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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 ゆるキャラ好きの自分、こんな記事が目にとまりました。
ゆるキャラ集合写真断念 彦根「さみっと」混雑事故防止へ
 人気の「ひこにゃん」を筆頭に全国の「ゆるキャラ」が滋賀県彦根市に集う「キグるミさみっと」(25、26日)で、主催の「井伊直弼(なおすけ)と開国150年祭」実行委などは2日までに、出演キャラ46体が勢ぞろいして記念撮影を行うメーン行事を断念することを決めた。混雑が予想され、事故防止を優先した判断だが、関係者は「全国的にも珍しい試み。彦根をPRする良い機会になるはずだったが…」と肩を落としている。

 人気過熱気味? 拡大写真で代わりに目を和ませることにします。

愛知
「堀田」の苦労、児童実感 海津の資料館で田舟に乗って稲刈り
 かつて輪中地帯に見られた「堀田(ほりた)」の稲刈りが2日、海津市海津町の市歴史民俗資料館で行われた。
 堀田は江戸時代後期から明治時代にかけ、低湿地の農法として普及した。盛り土をするために堀った場所が水路となり「田舟」と呼ばれる小舟が行き来をしていた。市内では昭和40年代に姿を消したため、同資料館が「先人の苦労をしのぼう」と約800平方メートルの堀田を復元した。
 稲刈りには地元の高須小学校の4年生児童59人が参加。市内の農作業受託会社「福江営農」の協力で、かまを手に収穫作業に挑戦した。児童らは同社の後藤政光さん(70)が操る田舟に乗り込み、稲の束を田舟に積み込んでいった。
 同資料館は29日、このもち米で収穫祭を開く。市内の児童らに呼びかけ、幕末の高須藩士が日記に残した3種類のぼたもちを作る。 (後藤厚三)

 『風雲児たち』の途中に掲載された「宝暦治水伝」を思い出します。
 食い意地の張っている自分は「幕末の高須藩士が日記に残した3種類のぼたもち」というのも気になります(爆)。実家の母(東京出身)でしたら、つぶしあん、きなこ、黒胡麻の3種類でしょうねぇ……ただ、我が家ではつぶしあん以外は余り受けがよくなかったので、きなこと黒胡麻は余りつくられなくなってしまいました(汗)。宮城県白石出身だった母方の祖母でしたら、ひとつはずんだ餡になると思います。青のりというご家庭や地域もあるかと……ぼたもち、おはぎの種類としてはこの5種類が比較的によく知られているのではないかと。自分は、つぶあんの他に、おこげになったところを丸めて醤油を垂らした余りものも好きでした(笑)。

岐阜
白秋らが宿泊「長瀬旅館」、250年の歴史に幕
 歌人の若山牧水、北原白秋ら多くの著名人に愛された高山市上二之町の「長瀬旅館」が、11月末で営業を終える。建物の老朽化と後継者がいないことを理由に、創業以来約250年の歴史に幕を下ろす。
 同旅館は1754(宝暦4)年に創業。木造2階建てで、幕末―昭和初期に築造された10の客室すべてに流水式の庭園を備え、飛騨高山を訪れた国内外の著名人を引き付けた。大正期には、同市出身の詩人福田夕咲を訪ねた牧水が常宿としたほか、戦後は井上靖、北大路魯山人、建築家ブルーノ・タウトらが宿泊。近年は宿泊客の9割を、和の風情を求める欧米の個人客が占めていた。
 11代目当主の長瀬雅子さん(47)によると、改築の是非は先代の父、故桂一さんの代からの課題だった。しかし、3年前に桂一さんが急死。母純子さん(73)とともに切り盛りし、黒字経営を維持してきたが後継者のめどが立たず、営業をやめることにした。
 2階にある100畳の大広間は、数十年ほど前まで、市民が文化活動の場として頻繁に利用。当時を知る世代からは廃業を惜しむ強い声も。雅子さんは「創業から家族で懸命に切り盛りしてきたが、これも時代の流れ。苦渋の決断でした」と語った。

 長いことお疲れ様でした。建物が今後どうなるのか気になるニュースです。

兵庫
情緒たっぷりの村芝居 4日に公演 養父
 養父市吉井地区の住民が、台本から大道具、衣装までを自分たちで作って演じる村芝居が四日夜、同地区の井上神社境内の芝居堂で開かれる。同神社の秋祭りの宵宮でほぼ毎年開かれており、多くの地元住民が楽しみにしている行事。公演に向けて練習を続けているメンバーは、「役者と観客の距離が近いという村芝居のよさを感じてほしい」と意気込んでいる。
 同神社には、明治中期に建てられた芝居堂があり、村芝居が続けられていたが、戦後になって活動は途切れてしまったという。
 村芝居の復活は一九八一年、地区住民でつくる吉井ソフトボール部員が秋祭りを盛り上げようと寸劇を披露したのがきっかけ。評判が高かったことから、時代劇などを演じるようになり、今年で二十四回目を迎える。
 今年の演目は「吉良の仁吉(にきち) 血煙り荒神山」。幕末期の侠客が義兄に奪われた縄張りを取り戻そうと、妻に離縁状を出して義兄と対決する浪曲が原作で、台本はメンバーが書き上げた。座長の世登英明さん(41)は「みんな楽しんで演じている。アドリブややじのやりとりもあり、村芝居ならではの雰囲気を楽しんでほしい」と話していた。劇の開演は午後九時ごろの予定。(原田大介)


ブックレビュー
明治天皇のテーブルマナー、日本を救う~『歴史のかげにグルメあり』
黒岩比佐子著(評:澁川祐子)

 1854年、日米和親条約の調印に先立って幕府がペリー一行をもてなした料理は、伝統的な形式にのっとった本膳料理だった。
〈最初に、祝儀の意味をこめたスルメや結び昆布などの縁起物が酒とともに供され、次に、山海の珍味を集めた酒饌料理。そして、メインはアワビや赤貝、豆腐の煮物などを含む本膳料理。最後に、カステラなどの菓子三品が出されている〉
 この饗応の値段は一人前三両、当時の大工の手間賃60人分に相当するそうだ。が、結果はといえば、ペリーはこの料理をあまりお気に召さなかったらしい。
(中略)
逆にペリー側がこの饗応の返礼として、ポーハタン号に幕府の人間を招いた午餐では、パリ仕込みの料理人の手によって、〈牛や羊や鳥の肉、ハムや保存用に加工した魚、野菜、果物が惜しげもなく使われ(中略)料理のほかに、シャンパンやワインやリキュールも大量に用意された〉。
 禁じられていたはずの肉料理に舌鼓を打ち、初めて口にするシャンパンやリキュールに酔いしれた日本人たち。くだんの『ペルリ提督日本遠征記(三)』には「テーブルの料理が魔法のように消えた」と書かれており、その理由が
〈日本人の流儀で、手をつけなかったものを土産として、懐紙に包んですべて持ち帰ってしまったからだった。しかも、委員たちはソースやシロップなどもおかまいなく、肉もシチューも砂糖漬けも一緒くたにして包んだらしい〉
 というのだから、「あちゃー」である。しかもすっかり酔っ払った彼らは、チョンマゲ、和服姿で、アメリカ士官と一緒になって飛んだり跳ねたり。なかにはペリーに抱きつく輩もいたそうで、まんまコメディ映画になりそうな一場面だったに違いない。

 ペリーをもてなして不評だった「八百善」と「百川」の豪華料理、酔ってペリーに抱きつく幕臣のエピソードは『風雲児たち 幕末編』の愛読者には既知ではありますが。次頁に紹介された明治天皇のテーブルマナーの話は興味深かったです。
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