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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 3月も末に近いというのに、今日は寒かったですねぇ。先ほど通りかかった電子気温計は5度を表示してました(汗)。

茨城
コスプレ:映画のロケ地で 若者200人、幕末の雰囲気に--水戸 /茨城
 映画「桜田門外ノ変」のため水戸市千波町に設けられている撮影用の野外セットで27日、「幕末ロケセット コスプレフェスティバル」(同映画化支援の会など主催)が行われ、忍者、武士、歴史上の人物などの衣装に身を包んだ若者約200人が集まった。
 セットは、大老・井伊直弼の襲撃現場や周辺を細かく表現している。幕末の雰囲気に触れられるとして、歴史好きコスプレファンの人気を集めた。
 新選組がテーマのテレビゲーム「薄桜鬼」や、幕末が舞台の漫画「銀魂」などの登場人物に扮(ふん)した女性6人は、彦根藩の赤門を模したセットの前で記念撮影。6人のうち、笠間市に住むフリーターで、ファンの間では明気吉冬夜(あきよしとうや)で通る20代女性は「(コスプレは)心のよりどころ。映画セットで場所を貸してくれたのは県内でここだけ」と喜んでいた。【杣谷健太】


「桜田門外ノ変」セットが人気、結婚式も…水戸
 水戸市の千波湖畔で一般公開されている、映画「桜田門外ノ変」のオープンセットの入場者が27日、5万人を突破した。
 先月20日の公開から約1か月。県外からの見学者も多く、映画の全国公開を10月に控え、水戸市の市民有志らでつくる「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」は「10倍の50万人の来場を目指したい」と話している。
 今年1月に完成したオープンセットは、江戸城の桜田門やお堀など、150年前の街並みが忠実に再現されている。セットでの撮影終了後に一般公開が始まり、同支援の会のスタッフらが入場者の誘導や維持、管理などにあたっている。
 5万人目の来場者は、青森県階上(はしかみ)町の十文字正則さん(50)の一家4人。昨晩地元を出発して乗用車で水戸へ来たといい、十文字さんは「セットの入り口で呼び止められた時はびっくりしました」。来月、茨城大に入学する娘の琴美さん(18)は「試験で水戸に来た時から見に来たいと思っていたのでうれしい。茨城大生として良いスタートが切れそう」と喜んでいた。
 好天に恵まれた27日は、ロケセットを使った結婚式やコスプレ(仮装)イベントも初めて開かれた。
 結婚式は結婚式プロデュース業の「ピーハピィ・エンタープライズ」(水戸市)が企画した。セットでの結婚式第1号は、水戸市元石川町の会社員檜山翔大さん(27)、瑞穂さん(28)夫妻。和装に身を包んだ2人は桜田門のセットを背に、親族や知人など40人に誓いの言葉を述べたり、指輪を交換したりした。翔大さんは「独特の雰囲気があり良かった。思い出に残る」とうれしそうに話していた。
 思い思いの仮装を楽しむコスプレイベント「幕末ロケセット コスプレフェスティバル」は、新撰組など歴史上の人物になりきった和服姿の参加者たちでにぎわいを見せた。イベントは28日も開かれる。
 オープンセットは来年3月まで一般公開される予定。同支援の会の三上靖彦事務局長は「セットで撮影の余韻を味わい、10月には映画館に足を運んで欲しい」と話している。


「桜田門外の変」遺恨超え…水戸市長が井伊直弼の墓参り 茨城
 桜田門外の変から150年-。水戸市の加藤浩一市長は28日、東京都世田谷区の豪徳寺で井伊直弼(なおすけ)の墓参に参列する。150回忌の法要に滋賀県彦根市関係者とともに参列するもので、水戸市によると、市長の参列は初めて。水戸藩開藩400年を迎え、親善都市である彦根市との歴史を振り返り、交流を深めていくことを誓うという。
 直弼は彦根藩主から江戸幕府大老に就任。幕末の動乱期、安政の大獄で尊王攘夷派を弾圧し1860(安政7)年の桜田門外の変で水戸浪士らの襲撃を受け暗殺された。その敵対した歴史を乗り越え、現在では水戸市と彦根市は親善都市として交流。映画「桜田門外ノ変」が製作されていることもあり、水戸市は「節目の年でもあり、歴史を振り返り、両市の交流を深めていきたい」としている。
 彦根市側からは獅山向洋市長や井伊家18代当主、井伊直岳氏らが参列する。獅山市長は昨年11月、安政の大獄で刑死した水戸藩士の墓参のため水戸を訪れている。
 豪徳寺は井伊家の菩提(ぼだい)寺で、境内にある直弼の墓は東京都指定史跡。


東京
桜田門外の変:150年の和解法要…水戸、彦根市長が参列
 幕末動乱期の1860年、大老・井伊直弼が尊皇攘夷(じょうい)派の水戸浪士らに暗殺された「桜田門外の変」で、直弼公の命日にあたる28日、墓のある東京都世田谷区の豪徳寺で百五十回忌法要が営まれた。「歴史的なわだかまりを乗り越えたい」という井伊家十八代当主、井伊直岳・彦根城博物館館長の呼びかけで、水戸藩士と井伊家の地元を代表し、加藤浩一水戸市長と獅山向洋滋賀県彦根市長も初めて参列、両市の友好を誓った。


神奈川
縄文時代の勝坂遺跡と幕末期の旧中村家住宅の整備完了、4月から一般公開/相模原
 縄文時代の集落跡で国指定史跡の「史跡勝坂遺跡公園」と国登録有形文化財「旧中村家住宅」(ともに相模原市磯部)の相模原市による整備が完了し、一般公開を控え関係者を招いた記念式典が27日、行われた。
 勝坂遺跡は縄文時代中期の集積跡とされ、公園内には約4700万年前の土葺(つちぶき)と笹葺(ささぶき)の竪穴住居などが復元されている。住居内は見学できる。笹葺の竪穴住居の復元は全国初だという。
 旧中村家住宅は、幕末期に建てられた和洋折衷の建物。1階は和風の外観を持つが、2階外観は軒を曲線の白しっくいで塗り、正面に縦長の窓を配するなど、洋風の要素を取り入れている。昨年、中村家から市に寄贈されていた。
 テープカットを行った中村家当主の中村正和さんは「地元のみなさんの憩いの場になれば」と話していた。
 一般公開は4月1日から。入園、入館はともに無料。史跡勝坂遺跡公園の復元住居内の見学は水から日曜の午前9時から午後4時。旧中村家住宅は午前9時半から午後4時開館、月から水曜が休館。




静岡
お吉祭り:下田芸者衆、お吉を慰霊 /静岡
◇各地で春迎え
 幕末から明治にかけて実在した「唐人お吉」(本名・斎藤きち)の霊を慰める「お吉祭り」(下田市観光協会主催)が27日、行われた。会場となった同市河内、稲生沢川岸の「お吉ケ淵(ふち)」と、墓がある同市一丁目の宝福寺では、参加した下田芸者衆や観光関係者など約50人が、観光地・下田の名前を全国区にした薄幸の女性の冥福を祈った。
 お吉は芸者をしていた16歳の時、恋人の船大工・鶴松との仲を引き裂かれ、米国の初代総領事・ハリスの世話係をした。その後、鶴松と暮らすが破綻(はたん)し、51歳の時に稲生沢川に身を投げた悲劇のヒロインとされる。
 没後、川岸に小さな池とお堂が作られ、命日に供養を行っている。今年は120回忌にあたり、参加者はランの切り花をささげ、お吉と鶴松に見立てた2匹のコイを放流した。【中村隆】



富山
富山城跡:調査で、幕末絵図の井戸?発見--市埋文センター /富山
◇初確認の明治期建物跡も

 富山城址(じょうし)公園(富山市丸の内)の整備事業に伴う富山城跡の発掘調査で、幕末期の絵図に描かれた可能性が高い井戸跡と、明治期のものとみられる建物跡が見つかり、27日、現地説明会で一般公開された。建物はこれまで絵図などで確認されておらず、今回初めて存在が明らかになった。【青山郁子】

初確認の明治期建物跡も

 調査は富山市埋蔵文化財センターが公園の北東部約370平方メートルについて、昨年11月から行ってきた。
 富山城跡は、最初に築かれた戦国時代から現代までの層が幾層にも重なっているのが特徴。本丸御殿は明治期、県庁として利用されていたが1899年に焼失した。今回の調査では、明治から江戸、戦国時代までの層が確認され、井戸や建物跡のほか廃棄穴なども見つかった。
 井戸は直径約3・5メートル、深さ約2・2メートル。幕末に描かれた「越中国城主前田利同城囲の図」には、本丸御殿の北川に井戸の印があり、実際の位置とずれるものの、この井戸の可能性が高いという。
 また建物跡は、直径約1メートルの柱の穴が11カ所あり、すべて1間(約1・82メートル)を基準に並んでいる。同センターは「県庁として使用していたころの付属施設か、焼失後に県庁が再建されるまでに建てられた建物」と推測している。


岡山
真庭で「雛の文化まつり」開幕
 江戸時代後期から現代までの雛(ひな)人形が町並みを彩る「第9回雛の文化まつり」(中津井やまびこ会主催、山陽新聞社など後援)が27日から2日間の日程で、真庭市下中津井の農村型リゾート施設「なかつい陣屋」周辺で始まった。初日は、メーン行事「輿(こし)入れ道中」に花嫁役を乗せた馬も加わり行列を一層華やかに演出、来場者1万5000人(主催者発表)でにぎわった。
 午後1時から行われた「輿入れ道中」は、江戸末期の様子を再現した豪華な輿入れ行列に続き、花嫁役を乗せた馬も出発。500メートルほどの往路を練り歩くと、訪れた人々は盛んにカメラのレンズを向け、観客は「きれいね」「すてき」と笑顔を見せていた。
 また、陣屋町の面影が残る通りに軒を連ねる民家など約50軒には段飾りや内裏雛などを展示。北房文化協会メンバーによる短歌や川柳といった作品も並び、会場を格調高く引き立てた。
 「輿入れ道中」は28日も午後1時から行う(雨天中止)。問い合わせは同陣屋(0866―52―5001)。


広島
仙酔島・龍馬といろは丸展 1万6800人目 小1・持田さん 認定証贈る
 福山市鞆町の対岸、仙酔島で開催中の、坂本龍馬のいろは丸事件をテーマにした企画展「仙酔島・龍馬といろは丸展」の来場者が27日、「い(1)・ろ(6)・は(8)・丸(0)」の語呂合わせの1万6800人に達し、会場の国民宿舎「仙酔島」の展示室前で、記念行事が行われた。
 いろは丸は、幕末に鞆町沖で紀州藩の軍艦と衝突し、えい航中に沈没した龍馬の乗船。龍馬は鞆町に滞在し、賠償金交渉に臨んだ。同展は、市営渡船「平成いろは丸」の就航に合わせて1月に始まり、いろは丸事件の概要をアニメで紹介したり、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の撮影で使われた衣装を展示したりしている。
 1万6800人目の来場者は、広島市安佐南区の市立原小1年、持田なほさん(7)。羽田皓・福山市長から入場認定証を受け取った持田さんは、龍馬にふんした国民宿舎職員らと記念撮影し、「龍馬のことは知らないが、展示を見て、お母さんと一緒に勉強したい」と笑顔を見せた。
 同展は11月30日まで。入場無料。午前9時~午後5時。




長崎
【動画】岩崎弥太郎と三菱の歴史を学ぶ 長崎でシンポ、400人参加
 本県とかかわりが深い三菱財閥の創始者岩崎弥太郎について学ぼうと、シンポジウム「弥太郎の夢・三菱グループの歴史」(長崎新聞社主催、西日本菱重興産、長崎三菱信用組合協賛)が28日、長崎市茂里町の長崎新聞文化ホールで開かれた。
 弥太郎は高知県安芸市出身。幕末に長崎土佐商会の主任を務め坂本龍馬を支援したほか、明治維新後は高島炭鉱や長崎造船所を取得し本県の近代化に貢献した。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で弥太郎への関心が高まっており、シンポジウムには約400人が参加した。
 弥太郎と三菱財閥に詳しい三菱史アナリスト成田誠一さん(68)は基調講演で「弥太郎は武士階級の最下層からはい上がっただけに、武士の理想を強く追い求めた」と説明。三菱の国家に尽くす企業精神と社長が陣頭指揮を取る伝統は弥太郎から受け継がれた、と解説した。
 パネル討論「岩崎弥太郎が長崎に残したもの」では、元長崎新聞社論説委員長の梅原紘児さん(68)が司会を務め、成田さんと長崎史談会相談役の宮川雅一さん(75)が意見を交わした。宮川さんは「造船所などの働き口、軍艦島などの近代化遺産、失敗しても立ち上がる精神の三つは、弥太郎が長崎に残してくれた大きな遺産だ」と述べた。(詳報は4月11日付の紙面に掲載)


宮崎
都城島津邸:開館 観光や学習に活用 /宮崎
 都城市が進めていた都城島津邸の修復整備が終わり、27日開館した。文化財である邸宅と史料を一体的に保存、伝承する一方、観光や歴史学習に生かす。
 開館に先立って26日は記念式典があり、長峯誠市長は「都城の宝を永遠に引き継ぎ、観光や人材育成に活用したい」と述べた。都城島津家第二十八代当主の島津久厚氏が名誉館長に就任した。
 約1・5ヘクタールの敷地に国登録有形文化財の本宅や石蔵、剣道場など幕末~昭和初期の建造物群が現存する。本宅は1935(昭和10)年の建築で、昭和天皇も宿泊した。市は08年に購入した。
 鉄筋コンクリート2階建ての史料館「都城島津伝承館」を新たに建設。島津氏から市に寄贈された約1万点の史料を順次、公開する。展示品は2カ月ごとに入れ替える。
 屋敷の購入費を含む総事業費は13億5000万円。市は年間3万3000人の入館を見込んでいる。電話は0986・23・2116。月曜休館。【木元六男】



鹿児島
【龍馬ゆかりの地を行く・薩摩編】互いを認めた龍馬と帯刀
 天保6(1835)年。この年に誕生した2人の人物が、互いを認める盟友として、明治維新に力を尽くした。1人は土佐(高知県)生まれの坂本龍馬。もう1人は薩摩(鹿児島県)生まれで、後に「幻の宰相」とも呼ばれた小松帯刀(たてわき)だ。

 龍馬と帯刀の出会いは元治元(1864)年の旧暦6月、京都の旅館「池田屋」で、新撰組が尊王攘夷派の長州藩士らを襲撃した事件がきっかけだった。

 池田屋事件では、龍馬が塾頭を務めた神戸海軍操練所の塾生が難に遭い、自死。幕府は同操練所の責任者、勝海舟らに「反幕」の疑いをかける。軍艦奉行を罷免された勝は、塾生のことを、薩摩藩の西郷隆盛に依頼。西郷は龍馬らを大坂薩摩屋敷にかくまう。

 これが、薩摩藩内の名家に生まれ、20代で藩の家老となり、他藩や幕府からも「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と賞されていた帯刀と、龍馬の出会いにつながった。2人が交わした会話の肉声を伝える資料は残っていない。だが、2人が互いを認めたことは確かだ。

   ×    ×

 慶応元(1865)年、藩家老でありながら、帯刀は自ら龍馬ら塾生約30人を連れて薩摩に帰国。さらに帯刀は、鹿児島城から約2キロ離れた原良(はらら)にある別邸に、約2週間にわたって龍馬を泊めた。
 この居候期間を通じて、龍馬と帯刀が親交を深めたことは想像に難くない。龍馬は兄、権平にあてた手紙の中で「当時天下之(の)人物」として薩摩藩では「家老にて海軍惣(総)大将なり」と、帯刀の名を真っ先に挙げるほど心酔していた。

 龍馬は、帯刀の別邸で西郷隆盛、大久保利通も交えた相談の上、薩長同盟に向けて遊説に出発。歴史の表舞台に飛び出した龍馬を、帯刀がバックアップする。

 塾頭不在となった神戸海軍操練所の元塾生に対し、帯刀は藩費から1人当たり月3両2分の給料を出し、薩摩交易船を使って航海業に従事させた。さらに長崎・亀山の家を借り塾生らを住まわせた。これが亀山社中の発足だった。

   ×    ×

 薩長同盟を結ぶための密議も、京都の小松帯刀邸で開かれた。また帯刀は、長州藩の銃や艦船購入のために、薩摩藩の名義を貸すなど、龍馬が目指す薩長同盟に向けておぜん立てをする。

 慶応2年1月20日、薩長同盟が成立。同24日に寺田屋で幕府の役人に襲撃され負傷した龍馬は、妻のお龍とともに薩摩入りし、原良の帯刀邸に再び滞在した。ここから龍馬は湯治もかねてお龍とともに鹿児島の霧島温泉郷へ向かう。足の病に苦しんでいた帯刀も、時期を同じくして近くの温泉へ保養に出かけた。

 湯治まで息を合わせたような2人の最後の大仕事が、大政奉還だった。龍馬の腹案といわれる大政奉還を、帯刀は「最も公明正大の行為」と徳川慶喜に強く説いた。
 それからわずか1カ月後、龍馬は刺客に殺害される。そして龍馬が新政府人事案で参議(大臣級)の筆頭に挙げていた帯刀も、明治政府では玄蕃頭(げんばのかみ)(後の外務大臣)などを務めたものの、病気がちで表舞台に出る機会は少なく、明治3年、この世を去った。

   ×    ×

 明治維新前後に世を去った龍馬と帯刀。龍馬が生きていれば戊辰戦争はなかったともいわれるが、鹿児島大生涯学習センターの元センター長、原口泉氏は著書「龍馬を超えた男 小松帯刀」の中で「もし帯刀ありせば、西南戦争の悲劇は防げたのではないか、とふと見果てぬ夢を見ます」と書いた。

 鹿児島市原良町には、帯刀邸の石垣が残る。片側1車線の通りから、丘に向かって細い道をほんの少し上った、静かな住宅街だ。

 薩摩藩は江戸時代を通じて、よそ者の入国をかたくなに拒んだ。不審者は生きて出さないことから、行ったっきりで帰ってこない者を「薩摩飛脚」と呼んだほどだ。そんな薩摩だが、幕末の帯刀邸からは居候・龍馬が話す土佐弁が、にぎやかに聞こえてきたことだろう。あるいは、龍馬がたしなんだ三味線や、帯刀が得意とした琵琶の音色が響いていたかもしれない。(小路克明)





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