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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
ついに教科書から「鎖国」の記述がなくりました。
小中で「鎖国」消える…聖徳太子は「厩戸王」に
「鎖国」が消える――。

 文部科学省が14日に公表した次期学習指導要領の改定案では、小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。文科省は中学歴史でも、「聖徳太子」が没後100年以上たって付いた呼称だとして、「厩戸王うまやどのおう」に変える。

 文科省によると、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許し、薩摩(鹿児島県)、対馬(長崎県)、松前(北海道)でも外交と貿易が行われていた。完全に国を閉ざしていたわけではないため、当時の実態に即して表記する。

 「鎖国」は1801年、ドイツ人医師の著書の一部が和訳され、「鎖国論」と名づけられたことから広まったといい、文科省の担当者は「幕府の政策に関し、鎖国という言葉は使われていなかった」としている。これに対し、「開国」という語は、欧米諸国との関係を表す際に使われていたため、現状のまま残す。
 記事の以降は有料版にて。

福島
古書店で『山川健次郎の新資料』発見! 未確認の講演録収録
 東京帝国大総長を務めた会津藩出身の白虎隊士、山川健次郎(1854~1931年)の死後に近親者らがまとめた遺稿の新資料が14日までに、発見された。戦前に刊行されたものなど種類の違う3点の遺稿資料が確認されており、今回が4点目になる。未確認の「白虎隊」に関する講演録が収録されており、研究者は「白虎隊顕彰に積極的だった山川の活動の一端が垣間見える」と評価する。

 小宮京青山学院大准教授(日本現代史)、中沢俊輔秋田大准教授(日本政治外交史)が昨年12月、古書店で見つけた。新資料は「山川博士遺稿」と題が付けられた上・下巻の2冊で、合わせて約500ページある。書店などに流通させない私家版で、山川の死後においらが編さんした。内容は山川の講演録や新聞への寄稿などで、多くがすでに確認されている遺稿資料3点と重複していた。

 新発見資料に、これまでの遺稿資料では未確認の記事や講演録が5編収録されていた。内容は〈1〉白虎隊について〈2〉戊辰戦争の会津藩の火薬庫爆破の伝承〈3〉会津の刀工(三善長道)〈4〉門司駅員自殺問題(明治44年に起きた駅員自殺への所感)〈5〉畏敬する四偉人(明治期の陸軍大将・乃木希典ら)。白虎隊については1928(昭和3)年、兵庫県の赤穂中(現赤穂高)で行った講演録だった。遺稿に白虎隊に関する講演録が収録されるのは、この新資料が唯一という。

 山川は晩年、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た「会津戊辰戦史」(山川の死後の1933年出版)の編さんを進めた。確認される遺稿資料の中には、会津藩や戊辰戦争関連の記事が多数含まれており、中沢准教授は「編さん過程の作業原稿とみられるものもあり、山川が熱心に戊辰戦争の調査をしていたことを裏付けるもの」とみている。

長岡藩・河井継之助に焦点 福島・只見、戊辰戦争150周年
 2018年の戊辰戦争150周年に向け、只見町などは新年度から、同町にゆかりのある幕末の長岡藩(新潟県長岡市)家老を務めた河井継之助らに焦点を当てた記念事業を展開する。

 河井継之助は、戊辰戦争で長岡から会津藩に向かう途中、同町塩沢地区で命を落とした。同町の医王寺に墓があるなどゆかりが深い。

 戊辰戦争150周年を契機に、町などは河井継之助を中心とした同町の歴史について町民に改めて理解を深めてもらい、観光振興にもつなげようと記念事業を行う。

 町や会津只見史談会、町観光まちづくり協会、会津ただみ振興公社などの関係機関は3日、戊辰戦争150周年に向けた実行委員会を設立した。

 町役場で第1回会議を行い、新年度は町内の幕末維新に関する史跡などに案内標柱を設置するほか、ガイドブックを作成するなどの記念事業案を了承。18年度は同町と長岡市の史跡を巡るツアーやシンポジウムの開催に向けて今後、具体的な内容を詰めていく方針を確認した。

宮城
<東北の本棚>仙台藩玉虫の夢と挫折
竜は動かず/上田秀人 著

 「竜」とは、幕末の仙台藩の例え。大藩でありながら、戊辰戦争では大きな働きはできなかった。なぜか? 悲運の最期を遂げた仙台藩士、玉虫左太夫の生涯を追った600ページ超の本作を読み、仙台藩の負の遺産を見た思いだ。
 左太夫は藩鷹匠頭の子として生まれ、俊才と言われた。末子の七男であり、才能を開花させる場がない。だが、江戸へ出て学び、やがて幕府外国奉行に見いだされ、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節の一員として渡米する。
 米国では驚きの連続だった。水夫と士官は役目上のことであって、仕事を離れると友人と同じだった。航海中、水夫が病死すると、葬儀に艦長が出て哀悼の意を表した。ワシントンで大統領に会う。「入れ札(選挙)で選ばれている」。当時の日本では考えられぬ制度だった。
 幕末の動乱は、仙台藩に及んだ。帰国した左太夫は会津藩救済に動き、奥羽越列藩同盟成立の実務を仕切った。しかし作戦会議で、戦略を披露しようにも「分をわきまえよ」と藩幹部に制せられる。身分が低いことから重臣たちの恨みを買い、米国帰りが、煙たがられた。
 江戸時代は、全体が身分制社会であった。中でも仙台藩は、特殊な身分制度を取っていたことを指摘しておく。藩祖伊達政宗は攻略した敵の将兵を次々と自らの陣営に迎え入れた。膨張する家臣団を維持するため、藩は伊達氏の血縁、有力家臣を一門、一家、一族などに分けた厳しい家格制度を敷いた。血筋による序列が何百年と、幕末までも続いた。
 共和制の米国を見た左太夫の描いた夢は、公論に基づく新しい国づくりであったはずだ。しかし藩内の派閥抗争に巻き込まれ、ついには反佐幕派に処刑される。享年47歳。厳しい家格制度の前に、左太夫の夢は葬り去られた。
 著者は1959年大阪府生まれ。時代小説で活躍、著書に「孤闘 立花宗茂」など。
 講談社03(5395)5817=上・下各1728円。

佐賀
庄屋「峯家」文書を公開 朝鮮通信使、桜田門外の変など
 江戸時代から明治にかけて唐津市相知町で庄屋を続けた峯家に残る「峯家文書」から32点を厳選した資料展が、相知図書館で開かれている。朝鮮通信使の絵図や赤穂浪士の足跡を記した書冊など、村里の庄屋の旺盛な好奇心がうかがえる。

 17世紀後半から約200年にわたって収集した峯家文書は約5千点で、市指定文化財になっている。多くは行政関係の文書だが、その中から面白く貴重な資料を選んでおり、ほとんどが初公開という。

 江戸時代に12回来ている朝鮮通信使の絵図は、1811年の最後のもので、朝鮮国の服装や行列の様子が分かる。ベトナムや西洋、インドの男女を描いた絵や黒船図もあり、江戸時代の人々の海外への関心ぶりが垣間見える。赤穂浪士の討ち入り、大老井伊直弼(なおすけ)が殺害された桜田門外の変を記したものもある。

 こうした資料は、峯家が18世紀中頃から開いた私塾「希賢堂」の教材にも使われていたと考えられる。

 虹の松原一揆の指導者冨田才治の漢詩もある。一揆以降、関係が発覚するのを恐れて才治の手紙などが処分される中、唯一残った直筆の書。才治が希賢堂を開いた峯復斎に送ったもので、「私の先生になって」と懇願している。

 昨年の企画展で好評だった新撰組土方歳三の最期を記した「大野右仲(すけなか)君(ぎみ)日記抄」も公開。大野は唐津藩士で後に東松浦郡長になり、初代相知町長の峯〓(きとう)に与えたものと考えられる。

〓は火ヘンに卒

 相知市民センター総務教育課で文化財を担当する黒田裕一係長(49)は「庄屋として教養をつけるものだけでなく、江戸や京都の情報を収集しようとしていたことがうかがえる。粋な趣味、教養深さを楽しんでほしい」と語る。

 3月31日までで月曜、祝日、第1水曜は休館日。入館無料。

インタビュー
大久保利通の曽孫「大久保家と西郷家は婚姻関係が結ばれ、実は親戚です」
 大政奉還から150年を記念して、幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、大久保利通の曽孫・大久保利ひろさんだ。

*  *  *
 大久保利通は私の曽祖父にあたります。2017年は「大政奉還150年」ということですが、私たち大久保家にとっては翌18年の江戸時代を経ての「明治維新150年」ですね。

 薩摩藩の下級藩士の子として生まれ、西郷隆盛と共に成長し、幕末をくぐり抜けて明治維新を推進していきますが、盟友であった西郷とは征韓論で対立、敗れた西郷は政治の中枢から辞し、このとき二人は決別したとされています。その後、西南戦争では西郷は政府軍の前に敗北を知り、自害してしまいます。利通は西郷が挙兵するはずがないと最後まで信じていましたが、挙兵を知ったときは西郷を説得できなかったと悔やみ、それと同時に永遠の別れを覚悟していたと思います。利通が暗殺される直前に西郷からの手紙を読んでいたとも言われていますしね。ただ、西郷は大久保なら自分ができなかったこと、やり残したことを必ずやってくれるはずだと願っていたと思いますね。また利通は「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言っていたぐらいです。西郷と利通は本来はクルマの両輪のような関係だったのです。

 余談ですが、利通のことでよく聞かれるのは大久保家と西郷家との関係です。利通の妹の孫のところに、西郷家からお嫁さんをもらい、大久保家と西郷家は親戚関係になっています。

 岩倉使節団の副使としてアメリカやイギリス、ドイツ、フランスなどを訪れますが、身長が178センチと当時としては長身だったこともあり、なじみやすかったようです。フランスでは家具のカタログを手に入れましたが、よほど興味があったのでしょう、帰国後に机を作らせています。その他にフランス製の陶器の灰皿やガラスの洗面器なども購入していますが、いわゆる「西洋かぶれ」ではなく、実用を重視して自分に合ったもの、使い心地のよいものを取り入れていたにすぎません。手紙は最後まで筆で書いています。ただ利通が使っていた硯や印鑑は大きな体に似合わず小ぶり、本当に小さなもので驚きました。
 利通は家族、特に子どもに対してはとてもやさしくふれあいを喜び、子煩悩で可愛がってくれた、と祖父・利武が話してくれたことがあります。

 利通は使節団で欧米諸国を訪れて海外の諸事情を間近に見て、国力増強の必要性を強く感じました。そのためには産業に力を入れようと西南戦争の最中に第1回内国勧業博覧会を開催します。また農業の発展も急がなくてはと思っていた矢先、福島県で始まっていた開拓事業を知った利通は、この事業成功に腐心し、郡山市で国直轄の農業水利事業第1号、安積開拓を推進します。そのさなか利通は暗殺されますが、利通の遺志を受け継ぎ、工事の開始から3年後の明治15(1882)年に完成します。夢がかなったと言ってよいのではないでしょうか。

 明治維新において、自分の役目を果たすために仕事に真摯に取り組み、そしてやり遂げた。道を拓き、その道を次の世代に託して旅立った、そう思っています。次男の牧野伸顕、跡を継いだ三男で祖父の利武、学者であった父・利謙は、それぞれ違った形でしたが、利通の子孫としての役目を果たしたと思います。私の役目と言えば、まだ手元に残っていた資料を千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館へ寄贈したことでしょうか。それをきっかけにすでに納めてあったものを含めて15年に「大久保利通とその時代」展を開催していただきましたが、常に側にいる、つまり利通との距離感など考えたことはありません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)

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