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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日はバレンタインデー。今年は日曜日に当たるので義理チョコは例年より出回らない気がしますが(汗)、なぜかケーキショップは混雑していました。ご家族向けでしょうか。

東京
「冨嶽三十六景」全46点を展示 大田区
 大田区中央の区立龍子(りゅうし)記念館で、幕末時代の浮世絵師、葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景」全46点が展示されている。
 冨嶽三十六景は富士山の多彩な姿を描いた晩年の北斎の最高傑作。当初は36枚の予定だったが、評判を呼び10枚追加したとされる。
 展示されるのは、記念館創立者の日本画家、川端龍子(1885~1966年)が収集した作品。記念館によると、全46景ぞろいは世界でも数十組といわれるほど珍しく、刷りの状態もよいという。14日まで。入館料大人200円。


関東~伊豆
桜や梅が満開!“恋を実らせる”春の縁結び散歩へ
 まだ暦のうえでは2月だけど、春はもうすぐそこ! 本州一、早咲きの「河津桜」は1月下旬になるとピンクの花が咲き始め、都内では梅の花が満開を迎え各地で祭りが続々と開催される。そこで、散歩もかねて、恋愛運もアップさせちゃうプランをご紹介。花名所と神社を一緒に巡ろう。

【第20回河津桜まつり】 ※期間/開催中~3月10日(水)  見ごろ/~3月中旬
 河津川沿いの約800本をはじめ、全体で約8000本の河津桜が咲き誇り、町一帯がピンク色に。期間中は地元物産品が手に入る出店が毎日登場するほか、夜のライトアップで幻想的な桜を楽しむのもおすすめ。恋愛成就祈願には、河津川沿いから少し入った場所ある「川津来宮(かわづきのみや)神社」(静岡県賀茂郡河津町田中)に立ち寄って。 会場/静岡県賀茂郡 河津駅前、河津川堤(河口~峰温泉周辺) 時間9:00~17:00(出店)18:00~21:00(ライトアップ) HP/www.kawazu-onsen.com/

【第53回 湯島天神梅まつり】 ※期間/開催中~3月8日(月) 見ごろ/2月中旬~3月上旬
 学問の神様、菅原道真公が愛した花として知られる梅が、約300本咲き乱れる。中には「想いのまま」と呼ばれる珍しい品種も。梅まつりの期間中は土・日曜、祝日を中心に太鼓演奏や神輿渡御などが行われる。祭神の大黒様が縁結びなどのご利益をもつとしても有名な「神田明神」(千代田区外神田2-16-2)に立ち寄って恋のお参りもお忘れなく。 住所/文京区湯島3-30-1 時間/8:00~19:00(梅まつり) 料金/無料 HP/www.yushimatenjin.or.jp/

【春を呼ぶ小石川後楽園 黄門様のお庭で梅まつり】 ※期間/開催中~2月28日(日) 見ごろ/2月中旬~3月上旬
 小石川後楽園では2月28日(日)まで梅まつりを開催。毎週日曜に、週替わりで多彩な音楽演奏も行われる。徒歩圏内には、最近“恋に効く”ことで知られる女性に大人気の「東京大神宮」(千代田区富士見2-4-1)も。住所/文京区後楽園1-6-6 時間/9:00~17:00 料金/入園一般300円

【郷土の森梅まつり】期間/開催中~3月7日(日)  見ごろ/2月上旬~3月上旬
 府中市郷土の森博物館にある梅林で行われる梅まつりでは、土・日曜、祝日に旧矢島家住宅で明治の郵便取扱所がよみがえるなど、レトロな雰囲気を楽しめるイベントが満載だ。近くにある「大國魂(おおくにたま)神社」(府中市宮町3-1)の祭神は、大黒様の名で親しまれる大國魂大神。 住所/府中市南町6-321 時間/9:00~17:00 料金/入館200円

【第33回せたがや梅まつり(梅ヶ丘・羽根木公園)】開催中~2月28日(日)  見ごろ/~2月下旬
 羽根木公園の南側斜面には紅梅約230本、白梅約420本が咲く梅林が広がる。祭りでは、梅大福や梅ようかんなど梅にちなんだフードが味わえる売店や、野点(のだて)、園芸市など多彩な催しを楽しもう。幕末の志士・吉田松陰を祀る神社「松陰神社」(世田谷区若林4-35-1)にも縁結び御守りがあるのでぜひ祈願して。住所/世田谷区代田4-38-52 電話/03-5432-3333 時間10:00~16:00 料金/入園無料

 女同士で散歩に行くにもピッタリなコース。花を愛でながら周辺の神社を訪ねれれば、アナタのもとにもひと足早く春が来るかも!?【詳細は東京ウォーカー2月3日発売号に掲載】

※花の見ごろ時期は天候などにより変動になることがあります


静岡
伝馬船:松陰密航、リアルに 下田の弁天島に、龍馬ファンらが協力し設置 /静岡
 幕末の思想家・吉田松陰が密航のため、沖に停泊中の米国船に向かって小船をこぎ出した下田市柿崎の弁天島に13日、当時の和船の雰囲気を持つ伝馬船が1隻設置された。坂本龍馬ファンの集まり・下田龍馬伝支援隊(竹岡幸徳隊長、隊員170人)が、地元ボランティアグループの柿崎松陰会(植田一二三会長、80人)などの協力を得て、吉田松陰と弟子の金子重輔の銅像前に置いた。
 同島周辺には「松陰の小径(みち)」や「ハリスの小径」、初のアメリカ総領事館が置かれた玉泉寺などがあり、多くの歴史ファンが訪れている。最近は櫓(ろ)でこぐ和船が少なく、訪れる人たちに松陰密航の場面をリアルに思い浮かべてもらえればと、設置した。
 船は松陰会の植田会長が寄贈。幅1・8メートル、長さ8メートル、櫓は3丁。松陰が使った船より一回り大きく、10年前までタカベ漁で実際に使われていた。今年6月には、実際の大きさに近い和船を島の岸壁につなげ、操船体験ができるよう同隊が準備を進めている。【中村隆】



兵庫
「幕末の三舟」高橋泥舟の書あった…兵庫・三田の心月院
 江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜に仕え、「幕末の三舟」と称される武士、高橋泥舟(1835~1903)の書が、兵庫県三田市西山の曹洞宗「心月院」(児島正龍住職)で見つかり、奥書院で横額(縦0・5メートル、横1・43メートル)に入れられ飾られている。同院には2年前に見つかった三舟の一人の山岡鉄舟(1836~88)の書も掲示されており、児島住職は「坂本龍馬の時代に生きた幕府の要人の書は今、注目されるはず。ぜひ見に来てほしい」と話している。
 「性曰其遂」と書かれ、左下隅に「泥舟居士」の落款が入った書で、児島住職が院の古い資料を調べていて見つけた。児島住職は「物事を成し遂げるとともに、心もしずかになる」と解釈する。鉄舟の書は約2年前に見つかった「白雲抱幽石」で、江戸末期の21代住職「機外黙應(もくおう)」をたたえて書いた、と同院に伝わる。
 泥舟は槍(やり)の達人で、慶喜から伊勢守に任ぜられた。江戸城の無血開城交渉の際、勝海舟(1823~99)から西郷隆盛への使者に選ばれたが、代わりに義弟の鉄舟を推薦した、とされる。慶喜には恭順するよう説き、開城後は水戸に赴く慶喜を護衛したという。
 同院本堂ではまた、釈迦の入寂の様子を描いた江戸後期の釈尊大涅槃(ねはん)絵図(縦3・5メートル、横2・65メートル)が、27日まで公開されている。同院に墓がある三田藩第10代藩主・九鬼隆国(1781~1853)が文化3年(1806年)に寄進したもので、永平寺の涅槃絵図より大きいという。


広島
鞆で脚光 龍馬ガイド 1か月で1000人利用
勉強会開き「より深い内容を」

 福山市鞆町で、地元のNPO法人「鞆の浦振興事業団」(林真至代表)が1月中旬から始めた幕末の志士・坂本龍馬ゆかりの地を回る史跡巡りガイドが、およそ1か月で観光客ら約1000人が利用するなど、人気を呼んでいる。担当するガイドは13日、龍馬についてより深く学ぼうと勉強会を開き、「歴史好きの龍馬ファンにも満足してもらえる内容に」と意気込んでいる。(向井友理)
 鞆の浦は、1867年(慶応3年)、龍馬率いる海援隊が乗った蒸気船「いろは丸」が紀州藩の軍艦と衝突、沈没、龍馬が賠償金交渉のために滞在した歴史を持つ。
 同NPOは従来、鞆の浦の歴史全般を紹介する史跡巡りガイドを行ってきたが、NHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせ、龍馬関連に絞ったコースを新たに設けた。いろは丸沈没後、龍馬らが滞在した回船問屋や、紀州藩との談判に臨んだ商家跡、いろは丸ではないかとみられる船から引き揚げられたドアのノブなどゆかりの品を展示する「いろは丸展示館」などを、ガイドと一緒に約1時間半かけて回る。
 同NPOの観光ガイドの2009年1月の利用者は659人だったが、10年1月は、龍馬コースの人気もあり1516人と倍以上に増えた。3月中旬までに、北海道や福島県などからの観光客も含めて、約2500人が龍馬コースを予約しているという。
 こうした人気ぶりに、担当するガイドは「より案内の質を高めたい」と、2月から随時、勉強会を開催。13日は、ガイド歴25年の宮本和香さんから説明を受けながら、新人ガイドら6人が、龍馬ゆかりの5か所を巡った。小林由里恵さん(36)は「しっかり勉強して、また来たいと思われるガイドをしたい」と意欲を燃やしていた。
 今後、龍馬の古里、高知市から講師を招いた勉強会も計画しており、同NPOの片岡明彦事務局長(46)は、「より充実した鞆の浦の旅を楽しんでもらいたい」と話していた。
 ガイドの申し込みは、希望する日の3日ほど前までに、鞆の浦観光情報センター(084・982・3200)へ。


愛媛
「米山日記」宝の202冊 愛大HPで公開
●「無酒にて認(したた)めし故いつもほど出来よろしからず」

 江戸時代末期の松山に生まれ、数多くの作品を残した書道家「三輪田米山(み・わ・だ・べい・ざん)」。「倒れるくらいまで飲まないとあの字がかけない」と語るなど数々の逸話も残す米山を、より親しんでもらおうと愛媛大学は、米山が記した日記202冊をホームページ(HP)で公開した。日記に解説を付けた教育学部の福田安典教授は「日常の仕事から松山のうわさ話まで幅広く書き留めている。愛媛を知る上での宝のような史料を見て欲しい」と話す。(松山尚幹)

 江戸末期の1821年、市内の日尾八幡神社の神主の長男として生まれた米山は、明治維新を挟んだ激動の時代にほぼ独学で書を学んだ。既存体を崩した豪快な字体が特徴で、1908年に亡くなるまでのほとんどを、この地で過ごした。人々に愛され、隣人から酒をもらい作品を書くことも日常的だった。作品数は正確には分かっていないが2万点以上はあるという。
 現在でも日尾八幡神社の鳥居前に建っている注連石(し・め・いし)に深く彫られた「鳥舞魚躍」や、椿(つばき)神社の注連石に記された「龍游鳳舞」など、市内外の神社で米山の勢いのある字を見ることが出来る。
 今回公開されるのは、愛媛大学に所蔵されていた米山28歳の1848年から86歳の1906年までの日記202冊と自作の屏風(びょう・ぶ)3作品。福田教授らが解説を付けたページもあり、同大は今後解説付きのページを順次増やしていくとしている。
 日記の内容は多岐にわたる。深刻な水不足の中、頼まれた雨ごい祈祷(き・とう)の効果がなかったのに慰労会に誘われてしまったことや、松山城の東門に書いてあった落書きについての記述。安政南海地震(1854年)で道後の湯が止まったことにも触れる。中には「無酒にて認(したた)めし故いつもほど出来よろしからず」(酒を飲まずに書いたのでいつもほど出来がよくなかった)といった一節や、あまりに酒に酔いすぎて妹に代筆させたことなど、米山の酒好きを表す内容もある。
 米山日記を見るには愛媛大学図書館のHP(http://www.lib.ehime-u.ac.jp/)で「米山日記」のタブをクリックする。




佐賀
「近代との遭遇」展 いよいよ最終日
 佐賀県立美術館で開催中の特別展「近代との遭遇-世界を見る・日本を創る-」(佐賀新聞社などでつくる実行委主催)は14日、最終日を迎える。幕末から明治にかけて海外で学んで近代化に尽くしたり、日本洋画界を引っ張った人々に焦点を当てた展覧会。13日も多くの観覧者が訪れた。
 この日は担当の松田和子佐賀城本丸歴史館学芸員らが歴史資料や絵画について展示解説。職場の友人と訪れた佐賀市の糸山優子さん(25)は「幕末維新期には興味があったが、佐賀の先人たちが偉大な貢献を残したことを再確認できた。詳しい解説も聞け、より深く理解できた」と話した。
 特別展は1月1日に開幕。欧州留学を経て日本近代洋画の発展に貢献した百武兼行や久米桂一郎らの名画約50点と、海外への派遣を経験した佐賀の先人たちを顕彰する資料約100点を公開している。最終日の14日にも学芸員による展示解説がある。観覧料は一般1000円、大学生800円、高校生以下は無料。


【写真】松田学芸員の展示解説を聞き、作品を熱心に鑑賞する観覧者=佐賀市の県立美術館


宮崎
寒天で地域おこし 創作料理高城の主婦ら
 都城市高城町の地域おこしグループが12日、都城地域で薩摩藩が幕末に財政を支えるため寒天を密造していた史実を地域再生につなげようと、手作りの寒天料理を市民ら約25人に振る舞った。
 参加者は料理を味わいながら地域の歴史を再認識した。
 市内には山之口町などに寒天工場の史跡が残っている。料理の振る舞いは、国の地方再生事業を活用して、高城の主婦らでつくるばあばの知恵袋さくら(末永陽子代表)が実施した。


ブックレビュー
【書評】『坂本龍馬の10人の女と謎の信仰』平野貞夫著
 小沢一郎民主党幹事長の懐刀で元参院議員の著者だが、高知県出身で土佐の文化、人物研究の第一人者でもある。坂本龍馬も研究してきた。
 前半は、落ちこぼれだった龍馬が幕末の風雲児へと変貌(へんぼう)を遂げた裏には、女性の存在があったと分析。姉の乙女や妻のお龍らにとどまらず、影響を与えた10人の女性を取り上げている。
 後半は、龍馬が修行した北辰一刀流の精神的背景である妙見信仰に着目する。北極星など星を尊び、平将門、鎌倉幕府成立、北辰一刀流を興した千葉一族にも影響を与えた信仰。著者は龍馬が大政奉還、明治維新、近代化に邁進(まいしん)した原点はこの信仰にあったとする。龍馬をより深く知りたい人にお薦めの一冊。(幻冬舎新書・780円)


今週の本棚:池内紀・評 『河原者ノススメ--死穢と修羅の記憶』=篠田正浩・著
◇池内紀(おさむ)・評
◇『河原者ノススメ--死穢(しえ)と修羅の記憶』
 (幻戯書房・3780円)

 ◇「錦を着た乞食」の浩然たるエネルギー
 大きな木の梢(こずえ)を鳥がたえまなく飛びあるくぐあいだ。そして刺すようなさえずりを通して、縦横にもつれ、からみ合い、まるで反対の向きにのびている枝が同じ太い幹から生い出たこと、その幹は深々と地中にのびて、激しく水と養分を吸い上げていることを告げていく。

 日本芸能史への--時代を軸にしてきれいに、清潔に、整頓された芸能史への厳しい異議申し立てである。四百ページにちかい書き下ろしの初めのところに、壬生(みぶ)狂言のことが出てくる。章名は「排除された雑技芸」。

 「壬生狂言の発生と伝承の過程には、さまざまな時代の地層が積み重ねられていて複雑である」

 俗に壬生念仏といって、京都中京区の壬生寺では四月の十日間にわたり、鎮花(はなしずめ)、大念仏会(え)がとり行われる。一般の人にわかるように利生(りしょう)談や能狂言を入れ、壬生の里の人々が演じるのだが、すべてパントマイムと仮面劇で、セリフは一切なし。太鼓、笛などの単調なリズムから、京の人は「ガッデンガン」とも言いそやしてきた。

 篠田正浩は「洛中洛外図屏風(びょうぶ)」にある壬生寺境内の念仏堂に目をとめる。そこには三匹の猿が天井から吊(つ)るされた綱にぶら下がり、芸を見せているさまが描かれている。はたしてほんものの猿なのか、それとも人間が猿の縫いぐるみを身につけたのか。さらに古い絵図には「褌脱舞(こだつまい)」と呼ばれた散楽が描かれている。動物の骨や内臓を取り払った皮をかぶって、その獣のまねをする芸である。その芸、また芸能者をいうのにフンドシ(褌)と脱の字をあてているところからも、強烈な侮蔑(ぶべつ)と差別が見てとれる。

 この本をつらぬくモチーフであって、つねにここに立ちもどる。篠田正浩は壬生寺を訪ね、幕末に再建された狂言堂に「獣台(けものだい)」という足場があることをたしかめた。舞台の下手を支える柱の上部に取り付けてあって、そこを起点にして太綱が堂をつらぬき、上手舞台正面と結んでいた。

 「獣台を設備した壬生寺の狂言堂こそ、門付(かどづ)けの放浪芸能が定着して上演する劇場の祖形の一つではなかったのか」

 アルキ巫女(みこ)、ササラ乞食(こじき)、傀儡(くぐつ)、瞽女(ごぜ)、日本の伝統芸能の深層をめぐる考察は数多くあるが、『河原者ノススメ』はきわめてユニークな叙述が展開されている。カラー図版を含めて絵図類がふんだんに入っているとおり、先人の論考にもまして映画監督篠田正浩の目が大きくはたらいた。視覚による認識の強みだが、それは自在に時間と歴史をとびこえ、底にひそんでいるもの、隠された「獣台」をひとつかみで引き出してくる。

 白拍子(しらびょうし)とは何か、興行者の誕生、歌舞伎と浄瑠璃、近松門左衛門、助六誕生……。学者の論考とはおよそ異質の連想と語りがたのしい。視覚に支えられた密度の濃い想像のせいだろう。ここに「心中天網島(てんのあみじま)」や、「卑弥呼」や「写楽」など、目の底にやきついている篠田映画のさまざまなシーンを思い出す人がいるかもしれない。むろん、まちがってはいないのだ。たくましく、情熱的に語られた日本の伝統芸能論は、個人的な告白でもあるからだ。

  錦着て畳の上の乞食かな

 四代目市川團十郎は、この句を吐息のように洩(も)らしたかもしれないが、篠田正浩は浩然と「ススメ」るべき河原者のテーゼとした。みずから背負いこみ、内面的エネルギーとして果敢に発散してきたからである。だからこそ長い時間をかけた考察を自分の「歌」に、また自分のドラマにすることができた。


文化芸能
【日本人とこころ】岩崎弥太郎と志(上)常に広い世界を意識
 喧噪(けんそう)のすき間を縫うように、東京には江戸から継がれる庭園が点在する。そのなかで、清澄庭園、六義(りくぎ)園、旧岩崎邸庭園の名園はいずれも明治初め、ひとりの男が手に入れた広大な土地が礎になっている。
 岩崎弥太郎-。幕末の志士にして、日本を近代化に導いた実業家。あるいは土佐の貧乏浪人の家から、一代にして巨万の富を得た成り上がり。弥太郎の生涯は、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばしている。
 弥太郎を語る前に、避けては通れない男がいる。弥太郎より1歳年少の坂本龍馬。いわずと知れた幕末のヒーローだ。作家、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を、いまさら取り上げるまでもないだろう。
 「龍馬は今、国民的英雄ですが、私たちの龍馬像は司馬遼太郎の小説で作られました。龍馬をすばらしい人物として描くには、引き立て役が必要。そこで、後に大金持ちとして成功した同郷の弥太郎が選ばれた。史実にヒントを得たフィクション(架空)です」
 2人の関係を語るのは、長年、三菱や岩崎家の歴史を研究してきた三菱史アナリスト、成田誠一さん(68)だ。司馬作品や放送中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で脚光を浴びている龍馬の影として、弥太郎は人々に知られるようになった。「それまで、『三菱を作った人』程度のイメージしかありませんでしたが、小説やドラマをきっかけに、弥太郎に興味を持っていただきたい」
             ◇

 弥太郎は天保5(1835)年、土佐国井ノ口村(高知県安芸市)で、貧しい地下(じげ)浪人の家に生まれた。地下浪人とは、生活苦から没落した武士。若き弥太郎が土佐で貧しい暮らしを余儀なくされていたころ、日本は岐路に立っていた。
 嘉永6(1853)年、黒船来航。米提督ペリーは幕府に開国を迫り、情勢は混迷していた。そうした時代に呼応し、弥太郎は江戸に惹(ひ)かれていく。土佐随一の儒教学者、岡本寧浦(ねいほ)について学んでいた弥太郎は、江戸遊学のチャンスを掴む。ペリーが2度目の来日を果たし、ついに日米和親条約が結ばれた安政元(1854)年のことだった。
 〈吾れ志を得ずんば、再びこの山に上らず〉
 江戸へ旅立つ前、弥太郎は太平洋を望む裏山に登り、神社の門扉にその決意を墨書したという(「岩崎彌太郎傳」)。
 金も名もない弥太郎だが、志だけは高かった。だが、夢にまで見た江戸遊学は、実家のトラブルから中断される。郷里に戻った弥太郎が再び、土佐から飛び出て頭角を現すのは、慶応3(1867)年まで待たなければならない。弥太郎は三十路を二つ超えていた。
             ◇

 藩に登用された弥太郎が赴いたのは、外国人貿易商が集まる先進都市、長崎。土佐藩の商務組織「開成館長崎商会」の主任に命じられる。そこに登場するのが長崎で活躍していた龍馬だった。脱藩した龍馬が罪を許され、立ち上げた貿易結社は土佐藩所管の「海援隊」となった。弥太郎は海援隊の世話も任されたことで、龍馬と運命的な出会いを果たす。
 〈午後坂本良(龍)馬来置酒〉(「岩崎彌太郎日記」)
 弥太郎の日記によると、6月3日に龍馬が来たとある。晴天。自身の素志を伝えたところ、龍馬は手をたたいて「善(よ)し」と称えたという。また、大政奉還で活躍することになる龍馬の上洛を長崎で見送った弥太郎は、6月9日にこう記している。
 〈余不覚流涙数行〉
 思わず泣いてしまったというところか。2人には不仲説もあるが、成田さんは「2人の活動は違ったが、常に広い世界を意識していた点では共通していた」とみる。
 弥太郎も転換を迎える。明治2(1869)年、長崎から開成館大阪出張所へ異動するものの、明治政府は藩営事業を禁止しようとしていた。土佐藩はその前に土佐人による私商社を立ち上げ、海運事業を引き継ごうと試みる。それが、「九十九(つくも)商会」。6(1873)年には、経済官僚だった手腕を買われた弥太郎が社主となり、「三菱商会」と改称する。
 弥太郎38歳。没するまでの12年間、怒濤のように駆け抜けるが、この時が後に強大な富を得る三菱財閥への船出だった。(猪谷千香)

                   ◇
【プロフィル】岩崎弥太郎

 いわさき・やたろう 天保5(1835)年、土佐(現・高知県)生まれ。一代で三菱を築いた実業家。土佐藩の藩営事業を手がけた後、明治3(1870)年に九十九商会を創設、海運事業などを成功させる。18(1885)年、反三菱勢力との熾烈な競争の中、病いに倒れた。享年50。

              ◇

■GHQが接収 激動の戦後史の“証人”岩崎家本邸

 東京・茅町に置かれた岩崎家本邸。現在は、「旧岩崎邸庭園」として公開され、親しまれている。岩崎家と同じく、この本邸もまた、歴史の奔流に数奇な運命をたどった。
 明治11(1878)年、弥太郎は旧舞鶴藩主の屋敷地を買い取り、周囲の土地も入手して1万坪にまで広げ、和風邸宅を建てた。最期を迎えたのも、本邸だった。弥太郎の没後、息子の久弥が自らの屋敷を建てる。そのひとつが、明治政府に招聘(しょうへい)され、鹿鳴館を手がけたことで知られる英建築家、ジョサイア・コンドルによる洋館。29(1896)年に建築、17世紀初頭のジャコビアン様式を基調とした、優美な邸宅として日本建築史に名を残している。
 この洋館は岩崎家のゲストハウスとして用いられ、関東大震災や第二次世界大戦の戦火にも耐えたが、終戦となってGHQ(連合国最高司令官総司令部)に接収される。そして、新たな家主となったのが、占領中の日本に色濃く影を落としたGHQの諜報機関、いわゆる「キャノン機関」だった。
 彼らは庭で大切に育てられていた樹木を銃の的に使い、和紙と金属箔で見事な細工が施された金唐紙の壁をペンキで塗りこめたという。厨房(ちゅうぼう)やボイラー室などがあった地下。「ここでキャノン機関が何をしていたのか、何人が亡くなったのかわかりません」と都立旧岩崎邸庭園サービスセンター長、松井修一さん(58)は話す。コストなどの理由から、地下は公開されていないが、激動の戦後史の“証人”でもある。
 その後、洋館は修復され、重要文化財に指定された。西に富士山を遠望できたという台地の上に、今も静かなたたずまいを見せている。




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