新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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ぐっと冷え込んだ一日です。日中は陽射しがあったので、思ったほど寒くはなかったのですが、明日朝は冷え込みそうです。
茨城
激動の取手 2人に焦点 相楽総三と宮和田勇太郎 古文書・絵図など企画展始まる
相良総三は白牡丹が高校の日本史の先生に「教科書に載っていない明治維新」みたいな話で教えてもらった人物なので、もう少し知りたいと思っています。
滋賀
開国の食体験を 来月1日、彦根の滋賀大で「フェス」
オリジナル「黒船カリー」もさることながら、当時の料理を現代風に再現した「大老料理」ってのを味わってみたいですねぇ。
京都
5代目知事 中井弘 英留学生が博士論文 京大
兵庫
ブーム再燃「ちりめん細工」日本玩具博物館が解説書
愛媛
三十館目 愛媛県歴史文化博物館/2 /四国
三十館目 愛媛県歴史文化博物館/2 /四国
福岡
「理科離れ防げ」 市へ100万円寄付 久留米は発明家 輩出の地 オガワ機工 地域貢献と3年連続
ブックレビュー
幕府がなくなっても、こうして生き抜きました~『幕末下級武士のリストラ戦記』
安藤 優一郎著(評:尹 雄大)
リンク先は、日経ビジネスオンライン(閲覧に会員登録が必要・無料)のサイトです。
書店で平積みになっているのを見て、買おうかどうしようかと迷っていた一冊です。概要を知ることができて、嬉しいです。
歴史の激動に呑まれつつも、まず日々の暮らしをどうするかという視点が一番という点では生々しいというか、もっともだなぁと感じるところです。
『武士の家計簿』とか『幕末単身赴任 下級武士の食生活』とか(ともにリンク先はamazon.co.jp)、歴史の大勢に影響がなくても地道に時代を生きた人の生活がわかる記録もまた貴重だと思います。
会津藩と新選組の“子孫”二人が、異色の幕末本を出版
茨城
激動の取手 2人に焦点 相楽総三と宮和田勇太郎 古文書・絵図など企画展始まる
幕末維新期の激動にのみ込まれる幕府直轄地だった取手市。その実態を同市ゆかりの人物二人を中心に解き明かす企画展「幕末・明治維新期の取手」が十六日、同市吉田の市埋蔵文化財センターで始まった。四月十九日まで。入館無料。 (坂入基之)
中心人物は、戊辰戦争の際、赤報隊を率い、後に偽官軍の汚名を着せられて処刑された同市椚木出身の相楽総三と、文久三(一八六三)年、京都・三条河原に等持院の足利三代将軍の木像首を晒(さら)して幕府に逮捕された同市宮和田出身の郷士、宮和田勇太郎の二人。
相楽関連では、捕らえられた総三が赤報隊隊士に出頭を求めた書状や遺族の写真などの貴重な資料を展示。宮和田関連では、勇太郎が捕らえられた様子を書き記した同家保存文書や、晒された足利三代将軍の木像首の絵図などが展示されている。
中でも、注目されるのは、筑波山で挙兵した天狗(てんぐ)党から、天領だった上高井村(同市上高井)の農民に出された“徴発命令”や、幕府軍に“徴兵”された同村農民の代理人が天狗党討伐作戦で戦死したことを伝えた書状など、当時の様子を生々しく伝える古文書類だ。
同センターの飯島章学芸員は「幕末・維新の衝撃波は地方の一般庶民をも直撃した。古文書など関連資料は活躍した二人の陰で、多くの人たちがこの荒波にもまれたことを物語っている」と話している。
相良総三は白牡丹が高校の日本史の先生に「教科書に載っていない明治維新」みたいな話で教えてもらった人物なので、もう少し知りたいと思っています。
滋賀
開国の食体験を 来月1日、彦根の滋賀大で「フェス」
幕末の開国にちなんだ食を紹介する「ひこね開国フェスタ」が3月1日、彦根市の滋賀大彦根キャンパスで開かれる。
井伊直弼と開国150年祭の1環。彦根商工会議所青年部が企画運営する。
目玉はイカ墨や食用炭をベースにした「黒船カリー」。日米修好通商条約によって開港した横浜、函館、新潟、神戸、長崎の5港ゆかりの食材を盛り込む。黒船の模型の中に設置した鍋から限定500食で振る舞う。当日午前10時半から。
「大老料理」は、井伊家が客に供した料理を現代風に復元。いり鶏やカモのロースの大根おろし添えなどを箱詰めにして1食1000円で100食を限定販売する。予約が必要。
ほかに、ペリーが称賛したとされる「保命酒」をベースにした「彦根カクテル」の試飲会、ジャズのライブやクイズがある。明治維新にかかわった藩の物産販売も行われる。
午前10時-午後3時。雨天決行。大老料理の予約は滋賀大生協=電0749(24)3256=へ。
オリジナル「黒船カリー」もさることながら、当時の料理を現代風に再現した「大老料理」ってのを味わってみたいですねぇ。
京都
5代目知事 中井弘 英留学生が博士論文 京大
幕末の1868年(慶応4年)3月、英国公使一行が京都で攘夷派の武士に襲われた「縄手事件」の際、身を挺(てい)して一行を守った後(のち)の京都、滋賀両府県知事・中井弘(1838~94)をテーマにした博士論文の作成に、京都大大学院に留学中の英国人エレノア・ロビンソンさん(35)が取り組んでいる。琵琶湖疏水の開通などに貢献し、「鹿鳴館(ろくめいかん)」の名付け親でもある中井に関する研究はこれまでほとんどなく、「日英友好のルーツと言える人物。ぜひ光を当てたい」と意気込んでいる。
ロビンソンさんは、英・リバプール出身。シェフィールド大日本語学科在学中に幕末史に興味を抱き、2002年に京大大学院人間・環境学研究科に入学、共生文明学を専攻した。
中井との出会いは、入学直後の講義で名前を聞いたのがきっかけ。京都御所に向かう英公使パークスを襲撃した攘夷派の武士を、後に自由民権運動で活躍する後藤象二郎と撃退、当時のビクトリア女王から宝剣を贈られた人物と知り、「英国の感謝、信頼の証しで日英友好の原点」と感じ、研究を始めた。
だが、中井に関する研究成果はこれまでほとんどなかった。京都国立博物館(東山区)や国立国会図書館(東京)などで中井が英国視察時に書いた日記などを読み込み、また、東京都調布市に住む子孫を訪ね、家族間のみで伝わった逸話の収集にも取り組んだ。
薩摩藩出身の中井は20歳前後の頃に脱藩し、縄手事件前に渡欧して外交を学んだ。明治維新後も外交官などとして活躍。伊藤博文や大久保利通ら明治の元勲と親しく、「鹿鳴館」(東京)の名を付けるなどした。
1884年に就任した滋賀県知事時代には地元の反対論を抑えて琵琶湖疏水建設を実現。93年からは第5代京都府知事に就き、遷都千百年記念祭を手がけたり、京都―舞鶴間の鉄道建設に尽力したりしたことで知られている。
ロビンソンさんは「薩英戦争(1863年)後の縄手事件でパークスが殺されていたら、日英関係は悪化し、その後の外交基盤も築かれなかった。あまり知られていない中井の功績をもっと知ってほしい」と話し、今年夏頃の論文完成を目指している。
指導に当たる中西輝政教授(国際政治学)は「中井については史料も少ないが、日英関係史上、重要な人物で、ユニークで意義ある着眼」としている。
兵庫
ブーム再燃「ちりめん細工」日本玩具博物館が解説書
〈僅(わず)かな裂屑(きれくず)を集めて、種々(くさぐさ)の動植物、其(その)他様々の形を美麗に細工するものにして…我国の一美術ともなさんことを努むること肝要なり〉。かつて日本女性のたしなみとして広く愛好された裁縫細工物「ちりめん細工」が、今またブームとなっている。再興の仕掛け役となった日本玩具博物館(姫路市香寺町)は、所蔵品の解説書「江戸・明治のちりめん細工」を出版。従来顧みられなかった芸術的、歴史的側面から、その真価を伝えている。(平松正子)
(中略)
例えば、天保-幕末期の京・大阪で流行したのが「だんぶくろ」。ちりめん布を縫いつないだ素朴な袋物で、女性らが野外の遊びに携えた。やがてきりばめ細工や押し絵など高度な技法で、梅やうぐいす、金魚、唐子人形などが形作られる。多くは袋や箱で、お香や琴づめを収めたという。
愛媛
三十館目 愛媛県歴史文化博物館/2 /四国
三十館目 愛媛県歴史文化博物館/2 /四国
◆愛媛県歴史文化博物館(西予市)(2)
◇歴史や民俗を体感 幕末期の松山城下町復元、昭和の生活再現、祭りなど展示
愛媛県歴史文化博物館の常設展示室は、県内の歴史や民俗を体感できるよう、ゆったりとしたスペースに原寸大に復元した資料などをたくさん展示しているのが特徴だ。各時代を象徴する住居や祭りの山車(だし)、御輿(みこし)……。展示室のいくつかを歩いた。
「幕藩体制下の伊予」の展示室では、安土桃山時代から江戸時代までの伊予地方の八つの藩の動静や人々の暮らしを、城郭、絵図、古文書などで紹介している。中でも、現在では松山市中心部に当たる幕末期の松山城下町(縮尺600分の1)を復元した模型は見応えがある。勝山の南側のふもとなどに武家屋敷を置き、北西部に商工業者、北側には寺院を集めて寺町を形成。その後、城下町が次第に東南部に広がった様子がよく分かる。他にも宇和島市の宇和島城(同20分の1)、大洲市の大洲城(同100分の1)、今治市の今治城(同150分の1)などの模型を展示。宇和島藩の伊達家が参勤交代に用いた御座船「大鵬丸」(同20分の1)の復元模型も置かれている。
福岡
「理科離れ防げ」 市へ100万円寄付 久留米は発明家 輩出の地 オガワ機工 地域貢献と3年連続
児童の理科教育に役立ててほしいと、久留米市宮ノ陣町若松の搬送システム製作会社・オガワ機工(伊藤博介社長)が16日、同市に100万円を寄付した。従業員約20人と大きな会社ではないが、2007年から3年連続の100万円の寄付。「子どもたちの理科離れを防ぎ、ものづくりの人材を育てたい」という伊藤社長の思いに、手に技術のある従業員たちも寄付を承諾した。
伊藤社長が寄付を思い付いたのは、同市内で東芝の岡村正会長の講演を聞いたのがきっかけだった。「自治体によっては予算削減のため理科の実験を児童が直接せずに、教師が行うのを見せるだけのところもある。理数系を目指す子どもが少なくなっている一つの要因。技術立国日本の将来が危うい」。岡村会長はそんな実情を訴えた。
伊藤社長は幕末から明治期にわたる発明家「からくり儀右衛門」こと田中久重や、ブリヂストン創業者の故石橋正二郎氏を輩出した久留米の子どもたちに「もっと科学に興味を持ってほしい」と強く感じたという。
ブックレビュー
幕府がなくなっても、こうして生き抜きました~『幕末下級武士のリストラ戦記』
安藤 優一郎著(評:尹 雄大)
リンク先は、日経ビジネスオンライン(閲覧に会員登録が必要・無料)のサイトです。
明治維新を境に幕臣の運命は暗転した。福沢諭吉の言葉を借りれば「一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」である。
幕臣、福沢は文明開化のイデオローグとなった。彼ほどの教養と知性の持ち主であれば、文明に呼応することをもって、日々のたつきとすることもできた。だが、体制変革を政治、思想の見地からではなく、生計の問題として捉え格闘せざるをえない武士も多くいた。
本著は、幕府瓦解に伴い放逐された下級武士、山本政恒が日々綴った日記をもとに編纂した自分史『政恒一代記』を、大奥をはじめ、江戸に関する書を数多く執筆している著者が解読したものだ。元来あまり着目されてこなかった下士の暮らしから、正史に記述されない歴史の襞を描きだそうとする。
「リストラ戦記」の主人公、山本政恒は天保12年(1841)、江戸の御徒町に徳川家の直臣の三男として生まれた。直臣といっても将軍に拝謁できる資格を持たない御家人であった。だが、御家人には将軍の影武者を務める任がある。戦場で将軍は鎧の上に陣羽織を着るが、御家人もそれに倣い、進んで身替わりとなったのだ。
大任の一方、生活は苦しく「屋敷内の土地を貸したり、野菜を作って自家用」とし、「家族も内職にいそしむ」のを常としていた。
そうした御家人の暮らしぶりがわかるのも、政恒が筆まめであったからだ。三田村鳶魚の諸作や『幕末百話』に見られる闊達な描写と異なり、その筆致はあくまで実質に徹していた。彼に筆をとらせた原動力は、御家人の職務への誇りだろうか。将軍身替わり用の陣羽織まで、達者とはいえないものの、几帳面にスケッチしている。
政恒は11歳で上野の寛永寺に奉公するため家を出た。著者にいわせると「口減らしのための奉公」であった。5年前のまずい古米を食べていた実家の暮らしと同様に、奉公先も食事は質素だった。ご飯に加え、朝は汁、昼は漬け物、夜は「油揚げ一枚、ひじき、切り干しの煮付け」だけ。
だが、寺での暮らしがその後の政恒の性格を決定づけたようだ。一家を構えてからも「朝は早く起き、ご飯は自分で炊いた。味噌汁も自分でつくった」と著者がいうように、すべて自分で切り盛りする才覚を身に付けた。
口うるさい上司、職場いじめ、そして給与100%カット
16歳になると山本の本家で算術の師でもあった山本安之進の三女・かんと結婚。婿養子に収まると正式に御徒(=徒士。馬上を許されない下級武士)として出仕するようになる。主な任務は江戸城内の警護であった。御徒の仕事はひたすら謹厳な姿勢で待つことに尽きた。
たとえば、将軍に慶事があった際、城内で能を催し、諸大名や江戸の町人が招かれるが、御徒は大広間と舞台の間にある石畳にひたすら座り、将軍を護衛する。政恒はこれが苦役だったと漏らす。
〈何れも礼儀正しく、聊(いささ)かにても動かざるよう致すべくに付き、甚だ苦しき勤めなり(中略)番組の長きときは、足しびれ実に困難なり〉
武士も現代人も正座の痺れは同じであった。加えて仕事の悩みも共通している。著者いわく「武家社会では何事も先例が第一」であり、政恒も、古参から何を命ぜられても「御無理御尤」、「一順たり共、上の者には勝てず」と諦めている。さらに、こんなことも記している。
〈一同の悪みを受ける時は、水稽古の時、教ゆる体にて水中へ押し込み、首を上ると又押し込み、(略)其苦しみ云ふ可からざる也〉
上司や同僚の恨みを買うと水練の際、指導と称して沈められた。いつの世もパワハラ、職場いじめは付き物らしい。
勤め人の苦労を味わう日々にも、幕府崩壊の足音は確実に迫り来た。情勢は政恒を時代の先端に押しやる。
御徒に必要な刀槍の稽古は、銃を担いだ近代歩兵の訓練に様変わりした。ただし、「筒袖の着物、たつつけ袴をくくり、脚絆を付け」といった威厳のない装いに抵抗を覚えたようで、著者によれば御徒は「教練をまじめに受けていなかった」という。
精錬を欠いた銃隊だったが、政恒は将軍慶喜の直属部隊として京都に同行。慶喜は倒幕派に先んじ、奇手として大政奉還を行うも、旧幕府軍は官軍と鳥羽伏見の戦いで激突し、敗走。政恒は参戦する機会を得ないまま江戸へ船で帰還する。
実は出撃命令が下される前夜、政恒は景気づけに部隊に酒を呑ませたのだが、4~5名の隊員が酩酊し、身体の自由がきかなくなったという。それについて〈幸ひに出向を止められたれば又幸ひなり〉と述べ、一矢報いる機会を逸したことを悔やんではいない。
おまけに帰途、上陸した浦賀で〈久々にてまぐろの刺身にて酒飯を食す。其味美なり〉と安堵した様子で記しているところを見ると、あくまで生活実感を覚える範囲にしか関心が向かなかったのかもしれない。
江戸開城後、上野の寛永寺に籠った彰義隊の壊滅は、幕臣にまざまざと時代の変転を感じさせた。政恒は政府への出仕も転職も選ばず、かといって幕臣の意地を見せ抵抗運動に加わるわけでもなく、家族6人を連れ、静岡へと落ちる徳川家に従い江戸を離れる。徳川家の支配地は1/10に削られており、家臣の給与のカット率は「ほとんど100%に近い」。大リストラであった。
だが、窮乏は苦労人、政恒の面目躍如する舞台でもあった。与えられた屋敷地で、士分にこだわらず近隣の農民に農業を習った。著者によると「一週間ほどで鍬の使い方、畑の耕し方などを覚えた」。さらに肥えをつくり、作物の殻や落ち葉を拾って風呂を沸かしと燃料の倹約に努めた。
職を求めて江戸改め東京に単身で住み出してからは、浅草の職人に張子の面の作り方を3日間習い、独立。「東京の片隅の五畳半の一室」で「内職をしながら自炊の生活を続け、糊口を凌いだ」。
やがて就職活動が功を奏し、政恒は35歳にして群馬県吏となり、家族を東京へ呼び寄せ、以降、50歳まで勤める。子どもに先立たれる不幸や突然休職を命じられるなどの災難もあったが、55歳で出生地に近い上野の帝国博物館に勤務するようになる。
幕臣としての誇り<目の前の生活
維新から四半世紀、日本は日清戦争に勝利し、近代化路線をひた走っていた。還暦を迎え、孫も授かった政恒は人心地ついた頃であり、この還暦の祝宴で自分史『政恒一代記』の出版構想を明かしている。
その背景には「江戸時代や徳川幕府に関する数々の貴重な証言が『江戸会誌』などの機関誌に掲載されはじめる」という明治下の江戸懐古ブームの影響もあったろう。
著者は、自分史編纂の動機を、明治政府の官吏はあくまで「世を忍ぶ仮の姿。幕臣としての意識は決して消えなかったのだ」としているが、本著における抜粋では、職務への自負は見られても、明確な佐幕に結実する言葉をついぞ目にしなかった。
政恒は自身を〈多事に渉り一に傾かざる性質〉と認めている。自分史にも「収支決算の統計」、経験した内職などを表した「事業」など実利的な項目が設けられており、関心事が多方面に渡っていたことがわかる。
激動の世を「幕臣としての意識」から記述し、歴史の是非を考察するような筆力には欠けている。政恒自身も〈学問浅き故文拙く、書画も又見苦しけれども、敢えて人の力をかり文を飾るほどのことにあらざれば、其拙き儘となせり〉とその辺りを自覚しているようだ。
しかしながら、〈いまだ我が身の上をしるもの、ながらへありて一覧も求めたれば、必ず偽りなきものと信ぜられよかし〉と、自分の知人に記した内容を検証させていた。
「偽りなき」という自負から窺えるのは、勤王討幕や尊王攘夷といったスローガンが叫ばれ、時代が回天しようとした頃も、政恒はひたすら生活することにひたむきであったことだ。二度のリストラもものともせず、過去の地位に恋々とせず、そのときの状況を生き抜く。そこに彼は誇りを持っていたのではないか。
人は決して主義や思想のために生きているわけではない。政恒の生き方は、どんな時代であれ、目的や過去に縛られず、その折々の変化に応じて生きることにこそ価値があるのではないかと示唆しているようだ。
(文/尹 雄大、企画・編集/須藤 輝&連結社)
書店で平積みになっているのを見て、買おうかどうしようかと迷っていた一冊です。概要を知ることができて、嬉しいです。
歴史の激動に呑まれつつも、まず日々の暮らしをどうするかという視点が一番という点では生々しいというか、もっともだなぁと感じるところです。
『武士の家計簿』とか『幕末単身赴任 下級武士の食生活』とか(ともにリンク先はamazon.co.jp)、歴史の大勢に影響がなくても地道に時代を生きた人の生活がわかる記録もまた貴重だと思います。
会津藩と新選組の“子孫”二人が、異色の幕末本を出版
生身の人間像に、子孫だから迫れた。
いまから140年前、明治2年(1869年)の5月、箱館戦争が終結。その年8月には、新政府は蝦夷地を「北海道」と命名した。つまり今年は北海道が誕生し、日本が近代国家へと走り続けて140年目にあたる。
そんな節目の年に、幕府側として戦ったサムライの末裔による2冊の本(共に新人物往来社)が同時に発行された。通説となっている人物像や史実に一石を投じる幕末史は、早くも歴史ファンを中心に話題を呼んでいる。
一冊は、最後の会津藩士から数えて5代目の好川之範氏の労作「箱館戦争全史」。もう一冊は新選組、永倉新八のひ孫の杉村悦郎氏の意欲作「子孫が語る永倉新八」だ。好川氏は、札幌市教育文化会館館長、杉村氏は広告制作会社を経て現在フリーライター。二人はともに札幌市在住で、互いの歴史観を自由に語り合える間柄だ。今年同時に発行することを目標に、競い合い励ましあいながら執筆を続けてきたという。
好川氏の「箱館戦争全史」は、戦争前夜から約7ヶ月の戦闘を経て後処理までを丹念に解説。榎本政権の軍資金は、もともと大阪城にあった幕府の18万両と見られるという説を打ち出したほか、新選組副長、土方歳三の狙撃者や埋葬先も追いかけた。
箱館戦争の和平交渉の背景については諸説あるが、好川氏は、津軽藩の文書などをもとに、榎本軍にいた会津遊撃隊長諏訪常吉が同年4月22日付で残した「置手紙が端緒」という説を展開している。
一方、杉村氏の「子孫語る永倉新八」は、曽祖父、永倉新八が語り残した「新選組顛末記」と、新八と幼児期過ごした父や叔父から聞いた逸話をもとに、新八とつながる多様な人々の実像、新八が生き抜いた幕末・明治・大正の時代の空気をリアルに読み解いている。また新八は今日ではいい役どころとは言いがたい芹沢鴨や評価が分かれる清河八郎に対して、意外にもその人物を近藤勇より高く評価していたことや、松前藩士としてロシアの脅威を教育された結果、一徹な攘夷論者になったのではないか、という新説も展開している。
好川氏は「戦局を概観するのではなく、できるだけ生の目線で箱館戦争を描きたかった。だから、エピソードや新聞記事を数多く採り入れました」。杉村氏は「小樽新聞で新八の直話をまとめた謎の記者や、明治以降も新八と同じく北海道で生きた元新選組隊士のことなど、新八を掘り下げるとその時代に確かに生きた人間の後ろ姿が見えてきたんです」と語る。
子孫らが歴史書に生きた人間の息遣いを吹き込んだ新刊2冊は、全国有名書店で販売中。「箱館戦争全史」は264ページで3,150円、「子孫語る永倉新八」は212ページで2,730円。
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