新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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東京
新選組150回忌、近藤・土方子孫ら企画 西郷も参加へ
江戸時代末期に京都で結成された新選組隊士の子孫たちが3月、副長の土方歳三らの出身地、東京都日野市で「百五十回忌総供養祭」を営む。来年は戊辰戦争が始まって150年。関係が深かった会津藩(福島県)藩主の松平家14代当主、激しく争った薩摩藩(鹿児島県)の西郷隆盛の子孫も参加する予定だ。
発起人は、局長の近藤勇、土方、副長助勤の井上源三郎の兄の子孫、日野宿の名主で新選組を支援した佐藤彦五郎の子孫ら12人。節目を迎え、隊士や関係者の子孫に広く呼びかけ、土方家の菩提(ぼだい)寺でもある高幡不動尊(日野市)で営む。
子孫は長らく肩身の狭い思いをしてきた。近藤の兄の子孫、宮川清蔵さん(78)=茨城県牛久市=は近藤の出身地の東京都調布市に住んでいた幼少期、「近藤は逆賊と言われた」と振り返る。土方の兄の子孫で土方歳三資料館館長(日野市)の土方愛さん(45)は高校時代に「新選組は人斬り集団」と言われ、苦い思いをした。
しかし1962年、司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」の連載が始まり、土方人気に火が付いた。NHK大河ドラマ「新選組!」(2004年)やゲームの影響で、今では若いファンも増えているという。愛さんは、幕府側、倒幕勢力側どちらにつくか様子見の藩が多いなか、「隊士は幕府のために尽くし、どっちが得かということでは動かなかった。潔さに今の人たちがひかれているのでは」と話す。井上の兄の子孫で井上源三郎資料館館長(日野市)の井上雅雄さん(62)は「薩摩藩や長州藩(山口県)を含め、戦った全員の供養ができればいい」と呼びかけている。
総供養祭は3月18日、高幡不動尊の五重塔院ホールで。一般の出席も可。参加費2千円。先着順。往復はがきに住所、氏名、電話番号を書き、〒191・0011 東京都日野市日野本町4の11の12 天然理心流勇武館事務局へ。28日の消印有効。出席の可否は返信はがきで伝える。(大室一也)
岐阜
梁川星巌の刀発見 大垣出身、幕末の志士・漢詩人 関鍛冶伝承館で初公開 /岐阜
大垣市出身の漢詩人・梁川星巌(やながわせいがん)(1789~1858年)が所持していた刀が、関市で見つかった。星巌ゆかりの大垣市の禅寺「華渓寺」の加藤泰寛住職(58)は「星巌は多くの漢詩を残したが、刀が見つかったのは初めて」と話している。
関市南春日町の関鍛冶伝承館は企画展「刀に名前を刻んだ男たち~幕末の志士・梁川星巌と日本刀」を開催し、星巌の刀を初公開している。
星巌は1789(寛政元)年、現在の大垣市曽根町の郷士の家に生まれ、華渓寺の僧に儒教や漢詩を学んだ。幕末には、頼山陽、藤田東湖、佐久間象山、吉田松陰、橋本左内ら尊皇攘夷の思想家と親交があり、自らも憂国の志士として行動。危険思想の人物として幕府からにらまれるが、安政の大獄(1858年)の直前にコレラが原因で死去した。
公開された刀は、関市が所蔵していた一振りで、茎(なかご)と呼ばれる握り部分に「大義翼皇室」で始まる尊皇攘夷思想を詠んだ5字漢詩が8行と「老龍庵帯」「東湖先生侍禄」の所持銘が刻まれている。同伝承館の江西奈央美学芸員(28)が昨年9月、「老龍庵」を星巌の号と判読し、華渓寺の梁川星巌記念館に問い合わせたところ、星巌の所持刀と確認された。
太平洋戦争の後、連合国軍総司令部(GHQ)が10万振り近い日本刀を接収したが、サンフランシスコ平和条約を締結後、約1000振りが刀産地の関市へ返還され、その中に星巌の刀が含まれていた。
華渓寺の加藤住職は「『老龍庵』は星巌の戒名に使われている号の一つ。尊皇攘夷派の水戸藩士・藤田東湖から譲られた刀と思われる」と話している。
企画展では、漢詩の掛け軸、詩稿、印譜など星巌ゆかりの遺品も展示されている。3月20日まで。火曜休館。入館料は高校生以上200円、小中学生100円。問い合わせは同伝承館(0575・23・3825)。【立松勝】
山口
幕末の志士が学んだ萩藩校明倫館の跡地に「萩・明倫学舎」オープン3月4日オープン、山口県萩市の明治維新150年記念事業
NPO萩明倫学舎(特定非営利活動法人設立認証中)は3月4日、山口県萩市に「萩・明倫学舎」をオープンする。萩・明倫学舎は萩藩校明倫館の跡地にあり、観光インフォメーションセンターやレストランを備え、萩市の観光の起点施設として機能していく。
萩・明倫学舎
開館日:2017年3月4日
開館時間(予定):9時~17時、レストランは11時~21時
所在地:山口県萩市江向602
入館料:本館無料、2号館大人300円、高校生200円、小中学生100円
Webサイト:萩・明倫学舎
萩藩校明倫館は、1718年に5代藩主である毛利跨吉元が家巨の子弟教育のために萩城三の丸(堀内)に建てた藩校。その後1849年に現在の江向に移転。約5万m2の敷地内に学舎や武芸修練場、練兵場などがあり、吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)が教鞭をとったことでも知られている。
萩藩校明倫館は1867年に廃館となったが、その跡地に1935年10月10日に建築されたものが旧明倫小学校の木造2階建ての校舎で、1996年に国登録有形文化財に登録されている。2018年に明治維新150年を迎えることを記念して、この校舎を萩市の新しい観光の起点となるよう改修整備したものが萩・明倫学舎となる。
萩・明倫学舎は本館、2号館、周辺の遺構などから構成され、本館には観光インフォメーションセンターや萩の名店「割烹千代」がリーズナブルな価格で料理を提供するレストラン、ジオパークビジターセンター、復元教室、復元校長室などを備える。
2号館には2015年年7月に世界遺産に登録された萩市の5資産を含む「明治日本の産業革命遺産」を紹介する「世界遺産ビジターセンター」、幕末維新期の歴史・科学技術史の実物資料を展示する「幕末ミュージアム」を開設する。
高知
「JIN」で幕末感じて 高知市のまんが館で原画展
坂本龍馬らが活躍した幕末期を舞台にした人気漫画「JIN―仁―」で知られる漫画家、村上もとかさん(65)の原画展が、高知市九反田の横山隆一記念まんが館で2月11日から始まる。龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛といった実在の人物や、当時の暮らし、文化を映し出した場面など直筆の原画144ページ分が並ぶ。
村上さんは東京都出身で、1972年にデビュー。「JIN」は「スーパージャンプ」に2000年から10年間連載され、テレビドラマにもなった。
脳外科医、南方仁が幕末にタイムスリップし、歴史や運命を変えることに悩みながら、現代医学を実践する物語。親友となる龍馬との出会いや暗殺阻止を目指す近江屋でのシーンなどのほか、山内容堂、勝海舟、沖田総司ら実在した人物たちが登場する場面を紹介。
「手術」「ラブロマンス」「遊郭」など、テーマ別の展示も。仁が龍馬と連れだって行った遊郭で、華やかさとは裏腹に性病に苦しみ死んでいく女性が多くいたなど、闇の部分を描いたことが分かる。ほかのヒット作「六三四の剣」「龍―RON―」の原画もあり、すべて手作業で作画されている。
展示を担当した高知県まんが・コンテンツ課の近森雄太主査は「作画技術の高さを見ていただきたい」と期待を込めた。
横山隆一記念まんが館と「まんが王国・土佐推進協議会」の主催で、3月11、12日に開く「第3回全国漫画家大会議」の一環。3月12日まで。
インタビュー
徳川宗家18代当主の徳川恒孝さん 大政奉還をした理由を推測
薩長同盟、坂本龍馬の船中八策、土佐藩主の山内容堂が徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜へ出した建白書、そして大政奉還、龍馬暗殺……。2017年で大政奉還から150年。幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、徳川宗家18代当主・徳川恒孝さんだ。うーん、そう言われてしまうと旧幕府軍として戦った人々の思いは……大坂城の将兵を残して江戸に逃げ戻った慶喜の行動をどう思われているのか、問うてみたくなる旧幕府方贔屓です。
* * *
大政奉還として徳川家が天皇家に政権をお戻ししたのは、徳川幕府に大きな問題があったり、政権維持に限界があったりしたからではないと考えています。
当時、日本を取り巻く外国からさまざまな圧力がかかっていました。その流れに任せてそれぞれの藩が圧力をかける国に個別に対応していたら、日本は分断されていたかもしれません。
そこでそれぞれの藩が領内を支配する幕藩体制ではやっていけないと幕府は判断したのです。
徳川家は幕府開府以来、長く天皇家を非常に大切にしてきましたので、ここで天皇家に政権をお戻しして、天皇を中心に今一度日本を統一すべきだと考えたのです。
さらに徳川幕府は常に海外の情報を得ていました。特に幕末にかけては詳細な情報が幕府に入ってきて、世界の情勢は承知していたのです。イギリスの軍艦が近くにいるとか、アメリカの戦艦が日本に向かっているなど把握していました。そこで世界を見て、もう二度と戦乱の世にしてはならないと考え、大政奉還という決断をしました。
江戸幕府を起こした家康は常に平和を願い、それを実現させた人です。家康の前の時代、豊臣秀吉は朝鮮へ2度も兵を出しました。 しかし、徳川の世になると朝鮮をはじめとした外国を攻めることはなくなりました。それどころか、朝鮮通信使が再開され友好な関係を築きました。幕府の将軍の代替わりや世継ぎが生まれるたびに朝鮮から使節団が江戸城にいる将軍に謁見にやってきていました。
ただ、これは徳川家からの見方で、向こうの方々に言わせると、今度の将軍がまた秀吉のような人だったら危ないと、警戒のために将軍の顔を見に来ていたというようです。それで今度の将軍は穏やかでこちらに戦争をしかけてくるようなことはないと安心して帰ったそうです。
そしてその情報は朝鮮から清の都・北京に伝えられ、今度の将軍も大丈夫だと胸をなでおろしたといいます。それだけ諸国との関係はよかったのです。
ただ幕末から大政奉還にかけて残念なのは井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたことです。井伊直弼は海外の状況を鑑み、修好通商条約を締結し、日本を開くことを進めていました。だからあのとき直弼が殺されなかったら、徳川幕府が新たな日本をつくっていったでしょうね。
徳川政権であったら平和一本で、その後の政府がとったような軍国主義政策はとらなかったに違いありません。明治新政府では征韓論が持ち上がり、その後も日清戦争、日露戦争が起きました。明治以降の歴史はご存じのとおりですね。
明治の世になって諸藩の大名の子息の多くは海外に留学しました。そしてその人たちは海外の情報や知識を身に着け、明治以降の政府に重用されていきます。
また、宮内省が大名家同士の婚姻を進めていきました。戊辰戦争で敵対した人の子孫を結びつけたり、かつて、あまり関係がよくなかったという同士の婚姻を決めたりしました。そうすることでそれぞれの家が背負ってきた変なわだかまりはなくなりました。
大政奉還後、徳川幕府の幕臣が明治政府を支えたり、その後、全国にあった藩の大名の子孫の方々が地域のお祭りに参加して祭りを盛り上げたりしています。かつての殿様の子孫は地域活性化に協力しているといえるでしょう。
そういう意味でも徳川時代が分断され明治時代になったのではなく、その意志を受け継ぎ、継続しているといってもいいかもしれません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)
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