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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日も午後から冷たい雨が降ってきました。週末まではぐずぐずした天気が続くようです……春まで、あともう少しの辛抱ですね。

山形
ロケ地庄内に“贈り物” 市民ら感涙、山響「光栄」
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ロケ地庄内に“贈り物” 市民ら感涙山響「光栄」
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 米アカデミー賞の外国語映画賞に「おくりびと」が選ばれた23日、撮影が行われた山形県庄内地方では、ロケに協力した市民に喜びが広がった。映画に出演した山形交響楽団の関係者も感激した様子で快挙を祝った。
(中略)
◎盛岡藩士の「壬生義士伝」来月公開「釣りキチ三平」 滝田監督、東北舞台の作品多く
 「おくりびと」の滝田洋二郎監督は、東北を舞台にした映画を多く手掛けている。新選組に入った盛岡藩士の生きざまを描いた映画「壬生義士伝」(2003年公開)では、日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した。

 『おくりびと』、米アカデミー賞受賞おめでとうございます……幕末ニュース検索に引っかかったのは新選組を舞台にした『壬生義士伝』を滝田監督が製作していたからでした。

企画展:家庭に眠る「お宝」集合--山形 /山形
 家に眠っていた「お宝」が大集合--。山形市大手町の最上義光歴史館で「宝モノ2009企画展」が開かれている。世界で一つしかない思い出の油絵や先祖伝来で仏壇に入っていた巻物など、市民自慢の「宝モノ」が並んだ。4月5日まで。
 自薦他薦、時代、評価額、文化価値を一切問わず募集し、約30点が集まった。幕末の水墨画と推定される「雲龍図」や、74年11月に廃止された「山形交通三山、高畠電鉄の廃止当日記念乗車券」など、ユニークな品々が出展者のエピソード付きで展示されている。
 来館者は「これなら家にもある」「我が家のお宝の方が負けない。来年は出品したい」などと話しているという。【浅妻博之】


宮城
旧ハリストス正教会 客足戻る
08年度 萬画館が鍵管理で入館簡単に
篤姫人気が後押し 県内外から見学者

 石巻市中瀬公園のシンボル、旧石巻ハリストス正教会教会堂の見学客が二〇〇八年度、二千人を超え、前年度を大幅に上回ることが分かった。市が三年前に現地受け付けを廃止して以降低迷したが、隣接の石ノ森萬画館が昨年五月から施錠管理者になったことで客足が戻った。NHK大河ドラマ「篤姫」や幕末ブームを背景に近ごろは女性客も増えた。市は「二千人は名簿記入者だけの数。実際には倍以上の入館者があるのではないか」と見ている。
(中略)
 それに一役買ったのが篤姫人気や幕末ブーム。番組に坂本竜馬が登場した関係で、いとこに当たる沢辺琢磨(一八三四-一九一三年)が同教会の初代司祭であることを知ったファンが訪れている。沢辺はハリストス正教会に最初に入信した日本人でもある。


福島
【特報 追う】会津と蝦夷苦難の200年 福島県がパネル展
 文化5年(1808年)に会津藩が警護のために蝦夷地(現北海道)に出兵して以来、平成20年で 200年を迎えた。福島県はこれを記念し、「北海道と福島県の交流のあゆみ」と題した企画を昨年から開催。6日から会津柳津町で行われたパネル展示が一連のイベントの最後となった。だが、展示されたパネルからだけでは、歴史の明暗は読み取りきれない。改めて福島と北海道の交流の歴史をひもといた。(小野田雄一)
 県の展示パネルによると、文化3年と4年、南下政策を打ち出していたロシアが樺太を襲撃。これに対処するため江戸幕府は当初、津軽藩(弘前藩)に蝦夷地警護を命じる。だが蝦夷地の過酷な環境で、津軽藩士に病死者が多発。幕府は津軽藩士に代え、会津藩士約1600人に樺太や宗谷、松前などの警護を担当させた-これが福島県と北海道の最初の接点だった。
 会津藩が、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争に敗れ取りつぶされたことで、新たな接点が生まれる。明治政府は明治2年(1869年)、賊軍として謹慎中の元会津藩士らを蝦夷地から名を改めた北海道に移し、警護と開拓を担当させた。
 明治半ばになると、政府は北海道開拓に民間資本を導入。士族に代わり、発展する資本主義の過程で生まれた貧農らが開拓の中心となり、毎年数千人規模で移住が行われた。
 以上が県のパネルに基づく概略的な説明だが、これだけでは歴史のドラマは読み取りづらい。そこでいくつかの資料に当たることとする。
 最初の接点、蝦夷地警護で会津藩士は相当苦労したようだ。
 『北に生きた会津武士と農民』(北海道開拓記念館)には、「ロシア人との交戦はなかったが、水腫病などで多数の死者を出し、さらに帰国の途中、兵船が暴風雨に遭って大変な苦労を重ねた」とある。同じ北国出身の津軽藩士に病死者が多発した以上、会津藩士だけ無事に済むはずがないのは当然といえる。
 戊辰戦争に敗れ、「賊軍」とされた後は、さらに過酷だったようだ。
 遠藤由紀子・昭和大非常勤講師の著書『近代開拓村と神社』(御茶の水書房)によると、会津藩士らの北海道入植は、「会津藩士としてではなく、(敗戦後に旧会津藩士が移住した)青森県出身として果たされた。その理由は、当時明治政府には旧幕府軍のうち、会津藩に関してだけは、屯田兵の資格を与えないという考えがあったため」という。また「かつて会津を誇りにして戦ったが、その出身を隠し、旧会津藩士が生きるために果敢に新天地を求めていった胸中がしのばれる」と当時の苦難に思いを寄せている。
 会津の歴史に詳しい郡山市の歴史作家、星亮一さんは「戊辰戦争後の北海道移住は、実質的に流罪だった」と断言する。
 星さんは「当時、東京で謹慎していた旧会津藩士の一部には、政府要人に対するテロを計画していた者もいた。そのため政府は旧会津藩士をできるだけ遠くに置きたかった」と政府側の思惑を指摘。
 「当時、北海道という過酷な土地に、農業経験のない会津藩士を送り込むということは、のたれ死ねということと同じだった」
 『近代開拓村と神社』も「生活は楽ではなく、食も十分ではなかった。主食はフキやワラビなどの中にわずかな米を入れていた。副食品もほとんど自給自足だった」と記述している。
 だが、そうした苦難の中でも、会津藩士が北海道にもたらした功績は大きい。
 北海道開拓記念館の山田伸一学芸員は「(入植先の)余市町の農業発展の基礎作りに貢献したと評価されている」という。各資料も養蚕の導入や新しい食用植物を栽培した点などで、会津藩士は重要な役割を果たしたと指摘する。
 意に反して賊軍の汚名を受けてもくじけず、北の大地に着実に根を張っていった会津藩士の気骨が伺えるのではないだろうか。

■北海道開拓 江戸時代はロシア南下の脅威に備えるため、明治時代はそれに加えて廃藩置県や徴兵制の施行などで職を失った旧武士に対する授産を目的に行われた。明治時代に始まった、軍事訓練を受けながら開墾する「屯田兵制度」は、政府の重鎮・黒田清隆が整備した。屯田兵には政府から住居や食料などの援助があったが、十分ではなかった。
 会津藩に限らず、東北各地も北海道開拓にかかわっている。江戸時代には仙台・庄内・秋田各藩が蝦夷地警護を行ったほか、戊辰戦争後には、反政府同盟「奥羽列藩同盟」に加わった東北諸藩出身者らを対象に屯田兵の募集が行われた。


栃木
日本初の海底ケーブル施設やペリー提督のモールス電信機が近代化産業遺産に認定
 KDDIは同社小山テクニカルセンター(栃木県小山市)の国際通信史料館に設置されている「海底線陸揚庫」(復元)と「ぜんまい仕掛けのモールス電信機」(複製)が、経済産業省の「近代化産業遺産群 続33」において電気通信分野の近代化産業遺産として認定されたと発表した。
 近代化産業遺産は、日本の近代化を支えた幕末から戦前までの建造物や機械などの産業遺産を産業史や地域史といった33のストーリーを軸に取りまとめ、経済産業省が認定するもの。2008年度に取りまとめた「近代化産業遺産群 33」に引き続き、今回“続33”として全国540カ所の近代化産業遺産が認定された。
 海底線陸揚庫は通称ケーブルハットと呼ばれ、1871年に長崎県の小ケ倉千本(現長崎県長崎市)に建設された海底電信線と国内の電信網を接続する施設。ここから上海とウラジオストックをつなぐ海底電信線が敷かれ、それぞれ南回りと北回りでヨーロッパと結ぶ日本初の国際通信がスタートした。施設は復元したものだが、内部には実際に使用した通信機が展示されている。
 ぜんまい仕掛けのモールス電信機は、米国の発明家モールスが1837年に発明したもの。日本に開国を迫るペリー艦隊が、1854年に2度目の来日をした際に江戸幕府へ献上したものの同型機。ぜんまいを動力源して送られるテープに、信号を受けた電磁石が針を動かし、モールス符号を刻んでいく。ペリーはこの電信機を2台使い、上陸地の横浜で電信のデモンストレーションを行なったという。なお現在は、逓信総合博物館の保有となっている。


東京
龍馬の舞 佐那に届け 足立の舞踊団『夢組』がCD
 足立区千住を拠点とする日本舞踊「華園流」の若手男性舞踊団「夢組」が初のCD「土佐の風雲児-坂本龍馬」をリリースした。千住は、龍馬と結納を交わしながら、結ばれることなく生涯独身を通した千葉佐那(佐那子)が晩年を暮らした地。家元の華園夢乃さんは「これを機に、地元ゆかりの佐那の存在も見直してもらえれば」と話している。 (丹治早智子)
 佐那は一八三八(天保九)年、北辰一刀流宗家千葉周作の弟、定吉の次女として生まれた。剣術、馬術にも秀でた優麗な女剣士と伝わる。
 土佐(高知県)から江戸に上った龍馬が、定吉の道場に入門、後に結婚の約束を交わす仲となった。結納の品として龍馬が坂本家の家紋である桔梗(ききょう)紋が付いた片袖を送った話は有名だ。
 しかし、その後京都に向かった龍馬は「お龍」と結婚。大政奉還などに尽力したが、明治維新を見ずに三十二歳で暗殺された。
 佐那は維新後、華族女学校(学習院女子部)の舎監をしたが、晩年は千住の長屋(現・同区千住仲町付近)で、剣術とともに千葉家の家伝だった灸(きゅう)治療をしながらひっそりと暮らし、五十九歳で亡くなった。
 夢組の今回のCDに佐那は登場しないが、自身も千住生まれの夢乃さんは「夢組に龍馬のCDの話がきたのもご縁では」と歓迎。「切ないけれど、佐那の生き方には、今はない日本女性の意地や誇りが感じられる」とたたえる。
 夢乃さんは一九九三年に華園流を創流。男性の弟子も多く、二○○○年、日本舞踊では珍しい男性ばかりの舞踊団として結成したのが夢組。古典・新舞踊をはじめ、ジャズとの共演など幅広く活躍し、“舞踊界のジャニーズ”とも呼ばれる。
 CDはコロムビアミュージックエンタテインメントから発売。千二百円。龍馬の生き方を軽快かつ朗々と歌い上げ、ヒップホップ調のせりふもある。


奈良
ひなまつり-人形たちの宴- <奈良県 大和郡山市>
奈良県内に伝わる雛人形の数々を展示。人形の姿形から、時代の好みや行事にこめられた思いを考える。
 奈良県立民俗博物館は、大和郡山市の緑豊かな丘陵地に広がる大和民俗公園内に建つ。広大な敷地の一画「みんぱく梅林」はこれからが見頃。その時期とあいまって、春を呼ぶ季節展「ひなまつり」が開催される。
 展示では、上段に御殿(御厨子)を設け、その中に内裏雛を飾る大正~昭和10年代の御殿雛や、幕末の墨書をもつ古今雛、旧家に伝えられた雛人形、押絵雛掛軸、奈良一刀彫人形、市松人形、雛道具など約60点。人形の姿を通じて、子どもの成長と幸せを願う人々の心が感じられる。


大阪
ふるさと@おおさか:鹿児島県 「ぼっけもん」五代友厚 /大阪
◇経済に輝かしい業績
 関西には約100万人の鹿児島県出身者が住んでいるといわれる。主に昭和30~40年代の集団就職の影響だ。ならば、大阪で最も活躍した鹿児島県人は誰なのか? 調べていくと、ある歴史上の人物に突き当たった。近代大阪の基礎を作ったとされるその人生には、暗い話題の多い今の日本に必要な「志」にあふれていた。
 「そりゃあ、やっぱり五代友厚公でしょう」。鹿児島県大阪事務所の観光物産課長、吉村博幸さん(49)は開口一番、こう答えた。1835(天保6)年、薩摩藩上級藩士の次男として出生。明治新政府の役人として大阪に着任したことをきっかけに実業家として活躍し、現在の大阪商工会議所、大阪証券取引所、大阪市立大学、造幣局などの設立に尽力、鉱山経営にも手を広げた。輝かしい功績だ。
 しかし、東の渋沢栄一、西の五代と称されるわりには知名度が低い。織田作之助も著書「大阪の指導者」の中で「それほどの人が忘れられているのである」と憂いている。さてどんな人物だったのか。
 「五代は『志』の人。金もうけではなく、大阪を元気にするにはどうしたらいいか考え、行動しました」。こう評するのは、五代が初代会頭を務めた大阪商工会議所の「大阪企業家ミュージアム」(大阪市中央区本町1)事務局長、興津(おきつ)厚志さん(47)。「志」の源流は生い立ちにあった。
 14歳の時、世界地図を模写して地球儀を作ったことから海外に興味を持ち、長崎遊学中に勝海舟らと出会い、開国思想に目覚めた。薩英戦争で英国の捕虜となり、上海や欧州に渡って人脈を築いた。造幣局設置に必須だった印刷機も、五代が奔走して香港から入手したものだ。興津さんは「若いころから世界に関心が向いていたので、藩を越えた活動ができた」と解説した。
 五代が設立に尽力した大阪証券取引所(同区北浜1)の前には、04年の新ビル建設時、五代の像が建立された。明治維新による東京への機能集中で大阪は衰退していたが、五代は人脈を駆使し、企業の組織化や新産業の創出で乗り切った。同取引所の広報担当者は「大阪は本来、もっと革新的な土地。それが今は失われている。五代のDNAを引き継いで、なんとか活気を取り戻したい」と話す。
 五代は人柄も人間臭く魅力的だ。「五代友厚伝」(宮本又次著)によると、普段着ている着物はたばこの火で穴だらけ。強い泡盛を好み、肴(さかな)はいつも薩摩煮で、来客にむやみに薦めた。細かい勘定が苦手で、亡くなった時には100万円(現在の100億円相当)の借金が残ったという。吉村さんに五代の人柄をぶつけた。「ああ、それは鹿児島弁で言う『ぼっけもん』ですね。おおらかで肝っ玉のすわった人、という意味の褒め言葉ですよ」。百年に一度と言われる世界同時不況にのみ込まれた今、明治初期の大阪を駆け抜けた「ぼっけもん」の足跡に復活のヒントを探すのも、いいかもしれない。【福田隆】


高知
「土佐・龍馬であい博」イメージキャラなど決定 高知
「土佐・龍馬であい博」イメージキャラなど決定 高知
 来年放映のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて開催される「土佐・龍馬であい博」の運営にあたる同博推進協議会は23日、同博のイメージキャラクターと文字デザインが決まったと発表した。イメージキャラクターは高知市の専門学校生、細木康平さん(20)の作品。文字デザインは福岡市のグラフィックデザイナー、三好健一さん(58)の作品。来月24日開催の同協議会で採用者を表彰する。
 高知県や観光関係者らでつくる同協議会は、ドラマに登場する坂本龍馬▽岩崎弥太郎▽中岡慎太郎▽ジョン万次郎▽お龍-の5人1セットのイメージキャラクターと、「土佐・龍馬であい博」を独自に書体化した文字デザインを公募。イメージキャラクターに91点、文字デザインには106点の応募があり、同協議会の誘致・広報部会などで選考した。
 細木さんの作品は、キャラクターの個性が表現され、かわいらしく幕末感が漂った点、三好さんの作品は明るく開放的な色彩と力強い書体が評価された。
 同協議会は来年度にキャラクターの着ぐるみを製作するなど、同博のPRに活用していく。


佐賀
「大隈重信」商標申請、福島の業者「縁はないけど」
 早稲田大創設者で、総理大臣を務めた佐賀市出身の政治家・大隈重信(1838~1922)の名前を、福島県須賀川市の食品卸・小売会社が特許庁に商標登録出願していることが24日、分かった。
 特許庁によると、出願されたのは昨年7月1日で、商品の種類は日本酒と洋酒、果実酒、中国酒、薬味酒。登録が認められれば、こうした商品に「大隈重信」の名前を使う場合、須賀川市の会社の許可が必要になる。
 営業部長は「当社は佐賀とは縁はないが、早稲田大創設者として有名なので出願を決めた。佐賀の酒造会社が造った酒を取り扱いたい」としている。
 これに対し、大隈のひ孫で東京在住の大隈和子さん(68)は「無断で名前を使ってほしくない」と不快感をあらわにしている。早稲田大も「大学にとって最重要人物」(広報課)と反発。近く特許庁へ登録を認めないよう訴える。
 商標法では、歴史上の人物については規定がなく、基準を満たしていれば、遺族らの承諾がなくても登録されることがある。歴史上の人物では、幕末の思想家、吉田松陰らの名前が登録されたケースがある。
 特許庁は「審査中のケースについてはコメントできない」としている。


「大隈重信」を商標出願、子孫や早大反発
 早稲田大創設者で、総理大臣を務めた佐賀市出身の政治家・大隈重信(1838~1922年)の名前を、福島県須賀川市の食品卸・小売会社が特許庁に商標登録出願していることが分かった。
 大隈の子孫は不快感を示しており、早稲田大は「大学として看過できない」として特許庁に登録を認めないよう求めることを決めた。
 特許庁によると、出願されたのは昨年7月1日で、商品の種類は日本酒と洋酒、果実酒、中国酒、薬味酒。登録が認められれば、こうした商品に「大隈重信」の名前を使う場合、須賀川市の会社の許可が必要になる。
 この会社は、国内や韓国で、大隈重信の名を冠した日本酒を販売することを想定し、韓国でも商標登録を出願中という。同社の営業部長は「当社は佐賀とは縁はないが、早稲田大創設者としてよく知られた人物なので、出願することを決めた。認められれば、佐賀の酒造会社が造った酒を取り扱いたい」としている。
 歴史上の人物では、幕末の思想家、吉田松陰らの名前が登録されたケースがある。商標法では、本人の承諾を得ている場合を除き、他人の名前は登録できないが、歴史上の人物については規定がなく、〈1〉商品の質を誤認させない〈2〉類似の登録がない――など、一般的な基準を満たしていれば、遺族らの承諾がなくても登録されることがある。
 出願について、大隈のひ孫で東京在住の会社社長、大隈和子さん(68)は「無断で名前を使ってほしくない。関係者に知らされることなく商標登録されるのなら、制度自体に問題があるのでは」と不快感をあらわにしている。
 早稲田大広報課も「大学にとって最重要人物。在校生や卒業生も快く思わないはず。第三者に商標登録されるのは納得できない」と反発。近く特許庁へ登録を認めないよう訴える。
 佐賀市経済部も「佐賀の偉人の名を独占的に利用するつもりなら問題だ」として対応を協議する方針。
 特許庁は「審査中のケースについてはコメントできない」としている。


 商標法の上では問題がなくても、歴史上の人物を商標登録する場合は、やはりご子孫や関係者の了解を取るのが商道徳にかなった方法だと思うのですが……「吉田松陰」の時もそうでしたが、何のゆかりもない業者が海外も含めて商標登録するのは、自分で商売を興すことではなく、後で関係者に買い取らせることを目的にしているのでは?

長崎
幕末さるく 観光50プラン 地図が音声ガイド 当時の洋食を再現 長崎市の計画概要決定
 1859(安政6)年の長崎開港150周年を記念し、4月から長崎市が始める「長崎さるく幕末編」で、名所・旧跡の音声ガイドが聞ける専用地図の貸し出しや、幕末の洋食を再現するイベントなどを行うことが23日、決まった。
 来年放送予定のNHK大河ドラマ「龍馬伝」も視野に、観光関係者などでつくる「さるく観光幕末編基本計画等策定委員会」(委員長、松藤悟長崎商工会議所会頭)が昨年11月から、09年度に実施する観光イベントを検討。同日、田上富久市長に報告した。
 「さるく幕末編」では新たに3つのさるくコースを設定。幕末の歴史の舞台となった場所をタッチペンで押すと音声ガイドが流れる地図も作成し、有料で貸し出す。
 このほか、東山手・南山手地区の洋館を諸外国との「交流館」とし、長崎との歴史などを紹介する映像を流したり、幕末の洋食を再現したりするイベントなど約50項目も計画している。ロゴやマスコットキャラクターも新たにデザインした。
 松藤委員長は田上市長に「めりはりをつけて実施してほしい」と要望した。


龍馬が食べた?幕末のフルコース再現 全日本司厨士協会長崎支部
 幕末の志士、坂本龍馬が長崎で食べた料理は-。長崎市内の西洋料理人が加入する全日本司厨士協会長崎支部(約百二十人)は来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放映を前に再現料理を現代風にアレンジし「幕末のフルコース」(仮称)として各店で提供する。料理は同支部理事長、坂本洋司さん(62)が試作中。メニュー化は会員以外のレストランにも呼び掛けていく。
 坂本さんによると、龍馬が慶応元(一八六五)年、現在の伊良林二丁目に設立した日本最初の貿易商社「亀山社中」近くに、出島のオランダ商館で修業した草野丈吉がその二年前、自宅を改築した西洋料理店「良林亭」(後の自由亭)を開業。長崎は日本の西洋料理の発祥の地とされる。
 「新しいもの好きの龍馬」(坂本さん)も良林亭に通ったと考え、オランダ商館での食事や、明治十二(一八七九)年にイタリア皇族が来県した際に草野が担当した接待料理を文献や当時の日誌を基に再現。ケレーフトソシプ(伊勢エビのスープ仕立て)、ゲバックヒス(白身魚のバタームニエル)、フライコローツキ(ひき肉のコロッケ)、タルタ(カボチャのタルト)など十品を試作した。
 資料や試作メニューのレシピは会員にも提供。坂本さんは「龍馬が持ち続けた夢、情熱は今の時代に必要と思う。龍馬も食べたのではないかと思われる料理でロマンを感じてほしい。できればメニューは統一し、五月にはキャンペーンを始めたい。長崎が西洋料理発祥の地であることを再認識してもらい、長崎の観光浮揚の一助になればうれしい」と話している。

 史実として龍馬が食べたかどうかはともかく、美味しそうです。



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