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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
鶴ケ城に『武士の魂』...23、24日投影 戊辰戦争・激戦の舞台
 戊辰戦争で激戦の舞台となった会津若松市の鶴ケ城を会場に23、24の両日開催されるプロジェクションマッピング「はるか2018~戊辰の風 花の雲」の公開リハーサルが22日、行われた。武士道や不屈の魂を迫力ある音楽とともに表現した幻想的な映像が、天守閣の白壁に鮮やかに浮かび上がった。

 震災からの復興に向かって歩む人々を応援するため2013(平成25)年から県内でプロジェクションマッピングを開催している「fukushimaさくらプロジェクト」の主催。これまでは毎年県内1カ所での開催だったが、6年目の今回は開催地を増やし、戊辰150年にちなみ、3年ぶり開催の鶴ケ城と白河市の小峰城を会場とした。小峰城では4月7日に開催される。

 作品は15分間。映像製作の橋本大祐さん(郡山市出身)が「魂を込め、命懸けで作った」という映像では武士の魂や会津藩の「白虎隊」「朱雀隊」などの語源となった四神が表現され、最後は会津若松市生まれという引地洋輔さんがリーダーを務めるアカペラボーカルバンド「RAG FAIR」が復興支援ソング「花は咲く」を披露する。

 鶴ケ城での上映時間は2日間とも午後6時30分、同7時15分、同8時、同8時45分の4回。小峰城では4月7日の午後7時と同8時に上映する。入場無料だが予約制。予約は「はるか2018」の公式サイトから。
きょうまでプロジェクションマッピング 鶴ケ城に浮かぶ四神 若松
 会津若松市の鶴ケ城を映像で彩るプロジェクションマッピング「はるか2018~戊辰の風 花の雲~」は23日、開幕した。戊辰戦争150周年や東日本大震災からの復興などをテーマにした幻想的な映像が天守閣を包み、多くの市民や観光客らが見入っていた。24日まで。
 fukushimaさくらプロジェクトの主催、市の共催、NHKエンタープライズの企画制作、福島民報社などの協賛。
 郡山市出身の橋本大佑さんが映像を制作し、武士道や不屈の魂、幕末の会津藩に組織された「玄武隊」「青龍隊」「朱雀隊」「白虎隊」の語源となった四神などを表現した。
 終盤には福島市出身の引地洋輔さんがリーダーを務めるアカペラグループ「RAG FAIR(ラグフェア)」が登場した。花々がかれんに舞う映像に合わせ、天守閣最上階で復興支援ソング「花は咲く」を披露した。計4回の公演を繰り広げた。
 観覧は予約制で、24日分は既に締め切っている。
 4月7日には白河市の国史跡・小峰城跡でも催される。専用ホームページや往復はがきで観覧予約を受け付けている。

( 2018/03/24 10:11 カテゴリー:主要 )

<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(1)「官名乗る賊徒に従わず」
 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(上)作家・原田伊織さん

 <「明治維新という過ち」などの著書で知られる作家の原田伊織さん(71)は、東北における戊辰戦争を「討幕戦争とは別物だった」と指摘する>

◎私怨を晴らす戦

 いわゆる戊辰戦争を「討幕戦争」と位置付けるなら、会津戦争などは討幕とは無関係で性格が異なるというのが私の主張だ。1868年4月4日、江戸城に東征軍の勅使が入り、徳川家への沙汰状を公式に交付した。この日をもって徳川政権は公式に終わった。
 東征軍の江戸入城(11日)や大総督府有栖川宮熾仁(たるひと)親王の入城(21日)など、どのタイミングをとっても4月中には江戸幕府は歴史の幕を閉じたと断定できる。だから、その後の東北での戦争は論理的に討幕戦争とは言えない。

 <それでもなぜ東北戦争は起きたのか>

 平たく言えば報復だ。会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職時代、テロ活動を妨害された薩摩や長州、土佐藩の恨みだ。大義名分がない私怨(しえん)を晴らす戦だ。恭順が拒否された会津藩は戦うしかなかった。
 会津は奥羽鎮撫(ちんぶ)使に何度も嘆願書を出したが、下参謀の世良修蔵が拒否する。容保の斬首にこだわった。和平工作を行った仙台藩や米沢藩なども、世良の品性の欠ける行状もあって「ならば戦うしかない」という流れになる。
 錦の御旗を振りかざして進軍した官軍は、奥羽諸藩も簡単に恭順すると読み違えた。だが、奥羽諸藩の思考回路は「長いものには巻かれろ」ではなかった。「朝廷には恭順するが、官を名乗る賊徒には従わない」という心理だった。
 官軍を名乗った薩長に、もう少しまともな人材がいたら戦争は避けられた。会津戦争や二本松戦争は無益な殺生だった。ただ、「不幸だ」だけで終わらせては意味がなく、歴史から何かを学ぼうとするなら、史実は検証されるべきだ。

 <東北の諸藩は「朝廷に逆らった賊軍」という「官軍史観」が今も残る>

◎前政権を全否定

 新政権は前政権、前時代を全否定し、自分たちを正当化する歴史を書く。これは古今東西を問わずよくあること。ただ多くの民族は一定期間を経て誤った歴史を修正する。日本人はそれをやらずに大東亜(太平洋)戦争に突き進み、国家を滅ぼした。
 戦後も検証されず、そこへ連合国軍総司令部(GHQ)支配の鬱屈(うっくつ)した社会心理を打ち払うかのような作品とともに司馬遼太郎さんが登場し、たちまち国民的作家となった。大学の大先輩で尊敬する面は多々あるが、吉田松陰、坂本龍馬をはじめ、明治維新に関して書いているものは大半がフィクション。「官軍史観」に「司馬史観」が重なり、明治維新に対する誤った理解が定着してしまった。

 <政府は「明治に学ぶ」として、国の行事に150年の冠を付ける考えだ>

 同じようなことが言われた時代があった。軍国主義がピークに達した昭和10年代だ。「明治精神への回帰」をうたう「昭和維新運動」が燃え盛り、もてはやされたのが吉田松陰の思想だ。
 そこから日本の侵略戦争が始まる。日本軍の進出した国や地域は松陰が唱えた対外侵出エリアと全くと言っていいほど一致する。日本に近代をもたらしたとされる明治維新という出来事を、われわれは一度白紙に戻し、冷静に総括しなければならない。

[松平容保]1836~93年。会津藩9代藩主。62年に京都の治安維持のために新設された京都守護職に就く。「8月18日の政変」で長州派を追放するなどした功績で、孝明天皇から絶大な信頼を得た。
 世良修蔵 1835~68年。長州藩士。奇兵隊出身。奥羽鎮撫総督府下参謀を務め会津討伐を声高に主張。「奥羽皆敵」と記した密書などが仙台藩士らの怒りに火を注ぎ、福島藩内で捕らえられ殺害された。
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(2)新政府に国の青写真なし
 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(下)作家・原田伊織さん

 <戊辰戦争から150年。奥羽諸藩を「賊軍」におとしめた明治維新の実像をどうみるか。作家の原田伊織さん(71)は「偽りの革命」だったと言い切る>

◎模倣にすぎない

 テロリズムを背景にしたクーデターにすぎない。「明治維新がなければ植民地化されていた」「日本を近代に導いた」といった歴史認識は真っ赤なうそだ。幾つもの隠蔽(いんぺい)や捏造(ねつぞう)を繰り返さなければ、そのような認識にはならない。
 大隈重信が維新後に語った言葉が象徴的だ。「われわれがやっていることは小栗忠順(ただまさ)の模倣にすぎない」と言っている。「明治維新至上主義者」とも言える司馬遼太郎さんですら小栗を「明治の父」と評価した。時代の違う2人が同じことを言っている。
 桂小五郎(後の木戸孝允)、西郷隆盛、大久保利通が「維新三傑」と呼ばれている。だが彼らは幕府を挑発し戦争を起こしたものの、その後の国の青写真を持っていなかった。だから倒幕後に個々人は強烈な虚脱感に襲われ、組織は腐敗していった。

 <尊皇攘夷(じょうい)の旗印の下、列強との不平等条約を正すために倒幕に踏み切った印象が定着している>

 「尊皇」は武家社会の教養、常識として当たり前の概念だった。(薩長の)偽勅や偽の錦旗が効力を発揮し、幕府や諸藩が恭順していくのも、そういう背景があったから。佐幕人の高い教養に裏打ちされた尊皇意識を背景として、幕末になって長州人、薩摩人が天皇を政治の表舞台に引っ張り出して「政争ツール」としてうまく利用した。

◎外面だけの勤皇

 桂は「玉を動かし」「玉を抱く」などと発言している。長州藩は天皇の拉致を計画し、御所に大砲を放つ暴挙に及んだ。外面だけの勤皇だ。薩摩・長州は「攘夷」と叫んでいる最中に大英帝国の支援を受けた。「尊皇攘夷」は単なるキャッチフレーズ。政権を奪うやいなや卑しいほどの西洋崇拝に走った。
 倒幕勢力は不平等条約の中身も分かっていない。岩倉使節団は条約改正の意識や目的を持って出発したものではない。全権委任状すら持っていなかった。そもそも政府首脳が2年も国を空けてどうするのか。新政権になって新しくできたのは、西郷、大隈、江藤新平らの留守政府による制度がほとんどだ。

 <新政府は富国強兵の名の下、殖産興業を進めた>

◎長州型政権 今も

 新政府は、国の予算で造ったものを商人や同郷の士に払い下げるなどして長州、薩摩出身者らに甘い汁を吸わせた。尾去沢銅山事件などが象徴的。歴史学者の毛利敏彦氏の言葉を借りればまさに「長州汚職閥」だ。
 「明治6年の政変」(1873年)で下野した西郷の言葉が残っている。「我脱出する人間虎狼(ころう)の群れ」。福沢諭吉も明治の要人を「人面獣心」と評した。面識のない2人が似通ったことを言っている。それほど新政府が腐敗していた。彼らが何のグランドデザインも持っていなかったことにも通じる。
 明治維新50年は寺内正毅内閣、100年は佐藤栄作内閣、そして150年は安倍晋三内閣と、いずれも長州内閣であることは単なる偶然だと思いたい。だが、森友・加計(かけ)問題などの官民癒着に限らず、展望のないキャッチフレーズを連呼するところなど、「長州型政権」は今も続いていると言わざるを得ない。

[小栗忠順]1827~68年。幕臣。外国奉行、勘定奉行などを務め、幕府の財政改革、軍制改革を進める。大政奉還に反対し、戊辰戦争では将軍徳川慶喜に徹底抗戦するよう訴えた。新政府軍に捕らわれ処刑された。
[岩倉使節団]1871年12月~73年9月、岩倉具視を特命全権大使とし、欧米を歴訪した使節団。政府首脳や留学生らを含む107人で構成された。
[尾去沢銅山事件]1872年、長州藩出身の大蔵大輔(大蔵省次官)井上馨が尾去沢銅山(鹿角市)を私物化しようと鉱山を没収した事件。井上は訴えられ逮捕寸前まで追い込まれたが長州閥が抵抗し、辞職するだけで罪を問われなかった。
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(3)京都守護職を辞退できず
中村彰彦(なかむら・あきひこ)1949年6月、栃木市生まれ。東北大文学部卒。「二つの山河」で直木賞、「落花は枝に還らずとも」で新田次郎文学賞。会津藩関係の本を数多く執筆。東京都在住。
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京都守護職時代の松平容保の肖像写真(会津若松市蔵)
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 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎会津藩の悲劇 なぜ起きた?(上)作家・中村彰彦さん

 <戊辰戦争は会津藩の存在抜きに語れない。幕末に京都の治安を守った雄藩が一転して「朝敵」とされ、蹂躙(じゅうりん)された悲劇はなぜ起きたのか。作家中村彰彦さん(68)は「藩の歴史を藩祖保科正之、中興の名家老田中玄宰(はるなか)、幕末の3段階で考える必要がある」と言う>

◎東北の藩を救う

 1643年に初代藩主になった保科正之はユートピア思想を持っていた。農民が十分に食べ、農作業にいそしむ。被支配階層が飢えずに人生を楽しむ姿にするのが王道政治と考えた。
 第2次世界大戦後の英国の福祉制度は「揺り籠から墓場まで」と言われるが、正之は既に実践していた。新生児の間引きを禁止し、年貢率を下げ、無料の医療制度を作った。
 90歳以上には身分や男女の区別なく、終生一人扶持(いちにんぶち)(1日玄米5合)を与える「年金制度」を創設。年金保険は18世紀末にドイツのビスマルクが作ったとされるが200年以上早い。
 正之の世話になっていない東北の藩はないと言っても過言ではない。米沢藩は3代藩主が跡継ぎを決めずに亡くなった時、お家断絶の危機を救われた。伊達騒動が起きた仙台藩については、藩を取りつぶさないよう将軍に穏便な処置を助言した。
 戊辰戦争時、仙台、米沢を中心とした東北諸藩は、朝敵とされた会津藩を救うため嘆願書を新政府に提出し、奥羽越列藩同盟を結成した。会津藩への恩義が形になった。軍事同盟というより友情同盟だった。
 正之は15カ条の「会津藩家訓(かきん)」を残した。第1条には「将軍家に忠義を尽くせ。他藩と同程度の忠義で満足してはいけない」とある。自分を大藩の藩主に抜てきしてくれた腹違いの兄、3代将軍徳川家光に感謝する気持ちを持続的に伝えてほしいと願った。

 <正之の死後、鎖国の影響で藩財政は次第に傾く>

◎国防の第一線に

 田中玄宰が登用された18世紀後半、藩には大借金があった。天明の大飢饉(ききん)が起こり、食糧備蓄制度があった藩にも餓死者が出た。子捨てや放火などモラル低下を象徴する出来事が起きた。
 玄宰は教育改革で藩校日新館を創設。入学前の子どもに「什(じゅう)の誓い」を朗唱させた。「うそを言ってはいけない」など7項目のエチケット集で、「ならぬことはならぬ」と戒めた。
 玄宰は最新兵学「長沼流」を導入し、軍を立て直した。19世紀初めに樺太がロシアに攻撃されると、家訓の精神で北辺警備を買って出る。借金を返したばかりなのに、国家のための出費をいとわなかった。
 黒船来航の時も江戸湾警備を担当し、会津藩は日本の国防の第一線に立った。この頃から「困った時の会津藩頼み」という感覚が出てくる。全国に会津藩士の墓が残るのは広範囲で国防に挺身(ていしん)した証拠だ。

 <幕末、京都で「天誅(てんちゅう)」の名を借りた過激な尊皇攘夷(じょうい)派のテロが横行。会津藩が歴史の表舞台に出る>

 幕府は治安を守る京都守護職を新設し、会津藩主松平容保(かたもり)を指名した。尊攘派の憎しみを一身に集める要職。容保は断ったが、政事総裁職松平春嶽に「正之公が生きていれば引き受けただろう」と家訓を持ち出され、逃げられなかった。京都守護職を引き受けざるを得なかったところに会津の悲劇が生まれた。

[保科正之]1611~73年。高遠藩主、山形藩主を経て初代会津藩主。玉川上水開削などを実行し、将軍補佐役として活躍。
[田中玄宰]1748~1808年。会津藩家老。軍や教育の藩政改革を進め、絹織物や清酒、漆器など地場産業を育成。
[伊達騒動]1671年3月、仙台藩で実権を握った伊達兵部と、反対派との権力闘争で起きた同藩最大の政争。
[松平春嶽]1828~90年。幕末の福井藩主。「幕末四賢侯」の一人。
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(4)孝明天皇崩御一転「賊」に
◎会津藩の悲劇なぜ起きた?(下)作家・中村彰彦さん
 <作家の中村彰彦さん(68)は、京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)について「誠実な人柄で、孝明天皇の信頼が厚かった」と話し、天皇崩御で会津藩を取り巻く形勢が急激に変わっていったと指摘する>

◎容保に感謝の意
 1863年2月、容保が京都に入ると、テロが鳴りを潜めた。容保が天皇との信頼関係を確実にしたのが同年の「8月18日の政変」。会津、薩摩藩は天皇の命を受け、過激な尊皇攘夷派の長州藩士や公家を京都から追放した。
 喜んだ天皇は、容保に感謝の意を伝える御宸翰(ごしんかん)と和歌2首を与えた。容保は死ぬまで御宸翰を肌身離さず持っていた。「賊と言われても、先帝と自分の関係は知る人ぞ知る」と言いたかったのだろう。
 御宸翰については明治時代、長州出身の陸軍中将三浦梧楼がその存在を示す本の出版を金を払って差し止めた。出版されれば「戊辰戦争は官軍が賊軍を討った正義の戦い」という薩長寄りの歴史観が崩れる、と考えた。
 <64年の池田屋事件、禁門の変で、会津藩は長州藩の恨みを買う>
 67年に孝明天皇が亡くなった。毒殺説があるが、天皇が代替わりした途端、容保は「幕賊」の一味と呼ばれるようになる。
 容保が「賊」とされた最初の文書は薩摩、長州藩に出された「討幕の密勅」だが、明治天皇の署名、押印「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」がない。討幕派公家3人の署名は1人の筆跡だ。明治維新は偽文書から始まった。
 江戸城開城後、容保は将軍徳川慶喜の代わりに幕賊の首魁(しゅかい)にされる。会津藩は恭順姿勢を示したが、新政府は聞く耳を持たない。会津藩は理不尽な言い掛かりをつけられ、1カ月の籠城戦を強いられた。
 容保は良識的に戦った。戦況が不利になった時、プロシア人商人がベトナムから雇い兵を連れてくることを提案するが、内戦にとどめるため言下に断った。最後の一兵まで戦うことはせず、約5000人が城から出た。次世代を残すために戦をやめたのだと思う。

 <戦後、新政府に東北差別の意識が残った>

◎明治政府の恥部
 最も虐げられたのは会津藩で、領地23万石を全部没収される滅藩処分を受けた。69年に斗南(となみ)藩3万石(青森県下北半島など)として復活を許されたが、当時の稲作の北限より北の土地で「死んでくれ」と言っているのと同じだ。明治政府の政策の恥部だった。
 77年の西南戦争で手柄を立てた元会津藩家老山川浩が陸軍少将に昇進した。昇進決定の会議を欠席した長州出身の陸軍中将兼内務大臣山県有朋は「山川は会津ではないか」と怒った。差別は太平洋戦争まで続いた。
 会津の人々は苦難にめげず、各方面で名を残した。山川の弟で東京、京都、九州の3帝大で総長を歴任した山川健次郎ら、教育界で活躍した人が多かった。第1次大戦中、板東俘虜(ふりょ)収容所(徳島県鳴門市)所長の松江豊寿(とよひさ)はドイツ人捕虜を人道的に扱い、たたえられた。
 山川捨松や新島八重らは篤志看護師として活躍した。彼女たちは鶴ケ城に籠城し、親しい人が死んでいくのを目の当たりにした悔しさがあった。会津の人々は、戦の後も目的を持ち、毅然(きぜん)として知的に生きた。

[池田屋事件]1864年7月、京都の旅館「池田屋」に集まった長州藩などの過激派志士が新選組に襲撃され、多数の死傷者を出した事件。
[禁門の変]1864年8月、池田屋事件に怒った長州藩急進派が挙兵し、京都・蛤御門で会津藩などと交戦、敗走した事件。
[西南戦争]1877年、下野した西郷隆盛が挙兵した士族の武力反乱。政府軍に阻まれ敗走した。
[山川捨松]1860~1919年。山川浩、健次郎兄弟の妹。薩摩藩出身の大山巌と結婚。「鹿鳴館の華」と言われた。
[新島八重]1845~1932年。戊辰戦争時に籠城して銃を取り戦う。同志社大学創設者新島襄の妻。
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