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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昨日からまた寒くなってきたので、今日の夕食はカレー鍋にしました。ちょっと野菜を入れ過ぎたかも^_^;。

北海道
函館開港150年 未来大生らDVD制作 撮影完了、来月末に完成
 函館開港150周年を記念し、公立はこだて未来大の学生らが進めてきたDVD作品「函館開港のすべて」の撮影がほぼ終了した。幕末から昭和初期までの歴史を振り返る。編集作業を経て3月末に完成させた後、函館市内の観光施設や小中学校での活用を考えているほか、作品のお披露目会も予定している。(久留利愛弓)

 地域の産業活性化に取り組む同大の鈴木克也教授、OBの大久保彰之さん(29)、一年の今野芳章さん(20)ら五人が中心となり、「ペリー提督一行の上陸」「造船業の発達」「博物館と函館公園」など、およそ五十のテーマに基づき、函館、北斗の両市と七飯町で昨年十二月から撮影を進めてきた。映像には地元の学芸員や建築家、郷土史家ら有識者二十八人が「語り部」として登場する。函館市中央図書館や郷土史家が所有する人物や建物の古写真、地図なども盛り込み、一テーマ二分ずつの計百分にまとめる。

 鈴木教授は「函館の歴史を振り返る書籍は過去に多く出されているが、映像作品は珍しい。未来大の技術を生かして制作を進め、街の刺激につなげたい」という。今野さんは「撮影を進めるうちに、開港当初のオープンな街の性質や、函館の歴史の深さが分かってきた。映像で函館の良さを伝えることができたら」と意気込んでいる。

 完成後は地元の小中学校や観光施設に配り、インターネット上でも公開する。問い合わせは大久保さん(電)090・8726・8308へ。


*鈴木教授に聞く 今までにない作品 イベントでお披露目予定

 鈴木教授に制作の意図や、今後の展開を聞いた。

 --制作のきっかけは。

 「開港の節目の年に合わせ、今までにない映像という形で作品をまとめたいと思いました。映像を通じて、開拓魂は開港によってもたらされたことも知ってもらいたい」

 --DVDの構成の工夫点は。

 「歴史的な資料から現在の映像まで一つの映像作品としてまとめることで、そこから函館の課題点を探るきっかけになれば。いわば、過去と現在、現在と未来をつなぐ作品を目指しています。映像は、テーマごとにピックアップして見ることができる構成なので、教材としても使いやすいと思います」

 --撮影を進めてみて感じたことは。

 「多くの『語り部』たちと出会い、道南には歴史について思いが深い人がたくさんいることがわかった。ただ、火災によって焼失したり、すでに解体してしまったりした建物も多く、残念」

 --今後の展開は。

 「四月以降に、開港に関するイベントで作品のお披露目を予定しています。要望に応じていろんな場所で活用していきたいと思っています」

 函館のプロモーション映像といえば、イカール星人の続きが見たい……(。_・☆\ ベキバキ。

氷海の民シンポジウム~道都大・小川名誉教授、旭川市博物館・瀬川学芸員が講演
 15日から20日まで紋別市で開催されている第24回北方圏国際シンポジウムの分科会「第15回氷海の民シンポジウム」が16日、市文化会館で開催された。約100人が来場し、先住民族の交易を切り口にした2人の講師の講演に、参加者らは北の文化について認識を深めた。北の文化シンポジウム実行委員会(桑原誠実行委員長)が主管した。
 道都大学の小川昭一郎名誉教授が「古文書にみるアイヌの交易」を、旭川市博物館の瀬川拓郎学芸員が「氷海の民はなぜ消えたか? │交易をめぐるアイヌとオホーツク文化人」をテーマにそれぞれ講演した。
 小川名誉教授は、江戸末期の紋別に置かれた幕府の出先機関「紋別御用所」の公文書(モンへツ御用書文書)をもとに、アイヌと和人の交易の様子にメスを入れた。
 小川名誉教授は、当時の時代背景として、幕末に松前藩が納めていた蝦夷地は外国の戦艦などが現れるようになり、松前藩では国防が難しいため幕府が役人を置いて直接管理するようになったという経緯や、御用所ではアイヌに狩猟や漁業で働かせ給料を払い税金を取っていたことなどを紹介。
 一方、瀬川学芸員は、6世紀から8世紀頃の北海道の主たる先住民族であったオホーツク文化人と、その後台頭する擦文文化人、アイヌ人の勢力分布について「交易」が果たした役割が大きいのではないか、というユニークな視点を提供した。
 日本書記に登場する「粛慎」が、オホーツク人であるとみられ、その記述から彼らがオオワシの交易に関わっていた可能性が考えられることを指摘。「オホーツク人とアイヌが占めたサハリン・道東・千島は、オオワシの越冬地であり、近世には矢羽用のオオワシの尾羽を大量に出荷していた地域でもあった」ことから「オホーツク文化人の地域展開とアイヌによる領域奪取は、オオワシの尾羽の移出にかかわっていたのではないか」とした。オオワシの尾羽の獲得と、先住民族の盛衰の歴史を重ね合わせる大胆な推理で聴衆をおおいに刺激した。
 北の文化シンポジウム実行委員会の桑原委員長は「私たちにとって、地に足を着けて生活している人々の過去の歴史を知ることは重要です。15回という節目に、素晴らしい講師2人を迎えたことは誇りです」と話していた。


福島
歴史的建造物など4件指定へ/若松の景観審
会津若松市景観審議会(時野谷茂会長)は17日、歴史的景観指定建造物に「阿弥陀寺の御三階」など3件、自然景観指定緑地に「八葉寺の森」を選定した。

24日に答申し市が指定を決定する。

審議会が市から諮問を受け、歴史的景観指定建造物と自然景観指定緑地の2つの選定部会を設けた。

それぞれ現地調査などを行い慎重に選んだ。

特に「阿弥陀寺の御三階」は会津の歴史を語る上で貴重な遺産。

鶴ケ城内にあり江戸時代の文政年間以前の建築とされる。

戊辰戦争の戦火をくぐり抜け七日町に移された往時の鶴ケ城をしのばせる貴重な遺構。

歴史的景観指定建造物は34件、自然景観指定緑地は31件となる。

また、市内大町通り周辺地区が市と「町方蔵しっく通り景観協定」を結んでいるが、協定を延長することも承認した。

指定の答申をするのは次の通り。

◇歴史的景観指定建造物▽板橋家の母屋と土蔵(河東町郡山字古宮)▽切立橋(河東町大田原字権現堂)▽阿弥陀寺の御三階(七日町)◇自然景観指定緑地▽八葉寺の森(河東町広野字権現塚)


群馬
遊ナビ・アート館:広重と北斎の東海道五十三次 高崎で浮世絵名品展 /群馬
遊ナビ・アート館:広重と北斎の東海道五十三次 高崎で浮世絵名品展 /群馬
「広重と北斎の東海道五十三次と浮世絵名品展」が高崎市タワー美術館(同市栄町)で開かれている。
 浮世絵は、江戸時代に遊里や歌舞伎などの流行を伝える情報源として生まれ、美人画や役者絵、風景画などへと広がった。精密な版画技法と斬新な色彩は、世界で高く評価されている。
 有名な歌川広重の「東海道五十三次」に加え、葛飾北斎の「東海道五十三次」、さらに、広重の「五十三次名所図会」を比較しながら、当時の旅の様子や、宿場のにぎわいを鑑賞できる。
 「歌麿・写楽から幕末バラエティーまで」との副題がつけられ、黄金期に活躍した喜多川歌麿らによる美人画、謎の浮世絵師といわれる東洲斎写楽の役者絵、奇想天外な物語をテーマとした「妖怪絵」、ジグソーパズルのような「寄せ絵」など、江戸の遊び心を感じさせる作品も楽しめる。
 3月14日午後2時、展覧会を監修した中右瑛さんの講演会「広重・北斎のミステリー」(無料・要申し込み)もある。
 観覧料は一般500円、大高生300円、中小生200円。土曜日は市内の小中学生無料。問い合わせは同美術館(027・330・3773)へ。【増田勝彦】


茨城
雑記帳 弘道館の釣り鐘、屋内展示に 水戸
<雑記帳>弘道館の釣り鐘、屋内展示に 水戸
 国の特別史跡に指定されている旧水戸藩の藩校「弘道館」(水戸市三の丸)で17日、館の創設者で9代藩主の徳川斉昭が自らデザインし、鋳造させたと伝えられる釣り鐘が鐘楼から取り外された。
 その名も「学生警鐘」。時報の役割を担い、非常時の知らせにも使われたという。当時のまま屋外につるされていたが、防犯体制の甘さを指摘されたため屋内展示に切り替え、代わりの複製を取り付けた。
 歴史資産を保存する目的もあるとはいえ、明治維新に影響を与えたとされる名君ゆかりの鐘が鳴ることはもうない。京都の寺院から仏像が盗まれるモラル不在の後世では、屋内移設もやむなしか。【八田浩輔】


東京
権力の館を歩く:東京・桜田門 警視庁=御厨貴
 巨大都市東京を管轄するとともに、首相や皇族、外国要人らの警護にあたる警視庁。組織の規模は群を抜き、101の警察署、警察官約4万3000人を擁する。旧藩邸を転じた明治の創設時から、地上18階、地下4階の現庁舎時代まで、135年の歴史を重ねてきた。首都にあって、時の政権と並走し、近代日本の力を象徴した警視庁庁舎の転変を、御厨貴・東大教授が探る。

◇帝都の警護に七変化 二・二六事件想起した昭和天皇の現庁舎行幸
 「警視庁と警察庁」「警視総監と警察庁長官」、はてさて何がどう違うのか。桜田門といえば警視庁の建物のことだ。高度成長期に人気のテレビ番組「七人の刑事」(注1)は、独特の男声ハミングとあの桜田門に威容を誇るチョコレート色の旧警視庁庁舎の空撮から始まった。そういえば、“おまわりさん”も所轄の“刑事”もすべて警視庁に属する。あの泣く子も黙ると言われたかどうか、“機動隊”だってそうではないか。目に見える警視庁と目につかぬ警察庁、明治以来の歴史を誇る警視庁と戦後改革で誕生した警察庁。
 「要は東京の地方警察が警視庁で、国家全体の警察が警察庁」。この割り切った説明に誤りはない。しかし徹底的に歴史的変遷の襞(ひだ)を欠く。警察といえば国家権力の象徴である。その組織と館のあり方を、「警視庁七変化」の跡をたどってみよう。
 明治維新直後、江戸改め東京の治安取り締まりをどうするかは、維新政府の喫緊の課題だった。試行錯誤の末、一八七四年薩摩の川路利良(かわじとしよし)(注2)大警視の下、同じく新設の内務省管轄下に、東京警視庁が発足し、鍛冶橋の元津山藩邸に庁舎が置かれる。明治六(一八七三)年政変による西郷隆盛ら征韓派の分裂が契機だった。内治派の内務卿(きょう)大久保利通は、彼等(かれら)による武力反乱鎮圧のため警視庁を利用せざるをえない。最大の士族反乱たる西南戦争への対応のために、警視庁は内務省警視局と統合し、全国的警察統括の役割を果たすこととなる。
 警視庁の再置は一八八一年。またも国会開設をめぐる政府内の分裂、明治十四年の政変の年のこと。民権運動に対応するためには、東京の治安維持が急がれた。ここに大警視改め警視総監樺山資紀(かばやますけのり)の下、警視庁は鍛冶橋に建て直され第二次庁舎時代を迎える。大警視そして警視総監は薩摩の武断派が続いた点に特色がある。内閣制度の創設に伴い、一八八六年警視庁官制が定められる。警視総監三島通庸(みしまみちつね)が臨時建築局副総裁を兼ね、首都計画に携わった経緯もあり、建築警察・衛生警察を含めた都市構造に関(かか)わる権限が警視庁に与えられたことに注目したい。帝国憲法、帝国議会と帝国の制度化が進むと帝都警察としての警視庁の役割は高まっていく。
 明治末年、あたかも警視庁は帝都の宮城(きゅうじょう)前濠(ほり)端の景観形成に一役を買うが如(ごと)き、第三の変化を遂げる。鍛冶橋第二庁舎が手狭になり、またそこが東京駅建設地に含まれたため、いよいよ日比谷公園のはすむかい、濠が直角に折れる地点に躍り出る。赤煉瓦(れんが)は帝都の象徴だった。ここに東京駅の外観とよく似たモダンな庁舎が出現する。赤いストライプの入った堂々たる赤煉瓦の三階建て、巨大なアーチを描くファサード、中央に備え付けられたドーム型の屋根とその上の火の見櫓(やぐら)に使用する塔と、どこから見ても壮麗な建物である。通りこそ違え、スライドさせた形で映る東京駅と警視庁の赤煉瓦。濠端の景観は同じ一九一一年、宮城にむかって右隣に帝国劇場が鉄骨煉瓦造り四階建てルネサンス様式の白亜の殿堂として姿を現した。そこで、赤と白をもじって「地獄極楽横丁」と評された。また「警視庁や帝国劇場は建築として非常にいいといえないにも係(かか)わらず桜田門の方から見た時水辺にあるがためにその美をましている」とも論じられた。
 だが帝都は一九二三年関東大震災で焼失の憂き目にあう。何と極楽の帝国劇場は残り地獄の警視庁は灰燼(かいじん)に帰した。権力の館は第四の変化を余儀なくされ、とりあえず焼け跡の木造バラックで凌(しの)いでいたところ、同年十二月虎ノ門事件(注3)で天皇へのテロが現実に行われ、驚天動地の騒ぎとなる。帝都警察はいよいよ天皇を守るために第五の変化を促され、一九二四年に馬場先門内、すなわち濠の内側に宮城への防波堤と思(おぼ)しき平屋の仮庁舎を造り、横への増築を進める。
 しかしいくらなんでも濠の内にずっとというわけにはいかぬ。一九二六年の中央官衙(かんが)建築計画において、警視庁と首相官邸が最優先と決まる。共に大蔵省営繕の技師下元連(しももとむらじ)が担当している。桜田門外の三角地で宮城に突き出るようなA字形警視庁が一九三一年に完成。六変化めは、地上五階、鉄骨鉄筋コンクリート造りで耐火耐震構造である。桜田門内から警視庁はすぐ目前に見える近さを誇る。同時に警視庁、国会議事堂、参謀本部が一望に見渡せる。あたかも警察と軍に国会が挟まれているかのようだ。しかし宮城警護のための高塔は、濠の内外の反対で途中で切り取られた。
 無機質な雰囲気の帝都警察の館に完成直後、昭和天皇は行幸している。だが五・一五事件、二・二六事件ともに警視庁は帝都の治安と天皇の警護の役割を果たしえなかった。内大臣秘書官長木戸幸一の一九三六年当日の日記は生々しい。「一大不祥事の発生を直感し、直に警視総監に電話をかく。通話することを得たれども、警視庁の手配については要領を得ず」「迎への自働(ママ)車は警視庁前にて阻止せられ、迂回(うかい)して来りし由にて、警視庁の占領せられ居るを知り」
 桜田門は攻守所をかえると天皇に弓をひくことにもなりかねないということだ。他方濠端の景観の方は、警視庁跡地に第一生命館が新築され、帝国劇場、東京会館、商業会議所、明治生命館と連なるラインは、昭和戦前期の最も美しい水辺空間となった。やがて第一生命館がGHQ・マッカーサーの館となるとは、当時は知る由もない。

    □     ■

 桜田門の警視庁と内務省は空襲にたえて残った。しかし戦後改革の中で内務省は廃止されたが、警視庁は「都民を守る」よう位置づけこそ変われ、みごとに生き永らえた。そして社会労働運動、安保闘争、学生運動などに対応し、交通整備、オリンピック警護などにも威力を発揮した。背広姿の警察庁長官に対し、現場を持つ警視総監にはやはり制服姿が似合う。原文兵衛、秦野章、本多丕道(ひろみち)など個性的で絵になる人が、高度成長期までの警視総監像であった。警察庁長官時代を振り返って後藤田正晴は相方の警視総監本多丕道について「この人はたいへん豪放な人です。口数も少ないし、警視総監らしい警視総監だった。立派な人です。ただ警視総監以外は務まらないかもしれないという男だな。まさに親方だ」と語っている。言いえて妙だ。
 かくて警視庁は時を刻んで歴史を作っていく。一九七四年一月に警視庁創立百年記念式典が行われ、実に四十三年ぶりに昭和天皇が同じ警視庁の建物に行幸。侍従長入江相政(すけまさ)の日記に「槙野警視総監来室。行幸啓の御礼。『今の陛下の時においでいただきたかつた』と言つてゐた」とある。警視庁と昭和天皇が共に刻んだ歴史の記憶の共有を改めて確認する行為ができてよかったとの感慨がそこにはある。
 一九八〇年にまさに七変化め、今の警視庁庁舎が同じ桜田門に完成する。オフィスビルのようになった新庁舎に三度行幸した昭和天皇は、視察時に「廊下に出られて総監に、色々な重要な施設等暴漢例えば2・26の如き折、充分防護は考えていようね」と語ったと宮内庁長官富田朝彦(ともひこ)はメモにつけている。驚くなかれ半世紀近くたって、昭和天皇は二・二六の折、なす術(すべ)もなく占拠されてしまった警視庁のことを思い出し、注意を促しているのだ。
 時は移り建築は変わろうとも、「記憶の王」である昭和天皇は警視庁に赴くや、「帝都の王」として瞬間に蘇(よみがえ)り、「あってはならぬこと」の思いを深くしたのであった。(みくりや・たかし=東京大教授、日本政治史、建築と政治)=毎月第3水曜に掲載します

==============

(注1)「七人の刑事」
 TBS系で1961~69年に382回放送された刑事ドラマの代表作。警視庁捜査1課の刑事7人の活躍を描く。芦田伸介ふんする、よれよれのコートにハンチング帽の沢田刑事らが人気で、新シリーズも作られた。

(注2)川路利良
 1834~79年。明治初期の官僚、近代警察行政の確立者。薩摩藩与力の家に生まれ、元治元(1864)年の禁門の変で戦功をたて西郷隆盛に評価された。明治5(1872)年、司法省警保助兼大警視となり、同年渡欧して各国の警察制度を調査。その見聞に基づき、司法権と行政権の分離、警察権の伸長を説いた。

(注3)虎ノ門事件
 1923年12月27日、摂政裕仁(のちの昭和天皇)が難波大助に狙撃された暗殺未遂事件。この事件で山本権兵衛内閣は総辞職し、警視総監湯浅倉平と警視庁警務部長正力松太郎は懲戒免職となった。難波は翌24年死刑に。

 警察という国家機能の表の面と裏の面をいろいろと考えさせられる記事です。新選組の表の面と裏の面についても考えてしまったり。


神奈川
未来の横浜土産をアピール/横浜商工会議所女性会未来の横浜土産をアピール/横浜商工会議所女性会
 横浜開港百五十周年記念イベント開催を控え、横浜商工会議所女性会(秋山桂子会長)は十七日、将来の定番土産を目指した「推奨品」を発表した。
 市花の「バラ」をあしらったもので、カステラ(文明堂)、緑茶セット(横浜園)、名刺入れ(シマヤ)など二十九商品。「女性らしく華もあり、幕末に西洋から入ってきたバラをテーマにした。長く愛される横浜土産になってほしい」と秋山会長はアピールした。
 女性会が二〇〇七年十一月に企画。十三社、一グループが商品化した。商品は認定シールを張り、それぞれの店で販売されている。
 二十五日にはホテルニューグランドで行われる女性会主催の開港百五十周年記念プレイベント「前夜祭晩餐(ばんさん)舞踏会」でも販売される。問い合わせは事務局電話045(671)7492。


大阪
自費出版:指導者かくあるべし 土屋・元関西学院大監督、自身の野球観を本に /大阪
◇企業管理職にもお薦め
 関西学院大(兵庫県西宮市)の硬式野球部元監督で、04年から選抜高校野球大会の選考委員を務める土屋明生さん(59)が、自身の野球観などをまとめた「指導者かくあるべし-志の書『言志四録』に学ぶ」(PHPパブリッシング、1260円)を自費出版した。「野球を知らない人にも楽しんでもらえる本になったと思う」と話す。
 野球の指導者の視点から書いた2部構成。1部は幕末の儒学者、佐藤一斎の著書「言志四録」の言葉を引用しながら指導者の心構えを、2部は弱いチームが強豪と互角に戦う方法をつづっている。




長崎
浜町に龍馬伝ドラマ館開館へ 「亀山社中」跡は8月1日に再公開
 長崎などを舞台にした二〇一〇年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映に合わせて、長崎市浜町エリアに坂本龍馬の人物像や時代背景などを紹介するドラマ館が開館する。四月以降に地元商店街などと整備や運営方法についての実行委員会を立ち上げる予定の市は「市民や観光客にドラマ館と浜町周辺にある幕末ゆかりの場所との回遊性を楽しんでもらいたい」としている。
 市が十七日発表した二〇〇九年度当初予算案に「ドラマ館整備費負担金」として四千万円を盛り込んだ。
 浜町エリアは土佐藩の海軍貿易を取り扱った土佐商会跡があるなど幕末ゆかりの地。ドラマ館はテナントを借り上げて整備する予定で、ドラマにまつわる資料の展示などを検討していく。有料施設とし、ドラマの放映開始前後にオープンする。
 市は江戸末期の「安政の開港」百五十周年と龍馬伝を生かしたまちづくりを進めるため、四月から十一月までまち歩き「長崎さるく幕末編」を展開する。ドラマ館整備費負担金を合わせた事業費は約一億四百万円。龍馬や三菱財閥生みの親の岩崎弥太郎らの足跡や事績を掘り起こし、新たなまち歩きコースで観光客や市民に往事の長崎の雰囲気を感じたり学んでもらう。
 龍馬らが日本初の貿易商社として設立したとされる「亀山社中」跡(伊良林二丁目)については、八月一日に「長崎市亀山社中記念館」として再公開する。市は新年度予算案に往事に近い形での家屋の改修やゆかりの人物の資料展示、整備などの事業費約二千八百万円を計上。入館料などを定めた記念館条例案も提案する。田上市長は会見で「市民の文化の向上や観光振興を図りたい」と述べた。

 『龍馬伝』の製作放映が亀山社中跡の再公開に結びついたようですね。ちょっと気になっていましたので、予算がついて、まずは重畳でしょうか。

長崎市:来年度予算案 一般会計2.8%増1969億円 /長崎
 長崎市は17日、総額3650億3000万円の09年度当初予算案を発表した。一般会計は前年度比2・8%増の1969億円。2年ぶりの増額で、景気悪化による市民生活への影響を最小限に抑える積極予算となった。また、05年度以来4年連続で借金を減らした。09年度末での地方債残高(09年度末見込み)は約2341億1000万円で、市民一人当たりの借金は約52万2000円となった。【下原知広】
(中略)
◇歳出
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」関連事業などのまちづくり関連事業に予算を重点配分。前年度同様、職員提案で予算を使わずに成果を上げる「ゼロ予算事業」にも取り組む。
(中略)
 ◇新規事業
 新規事業は112件。主な内容は▽「九州・山口の近代化産業遺産群」登録推進714万円▽長崎市史刊行3165万円▽さるく観光幕末編1億446万円▽幕末の志士、坂本龍馬が設立した商社「亀山社中」跡の施設整備2750万円▽長崎ペンギン水族館ふれあいペンギンビーチ整備700万円▽歌手さだまさしさんらが出演する市制施行120周年記念「ながさき里帰りコンサート」共催費負担金1000万円▽路面電車軌道緑化モデル事業費負担金300万円――など。


コラム
【元気のでる歴史人物講座】(7)勝海舟 青年時の困窮にも屈せず
 幕末が生んだ一世の巨人・勝海舟は最下級の幕臣で、青年時、困窮生活を送った。だが海舟はこの境遇に屈せず文武両道に努めた。
 江戸随一の荒修業で有名だった島田虎之助の下で10年間剣道に励み、21の時、免許皆伝を受けた。これが海舟の人物を鍛え上げた。海舟は単に頭だけの秀才ではなく気力と胆力を十分に備えていた。
 そのあとが10年間の蘭学修業である。これまたすさまじい勉学であった。蘭学には「ヅーフハルマ」と呼ばれた蘭和辞典が必須だが60両もしてとても買えない。海舟は1年間10両の損料で借り、昼夜をおかず2部筆写し、1部を売りそれで損料を払った。
 その頃、海舟は貧窮のどん底にあった。薪を買う金がないから天井など燃やせるものは皆はがして炊事をした。まことに驚嘆すべき根気と努力であった。写し終わって巻末にこう記している。
 「弘化4(1847)年秋業につきて翌仲秋二日終業、予(よ)この時貧(ひん)骨(ほね)に到り、夏夜蚊帳(かや)なく冬衾(ふすま)(布団)なし。唯日夜机によって眠る。しかのみならず大母病床にあり、諸妹幼弱事を解せず。自ら椽(たるき)を破り柱を割って炊ぐ。困難ここに到り又感激を生ず」
 貧窮困難は決して人間を駄目にしない。艱難(かんなん)辛苦が偉大な人間をつくるという見本である。「困難ここに到り又感激を生ず」。肺腑(はいふ)の底から吐かれた真男子の一言である。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦)




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