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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 明日から3月、春はもうそこまで……寒いのが苦手な白牡丹は嬉しいです。

長野
衣装に「禁色」意匠 清昌院の雛人形に新事実
衣装に「禁色」意匠 清昌院の雛人形に新事実
 諏訪市文化財で江戸時代後期の「清昌院の雛(ひな)人形」の衣装は当時、天皇しか使うことが出来なかった文様をあしらったり、極めて高価な布を用いたりしている特徴的な事実が専門家の調査で分かった。幕府老中・松平定信の娘で、高島藩主に嫁した烈姫(後の清昌院)の嫁入り道具とされる人形で、所蔵する市博物館は「高い身分の人物が特注したことをあらためて裏付ける」としている。

 調査した国学院大講師の宍戸忠男さん(57)は「保存状態もよく、江戸生まれのひな人形としては筆頭に挙げていい。国の重要文化財クラス」と高く評価。市教育委員会も県宝指定を視野に調査、分析を重ねる方針だ。

 調査は昨年7月、市博物館が宍戸さんに依頼。内裏2体、楽人7体の計9体について初めて詳細に調べた。

 天皇以外の使用を禁じた意匠は「禁色(きんじき)」と呼ばれ、男びなの上衣に「桐唐草ニ鳳凰(ほうおう)丸文」という文様が使われていた。衣装は全体に上質な絹織物を使用。特に、楽人の上衣は金を混ぜた銀箔(ぎんぱく)を織り込む高い技術が用いられていた。

 さらに、女びなの衣装の着用の仕方は、1844(天保15)年以前の形態で、烈姫が嫁した1815(文化12)年と矛盾しないことも分かった。

 清昌院の雛人形は、明治維新の際に市内の醸造家が拝領。1970(昭和45)年、市に寄贈された。京都の宮廷びなに習った「古今雛」と呼ばれる種類。幕府の倹約令で大きさや造りが規制された中で、華やかさが際立つとされる。市博物館によると、近世のひな人形で国重要文化財や都道府県宝の指定例はないという。

 清昌院の雛人形は市博物館の企画展で公開中。28日午後1時半から宍戸さんの講演会もある。

 (福沢幸光)


滋賀
他抜く愛敬 名陶の里 信楽高原鉄道
 「ずいずいずっころばし」は、信楽焼の「栄光の時代」をしのばせる童歌だ。

 江戸時代、将軍に献上する宇治茶は信楽焼の茶壺(ちゃつぼ)に入れられ、100人以上の従者とともに東へ向かった。大名行列も道を譲ったという。子どもたちは「ちゃつぼにおわれてとっぴんしゃん ぬけたらどんどこしょ(茶壺が来たから戸をぴしゃんと閉め、通り過ぎたらゆっくりしよう)」と歌った。

 信楽焼は通気性に優れ、茶の香りを損なわない。焼き物の普及・展示施設である滋賀県立「陶芸の森」の学芸員、大槻倫子さんは「各地の大名から注文が殺到し、信楽の名を高めた」と解説する。

 幕末にかけて茶壺は廃れるが、粘り気のある土は大型製品の火鉢に適していた。「1軒1個、信楽火鉢」といわれた繁栄を支えたのが、信楽高原鉄道の前身、1933(昭和8)年に誕生した国鉄信楽線だ。郷土史家の冨増純一さん(71)は「事実上は火鉢を運ぶための貨物路線としてつくられた」と話す。



兵庫
【ふるさと便り】寺院から赤穂義士の木像50体 市に寄贈
寺院から赤穂義士の木像50体 市に寄贈
 おのおの方の手を借りたいでござる-。赤穂義士と赤穂藩・浅野家3代の藩主をかたどった木像が、兵庫県赤穂市内の寺院から見つかり、市に寄贈。四十七士に藩主3人の計50体で、市はボランティアを募集して資料の整理・修復を進める。

 木像は、いずれも高さ50センチで、計17個の木箱に分けて収められていた。風化が激しく割れや彩色のはがれも多数。背の部分に、地名や人名が刻まれているものもあった。

 「播磨六坊」の1つとされた同市中広の浄土真宗本願寺派の永応寺に戦後から保管されていたといい、講堂の改修に際して市に寄贈した。製作時期や目的などは不明だが、寺伝では明治維新以後、国内や中国で「忠臣蔵」関連の芝居の興行や慰問などがあった際、“同行”していたという。戦後、同寺に寄託された。

 「市内には他に2組の義士木像があるが、いずれも観賞や陳列目的。今回のように興行などに使われていたという木像は興味深い」と篠宮欣子・県美術工芸ヘリテージマネジャー。

 市は、ボランティアに月1~2回程度、整理やほこり落とし、補修などを手がけてもらう。3月2~12日に応募を受け付け、2、3人を採用する。「未経験者でも構わない。約2年間をかけ、市民が文化財に親しみ、守っていければ」と市教委。問い合わせは市教委生涯学習課((電)0791・43・6962)。


芝居の小道具? 四十七士像、赤穂市教委に寄贈
 赤穂市教育委員会は二十七日までに同市中広の永応寺から赤穂義士と赤穂浅野藩主三代の木像計五十体の寄贈を受けた。製作年代や作者は不明だが、四十七士がそろった木像は市内でも数少なく貴重という。保存修復を手伝う市民ボランティアを募っている。(山本哲志)

 木像は、高さ五十センチ、幅十四センチ。明治維新後、慰問や興行の小道具として全国各地や中国で使われていたらしい。一部の像の背中には、製作費を援助したとみられる個人名や地名が確認できる。

 市内では大石神社と花岳寺に四十七士像があるが、いずれも展示用で、「今回の木像は実際に庶民が芝居などで使用している点で大変興味深い」(篠宮欣子・市文化財保護審議委員)という。

 戦後、永応寺に寄託され、長年収蔵していたが、同寺講堂の大改修を機に、昨年六月、市が寄贈を受けた。ほこりや割れ、色落ちなどの風化が激しいため、約二年かけて修復し、一般公開を目指す。

 ボランティアは二、三人を募集。応募多数の場合は選考あり。十八歳以上で経験は問わない。作業は月一、二回の土日祝に赤穂城発掘調査事務所(上仮屋)で行う。三月二-十二日、市教委(TEL0791・43・6962)で受け付ける。


ブックレビュー
【“新書”最前線】「100年に一度の危機」に読む、150年昔の「幕末」の3冊
 リンク先は日経BP社サイト(閲覧に会員登録が必要・無料)です。幕末ファンには結構嬉しいラインナップの新書です。
「“新書”最前線」は、日本で最も新書に詳しいWebサイト「新書マップ」の協力で、注目すべき新書の新刊を紹介するコーナーです。各社合わせて毎月80~100点ほど出版される今いちばん元気な出版物「新書」のトレンド情報を、月1回のペースでお届けします。

 日本の歴史は新書の定番ジャンル。今シーズンもこのジャンルで何冊もの新刊が出た中から今月は、江戸時代幕末の乱世に着目した迫真のドキュメント3冊を紹介しよう。政治も経済もますます混迷を深めつつある現世と引き比べ、我が身に引き寄せてみずにはいられないラインナップだ。

何が彼らを天誅=テロに走らせたのか

 『幕末バトル・ロワイヤル:天誅と新選組』は、14代将軍・家茂の治世だった文久の3年間(1861~1863年)を中心とする歴史読み物。1868年の明治維新を前に、この時代には大きな出来事が次々と起こった。例えば文久2年は、1月に坂下門外の変、2月和宮降嫁、4月寺田屋騒動、8月生麦事件といった具合。新選組が京都入りしたのは翌年はじめのことだった。

 倒幕派と佐幕派、あるいは攘夷派と開国派とが入り乱れ、幕府の官吏から下級武士や浪人衆まで、およそ刀を腰に下げた男なら誰もが、政治に無頓着では生き延びることのできなかった時代である。国の行く末を案じ思い詰めて、要人に斬りかかる者たちあり。一方で、私利私欲にかられて権謀術数に走る者たちあり。江戸や京都ではテロが横行、その大義は「天誅」と称された。

 この本は「幕末バトル・ロワイヤル」という新書シリーズの第3弾。タイトルに「天誅と新選組」とあるが、近藤勇が主役というわけではない。新選組の研究書なわけでもない。「公武合体論」に始まり、天狗党の最後を描いた「鰊倉(にしんぐら)に死す」で終わる全43編のうち、新選組に触れているのは3分の1もないかもしれないぐらいだ。代わりに何が書いてあるかというと、主なテロ事件の背景となった政局、世情、そしてかかわった人物たちの来歴である。

 複雑怪奇な幕末の人物相関を、テンポ良く、鮮やかに書き下した本書なら、新選組ドラマを一つも観たことがない幕末史初心者にも、まるで時代小説を読むように読み切ることができるだろう。コンパクトながら、時代劇などに出てくる幕末の事件と人物はほぼ網羅されているので、一通りの知識はこの1冊で身につく。興味をそそられるエピソードも一つ二つとあるだろう。新書マップで連想検索すれば、あなたの関心事にフォーカスした別の本がきっと見つかるにちがいない。この後に紹介する残り2冊は人物伝だ。

篤姫、坂本龍馬、西郷隆盛の政治力

 最近は国家元首が次から次へと替わる現状に、リーダー待望論がよく聞かれる。その折々に引き合いに出されるのが、幕末から明治にかけて今の日本の礎を築いた政治家たちだ。私たちが今生活しているこの国と同じ国だったとは思えないほど、人望の厚い個性的なリーダーがたくさんいた。

 『幕末志士の「政治力」:国家救済のヒントを探る』は、篤姫、坂本龍馬、西郷隆盛を取り上げて、伝えられるエピソードなどから彼らの下に人が集まった理由、大局を動かすことのできた理由を探る。また、新選組や徳川幕府が持っていた組織としての政治力にも着目し、分析を試みている。

 取り上げているのはいずれも、明治新政府が始動するころには消えていった(あるいは、消された)人物だ。もし彼らが明治政府に加わることがあったなら、日本はおそらくもっと心豊かな国に成長していただろうと想像をかき立てられるような“力”を持っている。政治家にとっての“力”とは、カネでも権威でもなく、揺るぎない信念とそれを貫く行動力であると著者は繰り返し説く。信念と行動力は、下からリーダーとして仰がれる資質となり、上から引き上げてもらえるチャンスを生むのだ。

幕府という勤め先を失った下級武士の地道な暮らし

 お上と国のゆくえも気にはなるけれど、ともかく目下は自分が大事、乱世を生き抜くコツを知りたいのだ!ということであれば、『幕末下級武士のリストラ戦記』をお薦めしたい。安政の大地震(1855年)後、16歳で御徒組として幕府に召し抱えられた下級武士、山本政恒(まさひろ)の一生を記したものだ。

 もとになったのは、山本自らが晩年の十余年を費やして執筆した『政恒一代記』である。このいわば下級武士版「私の履歴書」には、文章とイラストで微に入り細をうがって仕事や家庭生活が綴られている。政体が大きく変わった当時の庶民の暮らしぶりを今に伝える非常に貴重な資料としても読める。

 山本にとって大政奉還とは、勤めていた会社が倒産するのと同じことであった。いわば会社更生法が適用され、規模を縮小、移転して、幕府は静岡でふたたびささやかに営業を開始したものの、家族を連れて付いて行った29歳の山本に給与の保証はまったくなかった。その後、牢屋番や県庁事務、博物館の目録係など職を転々とする。職と職のつなぎ目には内職で糊口をしのいだり、自家菜園で自給自足を強いられたりすることもあった。子どもは11人にまで殖え、記録の中に散見される収支を見ても暮らし向きは決して楽ではない。

 それでも無名の下級武士はふてくされなかった。家族を守るためには、その時々に得た仕事で懸命に働く以外に道はなく、くさってなどいられなかったのだ。

 自分の生きた証を最後に丁寧にまとめあげ、プライドを示した山本政恒。彼は今のような時代だからこそ見出された、乱世を生きる庶民のロールモデルなのだ。


(文/石川れい子、構成/根村かやの、協力/新書マップ)







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