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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昨日はさっそく風邪引いて一日寝込みました(苦笑)。明日明後日は落語鑑賞を予定に入れているので、今晩中に治したいです。

北海道
松前藩の歴史、漫画に 地元観光協会が3千部を発売
【松前】渡島管内松前町の松前観光協会(疋田清美会長)は11月1日、松前の中世から幕末17件の歴史を手軽に学べる漫画「松前藩物語」を発売する。松前は和人の歴史が道内で最も古く、歴史ファンに注目されそうだ。

 物語は女子中学生と実在の松前藩家老蠣崎波響(かきざきはきょう)らが案内役となり、15世紀の藩の起こりから300年余りを旅しながら、各時代の様子を紹介する。

 作画は、数々の漫画週刊誌で新人賞を受賞している東京の新進女性漫画家竹村いづみさんが手掛けた。

 全5章と年表から成り、蝦夷地(えぞち)に和人の拠点が築かれた経緯や、アイヌ民族と和人のかかわり、交易を中心とした藩経済のほか、「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」を描いた絵師としても知られる波響の活躍などを紹介。終章では、戊辰戦争や松前城落城の様子も描いている。

 四六判、375ページで千円。町内の飲食店などで買えるほか、電話で注文できる。送料は160円。申し込みは同協会(電)0139・42・2726へ。


松前藩物語:藩史を漫画に 町が出版
 松前町は子供たちに松前藩の歴史や文化を親しんでもらおうと、漫画本「松前藩物語」を発行した。地元の女子中生がタイムスリップして松前藩家老で画家の蠣崎波響と出会う。2人が案内人となり、15世紀に安東政季らが蝦夷地に渡った時代から1871(明治4)年、廃藩置県によって藩が消滅するまでを旅する物語だ。

 漫画本は白黒で四六判375ページ。町教委の専門家らの協力で原作を仕上げ、東京の女性漫画家、竹村いずみさんが作画した。

 全5章からなり、アイヌ民族との交流や争い、交易で栄える藩の様子や波響の名画「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」が描かれた経緯などが分かる。最終章の幕末では落城を伝え「新しい時代」を松前の若者に託して終わる。

 町は、町内の小5~高3の549人と教職員などに計2000部を配布した。11月からは松前観光協会で1部1000円で販売する。問い合わせは観光協会(0139・42・2726)。

【近藤卓資】


青森
幕末明治維新展:「斗南藩」たどる--三沢・来月14日まで /青森
 幕末の戊辰戦争で幕府方に付いた会津藩が明治時代になって再興を許され、下北や三沢地方で一時存在した「斗南(となみ)藩」にまつわる資料を展示した「地方発 幕末明治維新展-斗南藩-」が三沢市谷地頭の先人記念館(道の駅みさわ斗南藩記念観光村内)で開かれている。11月14日まで。

 斗南藩は1869(明治2)年、京都守護職だった藩主、松平容保(かたもり)の嫡男容大(かたはる)が初代藩主となったが、1871年の廃藩置県に伴い、わずか2年で消滅した。

 同展では容保公と容大公の写真や容大公が幼少時に遊んだといわれる木馬など46点を展示。藩士が生活維持のため使った養蚕の道具も並ぶ。「論語」の冊子などもあり、苦しい中、子孫の教育に熱心だったことがうかがえる。

 入館は午前9時~午後5時。入館料は高校生以上100円、小中学生50円(小中学生のみ土曜無料)。月曜休館。問い合わせは同館(電話0176・59・3009)。【松沢康】

東京
龍馬と一献、飲んで語るぜよ 都内に週1「歴史バー」
 坂本龍馬とおりょうが、何でまたこんなところに? 27日夜、東京・御茶ノ水のバーに、龍馬らに扮した男女十数人が集まった。歴史好きな女性「歴女」だけではない。硬派な歴史好きを自任する男性「歴士」も気炎を上げた。

 バーは2年前に開店。毎週水曜夜は“歴史バー”に変身する。毎回、歴史的事件が起きた日などを意識してテーマを設定。今回は、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が佳境に入ってきたことにちなみ、「幕末」と決めた。客には、実名が坂本龍馬という歴士も。

 企画運営するのは自らも歴士で広告会社社長の渡部麗(りょう)さん(36)。「歴史から多くを学び、明日の自分の行動につなげてほしい」



静岡
静岡で海の幸と歴史浪漫堪能 冷凍マグロ水揚げ日本一
 静岡・清水(静岡市清水区)といえば幕末・明治の侠客、清水次郎長で有名だが、冷凍マグロの水揚げが日本一を誇る清水港も有名。海の幸を堪能してきた。

 清水駅を降りると潮の香りが漂ってくる。駅から歩いてすぐの場所に清水魚市場“河岸の市”。新鮮な魚介類や海産物が安く買えるうえに、食事もできる。昼時はマグロ目当てに毎日行列ができるという。

 市場の中にある「のっけ家」という店で「まぐろ贅沢丼」(1600円)を注文。大トロ、ウニ、イクラ、マグロの赤身などがド~ンとご飯の上に置かれた文字通り贅沢な丼だ。

 腹ごしらえした後は、歴史の教科書でもおなじみの「登呂遺跡」に。ここでは弥生時代の住居や祭殿、倉庫などが再現されているほか、水田も復元されて当時のまま粟(あわ)や稗(ひえ)が育てられている。

 リニューアルオープンした博物館では、弥生時代をリアルに感じられるさまざまな体験もできる。「1943年に軍需工場を作る際、この場所を掘り起こしたら丸太が発見されました。52年に特別史跡に指定されました。弥生時代の農村がこれだけ集合している例は非常に珍しいものです」(登呂博物館・山本多美子館長)。

 子供向けの教育の場と思われがちだが、「もっと普通の若い女性にも見にきてほしいですね。歴女の次は“古女”が増えてほしいです」と山本館長は語っていた。

 歴女の言葉が出たついでに近くの「掛川城」に出かけた。今川家の家臣、朝比奈氏が築城したもので、名古屋城の陰に隠れた存在だが、なかなかの名城。徳川家康に約5カ月間攻められながら、なかなか落ちず、話し合いで家康に明け渡したことで知られる。

 攻められたときに井戸から霧が出て、城をすっぽりと包んで敵から防いだ言い伝えから、別名“雲霧城”とも呼ばれている。掛川城職員の水野亮さんは「この城は1日だけの城主もおり、32代に渡って続きました」と教えてくれた。

 資料によると1590(天正18)年に全国を平定した豊臣秀吉は掛川城に山内一豊を配し、戦乱で傷んだ城の改築をして、このとき初めて天守閣を造った。ところが、安政元年(1854年)の東海大地震で天守閣の大半が倒壊。明治になって廃城になった。それを市民の熱意で1994年に再建。140年ぶりに天守閣が復活した。こぢんまりした城だが、妙に落ちつく城である。(城山仁)

◇清水魚市場…JR清水駅東口徒歩1分。東名清水ICから約10分

◇登呂遺跡(登呂博物館)…JR静岡駅南口から「登呂遺跡」行きバスで20分。静岡ICから約10分

◇掛川城…JR掛川駅から徒歩5分。東名高速、浜松ICから約16分


三重
企画展:桑名・諸戸家の器展 明治の豪商、135点を展示--市博物館 /三重
 明治時代、「桑名の豪商」と言われた諸戸家に伝わる食器などを展示する企画展「諸戸家のうつわ」(毎日新聞社など後援)が、桑名市京町の市博物館で開かれている。唐津や黄瀬戸など5カ所の焼き物を取り合わせた「寄(よせ)猪口(ちょく)向付(むこうづけ)」など計135点を展示、愛陶家には見逃せない展示会となっている。

 諸戸家の初代、清六は明治時代、「山林王」とも呼ばれ、実業家として知られていた。次男の精太と二代目清六となった四男の清吾の屋敷跡が現在、諸戸氏庭園や六華苑として開放されている。今回、諸戸家の庭園や建築物、美術品などを管理する「諸戸会」との共催で企画展が実現した。

 花見など野外の宴で使われた漆器の重箱「好古斎(こうこさい)好蒔絵提重(このみまきえさげじゅう)」や「有節萬古」と言われ、幕末から明治にかけての桑名の陶芸家、森有節作の「萬古焼松竹梅絵三ツ組鉢」、田楽を入れる焼き物「赤楽扇形絵替(あからくおうぎがたえがわり)田楽箱」(大野鈍阿作)などが並んでいる。

 入場料は高校生以上300円、月曜休み。大塚由良美館長は「器は日常よく使うもの。自分なりに何を入れるか想像を膨らませ見ると楽しい」と話している。11月30日まで。【沢木繁夫】


岐阜
九里半街道ウォーキング:古里の歴史学ぶ--大垣 /岐阜
大垣市上石津町牧田でこのほど、幕末まで物流街道として栄えた九里半街道を歩く「九里半街道ウォーキング」があり、参加者は散策を楽しみながら、古里の歴史を学んだ。

 同町有志の研究会「九里半歴史文化回廊」(高桐秀夫会長)の企画。町民ら約200人が参加。上石津総合体育館をスタート、ゴールとする約5キロのコースを歩いた。

 街道沿いでは、地元で牛の観音様と呼ばれている「四方四里(よもより)神社」や、自然石の常夜灯では街道一番の大きさを誇る「金比羅(こんぴら)大権現」などの由緒の説明を会員から受けた。牧田川堤防では、自然の美しさを満喫した。

 同街道は養老町と滋賀県米原市を結び、距離が九里半(約38キロ)あることから、「九里半街道」と呼ばれていた。【子林光和】



京都
お出かけポータル「MapFan(R) Web」観光楽地図 『秋が旬の京都へ行こう~幕末の歴史と紅葉ライトアップ~』公開!坂本龍馬に出会う旅シリーズ、いよいよ最終回の第3弾は“京都”編!
インクリメントP株式会社はこのたび、お出かけポータル「MapFan Web(マップファン・ウェブhttp://www.mapfan.com/)」内の観光情報コンテンツ「観光楽地図」にて、『坂本龍馬に出会う旅~京都編~ 秋が旬の京都へ行こう -幕末の歴史と紅葉ライトアップ-』を公開いたしました。
高知編、長崎編に続き、大河ドラマ「龍馬伝」で話題の、坂本龍馬ゆかりの観光地を案内するシリーズ特集第3弾(最終回)です。さらに本特集では秋の京都ということで、おすすめの紅葉ライトアップスポットも紹介しています。また、京都への宿泊予約などが簡単にできる特設リンクも設置し、旅のプラン作りから現地観光まで、「京都の旅」をお手伝いします!

坂本龍馬に出会う旅 ~京都編~
◆◆秋が旬の京都へ行こう ~幕末の歴史と紅葉ライトアップ~◆◆
http://www.mapfan.com/kankou/special/ryoma_kyoto/?ref=release


兵庫
幕末の文化拠点 復元/養父に来月開館
 幕末から明治維新にかけて儒学者として活躍した池田草庵(1813~78)が、現在の養父市八鹿町で開いた漢学塾「立誠舎」の建物が復元された。11月末にオープンし、来年正式発足する八鹿地区自治協議会が地域の交流、学習拠点として活用する計画だ。
 草庵は現在の同市八鹿町宿南に生まれ、京都で学んだ。建物を建てた当時の八鹿村庄屋の西村庄兵衛の願いもあって帰郷し、天保14(1843)年から立誠舎で教え始めた。塾は後に門人が増えて手狭になり、青谿書院として移転するが、立誠舎は八鹿地区の教育文化の「源泉」だとして、住民らが建物を保存、活用することになった。
 復元された建物は木造平屋建て約71平方メートル。約200年前の建築と推定されるが、柱などの骨組みは良好な状態で残っており、補強をするなどしてできるだけそのまま使った。屋根はかつて地元の土を焼いて作られていたという八鹿瓦を使い、足らない部材は他の古民家から調達した。県の補助事業に採用され、工事費は約1900万円。
 オープン後は自由に見学できる予定。同協議会準備会では、立誠舎を拠点に草庵を顕彰する活動や、地域の昔話の出版や紙芝居化、昔遊びを通じた異年齢交流、食文化講座などを計画。地域文化を掘り起こし、まちづくりに生かしていく予定だ。


高知
【遊&You】土佐・龍馬 であい博 維新の偉人ルーツと雄大な自然
 年末に向け、いままさに佳境に入ろうとしているNHK大河ドラマ「龍馬伝」。その舞台となった坂本龍馬ゆかりの地、高知県でいま、「土佐・龍馬 であい博」が開かれている。この秋、龍馬一色に染まっている高知を旅した。
 土佐(現在の高知県)の国から韮ケ峠(にらがとうげ)を越えれば、そこは伊予(現在の愛媛県)の国。その山深い土佐側のふもとに広がる梼原(ゆすはら)町にいま、「坂本龍馬脱藩の郷」として熱心な龍馬ファンの目が向けられている。
 ■「脱藩の道」めぐり
 坂本龍馬(1836~67年)は1862(文久2)年3月26日、一夜をすごした梼原から一気に韮ケ峠を越えて脱藩し、幕末を生き、日本を変える「幕末の志士」へと姿を変えた。維新を夢見た志士を多く輩出したことでも知られる梼原で、その史実を訪ね歩く「龍馬・脱藩の道」めぐりが、ファンのお目当てだ。
 その梼原をはじめ県内各地で繰り広げられているのが「土佐・龍馬 であい博」(2010年1月16日~11年1月10日)だ。この地方博の売りは、全県を挙げたイベントの盛り上げにある。高知市中心部のJR高知駅前に設けたメーンパビリオン「高知・龍馬ろまん社中」に加え、県内3カ所にサテライト(衛星)パビリオンを設けた点をとっても、その意図がうかがえる。
 梼原町に設置した「ゆすはら・維新の道社中」もその1つだ。メーンと3つのサテライトを合わせたパビリオンへの来場者数は9月末で70万4228人に達し、開催期間中65万人の目標を上回った。100万人の大台突破も不可能ではない。
 博覧会人気を支えるのは、「龍馬伝」効果であることは言うまでもない。サテライトパビリオンも、梼原町のほか、三菱グループの創始者、岩崎弥太郎(1835~85年)の視点で描いた「龍馬伝」のストーリーに沿って、岩崎と、日本人で初めてアメリカに渡ったジョン万次郎こと中浜万次郎(1827~98年)のそれぞれのふるさとである安芸(あき)市、土佐清水市に設けている。
 主催者側には、博覧会を通じて、「龍馬伝」の世界と、土佐が生んだそれぞれの偉人たちのルーツを体験してもらいたいとの思いが強い。
 ■海、山、川の風景広がる
 高知県は「日本最後の清流」四万十(しまんと)川、あるいは四国最南端に位置する足摺岬(あしずりみさき)に代表されるように、その自然から「日本の原風景」を堪能できる。今回は高知市内から梼原町、土佐清水市のサテライトを起点に、四万十川が流れる山中から太平洋が望める足摺岬まで高知県西部をぐるりと回った。
 高知市内から標高1500メートル近い四国カルスト高原のふもとにある梼原町に向かうまで、土佐湾に沿って、海、山、川の風景が広がる。梼原町からは「土佐の小京都」と呼ばれる中村(四万十市)まで、山間をぬうように流れる四万十川の支流、さらにどちらが上流か下流か分からないほどゆったりと流れる四万十川本流を眺めながら、一気に南下する。途中、四万十川では観光遊覧船やカヌーも楽しめる。
 四万十川河口に近い中村から、土佐清水市のサテライト会場まで一気に南に下れば、足摺岬はもうすぐ。四国最南端の地に立てば、黒潮の流れる太平洋を望む雄大な景色を堪能できる。もちろん自然に恵まれた土地柄でもあり、立ち寄った各地では山・川の幸、海の幸に舌鼓を打てる。
 「龍馬伝」をベースにした「土佐・龍馬 であい博」は、龍馬をはじめ高知県が生んだ偉人をテーマに、地元の食や人、自然、歴史、文化とのふれあいを通じて、高知県の良さを認識してもらおうと企画された、まさに“出会い”の博覧会でもある。
 各地のパビリオンから少し足を伸ばせば、龍馬だけではない、高知県との新鮮な出会いが待ち受けているかもしれない。(文・写真:鈴木伸男/SANKEI EXPRESS)
       ◇
土佐・龍馬 であい博 ryoma-deaihaku.jp


山口
晋作像除幕に伊勢谷さん参加
 萩市出身の幕末の志士、高杉晋作(1839~67年)の銅像除幕式が31日午前10時から、同市呉服町の晋作広場である。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で晋作を演じた俳優伊勢谷友介さんも特別ゲストとして駆け付ける。

 松下村塾に通っていた20歳のころの姿をモチーフとする高杉晋作立志像(高さ1・8メートル)。萩まちじゅう博物館銅像建立委員会(会長・野村興児市長)の依頼で、日展評議員の彫刻家江里敏明さん(京都市)が制作した。制作費は840万円。同委員会の呼び掛けに、晋作ファンや市民から500万円の寄付が寄せられた。

 同広場は市が9月下旬から約1500平方メートルの多目的スペースとして整備中。11月末の完成を予定している。

 午後1時からは同市堀内の萩博物館で記念講演会がある。江里さんが「立志像ができるまで」、同館の一坂太郎特別学芸員が「晋作と龍馬」と題して講演する。講演会は先着100人で無料。

【写真説明】お披露目される高杉晋作の銅像の原型(萩市提供)


鹿児島
顕彰像 薩摩出身者だけ 幕末英国使節団 19人なのに17人!?
 鹿児島市のJR鹿児島中央駅前に幕末の薩摩藩英国使節団の記念碑「若き薩摩の群像」(高さ12メートル)がある。使節団は19人なのに像は17人しかない。28年前の建立時、市が薩摩出身者以外の2人を除外したためだ。3年前、心苦しく感じた市民有志は「九州新幹線鹿児島ルート全線開通までに追加を」と市に求めたが、今もそのまま。要請者の一人で薩摩藩主島津家32代当主、島津修久(のぶひさ)さん(72)は「薩摩の度量の広さを示してほしい。追加は無理でも一緒に顕彰を」と願っている。

 19人の使節団は幕末の1865年、国禁を犯して英国に渡り、西洋文化を吸収して明治維新後の近代国家形成に貢献した。初代文部大臣の森有礼(ありのり)、サッポロビール創始者の村橋久成、東京開成学校(東大の前身)初代校長の畠山義成、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚(ともあつ)…。そうそうたる面々だった。

 その功績をたたえる群像は鹿児島市が1982年、50万都市達成記念で建立した。事業費約1億4千万円。八角形の台座に多様なポーズのブロンズ像が並ぶ。作者は市内の彫刻家で文化勲章受章者の中村晋也さん(84)だった。

 だが、群像には通訳として同行した長崎出身の堀孝之と土佐藩を脱藩後、薩摩藩士となった高見弥一の姿はない。碑文も「藩士十七名の留学生を英国に派遣」と2人の存在を無視している。

 建立時の議会答弁で、当時の山之口安秀市長は「堀は通訳で長崎の人」。高見は土佐藩参政・吉田東洋の暗殺関与の可能性を挙げ「純粋な薩摩藩士だけにした。制作の技術的、意図も考え合わせた」と述べた。

 「2人を外すのはおかしい」との声は当時からくすぶり続け、07年8月には島津さんや経済人、大学教授、使節団の子孫たちが「若き薩摩の群像を完成させる会」を発足。同9月、森博幸市長に追加建立を要望したが、市側は「像は完成された美術品」と拒否した。

 制作した中村氏も「当時の市長から、像は『留学生』ではなく、薩摩の若者の気概を表すのが目的と聞いた」「既に市民に定着している作品。今から2人を追加するのも変だろう」と語る。

 市は本年度、6千万円をかけて坂本竜馬夫妻や西郷隆盛の弟の従道(つぐみち)などの像を市の中心部7カ所に設置した。中村さんに依頼して天璋院篤姫の銅像制作も進む。

 群像を完成させる会事務局長で、使節団の特別番組も作った元民放テレビ局役員小笠原弦さん(64)は「先にやるべきことがあるだろうと思う。いつまでも鹿児島の恥をさらしてほしくない」と話す。会は休眠状態だが、賛同署名は千人近く集まった。島津さんも「重要な役割を担い薩摩藩士として渡航した2人。新幹線から降りた人もなぜ17人なのかと思うだろう」と気になったままだ。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(85)東大教授・山内昌之 堀利煕(上)
■死で贖(あがな)った外交成果
 悲劇の幕吏、堀織部正(おりべのしょう)利煕の名を知る人はいま少ない。幕府有数の外交家、堀の自死は行政の政治家主導と官僚機構との関係を考える上でも示唆に富む。幕末には堀の死諫(しかん)の書なるものがしきりに喧伝(けんでん)された。それは直参旗本堀の自害を老中安藤信正の外国迎合への抗議だったとする。実際、坂下門外の変で安藤を襲った攘夷(じょうい)浪士たちは、外国との通商条約締結に際して安藤が罪を重ねたと怒り狂っていた。安藤が米国総領事ハリスと昵懇(じっこん)になり、金品を贈与しあった上に侍妾(じしょう)を提供するなど国辱的行為を繰り返したというのだ。
 ◆安藤との間に生じた懸隔
 しかし、天皇の廃位を企てた安藤に死をもって諫言したというのは俗説であろう。死諫の書は、2人の下で外交実務にあたった福地源一郎(桜痴)が「全くその痕跡なき」偽書と述べたように、攘夷派の捏造(ねつぞう)という説がいまでは有力である(『幕府衰亡論』平凡社東洋文庫)。
 とはいえ、或(あ)る事件をめぐり、堀と安藤との間に懸隔が生じたのも事実である。福地と同格の田辺太一は幕臣三傑として岩瀬忠震(ただなり)や永井尚志(なおゆき)とともに堀を挙げたが(『幕末外交談』東洋文庫)、目付上がりの出色の外務官僚堀は、門閥の老中には珍しく欧米強国の外務大臣並みの判断力をもつ安藤を「ほんとうの閣老(ミニストル)」として大歓迎していた。しかし悲劇は、安藤に外国事務専掌の辞令がおりた万延元(1860)年11月5日から翌6日にかけて起こった。
5日、堀はプロイセンの使節オイレンブルクと交渉中の修好通商条約草案を安藤に提出した。草案を浄書した福地は、幕府が締結相手をプロイセン1国と考えていたのに、案には「附庸(ふよう)せる諸国」も含まれており、安藤が「頻(しき)りに堀氏の不行届きを論責」し堀も外国の例を挙げて弁じたが安藤の納得を得られなかったと証言する。しかし自殺との因果関係には触れていない。
 問題の核心は、当時のドイツが統一国家でないという点にあった。
 交渉がほぼ妥結に近づいた段階で、ドイツの領邦国家の強国プロイセンを代表したオイレンブルクは、関税同盟を組むザクセンやバイエルンやハノーファーなどの王国、ハンブルクやブレーメンらのハンザ自由都市やメクレンブルクの両大公国など30カ国の名を列記した条約草案を出し抜けに示したのだから、堀も驚いたに違いない。もちろん、練達の堀はまったくなじみのない国々が列挙された草案に納得せず、いずれ談判すると留保して引き取った。
 しかし安藤は、井伊直弼(なおすけ)が朝廷や攘夷派を抑えて米蘭露英仏5カ国と条約を結ぶだけでも苦労した故実を忘れていない。プロイセン1国どころか未知の30カ国と条約調印する前途の険しさを思い、つい堀の不手際を難詰したのだろう。これは閣老(大臣)のほうに余裕がなさすぎる。外国奉行の堀はプロイセン中心のドイツ諸邦と国交を開く可能性を政治家安藤に期待したのかもしれない。堀の絶望感は深かったであろう。
◆最期には言語に絶する凄み
 小説家の綱淵謙錠(けんじょう)氏は鋭い洞察力で、締結をプロイセン1国に留(とど)めよと厳命された堀とオイレンブルクとの複雑な葛藤(かっとう)を描いている(『幕臣列伝』中央公論社)。オイレンブルクには「うしろめたさ」があった。長い交渉で2人の間には信頼感も芽生えていたのに、最後にいきなり30カ国の名を挿入するのは、堀を騙(だま)し討ちにしたようなものだ。堀は安藤の意を受け、強引なオイレンブルクの背信にくさびを打ち込むには尋常の手段では不可能と悟った。あれこれの弁でなく死による抗議こそ相手を確実に譲歩させる手段と考えたというのが綱淵氏の解釈なのだ。
 感動的なほどの説得力がある。非常時に死を覚悟するのが武士とはいえ、堀の壮絶な最期には言語に絶する凄(すご)みがある。オイレンブルクが〈オリベノショー〉と呼んでいた堀の死から受けた衝撃は大きかった。堀の自刃から7日たった11月13日、安藤はオイレンブルクとプロイセン1国との条約を結ぶことに成功した。ドイツ人は昨日までの高圧的なそぶりも影をひそめ、条約調印の後暗然として日本を去った。
 政治家が外交を主導するのは当然である。しかし、鳩山由紀夫前首相のように不用意な言葉や思いつきで地味な外交努力の蓄積を無にしてはならない。前原誠司新外相は、中国の非常識な政治姿勢を「ヒステリック」と的確に表現したが、オイレンブルクならぬ中国人には自省や自制という意味を理解できない者が多すぎる。あまりに中国が無体を働けば日中いずれにも犠牲者が出ると恐れるのは私だけではないだろう。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】堀利煕
 ほり・としひろ 文政元(1818)年、大目付・堀利堅の四男として生まれる。安政元(1854)年に箱館奉行に任じられ、織部正に叙任。5年に外国奉行となり、翌6年には神奈川奉行も兼務。各国修好通商条約の締結や横浜開港などに尽力する。万延元(1860)年、プロイセン使節との条約協議に際し、老中・安藤信正と意見が対立。謎の自刃を遂げた。42歳だった。




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