志、永倉新八や原田左之助らと訣別(けつべつ)し、旧幕府歩兵らを率いて下総国流山に屯集(とんしゅう)した。だが香川敬三率いる新政府軍に包囲され、やがて出頭、板橋宿まで連行された。そこで正体が見破られ、捕縛後に斬首されたことはよく知られている。しかし近藤にとって、甲州での勝ち戦さが成らなかったにせよ、人生の最期を故郷で晴れがましく送れたのは幸いであった。

 ◆粘りと忍耐で果たせるか

 輿石氏も参院から党幹事長になるのは、政党人としてこれ以上に名誉なことはない。その重責を甲州人らしい粘りと忍耐力で果たせるのか、甲陽鎮撫隊と若年寄格で舞い上がった近藤のように肝心の修羅場で力を発揮できないのか。野田政権の肝を握る輿石氏の力量が試される日々が続く。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】近藤勇

 こんどう・いさみ 天保5(1834)年、武蔵国(東京都)多摩に生まれる。天然理心流の剣術を学び、文久3(1863)年、幕府の浪士隊に加わって京都に行き、新選組を結成。隊内の粛清を経て局長となり、反幕派を取り締まる。慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いののち江戸に退き、甲府へ進軍するが敗北。同年、捕らえられて斬首された。

 「近藤は大久保大和、土方歳三(ひじかた・としぞう)は内藤隼人と改名した。これは、甲州人の歴史へのこだわりを察知し、武田家や甲州に縁のある大久保や内藤の姓をあえて称したためだという」……なるほど。
 「東山道先鋒(とうさんどうせんぽう)総督府参謀だった土佐藩の乾(いぬい)退助は、信玄の宿老だった板垣信方(のぶかた)の死から320年にあたるため、甲斐源氏の流れを汲む板垣氏の苗裔(びょうえい)という家伝を示して板垣退助と姓を改めたのだ。この策で板垣は甲州人の支持を得て、勝沼の戦いで大久保大和こと近藤勇の甲陽鎮撫隊を撃破したという説もあるほどだ」……こっちは知ってましたが。
 「 近藤は甲州での敗戦後、京都以来の同志、永倉新八や原田左之助らと訣別(けつべつ)し、旧幕府歩兵らを率いて下総国流山に屯集(とんしゅう)した。だが香川敬三率いる新政府軍に包囲され、やがて出頭、板橋宿まで連行された。そこで正体が見破られ、捕縛後に斬首されたことはよく知られている。しかし近藤にとって、甲州での勝ち戦さが成らなかったにせよ、人生の最期を故郷で晴れがましく送れたのは幸いであった」……山内先生、近藤勇に暖かい視点でありがとうございます。









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