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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 風邪気味らしく、微熱です。昨日早寝して12時間寝たら、だいぶ体力が戻ってきました。
 憲政記念館から特別展「激動の明治国家建設」の案内ハガキが来ました。面白そうなんですが、11月5日~27日と会期が短く、11月の週末は何かと予定が入っているため、見に行くのは難しそう……(涙)。

北海道
ムラの宝物に、浜厚真海岸やアイヌ民族博物館
 NPO法人北海道遺産協議会(辻井達一会長)は、ほっかいどうムラの宝さがしプロジェクトの第3次登録分を決定した。厚真町浜厚真海岸のサーフスポットのほか、白老町のアイヌ民族博物館などが登録された。
 北海道各地の宝物を掘り起こして発信し、活用することで地域やまちの魅力を創造することを目的としたプロジェクト。「ムラの宝物」「ムラの売りもの」「ムラのごはん」「ムラの宝物の発掘・活用の活動事例」の4種類がある。第3次登録は「ムラの宝物」など計26件。
 この中で、「ムラの宝物」に厚真町の「北海道ナンバーワンサーフスポット『浜厚真海岸(ビーチ)』」が自然ジャンルで登録され、「体験する」がキーワード。白老町からも3件。アイヌ民族博物館(文化)、アヨロ海岸(自然)、幕末の歴史を伝える史跡白老仙台藩元陣屋跡(歴史)。「ムラのごはん」で白老バーガー&ベーグルも登録された。
 協議会は「ムラの宝物」などを積極的に活用した観光振興を望む地域があれば、旅行代理店を含めた三者で商品化やPRなどを協議、展開していく。


函館夢弁当きょうから発売…開港150周年テーマに和洋2種類
 道南を中心とする地域の食材をふんだんに盛り込んだ「2009年函館夢弁当」が23日から、函館市内・近郊のハセガワストア全14店舗で販売される。地産地消を目的に2001年から始まったハセガワストア、函館短大付設調理師専門学校、FMいるかの共同企画で、今年は函館開港150周年をテーマに和風、洋風の2種類を用意した。
 メニューは和風がハセガワストアグループの製造会社「ハセガワデリカ」の三橋信雄社長、洋風は同校の吉田徹教頭が中心となって考案した。ペリー提督が函館の水産資源に関心を持ったという史実から、和風メニューはサバの南部揚げ、ホタテシューマイなど北海道近海の魚介類が中心。ご飯は道産ブランド米の新品種「ゆめぴりか」を使用し、キノコご飯やサンマの竜田揚げのせなど4種類が味わえる。
 洋食メニューは白花豆と豚の塩漬けを煮込んだボストンベークドビーンズなどの肉料理、小エビのカクテルソースなどの魚介料理を取り入れたオードブル。ペリー提督の故郷であるアメリカ・ロードアイランド州とその近郊の代表的な郷土料理を基に構成した。
 和風は780円、洋風は980円。企画・広報を担当するFMいるかの斉藤正樹さんは「地元食材をあらためて味わってもらいたい。150年前に思いをはせ、食べてもらえれば」とPRしている。
 販売期間は11月1日まで。和風は店頭販売で予約も可能。洋風は1日50食限定の予約販売で、26日まで注文を受け付ける(引き渡しは30日―11月1日)。


秋田
秋田藩へ援軍、戦死の佐賀藩士 武雄から慰霊祭に参列
 戊辰戦争(1868~69年)で、秋田藩の援軍として派兵され戦死した佐賀藩士54人を弔う慰霊祭が18日、慰霊碑のある秋田市新屋日吉町の「葉隠墓苑」であった。武雄市の武雄ロータリークラブ(中尾直弘会長)の会員24人を含む約100人が参列し、墓前で同藩士の冥福を祈った。
 戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会(大友康二会長)と、新屋葉隠会(渡邊克忠会長)の主催。佐賀からまとまった人数が参列したのは、ほぼ10年ぶり。慰霊祭では「慰霊のうた」の合唱に続き、読経が流れる中、一人一人が焼香し、手を合わせた。
 また、1988年の慰霊碑建立以来、碑を管理している地元の日の出町町内会(藤田徳司会長)に、中尾会長が感謝状を贈呈。中尾会長は「長年にわたる手厚いご供養に心から感謝したい。今回の訪問を機に、史実が風化することのないよう努めるとともに、皆さんとの縁を一層大切にしていきたい」と述べた。
 慰霊碑脇の墓前では、ロータリークラブの会員が武雄市から持参した水を手向け、県木であるクスノキの苗木を植樹した。
 大友会長は「当時の新屋村(現在の新屋地区)、秋田城下が戦火にまみれることなく終わったのが誰のおかげかは、歴史をひもとけば一目瞭然(りょうぜん)。感謝しなければならないのはわれわれのほうだ。地域住民だけでなく、県民全体で戦死した佐賀藩士への感謝の意を新たにしてほしい」と話した。
 戊辰戦争では、維新政府側についた秋田藩に、援軍として佐賀藩から約1700人が派兵された。当時の新屋村は藩士たちの宿泊、兵糧の調達、負傷者の手当て、戦死者の埋葬など、政府軍の前線基地としての役割を担った。秋田委員会は1986年に新屋日吉地区の区画整理事業で佐賀藩士の墓3基が見つかったのを機に、有志が結成した。



宮城
仙台真田氏の足跡を追う 蔵王・歴史パネル展
 真田幸村の血脈で、宮城県蔵王町に領地があった「仙台真田氏」の誕生と功績に迫る歴史パネル展(町教委主催)が23日、同町円田のございんホール展示室で始まった。11月23日まで。
 「智謀の一族 真田氏」「日本一の兵(つわもの) 真田幸村」「仙台真田氏の誕生」「幕末の名将 真田幸歓(ゆきしげ)」の4部構成で写真や解説文のパネル約30点を展示。
 戦死した幸村の次男を引き取った仙台藩が、虚偽の系図を用意して幕府の追及を逃れたエピソードにも触れた。幕末から明治維新にかけ仙台藩を支えた第9代当主幸歓の功績についても詳しく紹介している。
 町内や白石市に残る当主の墓碑など9カ所の案内パネル、仙台真田氏が同町矢附と曲竹の両地区を治めていたことを示す古文書3点も展示した。
 町教委は同ホールで11月7日午後1時半から、千葉県柏市の研究家小西幸雄氏の講演会「仙台真田氏の誕生」を開く。入場無料。申し込みは11月4日まで。連絡先は町教委0224(33)3008。

 白石に仙台真田氏の当主がいらっしゃるのですね。自分の祖母が白石出身なので、白石と真田氏の関係にも興味深いです。

展示:片倉家臣団の甲冑など--白石・来月8日まで /宮城
 白石市内の片倉家中家臣団に残る甲冑(かっちゅう)を中心に展示紹介した企画展「片倉家中の甲冑」が、同市益岡町の白石城歴史探訪ミュージアム2階展示室で開かれている。
 白石市教育委員会博物館建設準備室が主催。明治維新の戊辰戦争から約140年経過した今、市内の片倉家中に残る身近な文化財に理解を深めてもらおうと企画した。
 会場には片倉家中足軽以上の末裔(まつえい)に伝わる江戸・近世時代の「鉄黒漆塗五枚胴具足」などの甲冑5領を展示している。兜(かぶと)の前立てには、片倉家のトレードマーク、八日月に「愛宕山大権現守護所」が輝いており、在りし日の片倉武士の威風を今に伝えている。
 また、戦国ブームにあやかり、初代白石城主・片倉小十郎景綱の複製画像(原資料・仙台市博物館所有)と木像(同・石巻市広渕の耕徳寺所有)など関連資料も展示している。
 入場無料。11月8日まで。問い合わせは白石市歴史探訪ミュージアム(0224・24・3030)。【豊田英夫】

 これもまた片倉氏つながりの展示で興味深いです。



栃木
宇都宮・上野記念館 武将の書状、甲冑など展示 戦国への理解 “本物”で深めて
 伊達政宗や上杉謙信ら戦国武将ゆかりの品を集めた企画展「戦国武将列伝」が、宇都宮市昭和の上野記念館で開かれている。十二月十二日まで。
 武将が他国の領主や部下らにあてた直筆の書状のほか、水墨画や甲冑(かっちゅう)などを展示。地元にもスポットを当て、近世の宇都宮城主・蒲生秀行、幕末の宇都宮藩主・戸田氏らのコーナーもある。
 記念館の担当者は「一点ずつに付けた解説を併せて読めば、理解が深まると思う。これだけの資料を見られる機会は少ないので、ぜひ足を運んでほしい」と呼び掛けている。
 入場料は一般二百円、中高大学生百五十円。問い合わせは記念館=(電)028(625)5905=へ。 (上田千秋)


東京
産経大江戸ウオーク、旧藩邸・史跡など満喫
 東京の風情や歴史を楽しみながら歩く「産経大江戸ウオーク」(産経新聞社主催、メタボリックシンドローム撲滅委員会共催)が24日、開かれた。今回は「激動の幕末・史跡と旧藩邸を歩く」と題し、東京都中央区の浜離宮恩賜庭園をスタート・ゴールに芝公園や麻布などをめぐる約12キロ。約550人の参加者は、東京タワーを右手に眺めながら芝公園、三田、麻布をたどり、旧藩邸だったイタリア、オーストラリアなどの大使館、有栖川宮記念公園などを巡り、江戸の歴史と都心の深まりゆく秋を満喫していた。


<幕の内外>道化役 間の抜けた白塗り
 歌舞伎にも道化役が登場します。「助六」の朝顔仙平や「盛綱陣屋」の伊吹藤太などがその代表です。
 西洋のピエロ同様、白塗りの顔にコミカルなメーク、派手な衣装が特徴。白塗りは、基本的にイケメンなのが歌舞伎のお約束ですが、道化役は別物。
 藤太は、兄弟で敵味方に別れて戦っている佐々木家に、戦況報告のためやって来ます。ところが彼の報告は「戦で川のどじょうが驚いて、どうのこうの」という内容。使えない人材であるのは明らかです。
 敵役の道化もいます。「半道敵」といって、道化と敵役の要素が半々というもの。「忠臣蔵」の鷺坂伴内が代表的です。彼は塩冶(えんや)判官が斬(き)りつけた高師直(こうのもろのお)の家臣ですが、小心で臆病(おくびょう)、小ずるいくせに間が抜けている。
 伴内は塩冶の浪人・早野勘平の恋人・お軽に横恋慕しており、舞踊劇「落人」では、逃避行中の勘平とお軽の追っ手として登場。その格好は、朱と浅黄色の長襦袢(じゅばん)のような珍妙な姿で、勘平にあっさりやっつけられてしまう。
 江戸時代の作家・式亭三馬は「もし師直が死んでいたら、主君の敵を討たねばならないのは伴内のはず」と言ったとやら。しかし大星由良之助と違って、伴内にそんなことはとても無理でしょう。
 もっともこの舞踊劇は、忠臣蔵の初演からだいぶ後、幕末に書き加えられたもの。当時の好みを反映して、伴内の滑稽(こっけい)さも、かなりキテレツになっています。
 藤太同様、伴内も白塗りですが、白には清潔感や純粋さだけでなく、空虚さや愚かさというイメージもあることを、歌舞伎の道化役は教えてくれます。 (イラストレーター・辻和子)


世田谷に眠る松陰 維新祭 地元商店街 没後150年、あすから
 長州(山口県萩市)出身の幕末の思想家、吉田松陰(一八三○~五九年)を祭る東京都世田谷区の松陰神社と周辺で二十四、二十五の両日、「萩・世田谷 幕末維新祭り」が開かれる。松陰の没後百五十年の節目。主催の地元商店街は「松陰と世田谷のつながりをもっと知ってほしい」と多くの来場を呼び掛けている。
 松陰は、一八五九年に安政の大獄で処刑された後、小塚原(荒川区)に埋葬されたが、高杉晋作ら門下生が四年後、長州藩の所有地(世田谷区)に改葬した。そこに八二年に創建されたのが松陰神社だ。
 祭りは毎年、命日の十月二十七日に近い週末に開いている。
 松陰神社通り松栄会商店街振興組合の岡村忠義理事長(65)は「吉田松陰が、世田谷に眠っているということを知らない人も多い。幕末ファンの来訪も増えているが、さらに知ってほしい」と話す。
 松陰神社の斎藤憲輝宮司は「松陰先生は肖像画などから、年配のイメージを持たれがちだが、二十九歳の若さで亡くなった。自分のためではなく、人のため国のために尽くした姿勢が評価されている」と話す。
 祭りのメーン行事は「幕末の志士・奇兵隊パレード」。神社内にある松下村塾の再現建物の前で、幕末野外劇なども行う。開会式には萩市の野村興兒(こうじ)市長も出席する予定。長州藩の萩市と、会津藩の福島県会津若松市の観光物産展を開く。また、三十日には神社で女優浅野温子さんによる「語り舞台」公演もある。問い合わせは松陰神社通り商店街振興組合=電03(3487)1641=へ。 (増田恵美子)


幕末の志士・橋本左内を特集 小塚原刑場の実像明かす
 安政の大獄で刑死した幕末の志士、橋本左内(一八三四~一八五九年)と、左内の墓がある回向院(荒川区南千住)にあった小塚原の刑場を特集する企画展「橋本左内と小塚原の仕置場(しおきば)」が荒川ふるさと文化館(南千住六)で開かれている。 (中里宏)

 左内の墓を囲うように建てられていた套堂(さやどう)が今春、同館前に移設されており、企画展はこれを記念したもの。
 左内の史料とともに、小塚原の刑場と回向院が果たしていた機能を明らかにする。「誤ったイメージで語られることの多い仕置場の実際の姿を見てほしい」としている。
 左内は「福井藩にこの人あり」と言われ、緒方洪庵の適塾でも頭角を現した秀才。幕政改革運動で大老・井伊直弼に危険視され、将軍の跡継ぎ問題に介入したとして捕らわれ、死罪となった。
 戦前の修身の教科書には、西郷隆盛と親交を結ぶきっかけとなったエピソードが取り上げられ、広く知られていた。
 企画展では、「左内の立派な墓が建っている」とのうわさを聞きつけ、回向院の現地調査を行ったことを示す井伊家の文書や橋本左内の名が記された回向院の記録など、多くの史料が展示されている。
 仕置場については、品川・鈴ケ森刑場の死者が回向院まで運ばれて埋葬されたことを示す文書など、刑死者(無縁仏)の埋葬の場、杉田玄白ら蘭学者による解剖の場、刀の試し切りの場としての機能も紹介。大正時代になって史跡としての認識が広まり、特に昭和に入ってから幕末の志士の顕彰が盛んに行われ、志士の墓が多く建てられたことなど、時代による変遷も紹介している。十一月八日まで。
 同館は月曜休館。入館料は一般百円。


神奈川
幕末の和洋折衷型 「中村家住宅」寄贈 相模原市に
 国の登録有形文化財「中村家住宅」(相模原市磯部)が、所有者の中村秀子さん(95)から市に寄贈された。幕末期の和洋折衷住宅では現存する唯一のものとされ、市は防火施設を設置、来年四月から一般公開する。
 市文化財保護課によると、寄贈されたのは、敷地千八百六十九平方メートルと木造二階建ての主屋一棟、木造平屋の長屋門。主屋の一階は和風、二階正面の縦長のガラス窓と軒に塗られた曲線の白しっくいが西洋風となっている。二階外壁のなまこ壁も特徴という。
 中村家は幕末から明治期に生糸で財をなした商家で、邸内の稲荷(いなり)神社に一八六七(慶応三)年の棟札があることから、主屋などは当時の建築とされる。二〇〇六年三月に国有形文化財に登録された。 (松平徳裕)


岐阜
小泉元首相 恵那の言志祭に出席
 恵那市で開催中の「嚶鳴(おうめい)フォーラムin恵那」で24日、同市出身で幕末の儒学家、佐藤一斎をしのぶ言志祭が行われ、小泉元首相が出席した。
 小泉元首相は、一斎の随想録で、指導者のためのバイブルと呼ばれる「言志四録」の言葉を引用して総理就任演説を行った。
 一斎の銅像に献花後、小泉元首相は、「私が学んだ佐藤一斎先生の郷里を一度訪ねたい思っていた。私は毎朝、カレンダーに書かれた言志四録を読み、今は『老いて学べば則ち死して朽ちず』の精神を大切にしている。子供たちに一斎先生の言葉を教え、良い地域づくりに役立てて欲しい」と述べた。


富山
『自宅は旧村役場』あすまで一般公開 国文化財 小矢部の福島さん宅
1926年建築、移転し保存
 「近代化遺産全国一斉公開2009」に合わせ、小矢部市芹川、測量設計会社役員福島立将さん(49)が二十三日、自宅として使っている国登録有形文化財「旧宮島村役場」の公開を始めた。二十五日まで。(宮本隆康)

 旧宮島村役場は一九二六年建てられた和洋折衷の木造二階建て。老朽化でいったん取り壊しが決まったが、福島さんが保存のために買い取り、八六年に移築した。
 元の建材を一部補強や補修もして忠実に復元。九〇年には「とやま建築百選」に、二〇〇一年に国登録有形文化財に指定された。
 福島さんは「歴史遺産を大切に保存するだけでなく、現代の生活に再利用することがより良い在り方」と話す。
 公開は午前九時~午後五時。内部ほか、太陽光発電と風力発電による自家発電システムも公開する。
 近代化遺産は、幕末から第二次世界大戦期までに建設され、日本の近代化に貢献した産業・交通・土木の建造物。地方公共団体を中心につくる「全国近代化遺産活用連絡協議会」が、十月二十日を「近代化遺産の日」として、同一日~十一月三十日、近代化遺産を全国で公開している。 


三重
企画展:竹川竹斎生誕200年記念 幕末のチャレンジャーの生涯--松阪 /三重
◇松阪市歴史民俗資料館
 幕末から明治にかけ政治、経済、文化人として活躍した竹川竹斎(1809-82)の生涯を紹介する企画展「幕末のチャレンジャー竹川竹斎」が、松阪市殿町の同市歴史民俗資料館で開かれている。12月13日まで。生誕200年を記念する記念事業の一つで、展示品の図録(A4判、68ページ)も作られ、販売されている。
 竹斎は、幕府為替御用を務めた松阪市射和町の豪商・竹川家に生まれ、21歳で家督を継いだ。勝海舟など経世家や文化人と交流。開国と合わせ、海防の必要性を主張した。また、私財を投じて日本初の私設文庫「射和文庫」を創設したり、灌漑(かんがい)池の築造や射和万古の開窯など、地域産業の振興などに幅広く貢献した。
 会場では、1866(慶応2)年に横浜の英国公使・パークスのもとを訪れた際、フランス人のカメラマンが撮影した、帯刀姿の当時としては極めて珍しいカラー写真が目をひく。また、後に勝海舟の神戸海軍操練所開設や勘定奉行・小栗上野介の横須賀海軍造船所建設に大きな影響を与えたとされる1853(嘉永6)年の「護国論」が紹介されている。
 そのほか、反古帳(ほごちょう)から見つかった竹斎自画像、「駱駝(らくだ)図の瓦版」など竹川家所蔵品を主体にした125点(うち県指定有形文化財50点、松阪市指定有形文化財6点)が並ぶ。
 仲村隆彦館長は「日本の近代の幕開けに果敢に挑戦した竹斎の夢と心意気に接してもらえる企画」と称賛。生誕二百年記念実行委員会の下村登良男委員長は「初公開の珍しい資料が多い」と来場を呼びかけている。
 図録には、竹斎の紀行文「浮宝の日記」「清渚二見記行」の口語訳も掲載。300部を1部1000円で販売する。希望者は同資料館(電話0598・23・2381)へ。【橋本明】


滋賀
変革期の井伊直弼に焦点 彦根城博物館で30日から企画展
「変革期の政治家」としての大老・井伊直弼に着目し、直弼や同時代の政治で活躍した人物らを取り上げる特別企画展「政治の時代-井伊直弼と幕末の群像-」が30日から彦根城博物館で始まる。
 企画展は(1)藩主(2)将軍のそばに仕える溜詰(たまりづめ)大名(3)大老-の3つの立場で直弼がかかわった政治に光を当てる。
 展示作品は徳川家や幕末の志士らの絵、直弼が周囲と交わした書状、当時の時代を伝える道具など。会期中に一部を入れ替え、延べ146点になる。
 「孝明天皇勅諚(ちょくじょう)」は、幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したことに怒った孝明天皇が、直弼らの説得でわだかまりを氷解させたことをしたためたもので、原本が公開されるのは初めて。1835(天保6)年に日本で初めて作られ、旧佐賀藩が使っていた洋式砲「モルチール砲」(全長約60センチ、口径20センチ)は、対外的な緊張が高まった当時の雰囲気を伝える。
 11月29日までの会期中には記念シンポジウム(11月7日)や講演会(同14日)など4つの関連イベントが催される。観覧料は一般500円、小中学生250円。


京都
転落注意!居酒屋「池田屋」の大階段
 新選組が志士を襲撃した池田屋事件。舞台の宿はなくなったが、その名をつけた居酒屋が跡地のビルに開店した。
 大階段など事件にちなんだ内装が幕末史の一場面に客をいざなう。でも酔って修羅場になるのはご免。(京都市で=賀)


秋の都大路、優雅な歴史絵巻 京都で時代祭始まる
 京都三大祭りの一つ「時代祭」が22日、京都市内で行われ、平安時代から明治維新までの歴史上の人物にふんした全長約2キロ、約2千人の豪華な時代行列が、秋晴れの都大路を彩った。
 平安遷都1100年を記念して明治28年に始まり、今年で105回目。今年は、小野小町役の沓(くつ)など新調された。
 午前9時ごろ、桓武、孝明両天皇を祭った「鳳輦(ほうれん)」と呼ばれる2基の輿(こし)を中心とした神幸列が、平安神宮(左京区)から京都御所(上京区)へ向かった。正午には時代行列が京都御所の建礼門からスタートし、「維新勤王隊列」を先頭に、江戸、安土桃山、平安など時代をさかのぼる形で、平安神宮までの約5キロをゆっくりと練り歩いた。


「十七烈士招魂祭」勤王志士しのぶ 天王山中腹の墓前から会場変更
 幕末の勤王志士をしのぶ「天王山十七烈士招魂祭」が21日、京都府大山崎町大山崎の離宮八幡宮で営まれた。昨年まで天王山中腹にある志士たちの墓前で行ってきたが、主催する奉賛会の高齢化が進み、「山道を登るのが難しくなった」として今年から場所を変更した。
 1864年の禁門の変で、福岡県久留米市にある水天宮宮司だった真木和泉守ら17人は長州藩の別動隊として戦ったが武運つたなく敗れ、天王山で自決した。招魂祭は町民でつくる「天王山十七烈士奉賛会」が、水天宮内の真木神社で祭典がある命日(7月21日)から3カ月後に毎年、墓前で催してきた。
 しかし会員の高齢化で、長時間山道を歩いて祭壇や供物を運ぶ負担が大きくなった。このため奉賛会は、和泉守の子孫で毎年招魂祭に参列している真木大樹・水天宮宮司に、志士の駐屯地だった離宮八幡宮への会場変更を打診。「墓前で行うのが本来だがやむを得ない」と了承を得た。
 この日は離宮八幡宮の津田定明宮司が祝詞を上げ、奉賛会員や和泉守の子孫計約30人が次々と祭壇に玉ぐしをささげた。和泉守が自害する前に吟じた詩も披露され、参列者は自ら命を絶った志士の無念に思いをはせた。
 40年近く参列してきた奉賛会の村本茂子副会長(82)=同町円明寺=は「将来また墓前で開けるよう、若い会員の参加を促す方法を考えたい」と話した。


霊山歴史館:坂本龍馬の妻、ブロンズ座像 きょうから展示--東山区 /京都
 幕末維新の史料を展示する「霊山(りょうぜん)歴史館」(東山区)はこのほど、幕末の志士、坂本龍馬(1835~67)の妻「お龍(りょう)」のブロンズ座像を完成させた。来春のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映予定に合わせて制作したもので、同館で開催する秋の特別展「龍馬たちの挑戦」(21日~11月23日)で展示する。
 座像(高さ約50センチ)は、日展評議員などを務める彫刻家、江里敏明さん(62)に依頼した。お龍の晩年を撮影した史料写真を参考に、気丈さが伝わる凛(りん)とした姿をよみがえらせた。江里さんは「龍馬が愛した、優しくも芯(しん)のある京おんなをイメージした」と話している。
 同館は、05年のリニューアルオープンを機に、幕末の英傑のブロンズ像を制作。これまでに坂本龍馬▽土方歳三▽沖田総司▽勝海舟の4作品が完成している。秋の特別展では、龍馬像と一緒にお龍の座像を展示するという。【木下武、写真も】


奈良
神話テーマに明治・大正の絵画69点 奈良県立美術館
 平城遷都1300年を前に、神話をテーマとした近代の日本画、洋画を通じ日本人の心の原点に迫る特別展「神話~日本美術の想像力」(奈良県立美術館、産経新聞社主催)が24日、奈良市の同美術館で開幕した。日本武尊(やまとたけるのみこと)などの神話を描いた明治、大正時代の計69点を展示。入場者は想像力豊かな世界に見入っていた。
 明治時代、西洋文化が吸収される一方で古来の文化が見直され、古事記や日本書紀などの神話を表現する作品が生まれた。展示は各美術館などから名画を集め、美意識のルーツを探る。
 幕末~明治の浮世絵師、河鍋暁斎(きょうさい)の「天の岩戸 天宇受売命(あめのうずめのみこと)の踊り・手力男命岩戸開き」は国内初公開となる。イギリスの建築家、コンデルが所蔵した後は行方不明だったが、現在は研究者が所蔵。
 鈴木松年の「日本武尊・素戔嗚尊(すさのおのみこと)」は迫力ある構成の屏風(びょうぶ)絵、前田青邨の「大久米(おおくめの)命」は勇ましく舞う命の姿を臨場感豊かに描いている。安田靫彦や黒田清輝、青木繁らの作品も展示される。
 12月24日までで、前期(~11月23日)と後期(11月25日~)で一部展示替え。一般千円、大学・高校生700円、小・中学生400円。問い合わせは奈良県立美術館((電)0742・23・3968)。


香川
江戸の大名文化絢爛に/高松で井伊家の至宝展
 彦根井伊家に伝わる名品を紹介する「徳川四天王 井伊家の至宝展」(香川県立ミュージアムなど主催、四国新聞社など共催)が24日、香川県高松市玉藻町の県立ミュージアムで開幕した。四国で初公開となる国宝彦根屏風(びょうぶ)のほか、高松藩最後の藩主松平頼聡(よりとし)の正室として迎えられた幕末の大老直弼の次女弥千代ゆかりの婚礼道具など129件を紹介。江戸の大名文化を絢爛(けんらん)豪華に伝えている。
 井伊家は初代直政が関ケ原合戦で功績を挙げ、「徳川四天王」と称された武門の家柄。以降、譜代大名の筆頭として幕府を支えた。一方、高松松平家も江戸城で井伊家と同じ部屋で将軍家に仕えるなど、親しい間柄。それが縁で、1966年には高松と彦根が姉妹城縁組を結んでいる。
 特別展は県立ミュージアムとしてリニューアル後、初めての本格的な歴史展として企画。関ケ原から幕末までを、直政や直弼、弥千代らに焦点を当て、彦根城博物館所蔵の品々を中心に高松松平家歴史資料とともに紹介している。
 初日は開展式があり、真鍋知事が「武だけでなく、茶の湯や能など優れた大名文化を堪能してほしい」、来賓の獅山向洋彦根市長も「特別展を機に一層交流が深まれば」とあいさつ。その後、鑑賞会が開かれたほか、彦根城博物館長で井伊家18代当主井伊直岳さんの講演会があり、大勢の来場者でにぎわった。
 会期中、彦根城築城400年祭のイメージキャラクターひこにゃんと一緒に、お城について学ぶ子ども歴史教室などもある。
 11月23日まで(26日、11月9日、16日は休館)。一般1000円、65歳以上と高校生以下は無料。


高知
「龍馬伝」で盛り上がろう
 幕末の志士・坂本龍馬の愛好家らが交流を深める「第21回全国龍馬ファンの集い」が24日、南国市明見のホリデイ・イン高知で開かれた。北海道から鹿児島県まで全国から駆けつけた約400人が、来年放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の脚本家・福田靖さんによる記念講演や各地の団体の活動報告に聞き入った。
 集会は、龍馬ファンが各地でつくる「龍馬会」の上部団体「全国龍馬社中」などが中心となり、毎年全国で開かれている。福田さんは「〈龍馬伝〉~新たな龍馬像を創(つく)る」と題して講演。「普通の人間だった龍馬が、いかにして薩長同盟の裏書きまでする人物に成長したか、その謎を描きたい」と、かつてない龍馬像を描くことを強調し、「大ヒットドラマに」と意気込みを語った。
 会場では、来年1月16日から始まる「土佐・龍馬であい博」のPR大使に就任する歴史好きアイドル「歴ドル」の美甘子(みかこ)さん(25)=愛媛県今治市出身=の就任発表会も開催。尾崎知事から、PR大使の名刺を模したパネルを受け取った美甘子さんは「高知も龍馬も盛り上げていけるよう頑張りたい」と笑顔を見せた。
 25日は龍馬の生誕地や桂浜などを巡るツアーがあり、来年の集いは岩手県一関市で開かれる。


山口
幕末・維新…吉田松陰の思い次世代へ 没後150年、萩に宝物殿27日開館
 幕末の思想家・吉田松陰をまつる山口県萩市の松蔭神社に、松陰の遺品などを通じて業績をたどる宝物殿「至誠館」が完成した。松陰の命日に当たる今月27日に開館し、翌28日から一般公開される。(小林宏之)

 松陰や松下村塾に関する貴重な遺品、関連資料を多数所蔵する同神社が、これらの宝物を保管し、松陰の志を次代に引き継ごうと、松陰の没後150年の記念事業として至誠館を整備した。鉄筋平屋建て約500平方メートルで、総工費は約3億5千万円。
 館内は、松陰の生涯を7つの時代に分けて展示資料などで業績をたどる「時代の書院」、遺墨「留魂録」を中心に死を目前にした松陰の思いを伝える「留魂の間」など4つのゾーンに分かれている。
 境内に建つ国史跡「松下村塾」を、展示物のように小窓から見てもらい、合わせて松下村塾について解説を加えたコーナーも。同館でしか手に入らないオリジナルの“松陰グッズ”を販売するショップも設けられる。
 上田俊成宮司は「松陰先生の生き方、死生観、教育観、国家観は今に通ずることが多い。館の展示が、今をどう生き、将来をどうしようと考えるきっかけになればうれしい」と話している。
 入館料は大人500円、中高生250円、小学生100円。問い合わせは同神社((電)0838・24・1027)。


佐賀
九州・山口の産業遺産群:海軍所跡が構成資産候補に 「世界」へ取り組み /佐賀
 幕末期の佐賀藩の三重津海軍所跡(佐賀市川副町、諸富町)が22日、国の世界遺産の暫定リスト入りした「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補に挙げられた。一方、これまで候補に入っていた唐津市の旧高取家住宅は候補に盛り込まれなかった。
 暫定リスト入りを目指し、佐賀市教委は6月から海軍所の存在を証明する遺構や遺物を探そうと調査を続けた。その結果、金属加工用の炉跡やかまど跡とみられる遺構、修理などの際に船を入れるドックの護岸の一部とみられる「木杭護岸」が見つかっている。
 古川康知事は海軍所跡が候補になる一方、旧高取家住宅が候補に入らなかったことを踏まえ、「今後の調査結果などで変わる可能性があり、関係県・市と協議しながら県内資産の世界遺産登録に向けた取り組みを進める」とする談話を出した。【遠藤雅彦】



長崎
“ロシア村”の歴史 本に 幕末から明治期の長崎・稲佐地区 長崎日ロ協会の松竹会長 
 幕末から明治時代にかけて長崎市稲佐地区にあった“ロシア村”の歴史をたどる「ながさき稲佐ロシア村」(長崎文献社)が出版された。著者の長崎日ロ協会会長、松竹秀雄さん(81)=長崎市=が、史料を基にロシア人と長崎のかかわりを丹念に調査した。付録に散策ガイドも付ける。

■交流を詳細に記述 付録に散策ガイドも
 1804(文化元)年のロシア使節レザノフの長崎来訪から筆を起こし、1853(嘉永6)年のプチャーチン来航を経て開国後にロシア人が滞在した稲佐地区の歴史をまとめた。近くの悟真寺にあるロシア人墓地の碑文も紹介。1860(万延元)年-1896(明治29)年のロシア海軍士官宿泊先を一覧表にし、受け入れた住民の対応も詳細に記述している。
 松竹さんは稲佐地区出身で「子どものころロシア人墓地で遊んでいた」という。鹿児島で約20年間過ごし、古里に戻って長崎大講師などを務める傍ら、地域の歴史を研究。1997年に発足した長崎日ロ協会の会長にも就任した。
 ロシア村は日露戦争(04-05年)で終わったが、松竹さんは「長崎とロシアの友好の歴史を多くの人に知ってほしい」と話している。
 A5判、276ページ。付録の地図「稲佐さるくロシア村」はカラー10ページ。本体価格は2400円(消費税抜き)。全国の書店で販売している。


長崎さるく:龍馬や幕末関連4史跡、モニュメントデザイン決まる /長崎
◇長崎を「さるいて」親しめる像に
 長崎市などでつくる「さるく観光幕末編推進委員会」(会長・松藤悟長崎商工会議所会頭)が、来年放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を前に、坂本龍馬や幕末関連の史跡4カ所に設けるモニュメントのデザインがこのほど決まった。推進委が全国から公募した中から選び、20日に市役所で授賞式を開いた。モニュメントは今年度中に設置する。【錦織祐一】

 推進委はまち歩き観光の新たな名所を掘り起こすため、4~6月に市内の史跡に設置するモニュメントを公募。全国から56点の応募があった。この中から選ばれた優秀賞2点、入選2点を実際にモニュメントにする。
 優秀賞の一つは、龍馬の妻お龍を世話した豪商・小曽根家宅跡に設ける「月琴とお龍さん」=長崎市の美術講師、内藤修子さん(60)デザイン。もう一つは、日本の活版印刷創始者、本木昌造の「新町活版所」跡に設ける、実際に使われた鉛製活字を透明のアクリル樹脂に埋め込むモニュメント=同市のデザイナー、吉田隆さん(50)デザイン。
 入選は、岩崎弥太郎の商社「土佐商会」跡には海援隊旗と土佐藩船「夕顔丸」の像。上野彦馬の「上野撮影局」跡には、龍馬を撮影した際に使用した台と、当時のカメラをデザインしたモニュメントを設置する。
 4カ所のモニュメント設置費は1000万円の見込み。内藤さんは「長崎を『さるいて』親しんでもらえる像にしたい」と話していた。



沖縄
幕末の騒動軽妙に 劇団O・Z・E「近江屋」公演
 劇団O・Z・E(頭・真栄平仁)の公演「近江屋」(球鹿若久作、真栄平演出)が3、4の両日、沖縄市民小劇場あしびなーで行われた。幕末の京都・近江屋を舞台に、坂本竜馬と中岡慎太郎、新撰組の土方歳三と沖田総司らが繰り広げるシチュエーションコメディー。うそを吐き続ける竜馬の奮闘ぶりと相手役たちの勘違いが笑いを誘い、“生きる”ことに執着する人間の本質を描いた物語が観客を引きつけた。
 幕末に「もしかしたら」を思わせる物語。竜馬(新垣晋也)と中岡(浅田武雄)が泊まる近江屋に、相部屋を頼まれた人物が竜馬暗殺の命を受けた新撰組の土方(平安信行)と沖田(永田健作)だった―。
 初日の公演を見た。新垣は「わたしは江戸の旗本」「実は隠密」などと土佐弁を隠してうそを重ね、相手に悟られないように悪戦苦闘する竜馬役を、体を張った演技と表現力で好演。訛(なまり)のひどい仲居のお雪を演じた比嘉あずさや、事態をのみ込めずに途中で帰ってきた中岡役の浅田、平安と永田の新撰組コンビとのコミカルな掛け合いは純粋に楽しめた。
 竜馬が泥臭く命ごいをするさまは、沖田の「わたしは自分のために生きて死ぬ」のせりふに凝縮され、互いに認め合う最後の場面が印象的だった。しかし、沖田に問い詰められ、竜馬が自ら正体を明かすタイミングは早く感じられ、理解に苦しんだ。それまでの奮闘ぶりを台無しにしているかのようで、課題を感じた。
(仲原崇夫)


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(33)東大教授・山内昌之 小笠原長行
入京クーデターの挫折

 自民党の総選挙惨敗の一因を麻生太郎前首相が解散のタイミングを誤った点に求める声が多い。実際のところ、麻生氏が選択したのは任期満了に近い解散であった。結果として、民主党に有利な政治環境で追い込まれ解散となったことは否定できない。ここで痛感するのは、時代を動かす政治を仕掛けるには、判断と行動のタイミングが重要ということだ。

 幕末にも、幕府があと一歩詰めていれば、政局が大きく変わり、たやすく瓦解せず、徳川優位の政治が運営されたと思われる決定的な瞬間もあった。そのトクガワ・モーメントは、文久3(1863)年5月から6月に老中格の小笠原長行が企てた率兵入京とその挫折である。大体において、幕兵が武装上洛する事件といい主人公といい、この政治瞬間は何から何まで破格だらけであった。

 ≪期待にたがわぬ政治家≫

 唐津藩世子の長行は、れっきとした嫡子に生まれながら、父が死んだとき、わずか2歳だったためにすぐ藩主になれなかった。唐津藩は長崎警固の任があるので、2歳の藩主では他の地に転封されかねなかった。豊かな実入りのある領地を失いたくない家臣らは、幕府に長行の身体に障害があると届けてしまった。おかげで彼は、英邁(えいまい)な資質をもちながら、何代も外から迎えた養父の下で冷や飯を食わねばならなかった。


 しかし、譜代大名に人材を求めた幕閣は、長行を部屋住み身分のまま老中格に抜擢(ばってき)したのである。まさに破格の所以(ゆえん)である。長行は期待にたがわぬ政治家であった。

 まず彼は外国との戦争につながる攘夷(じょうい)が不可能と知って、薩摩藩の起こした生麦事件を処理して賠償金を支払ってしまった。また、京都で一橋(徳川)慶喜が不用意に朝廷に約束した開港場の閉鎖という政策が非現実的だと尊皇攘夷派公卿(くぎょう)に知らしめ、朝廷の論議を常識に戻すべく、洋式歩兵隊など幕府の精兵1600人を率いて海路、大坂に上ったのである。そこから枚方(ひらかた)経由で京都に入り、一挙に朝廷の大勢をくつがえし、京都から動けなかった主君の将軍家茂を江戸に連れ戻そうとした。

 この率兵入京とは、大胆なクーデター計画にほかならない。京都で無理無体を重ねた長州藩ら尊攘派と、それに雷同した公卿の力を一掃する目論見(もくろみ)は誰にもできることではない。

≪幕府にも運命の分かれ目≫

 長行が水野忠徳(ただのり)や井上清直(きよなお)など有能な官僚を率い、乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負に出た度胸は非凡である。やはり不遇だった経験が彼を鍛えていたのだろう。この率兵入京には、現実離れした政策を京都から勝手に押しつけてくる朝廷に江戸の実務官僚たちが感じた怒りが表れている。長行の大胆不敵な行為に孝明天皇も震え上がったに違いない。枚方から淀に出たところで、在京の老中や若年寄らがあわてふためき、制止にかかり、長行はすぐ入京せず淀に留(とど)まった。

 しかし、これは長行の政治判断のミスであり、幕府にも大きな運命の分かれ目になった。即刻入京して、無責任な公家や退嬰(たいえい)的な老中らと対決して家茂をその手に取り戻して禁門を押さえればよかったのだ。クーデターに失敗したのは、在京中の一橋・会津・桑名と上洛した幕軍・官僚との間の意志乖離(かいり)のためである。慶喜はその前に責任を全部長行に押しつけるために江戸へ帰っていた。京都守護職(会津)と京都所司代(桑名)は勅命を最優先しがちなために、自らが幕府の代理人だという本来の立場を忘れがちであった。

 ≪貴公子出身の限界≫

 長行らは洛外で孤立し、敬愛する家茂の命で罷免されてしまった。これによって幕府を蘇生(そせい)させる最後の機会は失われた。幕兵の精鋭で京都の空気を一挙に変える機会を逸したのは、貴公子出身の長行の限界であったともいえる。がむしゃらに目標へ邁進(まいしん)するのは、がつがつした薩長の田舎武士の感性では当然だったにせよ、洗練された譜代大名や幕府官僚には苦手であった。


 長行は長州征伐や五稜郭戦争にも加わるが、率兵入京で見せた政治決断の冴(さ)えをついに回復できなかった。辞世と伝えられる句は、幕府最後の異能の老中の心をかいま見せてくれる。

 「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」

 絶好のタイミングを逸した後悔を愚痴でなく、「夢」と見なすあたりは鷹揚(おうよう)な貴公子にふさわしい。自民党の有志たちにも、このくらいの開き直りをもってほしいものだ。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】小笠原長行

 おがさわら・ながみち 幕末の老中。文政5(1822)年生まれ。肥前(佐賀県)唐津藩初代藩主、小笠原長昌(ながまさ)の長男。5代藩主小笠原長国(ながくに)の養子となり、藩政にあたる。文久2(1862)年、幕府から登用され、奏者番、若年寄、老中格を務める。後に外国御用取扱、老中を命ぜられた。生麦事件の処理にあたり、第2次長州征伐では九州方面監軍として指揮を執る。戊辰戦争では、箱館五稜郭で新政府軍に抗戦した。明治24(1891)年、70歳で死去。

 小笠原長行といえば「第2次長州戦争で幕府軍が負けた時の司令官」という記憶なので、天下大変の時期に対応できない幕閣のひとりという印象を持っていたのですが(汗)……なかなかに苦労した人だったんですね。



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