新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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4月どころか5月上旬並みに暖かかった今日でしたね。桜の開花予想日も繰り上がり、東京では21日日曜日には開花だそうで……春が好きなので嬉しくはあるけれど、桜が散る時期も早まってしまうのはちと残念。
青森
野宮姉さんの手仕事探訪:/75 弘前市・津軽三味線皮張り=工藤満次さん /青森
野宮姉さんの手仕事探訪:/75 弘前市・津軽三味線皮張り=工藤満次さん /青森
栃木
“春”描いた作品一堂に 足利・草雲美術館で企画展
東京
市内の家具関係者が団体を発足し
「家具のまち八王子」をアピール
家具によるまちづくりに向けスタート
京都
幻の東照宮分社、東本願寺に 史料から焼失前の姿よみがえる
板橋で斬首された後に京都で晒された近藤勇の首の埋葬地の諸説の中に、東本願寺埋葬説があることを意識しました(リンク先はwikipedia、墓所の項目にて諸説紹介されています)。禁門の変で焼けてしまったとはいえ、大権現様こと徳川家康公を祀る東照宮が分社として置かれたという東本願寺に近藤さんの首が埋葬されているとしたら、近藤さんの生涯にふさわしい埋葬地だったんだなぁと改めて思います。
青森
野宮姉さんの手仕事探訪:/75 弘前市・津軽三味線皮張り=工藤満次さん /青森
野宮姉さんの手仕事探訪:/75 弘前市・津軽三味線皮張り=工藤満次さん /青森
◇独学で「微妙な加減」習得
津軽三味線の祖、仁太坊(秋元仁太郎)は、幕末に金木村(現・五所川原市)に生まれた。子供のころに失明して盲目の女芸人に三味線を習い、やがて太棹(ふとざお)三味線を使った独自の奏法を編み出し、津軽三味線の基礎を作ったとされる。
栃木
“春”描いた作品一堂に 足利・草雲美術館で企画展
【足利】桜や梅など春を感じさせる作品を集めた企画展「白波紅暾図と春の絵」が四月十九日まで、緑町二丁目の草雲美術館で開かれている。
幕末から明治にかけて活躍した市ゆかりの文人画家田崎草雲(一八一五-九八年)の作品十六点と、草雲の最初の師匠と言われる加藤梅翁の作品一点が展示されている。
梅の絵の名手とされた梅翁と草雲がそれぞれ描いた「墨梅図」や、桜が咲き乱れる茨城、福島県境の勿来の関を源義家が通る様子を描いた「勿来関図」など、春らしい作品が並ぶ。
中でも縦約一・四メートル、横約〇・五五メートルの県指定文化財「白波紅暾図」が目玉。一八八九年のパリ万博に出品され、名誉賞牌を受賞した。日輪と荒々しい白波が、奥行きを感じさせる巧みな構図で描かれている。
森田英希学芸員(28)は「温かな作品から春の息吹を感じてほしい」と来館を呼び掛けている。
午前九時から午後四時まで。月曜休館。問い合わせは同館電話0284・21・3808。
東京
市内の家具関係者が団体を発足し
「家具のまち八王子」をアピール
家具によるまちづくりに向けスタート
八王子は東京から西へ電車で約50分の場所に位置し、古くは甲州街道の宿場町として発展し、幕末の横浜開港後は生糸・絹の中継地として栄えた。また、周辺地域も含め都心の大学が次々と移転してきた文教都市としての側面も持つ。その八王子で、昨年「家具のまち八王子」としてアピールしようという動きが発足。
京都
幻の東照宮分社、東本願寺に 史料から焼失前の姿よみがえる
真宗大谷派の本山・東本願寺(京都市下京区)境内に建立されながら、幕末の禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)の大火で焼失した日光東照宮の分社の規模や外観が、東本願寺に残された史料から確認された。公武合体で孝明天皇の妹・和宮と結婚した徳川家茂(いえもち)の京都訪問に合わせ建立されたとみられ、幕末の京都を舞台にした幕府の宗教政策の一端がうかがえる。
建立されたのは「東照宮御霊殿」で、徳川家康をまつる日光東照宮の分社にあたる。1862年に落成し、2年後の大火で東本願寺境内が被災した際に焼失した。
これまで棟札の記録のほかに手がかりがなく、一般には知られていない幻の東照宮だった。ところが数年前に東本願寺の幕末史料約6千点が見つかり、真宗大谷派と大谷大が鳥瞰図(ちょうかんず)などを確認した。
調査によると、阿弥陀堂の南西に隣接する南北30メートル、東西60メートルほどの敷地に築地塀を巡らせ、大規模な唐門や回廊のある拝殿が建立された。参道が延び、唐門をくぐって拝殿に参拝したらしい。「幕府が用材を準備しており、威信をかけた事業だったことは疑いない」と、調査を進める真宗大谷派総務部の近松誉(ただし)・次長はみている。
東本願寺は、1602年に徳川家康から境内地の寄進を受けて建立されており、幕府との関係は深かった。分社建立の翌年(1863年)には14代・家茂が、徳川将軍として約230年ぶりに京都を訪問。孝明天皇と会見し、東本願寺にも立ち寄った。
確認された史料には家茂や15代・慶喜の両将軍ほか、京都守護職だった松平容保(かたもり)・会津藩主の記録もある。大谷大の木場明志教授(日本近世・近代宗教史)は「公武合体を進めた幕府が、家茂の上洛(じょうらく)を前に、将軍の宗教的権威を京都で誇示したのではないか。あまり文献が残されていない幕末の会津藩の史料としても期待できる」と指摘する。
東照宮御霊殿など東本願寺の幕末史料の一部は各地を巡回する「東本願寺の至宝展」(東京は30日まで日本橋高島屋)で公開される。(編集委員・森本俊司)
板橋で斬首された後に京都で晒された近藤勇の首の埋葬地の諸説の中に、東本願寺埋葬説があることを意識しました(リンク先はwikipedia、墓所の項目にて諸説紹介されています)。禁門の変で焼けてしまったとはいえ、大権現様こと徳川家康公を祀る東照宮が分社として置かれたという東本願寺に近藤さんの首が埋葬されているとしたら、近藤さんの生涯にふさわしい埋葬地だったんだなぁと改めて思います。
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東本願寺には東照宮があったのですね。
土方さんたちもお参りしてたりしてv
タワーロボVSイカール星人のCMも爆笑です。
二つの記事、リンク&TBさせていただきましたので、よろしくお願いしますm(__)m
東本願寺が幕府の保護を受けていたことは『新選組!』で伊東先生が滔々と解説されていた(笑)ので『組!』ファンには知られていることだと思っていましたが、大権現様こと家康公を祀っている東照宮の分社も置かれていたとは、私も今回初めて知りました(さすが神仏習合だった江戸時代^_^;)。
かよこさんがトラックバックした下さった記事で、土方さんが慶応元年に隊士募集のために江戸下向した時、彦五郎さんと一緒に八王子の東照宮分社に参拝に行ったというエピソードを知りました。土方さんの幕府というか徳川家に対する気持ちの一端に触れられたという気持ちになります。
多摩の歴史、八王子千人の歴史など紐解くにつけても、徳川家・幕府と多摩の人々の独特な関係の歴史のもとに、彦五郎さんや土方さんの精神世界があるのだなぁと理解が深まってきました。
戊辰戦争に使われた「東昭大権現」の旗は、単に錦旗に対抗するためという意味ではなく、少なくとも土方さんにとってはとても意味が深かったんだろうなぁと思います。
ちなみに、函館プロモーションCMの巨大メカですが、私の脳内ではすでに操縦者(笑)が下記のように。
新五稜郭タワー……土方さん(え・^_^;)
空中要塞ゴリョウカク……榎本さん以下、チーム旧幕府海軍
箱館山波動砲(違)……中島三郎助さん親子チーム
土方さん・中島さんチーム以外の陸軍メンバーも活躍できるメカが欲しいですね(爆)。