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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 NHK「ブラタモリ」再放送視聴中なう。今日は二子玉川周辺なんで、江戸のうんちくが出てこないのが残念。でも、子供の頃から丸子橋周辺の風景が目になじんでるんで、多摩川べりの風景は、やはり和みます。

神奈川
年に一度の『船越の舞台』 多摩区・日本民家園 農村歌舞伎に400人
 「文化の日」の三日、川崎市立日本民家園(多摩区枡形)で民家園まつりが開かれた。幕末に造られた「船越の舞台」では農村歌舞伎が披露され、来場者約四百人が楽しんだ。
 船越の舞台は一八五七(安政四)年、三重県の神社に建てられ、村人らの芝居奉納に使われた。充実した舞台装置が特徴で、一九七三年に同園に移築され、七六年に国の重要文化財に指定された。同園の木下あけみ園長によると、現在、舞台が使われるのは年に一度という。
 この日は、東京都あきる野市で農村歌舞伎の伝承活動をしている「秋川歌舞伎あきる野座」が「菅原伝授手習鑑(てならいかがみ) 寺子屋の場」を披露。恩のある菅原道真の子を守るため、「松王丸」が愛息を身代わりにする悲劇で、松王丸が見えを切る場面では、会場からおひねりが舞った。
 中原区の市立大谷戸(おおがやと)小学校一年、大内彩寧(あやね)さん(7つ)は「面白そうだから前から歌舞伎を見てみたかった。楽しかった」と満足げ。父親の貴史さん(41)も「また観劇に連れて行く、いいきっかけになった」と話していた。 (北条香子)


新潟
新潟大神宮:会津藩士慰霊碑を修復 建立120年、関係者70人が除幕式 /新潟
 戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)で戦場になった新潟で戦死した会津藩士を弔うため、明治時代に新潟大神宮(新潟市中央区西大畑町)に建てられた慰霊碑が修復され、3日、除幕式が行われた。碑建立から今年は120年の節目に当たり、新潟、福島県会津若松市の関係者約70人が出席し、歴史を語り継いでいくことを誓い合った。
 戊辰戦争では東北、越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結び、薩長などと戦い敗れた。慰霊碑は1890(明治23)年、墓も作ることを許されなかった会津藩戦死者を慰霊するため、新潟に移り住んだ会津藩の生き残りが地元の人の協力を得て建立した。「殉節之碑」と名が付けられたが、明治政府の目をおそれ、神社片隅の目立たない場所に建てられた。
 長い歳月がたち、碑にひびが入り、碑文の字も見えにくくなったため、新潟市内の有志が寄付を募り、修復事業に取り組んだ。一新された碑は高さ2・2メートルで、境内の見やすい場所に移された。碑文には会津藩が賊軍の汚名を着せられ、明治後も苦難の道を歩んだことが刻まれている。
 除幕式には、碑の伝承活動に取り組んでいる新潟市民のほか、菅家一郎・会津若松市長らが出席。120年前の碑建立に尽くした旧会津藩士の子孫という斎藤兵市郎さん(79)=新潟市東区=は「碑は新潟と会津のきずなの象徴。これを機会に市民に広く知ってもらい、交流を深めていきたい」と感慨深げに話した。【小川直樹】


福井
龍馬とのかかわり記録に 県文書館、福井藩士の残した資料展示
 坂本龍馬と福井藩のかかわりを記録した資料などを集めた企画展「知られざる幕末維新 福井藩士の記録」が、福井市下馬町の県文書館で開かれている。NHK大河ドラマで話題の龍馬を取り上げ、幕末の福井藩に関心を深めてもらう。12月23日まで。
 展示しているのは、松平春獄・17代藩主のブレーンとして活躍した鈴木主税の書簡集「遺愛帳」、側近の中根雪江の記録「枢密備忘」、国事に奔走した青山小三郎の「上京中日記」など5点や、藩士が残した「昨夢紀事」「再夢紀事」などを合わせた約80点。
 龍馬が、文久3(1863)年に姉にあてた書状(コピー、京都国立博物館所蔵)は「一大藩に信頼されて2、300人あずかり、10両、20両の金は容易に融通できる」と福井藩について記している。
 京都の福井藩邸に現れた龍馬の言葉を記録した「上京中日記」は、「老中格小笠原長道の暗殺計画を持ちかけてきた長州人を龍馬が説得した」「春獄公の登京がないことに対する詰問」などについて記している。
 「枢密備忘」では、文久2年に龍馬が春獄に面会の予約をしたが、会えなかったことなどが記されているという。家臣の関義臣が書きとどめた「風説書」などは福井藩の勝海舟に対する特別な思いや、福井藩と龍馬が描いた海軍構想が頓挫した経緯がわかる。


鳥取
県指定保護文化財「河本家住宅」 一般公開始まる
 鳥取県琴浦町箆津の県指定保護文化財「河本家住宅」の一般公開が3日から始まった。同住宅は、国の文化審議会が国重要文化財に指定するよう答申中。公開初日には文化講演会も行われ、県内外から多くの古民家ファンらが訪れた。一般公開は7日まで。
 河本家は尼子氏の家臣を祖とすると伝えられ、代々大庄屋などの要職を務めた。1978年の母屋の屋根ふき替えの際、棟札の調査で貞亨5年(1688年)の建築と判明し、建築年代の明らかな民家としては山陰地方で最古に属す。
 初めて同住宅を訪れたという淀江町西原の出来弘さん(70)は「立派な建物。伝統的な建物が残っていることが素晴らしい」と豪壮な建物に興味深く見入っていた。
 文化講演会では、同住宅に残る古文書を調査している県公文書館県史編さん室の坂本敬司室長が講演。幕末当時の当主が記した公務記録「諸事御用日記」を基に、庄屋の仕事を解説した。
 4日は、鳥取環境大学環境デザイン学科の浅川滋男教授が同住宅の建築様式について講演する。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(86)東大教授・山内昌之 堀利煕(下)
■領土の捨て置き拒否
 徳川幕府は鎖国を唱えながら、国境や領土の観念をあいまいにするところがあった。ことに松前口と呼ばれる蝦夷地(北海道)や北蝦夷地(樺太)など北辺の地は、19世紀にロシアの影響力が浸透するに及んで、松前藩の力では先住民族のアイヌ人、ニブヒ(ギリヤーク)人、ウィルタ(オロッコ)人との関係を円滑に処理できなくなっていた。
 この難しい局面で樺太に出張し、日本の主権を守ろうとした幕吏こそ堀織部正利煕(おりべのしょう・としひろ)なのである。
 ペリー来航と同じ嘉永6(1853)年にロシアの東洋艦隊司令長官プチャーチンが長崎に入港すると、幕府は筒井政憲(まさのり)と川路聖謨(としあきら)を送って談判させた。同じころ、樺太の久春古丹(クシュンコタン、後の大泊(おおどまり))に露艦1隻が投錨(とうびょう)し、兵が上陸し駐屯地をつくった。そこで幕府は目付の堀と勘定吟味役の村垣範正(のりまさ)(のちの遣米使節)を巡見使に任命し、ロシアの南下政策に直面する蝦夷地を松前藩から公収すべきか否かを検討させた。松前藩も樺太の西岸は北緯50度、東岸は48度まで支配権を及ぼし、清国も南樺太が日本領であることを事実上認めていたようだ。
 プチャーチンが樺太現地での国境画定を希望してきたので、幕府は堀らを樺太までさらに出張させた。ところが欧州のクリミア戦争に追われるロシアは、久春古丹の守備隊を撤退させ、プチャーチンの樺太行きも取りやめになった。
 ◆樺太を探検調査し報告書
 それでも堀は1カ月も費やして樺太を探検調査した。堀らがまとめた報告書は実に素晴らしいものだ。
 「御国疆(きょう)境見込之場所」(わが国の領土と境界となる見込みの場所)の調査で感心するのは、先住民族の生活実態やロシア船渡来の状況に詳しいだけでなく、提言の内容が的確なことだ。現状では本蝦夷地(北海道)の警衛を優先し、北蝦夷地は当座の手当てにとどめるにせよ、領土を捨て置きにしていない証拠をきちんと見せておき外国の干渉に口実を与えないように工夫すべきだというのだ。具体的に力を行使できない現在、さしあたり国境の具体的画定を延期するのが得策だと政治リアリズムにも徹している(綱淵謙錠『幕臣列伝』、『函館市史』第2巻などによる)。
◆領土の実効支配主張
 堀は、将来の領土と国境の画定に備えた実際の対応策も忘れていない。樺太の先住民族はロシアに服従していないので、将来の正式領有に備え来春早々から本格的に道路を切り開き、郵便や糧米の運送に障(さわ)りが出ないように措置を講ずるべきだと主張する。領土の実効支配を口先で御題目のように繰り返すだけでは、不法な国や外国人の野心を覆すには十分ではない。それは尖閣諸島の事例で現代の日本人も毎日痛感しているところだ。堀は歴史の先を見越して実効支配の証しをきちんと立てることを毅然(きぜん)と主張したのだ。
 この現実的な意見は、安政元年の日露和親条約交渉に生かされ樺太は両国雑居地と定められ、幕府による蝦夷地再直轄(ちょっかつ)の決め手にもなった。堀がすぐ箱館奉行に任じられたのは当然である。堀が樺太でたどった足跡は興味深い。アニワ湾の久春古丹から西海岸の白主(シラヌシ)を経由して来知志(ライチシカ)に至った。北緯48度30分である。こうして堀の調査探検以来、北緯50度を日露の境界として分ける考えが日本側で浮上する。堀はいかにも江戸人らしく、ロシアの侵攻への守護神として八幡宮を勧請(かんじょう)して引き返した。堀はナヨロの海上で雄渾(ゆうこん)な詩をつくったが、綱淵氏が訓をつけた一部を挙げておきたい。
 海湾行き尽して又層峰
 万里の風塵(ふうじん) 一短●(いちたんきょう)
 吟は江山に渋して助け少なきを嘆き
 程は天地を遐(はる)かなるも能く容(い)れらるるを喜ぶ
 堀利煕は、国益を背負って海岳(かいがく)をものともせず北域に至った。万里の風塵を一本の短い杖(つえ)でしのぎながら、ロシアとの境界とすべき北緯50度に近づく堀の勇姿が寒風ふきすさぶ北冥(ほくめい)に影絵のように浮かび上がる。堀の偉業で思い出すのは、歴代の自民党政権が尖閣諸島を「捨て置き」同然にし主権の証しを公に刻まなかったことだ。野党自民党は民主党外交を追及するだけでなく、その政権下で尖閣の作為や不作為が何故に起きたのか、固有の領有権が外国の理不尽な否定に毎日曝(さら)される遠因は何なのか、自民党政権の長年の失策を堀の勇気と胆力に学びながら謙虚に検証すべきであろう。(やまうち まさゆき)
●=竹かんむりに功の力がおおざと






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