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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
大阪産経の連載記事が終わったようです。

相手が悪かった? 力士を血祭りにした「狼藉現場」蜆橋 新選組なにわを奔(はし)る(1)
 大正から昭和にかけて、幕末を描いた無声映画といえば、チャンバラだった。「東山三十六峰、草木も眠る丑三(うしみ)つ時…たちまち起こる剣戟(けんげき)の響き…」。活動弁士の口上で繰り広げられる尊王志士と新選(撰)組の死闘-。そう、新選組の舞台はいつも京都だった。

 ところが彼らの行動を辿(たど)ると、意外にもその足跡は大阪に多い。理由はある。

 ひとつには、新選組が京都守護職、会津藩預かり=直属の武闘集団、諜報機関であったこと。2つ目に、その京都守護職が京都所司代のみならず、大坂城代、大坂町奉行を支配していたこと。さらに彼らの資金源の多くが大坂にあったこと-。自然、新選組の行動範囲は大坂に及ぶことになる。

 文久3(1863)年6月3日、新選組がまだ前身の「壬生(みぶ)浪士組」だったころ、事件は大坂で起きた。

 近藤勇(いさみ)、芹沢鴨(せりざわかも)、沖田総司ら約10人が大坂町奉行の要請で不逞(ふてい)浪士取り締まりのため大坂にきていた。

 さすがに仕事が早い。2日後には浪士2人を捕縛すると、近藤らを除く隊士8人は、定宿の八軒家(はちけんや)浜から夕涼みとしゃれて大川に川遊びに出る。

 途中、隊士の一人が不調を訴えたため船を下(お)り、徒歩で北新地の住吉楼に向かうことになった。下船したのは、鍋島藩屋敷前の堂島川鍋島河岸(がし)、今の大阪市北区西天満2丁目、裁判所のあたりだ。

 一行が新地に入り、蜆(しじみ)橋を渡ろうとしたとき、向こう側から大坂相撲の力士が渡ってきた。先頭の芹沢。「道を開けろ」「そっちこそ退(ど)け」。口論が始まり、激高した芹沢がいきなり鉄扇で力士を殴りつけた。

 退散する力士。これでその場は収まったかにみえたが、8人が住吉楼に上がり、上機嫌で飲んでいると、八角棒を手にした力士の集団20~30人(一説では50人以上)が、仲間の意趣返しとばかり、押しかけてきたものだから、収まらない。酒が入り、血気にはやる隊士らは「返り討ちにしてしまえ」と抜刀(ばっとう)し、大乱闘になったのである。

 数と力で勝る力士たちも剣客集団にはかなわない。結局、死者1人、負傷者十数人(死者5人、負傷者二十数人とも)の被害を出した。しかも「無礼討ち」が認められたため、翌日、大坂相撲側が酒1樽、金50両を添えてわびを入れ、落着したというから、相手が悪かったというしかない。

 以後、壬生浪士組は「壬生浪(みぶろ)、壬生浪」と呼ばれ、京、大坂の市民を震え上がらせた。 

× × ×

 北区曽根崎新地1丁目。御堂筋と堂島上通りが交わる滋賀銀行ビルの外壁に「しじみばし」の碑が埋め込まれている。かつて堂島川から分岐した蜆川に架けられた小橋で、南から淀屋橋、大江橋、蜆橋と渡ればお初天神に至ることが、落語「池田の猪買(ししか)い」に描かれている。

 江戸時代、川をはさんで南に堂島新地が開かれ、あの「曾根崎心中」の舞台にもなったが、後に米会所が設けられると、堂島はビジネス街に変わり、遊里としてのにぎわいは北の曽根崎新地に移っていく。

 明治42(1909)年の大火(天満焼け)で川は埋められ、住吉楼の場所も不明だが、蜆橋は新選組の最初の狼藉(ろうぜき)現場としてその名を残している。(今村義明)



 壬生浪士組 文久2(1862)年、清川八郎の献策で募集された「浪士組」が、京都到着後に分裂した後、近藤勇、芹沢鴨ら京都残留組を中心に翌年3月に結成された武装組織。幕府の職制では非正規組織だったが、京都守護職だった会津藩の預かり=大名と雇用関係のある士分=となり、月3両が支給された。尊攘派志士の探索、検挙など京、大坂の治安維持を任され、文久3年8月、「8月18日の政変」の功績により「新選組」の名称を許された。

謎広がる大坂与力暗殺、「殺人集団」をめぐる事件の真相は…維新150年大阪の痕跡・新選組なにわを奔る(2)
 本町通から松屋町筋を北に歩く。左手に都市型展示場「マイドームおおさか」(大阪市中央区)が現れる。屋根にアーチ型ドームを戴(いただ)くユニークな外観から視線を落とすと、植え込みの中に小さな石碑がある。「西町奉行所址」。江戸時代、東町奉行所とともに大坂市中を治めた役所の跡だ。

 広さ約9600平方メートル。南に隣接する大阪商工会議所と西側のホテルもその敷地に含まれ、明治に入り初代大阪府庁舎にも使われたというからその大きさがうかがえる。ちなみに、東町奉行所は今の府立大手前高校の北、近畿経済産業局などが入る大阪合同庁舎1号館近くにあった。両奉行所の間は直線で1キロと離れていない。

 元治元(1864)年5月20日夜、天神橋(天満橋という説も)で、西町奉行所与力、内山彦次郎が仕事帰りに襲われ、殺害された。67歳だった。

 彼はただの与力ではない。天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱の平定で功があったばかりでなく、経済・政策通で知られ、大坂の東西60騎の与力で初めて譜代御家人、つまり将軍へのお目見えも許される旗本格-に栄進した。旗本の町奉行が中央のキャリア組とするなら、与力は地元の“たたき上げ”の中級役人にすぎない。その中で、大出世を果たしたのが、内山だった。

 現場には「天下の義士此(これ)を誅(ちゅう)す」との斬奸状(ざんかんじょう)=犯行声明=が残され、尊攘浪士による天誅(てんちゅう)=テロ事件=として世間を震え上がらせた。
それが明治になって、元新選組副長助勤(ふくちょうじょきん)の永倉新八が、晩年の口述記「新選組顛末(てんまつ)記」で、近藤勇(いさみ)、沖田総司、永倉ら5人で襲ったと暴露したことから、新選組犯行説が急浮上する。

 動機に諸説がある。前年の文久3(1863)年6月の力士との乱闘事件で奉行所に届け出た近藤に対し、吟味に当たった内山の態度が高圧的で不遜だった-とする怨恨(えんこん)説。内山が尊攘派と結託して米や油の価格を不正に操作した-とする私刑説。新選組の強引な金銭借り入れに関し、内山が内偵を始めたことに先手を打った-とする証拠隠滅説など、新選組の犯行だとしても真相は藪(やぶ)の中だ。

 一方で新選組犯行説を否定する研究も多い。たとえば、乱闘事件で近藤が届けたのは当番の東町奉行所で、内山の管轄外だったこと。永倉が顛末記の前に書いた日記では事件にまったく触れていないこと。さらに、顛末記には事実誤認、混同が多く、永倉自身の誇張や編集者の脚色も見られること-などから、坂本龍馬暗殺説と同様、新選組「濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)」説も根強い。

× × ×

 ふたたび松屋町筋を北へ歩く。西町奉行所址から7、8分で天神橋に至り、ここからが天神橋筋。その橋を渡る。南行き5車線の橋の歩道からは、中之島公園の東端、剣先公園に下りることもできる。ただし、当時は中之島がもっと下流にあり、大きな木橋1本で今より広い大川の両岸を繋(つな)いでいたことになる。

 天神橋筋商店街に入り、大阪天満宮を過ぎると、ほどなく国道1号に出る。国道を渡ると、その北東の辺りが「与力町」と「同心」だ。高層マンションに囲まれた「与力町グラウンド」では夕闇迫る中、子供らが野球の練習をしていた。

 果たして新選組の犯行なのか、否か-。いずれにしても、天誅と称する殺戮(さつりく)が幕末の大坂で横行していたのは事実で、シロにせよ、殺人集団の新選組がいかに世間から恐れられ、嫌われていたかを示す事件の一つであることに間違いない。

(今村義明)



 大坂町奉行 江戸幕府直轄の大坂城下(大坂三郷)の民政、警察、および大坂、摂津、河内の訴訟を担当した江戸幕府の職制。老中支配の下に東西各1人の奉行が置かれ、月番交代制をとった。奉行は千~3千石の旗本から選任され、その下に与力各30騎、同心各50人が配属された。与力には80石(知行高200石)が支給され、しだいに地付(じつ)き(土着)、世襲の役職となる。大坂天満に屋敷地(与力500坪、同心200坪)が与えられ、現在、大阪市北区に地名として残る。

(10月31日掲載)

阻止された大坂城焼き討ち計画 新選組なにわを奔(はし)る(3)
 美容室が1階に入るビルの前に、そのモニュメントはあった。人形と玩具のまち、松屋町(まっちゃまち)商店街を南へ歩き、空堀(からほり)商店街の1本南の交差点。「大利鼎吉(おおりていきち)遭難之地」(大阪市中央区瓦屋町)とある。新選組が土佐浪士の潜伏先を急襲した、世に言う「ぜんざい屋事件」の顕彰碑だ。大坂の“池田屋事件”ともいわれる騒動の地を訪ねると、幕末の志士の数奇な運命を知ることになる。

 元治元(1864)年の晩秋。「蛤御門(はまぐりごもん)の変」を受けて、大坂城を拠点に長州征伐(第1次)が始まろうとしていたころ、松屋町のぜんざい屋「石蔵屋」に、大利鼎吉と田中光顕(みつあき)ら土佐勤王党出身の浪士5人が潜伏していた。老母と妻とで店を営む主人は、武者小路(むしゃのこうじ)家の元家臣、本多大内蔵(おおくら)の世を忍ぶ仮の姿、大利らの同志である。

 長州シンパでもあるこの過激派グループはとんでもない計画を秘めていた。大坂市中に火を放ち、大坂城を焼き払うことで、征長軍の後方を撹乱(かくらん)し、一気に倒幕の先鋒(せんぽう)になろうというのだ。妄想にも近い書生論だが、これが幕末の熱というものだろう。田中も後に「当時は誰もが信じて疑わなかった。浪華(なにわ)城(大坂城)が炎に包まれるのを想像しただけで、意気は天を衝(つ)いた」と回想している。

× × ×

 計画は露見した。明けて元治2年(慶応元年)1月8日、実行の12日前のことだった。おそらくは密告だろう。過激派の謀議(ぼうぎ)とアジトをつかんだのは、新選組隊士で、大坂・南堀江で道場を開いていた谷万太郎。さしずめ新選組大坂出張所長といったところ。兄は副長助勤(ふくちょうじょきん)で後に七番隊組長となる三十郎、弟は近藤勇の養子になった周平だ。

 万太郎は、すぐさま大坂西町奉行所に連絡し、大坂城代の命令で定番(じょうばん)の藩兵が松屋町を幾重にも包囲する中、たまたま大坂にいた兄、三十郎と道場の門弟2人で石蔵屋を急襲した。

 4人は功をあせったのか、手柄の独占をねらったのか、新選組本部には「火急のことゆえ、われらだけで討ち入る」と、飛脚を送るのみだった。が、さすがに準備不足は否めない。このとき石蔵屋には、大利と本多、それにその母と妻がいただけで、田中らほかの浪士4人が不在という情報を持っていなかったのだ。

 万太郎らが突入した瞬間、本多は身を翻(ひるがえ)して逃走し、大利1人が4人を相手に奮闘したが衆寡敵(しゅうかてき)せず、1時間余の戦いの末、3人に深手を負わせたものの憤死した。大利24歳の時だった。

 幕府側は大坂城焼き打ちを未然に阻止したとして万太郎ら新選組をたたえたが、土方歳三(ひじかたとしぞう)だけは「4人で乗り込んでたった1人か」と吐き捨てたという。

× × ×

 碑には「昭和12年2月建立」と刻まれ、揮毫(きごう)は「田中光顕」とある。建てたのは「奥野伊三郎」氏と「前田重兵衛」氏。奥野氏の消息は判明しないが、前田氏は近くの製菓原材料卸販売「前田商店」社長、前田重兵衛氏(74)の父で、3代目重兵衛氏=平成8年逝去=だとわかった。前田商店は奇(く)しくも事件があった慶応元年の創業で、当初は和菓子店だったという。

 3代目重兵衛氏と奥野氏は建碑の経緯を大略次のように伝えている。

 《血なまぐさい事件に(近所)みな震え上がり、戸を閉ざして息をひそめていたことを父祖から伝え聞いていたが、事件が何か、誰もわからなかった。昨年(昭和11年)夏に伯爵の回想録が世に出て事件の真相を知る。折しも2年前に松屋町筋の拡張工事で石蔵屋が取り壊されたことから、伯爵に手紙を書いたところ、自ら筆を執って快諾してくれた》

 4代目の前田社長が振り返る。「父からは、本多の母と妻はうちの便所に匿(かくま)ったと聞いています。伯爵が2回も家に来たことを大変喜んでいましてね。あれは私が小学校の時だったか、父ら有志がぜんざいを炊き出し、町中にふるまって志士らを偲(しの)んだことを思い出します」

 24歳で新選組の凶刃に斃(たお)れた大利鼎吉。不在で難を逃れ、明治、大正、昭和を生き抜いた田中光顕。長寿の秘訣(ひけつ)を聞かれ、田中は「殺されざれしため」と答えている。(今村義明)



 田中光顕 天保14(1843)念、土佐(高知県)生まれ。通称・顕助。武市瑞山(たけちずいざん)の土佐勤王党に坂本龍馬らとともに参加、藩参政、吉田東洋暗殺にも関与したという説もある。ぜんざい屋事件後、十津川に潜伏したが、中岡慎太郎に見いだされ、陸援隊に幹部として参加する。維新後、警視総監、学習院長、宮内大臣を歴任。昭和14年、95歳で没。

大坂豪商からの借金も踏み倒し 新選組なにわを奔(はし)る(4完)
 大阪市中央区を流れる東横堀川に架かる橋のうち、北から2つ目の「今橋」を起点に西に向かった。子育て世代などの都心回帰を象徴する高層マンションが目に入る。その足元の市立開平小学校前に、「天五に平五 十兵衛横町」と記された風変わりな碑があった。江戸時代の豪商、天王寺屋五兵衛(天五)と平野屋五兵衛(平五)の屋敷跡で、東西に軒を並べていたことから、五兵衛と五兵衛を足し算して十兵衛となった。

 堺筋を渡り、さらに西へ行くと、大阪美術クラブが入るビルの脇に「鴻池本宅跡」とある。幕府公認「十人両替」の一人、鴻池善右衛門の屋敷跡だ。今や豪商らの面影もない今橋だが、証券会社や銀行、保険会社が集まる金融センターとしてのルーツがここにあったことは容易に想像できよう。

× × ×

 新選組の足跡は、活動拠点の京都に集中するが、資金源が大坂にあったことはあまり知られていない。そもそも幕府も大名もお金に困っていた時代。富んでいたのは、全国から産物が集まり、米相場や為替相場を動かした大坂、いや大坂の豪商だった。天下の富の7割が集まったとされる大坂の財力を、新選組は見逃さなかった。

 文久3(1863)年4月、結成直後の新選組、当時は壬生浪士組を名乗った芹沢鴨、近藤勇らは今橋の平野屋を訪れ、金100両(当時の米価換算で1両=約5万円)の借金を申し込む。

 困り果てた平野屋は町奉行所に相談するが、奉行所は後難を恐れてか、今で言う「民事不介入」の態度だから泣く泣く応じるほかない。当時流行した“押し借り”である。もちろん、返済の形跡はない。500万円を手にした新選組は京の大丸呉服店で、あの浅葱(あさぎ)色で袖がだんだら模様の隊服をあつらえたとされる。

 同年7月、新選組が続いて訪れたのが鴻池で、武器調達費などを名目に230両を出させている。ただ、交渉は穏便に行われたようで、その伏線(ふくせん)として、新選組が京の鴻池別邸に押し入った不逞(ふてい)浪士を摘発した礼に、善右衛門の方から近藤らを大坂に招いたという説が有力だ。近藤の愛刀「虎徹(こてつ)」もこの時、鴻池から贈られたものらしい。

 鴻池の本心はわからない。近藤らに心酔してパトロンになろうとしたのか、ただ京大坂の治安を鑑(かんが)み、新選組を用心棒にしてみかじめ料として金品を提供したのか。いずれにせよ、新選組はこれを機に鴻池を窓口に、大坂商人から金を吸い上げることになる。

 元治元(1864)年12月、近藤は大坂の富商22家から、長州征伐の軍費を名目に銀6600貫、金換算で7万両、約35億円を借用する。いくら新選組でも単独の軍費としては多額すぎる。この借金に限っては会津藩が新選組を使って集めさせ、藩の裏金として処理したとの見方が強い。
 このあたり、大坂商人は先刻承知だったようで、鴻池はともかく、他の商家らは「会津公、大坂町人へお借り入れを浪人局長(近藤勇)と申す人、押しがり致され、誠に誠に市中だいめいわくなこと」(幕末維新大坂町人記録)と、怨嗟(えんさ)に似た恨み節を残している。

× × ×

 肥後橋の大同生命ビル。NHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデル、広岡浅子が嫁いだ豪商、加島屋がここにあった。2階の特別展示室に新選組の借用書が展示されている。

 「預申金子之事(あずかりもうすきんすのこと)」で始まる証文には、金400両(約2千万円)を月4朱(0・4%)の利息で借り、翌年5月までに返す-とある。借り主として土方歳三(ひじかたとしぞう)が、保証人として近藤勇が署名、捺印(なついん)している。日付は「慶応3(1867)年12月」。鳥羽伏見の戦いの1カ月前で、他の多くの借金とともに反故(ほご)にされたのは疑いない。
 維新の後、新政府は京大坂の豪商を二条城に集め、「御一新(ごいっしん)のため」と300万両(約1500億円)の拠出を要請した。浅子が「新選組の借金なんてかわいいもんや」と言ったとか、言わなかったとか…。(今村義明)



 鴻池善右衛門(こうのいけ・ぜんえもん) 江戸時代の大坂を代表する豪商。山中鹿介(しかのすけ)を祖とし、摂津・鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を興した幸元の八男を初代とする。海運業から両替商、大名貸しで財をなし、3代目が開発した新田は鴻池新田(大阪府東大阪市)として知られる。江戸後期、融資した大名は100藩以上に上り、参勤交代で大坂を通過する際、家老を挨拶(あいさつ)に行かせる大名もいたといわれた。幕末、維新時は10代目。
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