新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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明日から11月ですねぇ(汗)。昨日は談笑師匠の『富久』を聴いて、あぁもぉ年の瀬ネタなのねと感じました。
茨城
映画「桜田門外ノ変」人気 発案は県職員「街を元気に」
東京
台風14号接近で週末のイベント中止・縮小も
龍馬が駆けた道 雨の中250人堪能
神奈川
三浦半島の文化を考える会が発足20周年記念で機関紙発行
「小田原幕末伝」再演、創立65周年の市民劇団「こゆるぎ座」が激動の時代演ず/小田原
静岡
遠江で活躍の村松以弘など門下生紹介 掛川で『渡辺崋山と弟子』展
石川
映画:「武士の家計簿」完成 御算用者の暮らし描く /石川
奈良
歴史学び きずな継承
愛媛
蝦夷調査探検家と伊達藩とのかかわり探る 宇和島
高知
ジョン万次郎の生家、募金で復元…1日から公開
幕末、出漁中に遭難し、米国の捕鯨船に助けられて日米友好の橋渡し役となったジョン万次郎(1827~98)の出身地、高知県土佐清水市中浜に万次郎の生家が復元された。
日本の発展、国際交流に多大な貢献をした英雄に思いをはせる、新たな名所となりそう。31日に落成式が行われ、1日から無料公開される。
開催中の「土佐・龍馬であい博」に合わせ、土佐清水商工会議所など地元30団体の復元実行委が昨年末から募金活動を行っていた。龍馬ブームに伴い、龍馬の世界観に影響を与えた万次郎への注目度も高まっており、県内外から集まった募金総額は目標の1000万円を超す、1250万円に。建設には、このうち1155万円を充てたという。
復元された生家は残された古い写真をもとに設計されており、かやぶき屋根の木造平屋(約28平方メートル)で、板の間や土間、かまどなども再現されている。内部には古い民具も置く。周囲は石塀で囲まれており、近くには万次郎が使った井戸もある。
であい博の土佐清水市サテライト会場に向かう途中に万次郎の生家跡を訪れた徳島県鳴門市の建築設計業堀和英さん(58)、恭子さん(58)夫婦は「復元を知らずに来たのでいい記念」と喜んだ。
31日には、土佐清水市養老のあしずり港岸壁で「第3回土佐清水ジョン万祭り」も開かれ、万次郎の子孫による講演会や仮装コンテスト、沖縄ジョン万次郎会の舞踊が披露されるなど、地域は万次郎一色になる。
公開は午前9時~午後4時で、地区住民が生家の管理や観光客らの案内をするという。問い合わせは平日に中浜区長場(0880・82・9027)へ。
(2010年10月31日12時56分 読売新聞)
佐賀
佐賀七賢人しおり、県内書店で無料配布
武雄領主、“定説”より2年早く写真機使用か
大分
日田の先哲・平野五岳の詩文 本格的に解析
史実
坂本竜馬の「新政府綱領」に新説?
コラム
【龍馬を慕(おも)う】(31)下関・馬関海峡 長州に協力 幕府軍を破る
【次代への名言】非常の師弟編(19)
茨城
映画「桜田門外ノ変」人気 発案は県職員「街を元気に」
水戸浪士らが幕末に起こした事件を描いた映画「桜田門外ノ変」が、全国公開後10日余りで40万人を動員する好調ぶりだ。作品化の発端は、映画作りで地域を活性化したいというある県民の一念。賛同した5千人のボランティアが地元ぐるみで制作を盛り立てた。「暗殺」という難しい題材。挑んだ人たちの思いを聞いた。
■「地域の映像文化発信」
映画化は、県庁職員の橘川栄作さん(48)が発案した。2005年、東京都内の居酒屋で友人の映像プロデューサーと交わした「映画で街を元気にしたい」という会話がきっかけだ。自分の中でどんどん膨らんだ構想を会う人に語るうち、賛同者が次々と集まった。07年の春に題材を吉村昭の同名の小説に決め、80人で「映画化支援の会」を立ち上げた。
07年暮れから本格的に動き出した。しかし先立つものがない。内閣府の予算「地方の元気再生事業」以外、ほとんどは個人からの援助。撮影開始1カ月前の段階で予定5億円のうち500万円しか集まらず、プロデューサーが辞任した。映画化の危機を知った地元の有志が出資組合を立ち上げ、寄付をかき集めた。
地元を盛り上げようという映画作りに、多くの県民が加わった。県内16カ所のロケ地では、炊き出しや交通整理に携わり、エキストラとしても出演。オープンセットが作られた水戸市では、暗殺場面の降り積もった雪を再現するため、砕いた純白の石を70トン敷き詰めた。ボランティアは計5千人にのぼる。
地元の強固な支援態勢を見て、大手配給会社の東映も動き、配給を決めた。これまでの地方発映画はミニシアターでの上映がほどんど。同社は「今後の地方の映画・文化発信の新しいモデルとなる可能性がある」と評価する。
「支援の会」の谷田部さんは「映画のクレジットに出てこない支援者もたくさんいる。誰一人欠けても映画はできなかった」。しみじみ振り返った。(中村真理、伊藤弘毅)
■子孫が事件を小説化
桜田門外の変の志士・鯉渕要人(こいぶち・かなめ)の子孫にあたる、ひたちなか市中根の鯉渕義文さん(64)が、映画公開初日の16日、事件を描いた小説「情念の炎 上巻」を自費出版した。映画は襲撃を指揮した関鉄之介の視点で描かれているが、小説は18志士一人ひとりの心の動きに光を当てた。「国が困難に直面しても、時代から目をそらさず立ち向かった志士たちの迫力を感じてもらえたら」と話す。
水戸領の上古内(現在の城里町)の神官だった要人は、水戸藩の武士とともに大老井伊直弼の襲撃に参加。18人の志士の中で最年長の51歳だった。現場で深手を負った後に自刃した。
鯉渕さんは県内の有志で作る「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」が主催する歴史講座に通い、時代背景や事件に至る過程を深く知るうちに、「18志士の視点で時代を描きたい」と思うようになった。
昨年9月から執筆に取りかかり、10カ月で300ページを書き上げた。上巻は事件の前段階の時代、黒船来航前後の歴史背景や幕府と諸藩の動きを追う内容が中心だ。
来月からはいよいよ、桜田門外の変へと志士たちが動き出す下巻の執筆を始める。
「情熱の炎 上巻」は1900円(税抜き)。購入希望者は、鯉渕さんの電話(029・274・1458)かメール(y8823k@yahoo.co.jp)へ。
東京
台風14号接近で週末のイベント中止・縮小も
台風14号が、30日から31日にかけて関東地方に接近する予想が伝えられる中、区内のイベントも中止や縮小が相次いでいる。
30日に、綾瀬駅前のはと公園とマリアージュで開催予定の『綾瀬伝 綾瀬の歴史と新選組』は、天候により、はと公園の特設ステージをマリアージュで行う。また、新選組隊士らによる防犯あやせ作戦!パレードは中止が決まった。問合せは、綾瀬文化のまちづくり実行委員会事務局まで。電話03−3838−1636、芝園開発株式会社内。
一方、31日に行われる予定だった足立区谷在家障がい福祉施設の「とんがりぼうしカーニバル」は中止となった(順延はなし)。問合せは、谷在家障がい福祉施設(電話03−3853−0632)。
この他にも、地区対の運動会なども順延を決定しているところもある。
龍馬が駆けた道 雨の中250人堪能
【産経大江戸ウオーク】
大江戸ウオーク「幕末・龍馬が駆けた江戸」(品川編)が30日、東京・品川の立会川駅周辺のコースで開かれた。時折、強い雨が降る中、約250人が参加。幕末、坂本龍馬が駆け抜けた道をたどった。この日は、あいにくの空模様となったものの、スタート地点の大井公園には、受け付け前から多くの参加者が集まった。台風の影響で急遽(きゅうきょ)、大井競馬場をゴールとする約5キロのコースに変更して行われた。
台東区の渡辺幸司さん(61)とひろみさん(59)の夫婦は「浜川砲台跡で、龍馬と品川のかかわりなどについて話を聞けたのがよかった」と話していた。
ガイド役を務めた日本ウオーキング協会のメンバーも「雨も自然のうち。自然を楽しみながら歩くのが、本来のウオーキングですから」と参加者に声をかけていた。
神奈川
三浦半島の文化を考える会が発足20周年記念で機関紙発行
地域史研究グループ「三浦半島の文化を考える会」(白根貞夫代表、約60人)が、発足20周年を記念した機関誌「三浦半島の文化」を発行した。幕末68件の庶民の不安や恐怖をつづった日記の紹介をはじめ、興味深い内容となっている。
同会は1990年、三浦半島の文化に関する調査、研究、学習を目的に発足。毎年機関誌を発行しているほか、各種講座などを実施している。
記念号はA5判、108ページ。辻井善彌さんの「浜浅葉日記にみる不安と恐怖」では、相州三浦郡大和田村の農家が幕末68件に書き留めた日記を紹介している。
1853(嘉永6)年にペリーの黒船が来航した10日間は、2回も浦賀へ出向いたり、陣屋に非常米を届けたりと慌ただしかった。幕末は治安が乱れ、裕福な上層農民だった浜浅葉家は約20年の間に5回も盗みに入られたという。
機関誌では、幕末の庶民と領主の借金事情や、1862(文久2)年の生麦事件後に警備を強化する浦賀の様子も紹介している。
白根代表は「これからも身近なテーマを掘り起こしていきたい」と話している。
希望者には千円(送料別)で頒布する。問い合わせは、久保木さん電話046(852)0714。
「小田原幕末伝」再演、創立65周年の市民劇団「こゆるぎ座」が激動の時代演ず/小田原
戦後間もなく小田原で産声を上げた市民劇団「こゆるぎ座」の創立65周年記念公演が30、31の両日、小田原市民会館(同市本町)で行われる。
タイトルは「小田原幕末68件伝 おさらばでござります」。
長らく佐幕派だった小田原藩が、明治維新を経て勤皇へと傾いていく史実を軸に、青年剣士と町娘の純愛が描かれている。
座付き作家だった故・後藤翔如(しょうご)さんが手掛けた作品で、18年ぶりの再演となる。
高校1年生から74歳までの劇団員23人に、OBを加えた総勢約40人が舞台に臨む。6月の台本読み合わせから始まり、8月からは毎日曜に8時間のけいこを重ねてきた。
関口秀夫座長(71)は「激動の今にぴったりの演目。節目の年に観客の胸を打つようないい芝居をお見せしたい」と意気込んでいる。
2幕6場で約2時間半。30日は午後6時、31日は同1時に開演する。入場料千円。問い合わせは、同劇団電話0465(22)2988。
静岡
遠江で活躍の村松以弘など門下生紹介 掛川で『渡辺崋山と弟子』展
花鳥画など重文含む26点
渡辺崋山の弟子たちが描いた「山水図屏風」に見入る来場者=掛川市で
幕末の画家、蘭学者として知られる渡辺崋山(1793~1841年)と、遠江で活躍した弟子たちの作品を紹介する「渡辺崋山とその弟子たち」展が11月28日まで、掛川市二の丸美術館で開かれている。 (佐野太郎)
渡辺崋山は三河の田原藩士の子として江戸で生まれ育ち、晩年を今の愛知県田原市で過ごした。「遠江の南画の師」として多くの人々に影響を与え、彼らが描いた人物画や花鳥画、山水画は遠近や陰影に西洋の画法を取り入れたのが特徴。
今回の展示は、崋山の作品を数多く所蔵する田原市博物館と浜松市美術館の協力で、重要文化財8点を含む26点を並べた。
崋山が46歳のときの作品「孔子像」などのほか、後に掛川藩お抱え絵師となった村松以弘をはじめ、「崋山十哲」として知られる見付出身の福田半香、榛原出身の平井顕斎らの優れた作品を、来場者が興味深そうに鑑賞していた。
観覧料は一般200円。小・中学生100円。開館時間は午前9時~午後5時(入館は4時半まで)。休館は月曜(祝日は開館)、祝日の翌日。問い合わせは同美術館=電0537(62)2061=へ。
石川
映画:「武士の家計簿」完成 御算用者の暮らし描く /石川
幕末の加賀藩を舞台に下級武士「御算用者(ごさんようもの)」の暮らしを描いた映画「武士の家計簿」(森田芳光監督)がこのほど完成。28日、金沢市内で森田監督や出演者が完成披露記者会見を開いた。
原作は磯田道史・茨城大准教授の「武士の家計簿『加賀藩御算用者』の幕末維新」(03年、新潮社)。加賀藩の会計の専門家として働く武士の生活と、暮らしを支える家族のつながりを描いた。
会見には森田監督のほか、主人公・猪山直之役の堺雅人さん、直之の父、信之役の中村雅俊さんが出席。堺さんは印象に残った撮影シーンに家族の食卓を挙げ「どの時代にも温かい思い出や営みがあるのは同じ。笑ってばかりの楽しい現場だった」と語った。
映画は27日から県内6映画館で先行上映され、12月4日から全国でも上映される。【宮嶋梓帆】
奈良
歴史学び きずな継承
◇ルーツたずねて
▼新十津川 移住120年(下)
十津川村から遠く約1200キロ隔てた北海道への移住から120年。距離と時間を超えて、きずなは今も途絶えていない。
7月29日、村役場を訪れた小中学生23人らを、村民ら約30人が盛大な拍手で迎えた。新十津川町の一行だ。
23人は体育館で町の歴史などをスクリーンに映しながら紹介。北海道弁も披露した。「初対面じゃないような熱烈な歓迎ぶり。とてもうれしかった」と驚きを隠せない新十津川中2年の藤井梨菜絵さん(14)。森本里梨花(りりか)さん(13)も声を弾ませた。「関西弁がかっこよかったので教えてもらった。方言を教え合い、楽しかった」
子どもたちは、村に伝わる国の重要無形民俗文化財「武蔵の大踊り」も習った。その姿に、武蔵踊り保存会会長の尾中修さん(72)は目を細めた。「高齢化し、引き継ぐ人がいなくなるのではと不安。でも新十津川の若い人たちに伝え、残していきたい」
町では十津川村のことを「母村(ぼそん)」と呼んでいる。「親子関係みたいな感じですね」と町教育委員会社会教育グループ主任の竹村大樹さん(35)。町唯一の新十津川小学校では、大水害から移住までの歴史を10ページにわたって載せた副読本で学び、「遠きふるさと十津川」の一節のある校歌を歌う。
交流には剣道も欠かせない。
十津川郷士の時代から、村の剣道の強さは有名だった。北海道移住の途上でも、天皇の誕生日を祝った「天長節」や長旅の慰安のために剣道の試合を行ったという。移住から20年後には町に剣道団体「尚武(しょう・ぶ)会」ができ、1960年、村の剣士10人が町に招待されたのをきっかけに、5年ごとの行き来が続いている。
小中学生の訪問から1カ月後。今度は村から十津川剣道クラブの会員らが町を訪問。個人戦と団体戦を行い、団体戦は十津川剣道クラブが勝利した。クラブの片山武夫会長(63)が「試合が近くなるとみんな必死に練習し出す。恥ずかしい試合はできないから」と言えば、尚武館館長の後木(うしろぎ)祥一さん(59)も「年の近いライバルも多い。対戦は負けられない」と真剣そのものだ。
20~30代の青年団も36年前から互いに行き来し合う。カップルも成立した。東(あずま)勝美さん(43)、珠美さん(41)夫婦だ。
村の珠美さんが91年に町を訪問、文房具店で働く勝美さんとの交際が始まった。1年後、音楽教師だった珠美さんは北海道の教職員採用試験を受けて町に移住し、結婚。先祖が村出身の勝美さんは「本当の意味での里帰りが一緒にできるのでうれしい」と喜ぶ。
●お互い先人に感謝
現在、先祖が村出身の町民は1割を割ったというが、いずれの首長もきずなは揺るぎないようだ。植田満町長(65)は先祖が四国出身だが、「この町に住んでいると、自然と十津川村を母村と思う気持ちになる。120年の流れは消えないし、消してはいけない」。更谷慈禧村長(63)も「お互いに合併せずに単独でやってきているが、もしどうしても合併しなければならない時は、一緒にしようかと冗談で話したことも。これからもお互いに先人に感謝し、関係を守り続けていきたい」と話す。
自分のルーツを知りたいと始めた取材。大変な苦労を高祖父が経験し、北海道開拓の一端を担っていたことを誇りに感じた。(この連載は伊藤あかりが担当しました)
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■シンボルマーク 十津川村の村章は、十字をひし形が囲んだ「菱十(ひしじゅう)」。十津川郷士が京都御所を交代で警備した功績から、幕末に朝廷から賜ったという。新十津川町も同じマークを町章に使い、十津川郷士の誇りを受け継いでいる。北海道に移住した際、移民らは「新しい村を造っても、十津川郷とは幾世代に亘(わた)ってその因縁を保ち、由緒を継続する」との宣誓文を作った。
愛媛
蝦夷調査探検家と伊達藩とのかかわり探る 宇和島
幕末に蝦夷(えぞ)地を調査して全国に情報発信した探検家・松浦武四郎と、宇和島とのかかわりを探る歴史シンポジウム(宇和島歴史文化研究会など主催)が30日、宇和島市住吉町1丁目の市総合福祉センターで開かれた。
出身地の三重県松阪市や北海道などから研究者が集結。吉田松陰ら幕末の志士や各地の幕臣たちに、独自のネットワークで外交などの情報を伝えた武四郎の功績を、県内外から集まった約120人の歴史ファンらを前に語った。
武四郎はペリー来航時、宇和島藩家老の依頼で下田を調査。その礼金5両を元に蝦夷地図を完成させ、藩主伊達宗城(むねなり)に献上している。その自筆地図「三航蝦夷全図」(宇和島伊達文化保存会所蔵)も初めて公開された。保存状態が良く鮮やかな色のまま、アイヌ民族が住む場所などの記載や解説文がはっきり読み取れる貴重な史料に参加者は見入った。
高知
ジョン万次郎の生家、募金で復元…1日から公開
幕末、出漁中に遭難し、米国の捕鯨船に助けられて日米友好の橋渡し役となったジョン万次郎(1827~98)の出身地、高知県土佐清水市中浜に万次郎の生家が復元された。
日本の発展、国際交流に多大な貢献をした英雄に思いをはせる、新たな名所となりそう。31日に落成式が行われ、1日から無料公開される。
開催中の「土佐・龍馬であい博」に合わせ、土佐清水商工会議所など地元30団体の復元実行委が昨年末から募金活動を行っていた。龍馬ブームに伴い、龍馬の世界観に影響を与えた万次郎への注目度も高まっており、県内外から集まった募金総額は目標の1000万円を超す、1250万円に。建設には、このうち1155万円を充てたという。
復元された生家は残された古い写真をもとに設計されており、かやぶき屋根の木造平屋(約28平方メートル)で、板の間や土間、かまどなども再現されている。内部には古い民具も置く。周囲は石塀で囲まれており、近くには万次郎が使った井戸もある。
であい博の土佐清水市サテライト会場に向かう途中に万次郎の生家跡を訪れた徳島県鳴門市の建築設計業堀和英さん(58)、恭子さん(58)夫婦は「復元を知らずに来たのでいい記念」と喜んだ。
31日には、土佐清水市養老のあしずり港岸壁で「第3回土佐清水ジョン万祭り」も開かれ、万次郎の子孫による講演会や仮装コンテスト、沖縄ジョン万次郎会の舞踊が披露されるなど、地域は万次郎一色になる。
公開は午前9時~午後4時で、地区住民が生家の管理や観光客らの案内をするという。問い合わせは平日に中浜区長場(0880・82・9027)へ。
(2010年10月31日12時56分 読売新聞)
佐賀
佐賀七賢人しおり、県内書店で無料配布
佐賀県書店商業組合(岩永藤房理事長)は、秋の読書シーズンにあわせ、「佐賀七賢人しおり」計7万枚を作成、今月から県内の書店で無料で配布している。
しおりは、県教育委員会が幕末や明治期に活躍した佐賀県出身者を紹介する「佐賀偉人伝集」(全15巻)を今秋から5カ年計画で出版することや、今年が「国民読書年」となっていることから作成。鍋島直正や大隈重信、江藤新平ら明治維新で活躍した七賢人の顔写真や略歴が掲載されている。
同組合では七賢人各1万枚、計7万枚を作成。岩永理事長は「幅広い年齢層の方たちに、ふるさとの偉人について知ってもらうきっかけになれば」と話している。
武雄領主、“定説”より2年早く写真機使用か
諸説あるものの1848(嘉永元)年、日本人が海外の写真機を初めて購入。だが、武雄の第28代領主鍋島茂義は、その2年前に長崎から写真機を取り寄せていた-。写真史の“定説”を覆すような貴重な史料が、武雄市の市図書館・歴史資料館で開催中のミニ企画展「写真に観る武雄」で紹介されている。江戸期の撮影機材などを含め、来年1月19日まで展示する。
同館によると、海外の写真機を手に入れたのは、長崎で日本初の写真館を開いた上野彦馬の父で、長崎の時計師だった上野俊之丞。本人の記録帳「上野俊之丞書留」によると、1848年にオランダ船から購入したことが記されているという。
しかし、武雄領主による輸入品の手配などを記述した古文書「長崎方控(かたひかえ)」は1846(弘化3)年10月5日、「写真鏡小(写真機) 一筥(はこ)」を取り寄せ、同21日に俊之丞へ返品したことを明記。少なくとも2年前に海外製の写真機が日本で使われていた可能性があるという。
「『初購入』の時期については依然、研究課題だが、武雄領主が極めて早い時期に写真機を取り寄せたのは間違いなさそう。進取の気性に富んだ様子を垣間見ることができる」と担当者。
資料館内の「蘭学館」の一角に設けられた会場では「長崎方控」のパネルのほか、武雄領主が幕末に購入した英国製の写真撮影時の照明器具「ガルハ焼入器」、長崎で写真修業をした武雄鍋島家家臣の木々津又六(1835-没年未詳)が帰郷時に持ち帰った古写真、昭和初期の武雄の様子を伝えるガラス乾板写真による作品など計26点を公開。入場無料。同館=0954(20)0222
大分
日田の先哲・平野五岳の詩文 本格的に解析
日田市出身の先哲、平野五岳(1809~93)の子孫にあたる、専念寺の平野法好住職(60)=同市亀山=が「平野五岳詩選訳注」を発行。27日、佐藤陽一日田市長らに献本した。五岳の詩文を本格的に解析した本は初めてという。
著者は五岳研究の第一人者の河内昭円・大谷大学名誉教授。掛け軸などに独特の草書で書かれた五岳の詩218首を正漢字におこし、書き下し文、現代語訳、注釈、余話を付けている。河内名誉教授は「黒船来航、安政の大獄、明治維新など、情勢を極めて細かくとらえて詩に読み込んでおり、当時の日田や幕末の新しい一面が見える。詩もスケールが大きくて素晴らしい。日田の宝」と絶賛。五岳は優れた画家として知られているが「詩人としてもっと全国的に知られてよいのではないか。研究者も増えてほしい」と話した。
平野住職、五岳上人協賛会の松永敦海さんは「詩文がいかに素晴らしいか全国にアピールしたい。一人でも多くの人に読んでもらいたい」。佐藤市長は「この本をきっかけに多くの人に五岳のすごさを知ってもらいたい」と謝辞を述べた。
市淡窓図書館などにも寄贈している。A5判・457ページ。6825円。申し込み、問い合わせは専念寺(TEL0973・22・2380)へ。
史実
坂本竜馬の「新政府綱領」に新説?
幕末の英雄で、ブームの真っただ中にいる坂本竜馬。その歩みには多くの謎がある。そのひとつが「船中八策」と「新政府綱領八策」という文書。前者は竜馬が発案し、倒幕後の国家体制の基本方針を記した文書とされているが、原文書は存在していない。後者は竜馬直筆の文書で、前者とほぼ同内容だ。双方については長年、論争の的となってきたが、そこに一石を投じそうな資料が見つかった。 (秦淳哉)
コラム
【龍馬を慕(おも)う】(31)下関・馬関海峡 長州に協力 幕府軍を破る
「八十斤加農(カノン)砲」が、馬関(関門)海峡に砲身を向けている。青銅製のため、くすんだ青みがかった色をしている。全部で5基。もちろんレプリカである。壇(だん)ノ浦砲台と呼ばれ、西側の上方に関門橋が架かる「みもすそ川公園」に展示されている。
海峡が大河のようにうねりながら流れている。波がときたま弾け飛び、波頭が白くめくれあがった。流れは1日に4回も変わり、海流は最速約10ノット(時速18キロ)に達するという。
幕末の長州藩はこの海流のように、激しい勢いで維新の動乱にのめりこんでいった。藩全体が、精神病理学の対象となってもいいほど沸騰しまくった。時に激怒し、時に沈鬱(ちんうつ)となり、時にヤケクソになり、時に大笑し、時に滂沱(ぼうだ)の涙を流した。
それでも自恃の念だけは失わなかった。関ケ原の戦いで領地を大幅に減らされた結果、「反徳川」の思いは通奏低音となって、二百数十年の間、藩士たちの意識の底でか細い響きをはなちつづけていた。
カノン砲は壇ノ浦と、東に1キロほどいった「前田」という場所に設置された。文久3(1863)年5月、幕府のいやいやながらの攘夷決行を受け、長州藩は翌6月にかけ、海峡を航行する外国船に向け、一斉に砲撃を加えた。
長州藩は翌元治元年7月、「蛤(はまぐり)御門の変」を起こし、大敗北を喫した。その直後の翌8月、アメリカ、イギリスなど4カ国の連合艦隊17隻が壇ノ浦、前田の両砲台を徹底的に破壊した。上陸され、占領までされてしまったのだから、完敗であった。
ついで第一次長州戦争で降参し、藩そのものが幕府への絶対恭順派によってかためられた。だが奇兵隊をひきいる高杉晋作の獅子奮迅の活躍で、恭順派を追い落とし、慶応2(1866)年6月から、幕府軍と戦闘に入った。第二次長州戦争である。
この間、わずか3年ほどである。通奏低音がじょじょにシンクロナイズし、とうとう大音声(おんじょう)を響かせたわけである。この時期の長州はスーパーマンなみの大活躍を演じた「スーパー藩」であった。
●高杉晋作からの依頼
坂本龍馬は、外国船の攻撃にも、蛤御門の変にも、第一次長州戦争にもかかわっていない。かかわったのは、第二次長州戦争である。
薩長同盟の締結を受け、龍馬は長崎の亀山社中を通じて、薩摩藩名義で軍艦や大量の銃器を外国商社から買いつけ、長州藩に提供した。長州軍は大村益次郎の指揮によって、軍隊をいっきに近代化させることに成功した。
龍馬は戦闘にも加わった。目の前に広がる馬関海峡で、高杉ひきいる長州艦隊のうちの乙丑(いっちゅう)丸に乗り込んだ。乙丑丸は亀山社中が薩摩藩名義で買いつけた桜島丸のことである。
三田尻に本拠を置く長州海軍には、乙丑丸を含め、丙寅(へいいん)丸、癸亥(きがい)丸、庚申(こうしん)丸、丙辰(へいしん)丸の計5艘の軍艦があった。高杉の狙いは、対岸の小倉口を占拠し、幕府側の小倉藩をたたくことであった。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』によると、高杉は下関の酒席で龍馬と会い、
「坂本さんに、わが艦隊の半分をまかせるゆえ、幕府海軍を制圧してもらえんだろうか。あとの半分はわしがひきいる」
と、門司浦の襲撃を頼んだ。6月16日深夜、乙丑丸は庚申丸をひきい、門司浦に向かった。高杉は旗艦の丙寅丸に乗り込み、門司浦の反対側の田野浦方面を目指した。
対岸の門司一帯には、砲台や幕府軍陣地が並んでいた。長州艦隊は翌17日未明、一斉に砲撃をはじめた。まだ幕府側の艦隊は、馬関には着いていなかった。攻撃は一方的であった。
龍馬もずいぶん楽しかったらしい。同年12月4日、兄、権平宛(あて)の手紙には、海戦図まで描いたうえ、
「長州の軍艦を引て戦争セしに、是ハ何之心配もなく、誠ニ面白き事にてありし」
と書き送っている。
●「小さな珠」が標的
第二次長州戦争は、小倉口のほか、瀬戸内側の芸州口、山陰側の石州口などで展開されたが、幕府軍の完敗に終わった。とくに小倉口では、奇兵隊員が上陸し、小倉城を陥落させてしまった。
この敗北は、幕府にとっては決定的だった。熊本藩が戦の途中から国に引き揚げてしまったうえ、日本最大の洋式軍隊を持っていた佐賀藩にいたっては、幕府の出動命令を無視した。
陽(ひ)が落ちてきた。わずか700メートル先にある門司のビルや建物群の灯(あかり)がともりはじめた。この公園ちかくで幼少期をすごした作家、松本清張はエッセー「半生の記」の中で、
「夜になると、門司の灯が小さな珠(たま)をつないだように燦(きらめ)く」
と書いている。門司浦の戦いのさいにも、幕府軍は台場や陣地ごとにかがり火を焚(た)いた。龍馬にとっては、「小さな珠」をつないだようなかがり火が、うってつけの標的になったはずである。
◇
≪メモ≫
下関までは東京(羽田)からだと山口宇部空港か、北九州空港へいずれも約1時間半。下関へは空港バスを利用していずれも約70分。新大阪からだと新幹線で新下関まで約2時間半。下関市吉田町には高杉晋作を葬った墓と、最期を看取(みと)った愛人・うのが住んだ東行(とうぎょう)庵がある。また、下関はこれからフグの季節で、彦島の南風泊(はえどまり)市場に水揚げされたフグ料理を味わいたい。
◇
≪きょうの「龍馬伝」≫
NHK総合 午後8時~ ほか
薩土盟約を受け、後藤象二郎(青木崇高)は土佐に戻り、山内容堂(近藤正臣)に大政奉還論を説くが、容堂は拒否する。土佐の挙兵のために必要な銃を仕入れるために長崎に戻った龍馬(福山雅治)だったが、白ばかまの武士がイカルス号という船の英国人水夫を殺した事件で海援隊に犯人の嫌疑が掛かってしまう。英国公使・パークス(ジェフ・ワスティラー)は弥太郎(香川照之)に、犯人を引き渡さなければ英国艦隊が土佐を攻撃すると脅す。奉行に追われる龍馬の代わりに、惣之丞(要潤)が奉行所に連行され、隊士たちは真犯人を捜し始める。
【次代への名言】非常の師弟編(19)
■「ときは一度すぎると千年たっても再来せず、肉体と精神は朽ちれば永久に再生しない。だから学問・事業をのんびりと考えてはならぬ」(佐久間象山)
佐久間象山は偉大だった。ほとんどの洋(蘭)学者が漢訳の洋書をもとに研究していた時代に、原書から西洋の科学技術や軍事に関する知識を得るため、33歳という年齢で、オランダ(蘭)語に挑み、1年ほどで習得に成功したのだ。
それだけではない。このころの洋学の大家は「誤りだらけの翻訳書にもかかわらず、それを秘中の秘として、同じ日本人に対して隠匿する」(象山が友人に寄せた書簡)という傾向があった。対する象山は「自分の講義は、ひとえに天下国家のために微力を尽くすだけであって、出世や他人を見下すのが目的ではない。それゆえ刻苦精励して得た技術もそれを隠したりはせず、日本で一人でも多く有意義に活用してもらうために公開する」
だから、「黒船来航」の数年前に象山が江戸で開いた私塾には俊才が集った。幕臣の勝海舟、いまをときめく坂本龍馬、若き大器の橋本左内、吉田松陰。多くは師同様、非命に斃(たお)れるが、幕末を雄飛した志士たちの登竜門の観がある。
冒頭のことばにあるように、象山は時間と競争するように学問と事業にのぞんだが、半面、失敗も多かった。「撃てばひしげる高慢の鼻 後の始末をなんとしょうざん(象山)」。大砲の試射に失敗し、こんな戯(ざ)れ歌が流行したとき、象山は傲然(ごうぜん)と言いはなったという。「失敗は成功の基。失敗も結局は日本のためになる」(文化部編集委員 関厚夫)
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