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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 時代劇専門チャンネルで再放送中の『いのち燃ゆ』が面白くて、毎日楽しみにしています。ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』を幕末の日本に置き換えたストーリーなんですが、大塩平八郎の乱、シーボルト事件など史実の出来事にちょっと関係してしまった登場人物たちがツボです。間もなく京都編に入りますが、新選組副長土方歳三の役で栗さまこと栗塚旭さんが出演されるのが楽しみです(^^)。

茨城
開藩400年・水戸藩の光芒 『先駆け』好きの水戸っぽ気質に思う
 春に先駆けて咲く梅を愛する気風と土地柄ゆえか、水戸っぽが好んで使うフレーズに「魁(さきがけ)」がある。
 水戸藩開藩四百年記念の一環として、来夏の一般公開を目指す「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」の設立趣意書の中にも、こんな下りがあった。
 <水戸藩に興った幕政改革をめざした学問・教育の思想が、倒幕運動を引き起こし(略)明治維新へと突き進んでいくための先駆けとなった>
 幕末史の展開は、尊王攘夷(じょうい)思想の「総本山」だった水戸藩を抜きにしては語れない。最初に火を付けたのは、確かに水戸藩だった。
 義挙なのか、暴挙なのか。立場によって評価の異なる「桜田門外の変」だが、強い衝撃を与えた。事件後、幕府の権威は失墜し、藩を超えて全国の志士たちが連携を強めていく。「幕府転覆の原点」として、後に倒幕に成功した勢力が事件を高く評価したとしても、あながち的外れではあるまい。
 だが、こうした見方には、どこか、戊辰戦争という内乱を制した勝者の側の歴史観、いわゆる「薩長史観」を前提にした響きを感じる。
 事件当時、水戸藩が目指したのは、薩摩藩など雄藩と連携しての幕政改革だった。そもそも「尊王敬幕」(皇室を尊び、幕府を敬う)を藩論とする水戸藩には、倒幕の発想はなかった。
 明治維新に至る過程で、水戸藩は実に多くの犠牲者を出した。詳しくは、一月十八日付本紙特報面「幕末の『英霊』三割は水戸藩士民」をご覧頂きたいが、幕末期の国事殉難者として、靖国神社に合祀(ごうし)された水戸藩関係者は、幕府に敵対した尊攘過激派の人ばかりだった。
 だが、実際は、「逆賊」として靖国神社に祭られなかった、井伊直弼や水戸藩の諸生党、会津藩など佐幕諸藩の人々もまた、国を憂い、国事に殉じたのである。
 ペリー来航から明治維新までの十五年間は、総力としての日本人が最も底力を発揮した時代だ。その中で、水戸藩が果たした役割もあった。
 「明治維新の先駆け」と、肩ひじを張らなくてもよいのではあるまいか。満開に咲き誇る梅の花を見ながら、ふとそんな思いが頭をよぎった。 (吉原康和)

 「だが、実際は、『逆賊』として靖国神社に祭られなかった、井伊直弼や水戸藩の諸生党、会津藩など佐幕諸藩の人々もまた、国を憂い、国事に殉じたのである」というポイントに共感した記事でした。


愛知
折り畳み茶室、徳川美術館に寄贈 ハイカラ藩主のお宝
 ハイカラ趣味で知られる幕末、維新期の尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)(1824-83年)が家臣の茶人に造らせたとされる折り畳み式茶室「御席(おせき)屏風(びょうぶ)」の広間席が8日、徳川美術館(名古屋市東区徳川町)に寄贈されることになった。
 茶室所有者の同市西区那古野1、慶栄寺の滝義範住職(47)は「尾張徳川家ゆかりの美術館なら、きちんと修復して保存、活用してもらえると思い無償で寄付します」と話している。
 徳川美術館は「今度のゴールデン・ウイークに現状のまま展示し、今後、保存方法について検討する方針」(四辻秀紀副館長)。
 この茶室は、木枠に和紙を張った一面が縦177センチ、横75センチ、厚さ1・8センチの屏風を広げ、屋根や障子などの建具をはめ込むと茶席に変身する。待合の寄り付き、四畳半の小間、六畳弱の広間の三席からなる。
 このうち、傷みが目立っていた広間席については本格的な補修が必要と分かり、徳川美術館が受け入れに名乗りを上げた。
 棚や中柱など茶室の見どころが巧みに仕込んであり、凝った本格的な内装が特徴。三席1組となった折り畳み式茶室は他に類例がないとみられる。
 昨年秋、30余年ぶりに虫干しを兼ねて慶栄寺で組み立てられた。紛失した障子や戸など特注の建具11枚を100万円かけて新調。小間、寄り付きの二席は「寺宝」として引き続き所有する。(長谷義隆)

 【御席屏風】 寺伝によると、尾張徳川家が1860(万延元)年、この折り畳み式茶室を使って江戸で諸大名を招いて大茶会を催し、時の藩主徳川慶勝と親しかった11代住職が65年に拝領したとされる。当時先進の写真術を学んだ慶勝のハイカラ趣味を反映し、維新期の東京の風景を撮影したガラス写真を障子に組み込み、額もわざわざ写真にしてある。


京都
高瀬川(中京区・下京区)
 かつては荷を積んだ高瀬舟が行き交い、幕末には川沿いに志士たちが潜んだ。約400年にわたり人々の生活と共にある高瀬川のせせらぎをたどった。

●高瀬川●
 二条から宇治川合流点までの10キロ余り。途中で鴨川を横断する。現在は鴨川より上流は高瀬川、下流は東高瀬川。高瀬川東岸を南北に、木屋町通が二条から七条まで約2・8キロ走る。西岸は一部、西木屋町通りとなっている。

◇300年間、暮らしを支え◇

■発見1 龍馬、新撰組が駆ける
 塩屋町、米屋町、石屋町――。木屋町通りかいわいには、高瀬川の水運で運ばれた品物にちなんだ町名が残る。
 高瀬川は、鴨川の水を引き込んだ10キロ余りの運河で、慶長16(1611)~19(1614)年、豪商・角倉了以が開削した。家具や肥料などが下り、人が舟をひいて米、酒、木材などを運び上げた。橋は、高瀬舟に積まれた荷物が当たらないように水面よりかなり高く造られたという。
 川の周辺には材木屋、酒屋、米屋などが軒を連ね、幕末には多くの勤王の志士が潜んだ。坂本龍馬や、新撰組(しんせんぐみ)の近藤勇たちが通りを走る姿が目に浮かぶようだ。
 森鴎外の短編小説「高瀬舟」のモデルにもなった。しかし、舟運は大正9(1920)年、陸上輸送に押されて約300年の歴史に幕を下ろした。
 05年末、木屋町通周辺の飲食店や小売店主らが「木屋町共栄会」を立ち上げた。翌年、店や歴史を紹介する折りたたみマップ「京は路地裏もおもしろい」を発行。その後、「木屋町絵図」へとバージョンアップした。会長を務めるそば店「大黒屋」3代目塩山大介さん(56)は、「皆さんに木屋町を話題にしてもらえればうれしいです」と話す。
(中略)
■濁点なし
 「ししみ」「ゆは」。日本料理「志(し)る幸(こう)」の汁の具のメニューには濁点がない。「汁は濁らんように」と3代目小堂修平さん(60)。川端康成や初代中村錦之助も通った名店で、茶事風の「利久弁当」が人気。この地には、勤王の志士・古高俊太郎の屋敷があったという。
(中略)
■池田屋騒動址
 三条通木屋町西入北側にあった旅館「池田屋」。元治元(1864)年、会合中だった長州、土佐、肥後などの志士三十数人が新撰組に襲撃された。今は石碑が残る。

■酢屋嘉兵衛
 「酢屋嘉兵衛(すやかへえ)」は享保6(1721)年から続く材木商。かつては高瀬船で木材を運んだ。坂本龍馬が身を寄せ、海援隊の活動拠点となった。現在の建物は1928年に改修したが、当時の面影を残す。龍馬が居た2階はギャラリーになっている。高校生以上500円、中学生以下無料。

■坂本龍馬・中岡慎太郎避難地
 慶応3(1867)年、河原町通蛸薬師下ル西側のしょうゆ屋「近江屋」で刺客によって坂本龍馬が殺され、中岡慎太郎が重傷を負って後に死亡した。若者らでにぎわう河原町通にひっそりと近江屋の跡を示す石碑が立つ。

 高瀬川沿いの木屋町周辺、風情があっていいんですよね。ことに、桜の季節、散策コースにお勧めです。

広島
岩倉具視あて書簡1700点、8割新史料か…広島の美術館
 明治新政府の中心人物・岩倉具視(1825~83年)に、西郷隆盛や大久保利通らがあてた書簡など、広島県廿日市市の「海の見える杜(もり)美術館」が所蔵する維新関係文書約1700点のうち、約8割が新史料とみられることがわかった。専門家が研究を進めており、維新の内幕や新政府の内情など新事実の発掘が期待される。
 同美術館などによると、岩倉家が手放した文書を大阪の質店が入手して巻物にしたもので、約20年前に購入した。昨年から三沢純・熊本大准教授、佐々木克(すぐる)・奈良大教授、藤井譲治・京都大教授らが3年計画で調査を始めた。
 大半は1868年~83年に、岩倉へあてた報告書などで、送り主は三条実美429通、大久保191通、木戸孝允75通、伊藤博文68通、西郷3通など。これまで、官軍と幕府軍が激突した戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで、幕府軍の荷物を差し押さえたことなどを記した西郷の報告書や、貨幣不足で追加鋳造を決めた政府文書などが確認された。
 明治新政府の基本方針「五箇条の御誓文」の草稿とみられる文書もあり、確認中という。
 同美術館は8月23日から一部を公開し、2011年に調査結果を本にまとめた後、全史料を公開する予定。
 佐々木教授は「内容が豊かで新事実が含まれている可能性が高い。政策決定の過程を裏付ける貴重な資料になる」と話している。


西郷らから岩倉具視へ 約1700点の書簡発見
 明治政府の中枢を担った岩倉具視に、同じく西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文らがあてた書簡など約1700点が広島県廿日市市の「海の見える杜美術館」に保管されていることが7日までにわかった。新発見とみられる文書も多く含まれるといい、同美術館は詳細な分析を行ったうえで8月から一般公開する予定だ。
 文書は岩倉家から流出した書簡や意見書、絵などを、大阪の質店が数百巻の巻物にしたものという。同美術館が20年ほど前に購入し保管したままだったが、三沢純・熊本大准教授らが調査・分析に着手した。
 書簡は岩倉が明治元(1868)年から死去する16年まで東京で受け取ったとみられ、伊藤からが68通、大久保191通、三条実美429通。西郷の書簡も多数あり、鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争の戦況報告なども含まれている。さらに岩倉自身の書簡の下書きも128通あった。文書の一部は大正時代に宮内省に借し出されたほか、戦前に出版された「大久保利通文書」に引用されているという。


岩倉具視あて書簡、多数が新史料の可能性…広島の美術館
岩倉具視あて書簡、多数が新史料の可能性…広島の美術館
 明治新政府の中心人物・岩倉具視(1825~83年)に、西郷隆盛や大久保利通ら維新の立役者があてた書簡など、広島県廿日市市の「海の見える杜美術館」が所蔵する約1700点の文書のうち、約8割が新史料とみられることがわかった。
 専門家が研究を進めており、維新の内幕や新政府の内情など新事実の発掘が期待される。
 同美術館などによると、岩倉家が手放した文書を大阪の質店が入手して巻物にしたもので、約20年前に購入した。昨年から三沢純・熊本大准教授、佐々木克(すぐる)・奈良大教授、藤井譲治・京都大教授らが3年計画で調査を始めた。

 ◆大久保利通191通、西郷隆盛3通◆
 大半は1868年~83年に、岩倉へあてた報告書などで、送り主は三条実美429通、大久保191通、木戸孝允75通、伊藤博文68通、西郷3通など。これまで、官軍と幕府軍が激突した戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで、幕府軍の荷物を差し押さえたことなどを記した西郷の報告書や、貨幣不足で追加鋳造を決めた政府文書などが確認された。
 明治新政府の基本方針「五箇条の御誓文」の草稿とみられる文書もあり、確認中という。
 同美術館は8月23日から一部を公開し、2011年に調査結果を本にまとめた後、全史料を公開する予定。
 佐々木教授は「内容が豊かで新事実が含まれている可能性が高い。政策決定の過程を裏付ける貴重な資料になる」と話している。








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