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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 近頃は5時過ぎるとあっという間に暗くなりますね。「秋の陽はつるべ落とし」とはよく言ったものです。

茨城
藤田東湖:真筆、福島の旅館で発見 忠君愛国の漢詩揮毫--茨城大に寄贈 /茨城
◇自らの生き方重ね合わせ?
 幕末の代表的な水戸学者、藤田東湖(1806~1855)の直筆の書が福島県いわき市の老舗温泉旅館で見つかった。尊皇攘夷(じょうい)を唱える幕末藩士の理論的支柱になった東湖の「正気歌」の基となる漢詩を揮毫(きごう)したもので、真筆と鑑定した専門家は「貴重な史料だ」としている。【八田浩輔、写真も】
 書は縦195センチ、横142センチで保存状態は良好。いわき市の湯本温泉にある旅館「大滝館」で保管されていた。東湖が滞在した礼に贈られたと伝えられているという。廃業にあたり、経営者の親族で茨城大人文学部長の佐々木寛司教授を通じて茨城大に寄贈された。東湖に関する著書もある常磐大の鈴木暎一教授(日本近世史)が16日夜に鑑定し、筆跡や筆の勢い、落款(らっかん)などから真筆と確認した。
 東湖は9代水戸藩主・徳川斉昭の腹心として藩政改革を推進した。忠君愛国の道義的精神を書いた長編の漢詩「正気歌」は、斉昭の江戸召還を機に幽閉された際に書かれたとされ、尊皇攘夷を唱える幕末藩士たちを感化した。鈴木教授によると、「正気歌」は中国・南宋の軍人、文天祥(ぶんてんしょう)の同名の漢詩に韻を合わせて作られたもので、見つかった書は文天祥の詩が書かれていた。
 鈴木教授は「きちんとまじめに書かれている印象だ。文天祥と同様に幽閉の身となり、自らの生き方を重ね合わせて書かれたものではないか」と推測。「東湖の書自体は珍しくないが、文天祥の『正気歌』を揮毫したものは初めて見た」と話す。
 茨城大は補修したうえで、一般公開を検討している。


栃木
「富岳」115年ぶり“里帰り”
「富岳」115年ぶり“里帰り”
 幕末から明治時代を生きた足利の文人画家、田崎草雲(1815~98年)の代表作「富岳」が115年ぶりに“里帰り”した。足利市の草雲美術館で開催中の没後110年記念の特別展「草雲の画業」で展示されている。「富岳」が足利市で展示されるのは初めて。
 草雲は谷文晁の門人として画法を学び、明治23年には帝室技芸員を拝命するなど当時のわが国を代表する画家。「富岳」は明治26年に米国シカゴで開かれた世界大博覧会に出品するため、内務省(当時)の依頼を受けて足利市にある草雲のアトリエ「白石山房」で制作した。
 「富岳」は同博覧会で名誉大勝牌を受賞。以後、足利の地を離れ、現在も東京国立博物館が所蔵している。米国から戻る途中に汚損して墨が流れ、稜線(りょうせん)は不明瞭(めいりょう)となり、赤カビと思われる線が無数に出ているが、その大胆な構図から高い評価は変わっていない。
 今回の特別展では、「富岳」とほぼ同じ構図で描かれた草雲美術館所蔵の「冨嶽図」(県指定文化財)が並べて展示され、同美術館の大沢伸啓館長は「草雲が描いた2つの富士山の絵をこの機会にぜひ堪能してほしい」と話している。
 特別展は前期として11月9日まで「富岳」をはじめ山水画を中心に展示し、11月15日から12月23日までの後期は人物、花鳥図などを展示する予定。同美術館は特別展にあわせて図録「草雲の画業」(A判52ページ)を発行し、500円で販売している。


和歌山
川合小梅展:日記の原本や肖像画など展示 和歌山城天守閣で始まる /和歌山
 幕末から明治にかけ、約70年間の日常生活を克明につづった川合小梅(1804~89)を紹介する「川合小梅展」(小梅日記を楽しむ会主催)が17日、和歌山市の和歌山城天守閣で始まった=写真。11月16日まで。
 社会の動きや家族のこと、酒にまつわる失態などを記した日記の原本のほか、小野小町ら三十六歌仙を描いた絵馬、海南市出身の雑賀紀光氏が描いた小梅の肖像画などが展示されている。
 田辺市から来た女性(26)は「70年間の社会の変化が詳しく書かれた日記を読んでみたい。同じ女性として面白そう」と話していた。
 午前9時~午後5時。天守閣の入館料(大人350円、小中学生170円)が必要。【山下貴史】



広島
坂本竜馬展が開幕 福山・鞆
 幕末に福山市沖で発生した船舶事故をテーマにした特別展「坂本竜馬といろは丸事件」が17日、同市鞆町の市鞆の浦歴史民俗資料館で始まった。11月24日まで。
 いろは丸事件は1867年4月23日、坂本竜馬率いる海援隊の船が紀州藩の船と衝突し、沈没した。竜馬らは鞆町で談判交渉した。
 「竜馬と遺愛の品」「竜馬と海援隊」など6つのテーマで43件の資料を並べ、足跡を紹介する。徳島大薬学部の創始者長井長義が、同年に長崎で書いた日記は、事件概要を伝聞で詳細に記す。いろは丸と推定される沈没船にあった革靴や金具も並べた。


香川
茶室:「新日暮亭」、63年ぶり一般公開--25日から栗林公園 /香川
 国の特別名勝「栗林公園」(高松市栗林町1)にある300年以上前に作られた茶室「新日暮亭(ひぐらしてい)」が、25日から63年ぶりに一般公開される。畳の交換や周りのマツの剪定(せんてい)など、お披露目に向けた準備が急ピッチで進行中。県観光振興課は「園内の新名所として観光客を呼ぶ起爆剤に」と期待している。
 新日暮亭は、かやぶき屋根で、素朴なたたずまいをした茶室。床面積約21平方メートルの屋内は、土間付きの茶室と、茶の準備をする「水屋(みずや)」と呼ばれる部屋に分かれる。茶室の中に土間がある造りは全国的にも珍しいという。少し離れた所には、お茶の用意ができるまで客が待つ建物「待合(まちあい)」(同約4平方メートル)もある。
 元々は、高松藩の2代目藩主・松平〓常(よりつね)(1652~1704)の時代に園内に建てられた「考槃亭(こうはんてい)」という茶室だった。その後、考槃亭は園内の別の場所に移築され「日暮亭」と呼ばれるようになった。明治維新後は園外に払い下げられるなど紆余(うよ)曲折を経た後、1945年に園内に戻された。この時に水屋が増築された。またこの時、園内にはすでに「日暮亭」があったため、戻ってきた茶室の名は「新日暮亭」になったという。

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