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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昨日辺りから一段と寒くなってきたので、ダウンジャケットを引っ張り出して着ました。これを着ると「冬」って気分です。

北海道
龍馬祭、函館で開幕 一族と北海道の縁紹介
 北海道開拓を夢見た幕末の志士、坂本龍馬とその子孫の足跡を紹介する「龍馬祭2008」が十一日、函館市五稜郭町の五稜郭タワー一階で始まった。坂本一族と北海道とのかかわりをパネルで紹介。NPO法人・北海道坂本龍馬記念館実行委員会(三輪貞治理事長)が龍馬の命日(十一月十五日)に合わせ、札幌以外で初めて開催した。
 実行委は、明治維新の立役者となった龍馬の一族と北海道開拓のつながりを伝えようと二〇〇一年に札幌で発足。〇三年から札幌で龍馬祭を始め、今年八月、龍馬の養子の直(なお)(小野淳輔)や親族も暮らした函館に拠点を移した。一〇年の記念館開設を目指し、資料収集と資金集めに力を入れている。
 パネルでは龍馬の一生や、一八九八年(明治三十一年)に一族を挙げて北海道に移住した坂本家の足跡を紹介している。坂本家八代目で釧路出身の山岳画家の坂本直行の遺品も展示している。
 龍馬の幼なじみの沢辺琢磨が、函館ハリストス正教会で日本人では初めて正教の洗礼を受けたり、養子の直が五稜郭の箱館裁判所に勤めたりしていたエピソードも紹介している。
 十五日午前十一時からは、民謡などの伝統芸能公演と伝統武道演武が会場のステージで行われる。入場無料。十六日までで、開場は午前九時から午後六時まで。(山村晋)


会員78-500人超 活動さらに活発化…咸臨丸とサラキ岬に夢みる会
【木古内】木古内町亀川地区の国道228号沿いにある広場「サラキ岬」を拠点に、観光行事や文化事業の展開で地域活性化を図る民間団体「咸臨丸(かんりんまる)とサラキ岬に夢みる会」(久保義則会長)は発足から5年目に入り、会員も増え、活動が一層活発化してきている。11日には、その活動に共感した北斗市の造園業者からクロマツ2本の寄贈の申し入れもあり、来春に植樹されることが決まった。まちづくりの情熱が着実に浸透する中、メンバーは「知恵と持ち前の行動力で一層の活動の充実を目指し、これからもまちを盛り上げていきたい」と張り切っている。
 夢みる会は2004年10月、自治会(町内会)や観光協会役員ら78人で立ち上げた。会員は年々増え、現在では500人を超える大所帯となった。
 「歴史を学び、これからのまちづくりに生かそう」と定期的に勉強会を開くほか、同岬の花壇整備や清掃など一年を通じたボランティア活動に汗を流す。毎年5月の連休時期には、岬一帯に約5万球が咲く「チューリップまつり」を主催。函館や松前などから大勢が来場し、初夏の木古内を代表する人気イベントに成長した。
 今年の活動を締めくくる球根植え作業は10月下旬に行われ、その際に傷みが激しくなった道路沿いの船型の看板の補修も行った。会員らが塗装や新しい支柱を取り付け、従来の設置場所から200メートルほど海よりの高台に移動。勝海舟や福沢諭吉らを乗せた幕末の輸送船「咸臨丸」が座礁、沈没したとされる沖合に“船首”を向けるようにした。
 この看板は木古内観光協会が1994年4月に設置。国道横を走るJRを利用した「咸臨丸子孫の会」(小林賢吾会長、事務局・横浜市)のメンバーが車窓からこの看板を目にし、以来、木古内住民と親ぼくを深めている。同岬のチューリップは、「咸臨丸が造船されたオランダの花を木古内に咲かせたい」と、子孫の会関係者が同国から取り寄せたのがきっかけ。
 久保会長は「この看板がまちづくり活動の原動力になってくれた」と振り返り、「われわれの夢を乗せた咸臨丸をまちづくりに生かさない手はない。時代の荒波を越えて力強く進めるように、今後も皆で協力し、会として最良の“かじ取り”をしていきたい」と話している。
 夢みる会に関する問い合わせは事務局(木古内観光協会内)TEL01392・2・2046。



宮城
奥羽越列藩同盟の意義再考 白石で23日シンポ
 上記リンク先は河北新報サイト(閲覧に会員登録が必要・無料)です。
 戊辰戦争で奥羽越列藩同盟(1868年)の締結の地となった宮城県白石市で23日、シンポジウム「戊辰戦争140年in白石」(市など主催)が開かれる。仙台藩など6藩にゆかりのある歴史研究者らが白石に集い、戊辰戦争の中で東北が一つになった意義などを再考する。
 シンポは同市鷹巣東2丁目のホワイトキューブで午後1時半開会。「戊辰戦争と奥羽越列藩同盟の歴史的意義」をテーマに作家加来耕三氏が基調講演を行う。
 パネル討論には、同盟に加わった東北31藩の中から盛岡、仙台、会津、秋田、米沢、長岡各藩の代表として、地元の大学教授や博物館学芸員らが1人ずつ出席。白石市長の風間康静氏、コーディネーターとして戊辰戦争研究会主宰の作家星亮一氏(福島県郡山市)を交え、同盟を今日のまちづくりにどう活用するかなどについて議論を深める。
 奥羽越列藩同盟は戊辰戦争のさなか、官軍が追討令を出した会津藩の救済を求めて仙台、米沢両藩が主唱。まず25藩が盟約を結び、越後の6藩も加わって31藩となった。
 東北戦争とも呼ばれる戊辰戦争で仙台藩は、白石城を会津藩へと通じる最前線基地と位置付けて大兵力を集結。白石城には同盟諸藩の参謀らが評議を行う「公議所」も置かれた。
 シンポは入場無料。関連行事として22―27日には、同市半沢屋敷前の市図書館で戊辰戦争の史料展示やビデオ上映も行う。連絡先は白石市教委生涯学習課0224(22)1327。

 母方の祖母が白石出身なので、このイベント、興味あります。後日、シンポジウムの様子が報道されるのを楽しみにしています。


埼玉
「夜明け前」島崎藤村(川越市)
◇「川越の老母」の墓 ひっそりと

 〈木曽路はすべて山の中である〉――島崎藤村(しまざきとうそん)(1872~1943)の大作『夜明け前』は、有名なこのひと言で始まる。
 1929(昭和4)年から6年余をかけて雑誌「中央公論」に分載された。中山道は馬籠の本陣・庄屋の当主だった実父をモデルとする青山半蔵が、明治維新のために奔走した末に心を病み、56歳の生涯を終えるまでを、膨大な資料を織りこんでつづった小説。
 川越が、舞台になっているわけではない。川越の大きな店をたたんで江戸に出た一家(多吉、お隅夫婦と1女)の家に、半蔵が前後3度ほど寄宿。温かな交情ぶりが随所に描かれる。
 このストーリーを、藤村は2人目の妻静子の母、加藤幹(みき)に聞いた事実をもとに仕立てたのだ、といわれる。


東京
遊ナビ・アート館:テーマ展示 /東京
遊ナビ・アート館:テーマ展示 /東京
■怒濤の幕末維新--攘夷・開国から民撰議院設立建白書提出へ

 28日まで9時半~17時、衆議院憲政記念館(地下鉄国会議事堂前駅)。ペリーの来航から明治維新を経て、自由民権運動の板垣退助が民撰議院設立建白書を提出するごろまでを関係資料206点で振り返る。討幕の密勅や吉田松陰の書、高杉晋作の日記など。入場無料。電話03・3581・1651

 知らなかった……「倒幕の密勅」って入場無料で公開展示されるもんなんですね(爆)。近々見に行ってこようかしら。


京都
<京のひと>京こま 中村佳之さん 40
途絶えた技復活
(中略)
 会心のできばえに、中村佳之さん(40)は思わず、ほおを緩めた。
 幕末創業の京こま店「紫竹雀休(じゃっきゅう)庵」の6代目を父に持ち、今ではただ1人の京こま職人として、「雀休」と名を変えた店を、二条城に近い中京区内で営む。




広島
江戸期の廿日市、CGで再現
 宿場町として栄えた江戸時代の廿日市市中心部の町並みを再現しようと、広島工業大環境学部の三好孝治准教授(59)の研究室と廿日市市郷土文化研究会が共同でコンピューターグラフィック(CG)制作に取り組んでいる。
 CG化するのはJR廿日市駅近くの本通り商店街を中心とした一帯。江戸時代は約330軒の町家が旧西国街道沿いに軒を連ね、本陣が置かれていた。地図画像処理が専門の三好准教授の提案で2月から作業を始めた。

 現在、取り組む同商店街の東エリアは幕末の第2次長州戦争(1866年)の際に焼失し、当時の建物や図面はわずかしか残っていない。正徳年間(1711―15年)の町家の屋号と間口や奥行きの寸法を記した古地図や文化5(1808)年の絵地図をもとに、商売の内容や建物の形状などを分析した。


山口
薩長土肥サミット:18日開催 パネルで4市資料紹介--シーモール /山口
 下関市は「明治維新140周年記念薩長土肥サミットinしものせき」(18日開催)を前に、シーモール下関2階の下関ギャラリーでサミットを紹介するパネル展を開いている。
 サミットに参加する鹿児島市、下関市、高知市、佐賀市の「薩長土肥」4都市の資料をそろえた。明治維新の志士や子孫、ゆかりのある人々の写真、コメント、解説など興味深い。彩りも豊かな各市のポスターも並ぶ。
 当日は4市長がパネリストとして「これからの地方都市の連携戦略」をテーマにシンポジウム。ほかに下関市在住の直木賞作家、古川薫さんが講演し、坂本龍馬と高杉晋作2人の“夢の対談”も。
 サミットは午後3時からシーモール下関4階のシーモールホールで開演。入場料無料。パネル展は当日まで。【尾垣和幸】



福岡
出版:元教諭、「筑豊炭田に生きた人々」 過酷な庶民生活/炭鉱の歴史検証 /福岡
◇元教諭の工藤さん、二瀬炭鉱で曽祖父ら従事 “納屋制度”相互扶助や人情培う
 産炭地としての筑豊の近代史をひもとく書籍「筑豊炭田に生きた人々-望郷の想い 近代編」(海鳥社)を、元高校教諭、工藤瀞也(せいや)さん(65)=北九州市小倉南区=が出版した。過酷な庶民生活も含め、明治末までの歴史を詳細に検証した。【入江直樹】
(中略)
 書籍で、近代化を支えた石炭産業は江戸時代の庶民がまきや木炭の代わりに家庭用燃料として使ったことが始まりとした。重要性に目をつけた諸藩が炭鉱経営に乗り出して産業化し、明治維新後の民営化の中で貝島家や麻生家などの財閥が台頭してきたとしている。

 その麻生家の末裔が、現総理大臣ですね。

遠賀川と洞海湾結ぶ堀川に 「川ひらた」70年ぶり復活  観光資源活用に光 「柳川に負けぬ風情」
 遠賀川と洞海湾を結ぶ運河・堀川(全長約12キロ)に、かつて石炭輸送で重要な役割を担った「川ひらた」(五平太舟)が70年ぶりに復活した。堀川が、昨年11月に国から近代化産業遺産に認められたことを受け、市民団体「堀川再生の会・五平太」が主催した記念試乗会。参加した約100人は、製鉄産業の発展を支えた礎に思いをはせた。
(中略)
 堀川は、福岡藩主黒田長政が治水のため計画し1621年に着工、1804年に完成した運河。洞海湾への水運に利用され、流域の田地を潤した。幕末からは筑豊地域で産出した石炭輸送に大きく貢献。ピーク時は1日600隻の川ひらたが往来した。その後、鉄道網の整備に伴って1938年、水運の役目を終えた。85年には近くを流れる曲川の治水計画で、堀川への流水が激減した。現在、生活排水が流れ込むだけになっている。



鹿児島
方言・教え 若い世代に
 鹿児島の方言や郷土の教えを若い世代に伝え、県外からの観光客にも知ってもらおうと、県はリーフレットを作成した。10月28日まで4日間、県内で開かれた「ねんりんピック鹿児島2008」に合わせ、ホテルやコンビニエンスストアに配布。すると、追加を求める声が寄せられ、評判は上々だったという。(古城博隆)
(中略)
 裏面は人生訓につながる言葉であふれる。「いろは歌」は、島津家中興の祖、忠良(1492~1568)が家臣団の教育書とした。薩摩の士風や文化の礎とされる。「南洲(なん・しゅう)翁遺訓」は西郷隆盛(1827~77)の言葉を戊辰戦争で敵対した庄内藩(現山形県)の人々が西郷を慕ってまとめた。

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