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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日は例年より少し早めに、ぼたん園に行ってきました。暖冬だったせいか牡丹の開花は例年より早く、早咲き品種はすでに満開でした。

山形
いいたいききたい:「待」運営の松岡物産新社長・酒井忠順さん /山形
◇侍が一鍬加えて待つ--酒井忠順さん(34)
 明治維新を機に旧庄内藩士約3000人が開墾した鶴岡市羽黒町の国史跡「松ケ岡開墾場」。木造の大蚕室の一棟に設けられた食事処「一翠苑(いっすいえん)」が今春、カフェ「待(まつ)」に生まれ変わった。運営する松岡物産の新社長に就任した旧庄内藩酒井家19代の酒井忠順さん(34)に意気込みを聞いた。【長南里香】

 --リニューアルの目的は。

 目指すのは、人と人とのつながりを大切にする「コミュニティーカフェ」という業態です。従業員9人が一体となって考えて実行した構想で、店内の大工工事からメニューの考案まですべて手作りしました。好評だったそばや麦切りなどの麺(めん)類を残す一方、ケーキやプリンなどのデザートや飲み物の種類を増やしました。

 --店の名の由来は。

 松ケ岡は、庄内藩の侍が刀を鍬(くわ)に持ち替え開墾した場所です。「侍」の字に一筆加えると「待」になりますが、店名は歴史にちなんだもので、「侍が一鍬加えて待つとする」という意味を込めました。入り口にある店名を記した看板は、映画「おくりびと」の題字を手がけた庄内映画村顧問で、画家の平野克己さんの揮毫(きごう)によるものです。

 --銀行マンからの転身ですね。

 いつか地元に戻って、地域のために頑張りたいと考えていました。そんな思いがようやく実現する機会に恵まれました。銀行に勤めていた時は、20~30代の生産者と触れ合う機会も多く、プライドを持って仕事をしている姿に刺激を受けました。カフェで提供するメニューに卵や果物など地元産の食材をふんだんに使ったのも、地域の生産者を後押ししたいという思いからです。

 --これからは。

 松ケ岡は観光地としての可能性を大いに秘めた場所です。大切な家族や友達を呼びたいと思えるすてきな場所を作るために力を尽くしたい。松ケ岡のブランドを確立するために頑張ります。

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 ■人物略歴

 ◇さかい・ただより
 信用保証協会(東京都中央区)勤務後、06年5月、荘内銀行に入行。山形営業部、社会貢献のコーディネートなどを行う「ふるさと振興室」などを経て、09年2月に退職。


福島
9月に秩父宮妃生誕100年式典/若松
 最後の会津藩主松平容保公の孫で、戊辰戦争以来「朝敵」の汚名に耐えた会津の人に大きな喜びと希望を与えた秩父宮妃勢津子さまの生誕100年記念式典が9月6日、会津若松市の国指定名勝会津松平氏庭園御薬園で行われる。
 7月からは鶴ケ城で特別展を開催し貴重な写真などの資料を展示する予定。
 100年の節目に、あらためて勢津子さまの遺徳をしのび、功績を顕彰する。
 記念式典は秩父宮妃勢津子殿下顕彰委員会と市観光公社が中心になって準備を進めている。
 例年、勢津子さまの誕生日の9月9日に御薬園の顕彰碑前で重陽祭(生誕祭)を催しているが、今年は日曜日の9月6日に記念式典として盛大に行う。
 地元をはじめゆかりの約100人が出席する見通し。
 特別展は7月18日から9月9日まで鶴ケ城内で開催する方向。
 勢津子さまは明治42年9月9日に松平容保公の六男で外交官だった松平恒雄氏の長女として誕生。
 ご成婚の儀は昭和3年9月28日に行われた。
 結核予防会総裁、日赤名誉副総裁などを務め、平成7年に85歳で亡くなられた。


京都
結婚式は世界遺産・二条城の庭園で、今秋から貸し出し
二条城で結婚式…京都市、今秋から庭園開放へ
 京都市は22日、今秋から世界遺産・二条城(中京区)の庭園「清流園」などを結婚式場として貸し出すと発表した。
 市は「人生の門出は、京都にしかない和風の結婚式で」とPRしている。
 市によると、「二条城で結婚式をしたい」との声が寄せられており、庭園を開放することを決めた。今後、識者による選考委員会で業者を選定し、運営を委託する。雨天の場合は、約30人が入れる茶室「香雲亭」で挙式する。
 二条城は、徳川家康が造営を始め、3代将軍の家光が1626年に完成させた。幕末には大政奉還の舞台にもなった。
(2009年4月23日13時07分 読売新聞)



福岡
幻の有田焼で作った豪華な○○
 幕末から明治にかけて伊万里港から輸出されていた幻の有田焼、「明治伊万里」は、華やかな色彩が特徴です。
 復刻されて2年になりますが、その色合いを生かして作られたあるものが、今、密かな人気を呼んでいます。
 ちょっと意外なものです。
 幕末から明治時代にかけて作られていた有田焼、「明治伊万里」。
 主にヨーロッパに輸出されていたため国内では、一部の人の目にしか触れられなかったという、幻の高級磁器です。
 復刻された明治伊万里で作った骨壷。
 今年1月末に売り出されましたが、16万円台から18万円台という高額商品にもかかわらず、わずか2か月でおよそ100個が売れました。
 現在、用意されている、骨壷の絵柄は4種類。 新たな柄も考案中です。
 手書きの文様に、金彩をあしらった、鮮やかな絵付け。
 明治伊万里の高い技術が駆使された磁器の骨壷は、長い時間を経ても、色あせる心配はないそうです。
 先月末に購入した熊本市の高野リツ子さんは、しまいこまずに身近に置きたいと話します。
 有田焼の企画会社では、生前は美しい磁器として、日常生活の中に溶け込ませた使い方を提案しています。
 愛着をもって日常から使ってきたものを最終的には自分の終の住みかにする…自分らしく死を見つめたいという人のニーズに応えています。

 「○○」って気をもたせるから何かと思ったら……(汗)。

長崎
史跡と景勝、交差する島 長崎・壱岐(いき)
 レンタカーの運転には自信がない。路線バスは本数が少ない。タクシーで全島の名所旧跡を見て回るのに東西15キロ、南北17キロの壱岐島はやや広すぎる。郷ノ浦、勝本、芦辺、石田の4町が合併して壱岐市になってから5年――。
(中略)
<旅の余禄>ということについて、壱岐を訪ねた司馬遼太郎が1978年に書いた文章がある。<たとえば須藤資隆という青年に出くわしたことなど、いま想い出しても前後のない夢の中の情景のような気がする>。トイレを借りに寄った公民館で会い、周辺を案内してくれた若い町教委職員の見識と人柄に作家は惚れ込んだ。幕末の動乱期、壱岐に流された平戸藩士の曽孫だという出自まで聞き出している。




コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 成島柳北
■潔い引退、鋭い洞察と健筆

 「敗者の戦後」という言葉がある。徳川直参(じきさん)を誇った得意の時代から失意の奈落に、あれよあれよという間に幕府の崩壊を見届けた幕臣にとって明治の新時代とは何であったのか。
 福沢諭吉が「瘠(やせ)我慢の説」でからかった勝海舟や榎本武揚(たけあき)のように新政府に仕えた者もいれば、福地桜痴(おうち)みたいに出仕しても辞めた者もいる。

 ≪最初の明治言論人≫

 しかし、奥儒者から出た成島柳北(大隅守)はただの一度も薩長政権に頭を下げず、「無用の人」と自称して終わった。欧米旅行後、『朝野(ちょうや)新聞』などを舞台に敢然と新政府を批判し続け、時には投獄されても、監獄の内情を暴露するなど文筆家としてのしたたかさを示した。
 彼こそ武士の魂をジャーナリストの気骨に変えた最初の明治言論人だったといってもよい。しかも、ただの硬骨漢だったわけでない。
 柳北は祖父以来、家の務めとして江戸幕府の正史『徳川実紀』の編纂(へんさん)にあたり、将軍に『日本外史』などを講じた人物なのに、『柳橋(りゅうきょう)新誌』という色街案内記を書く洒脱(しゃだつ)さに恵まれていた。この俗っぽさが堅物たちに嫌われ、職を追われたこともある。
 しかし、時代はオランダ語や英語の達者な男を放っておかなかった。フランス伝習の歩兵頭や騎兵頭にもなった異色の人物はアメリカの南北戦争で失職し、横浜あたりで「脾肉(ひにく)の嘆(たん)」をかこつ南軍の「ゼネラール」などの「武辺(ぶへん)巧者」を雇って一働きさせる途方もない発想を思い付いたのだ。
 冒険も辞さない外交家の片鱗(へんりん)は、フランス公使ロッシュの口車にのってフランス人を雇えば事が大きくなり、英仏戦争でも始まると幕府と薩長が英仏の先鋒(せんぽう)で犠牲にもなりかねず、ばかばかしいという洞察力にも表れていた。
 アメリカで食い詰めた「浪人共」を使って薩長と戦うほうがましだというあたりは、驚きの戦術というほかない。国家の関係で厄介な分がないだけ、英仏よりアメリカをましだと考えたのは、同時代のエジプトと似ており、その副王のお雇い軍人にはアメリカ南軍の将校たちも多数いた。

 ≪幕府の瓦解見届け≫

 柳北は江戸時代のどんづまりに外国奉行や会計副総裁となり、幕府の瓦解を見届けたが、その後の潔さは天下一品なのだ。
 ジャーナリズムに健筆を振るう一方、評判の良かった『柳橋新誌』の第二編を書き著した。これは芸を捨て、醜悪な色の世界に変貌(へんぼう)を遂げた花街の風俗を描きながら、薩長の成り上がり者の野暮(やぼ)な生態をひそかに皮肉った。“ざまあねえ。新政府の程度なんざァ、こんなもんサ”と嘯(うそぶ)いている本なのだ。江戸の洒脱な伝統を破壊して文明開化に走る明治の低俗な一面を描いて人を飽きさせない。ここまで「天地間の無用人」を自任して、新文明に背を向けた幕臣も珍しいだろう。
 しかし同時に、柳北は蒸気機関車の利便と迅速に象徴される新文明の画期的性格を見抜いてもいた。『柳橋新誌』第二編には「妙々車」と名付けた蒸気車が天竺(てんじく)(インド)まで行くという話が出てくる。「それなら、蒸気車に乗って、天の川に出かけ、牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の出合いをぜひ見たい」と、1人の芸者に語らせる。すると別の芸者が、“およしよ。あんたのような御器量よしが行けば、牽牛が惚(ほ)れるからサ”と答えた。くだんの芸者は、織女が嫉妬(しっと)して蒸気車を止める柵をカササギの橋につくれば、両国橋の通行止めと変わらないと評して、呵呵(かか)大笑(たいしょう)したというのだ。

 ≪新政府の改革評価≫

 柳北は、明治新政府の改革事業を評価する素直さをもっており、宇宙への夢まで想像できるスケールの持ち主でもあった。
 政治家は引退後の余生をいかに過ごすのだろうか。柳北の粋(いき)は現代では誰にもまねできないだろう。しかし、理論や理想だけではうまくいかないナマの政治を捌(さば)く職業の経験知として、「政治原論」「政治大全」をまとめる可能性は現代の政治家にも残っている。『柳橋新誌』第二編とは異質な本格的知性を、平成の政治家にも示してほしいものだ。(やまうち まさゆき)
                  ◇

【プロフィル】成島柳北
 なるしま・りゅうほく 天保8(1837)年、成島筑山の三男として浅草に生まれた。幼いころから父や祖父(司直=もとなお)らの教育を受けて詩文に長じた。安政3(1856)年、奥儒者になり徳川家定、家茂に講じた。文久3(1863)年、幕府への不満を狂歌に託したことで怒りをかい、3年間閉門を命ぜられた。明治5(1872)年から翌年まで仏、英、伊、米を訪問。同7年以降、「朝野新聞」で政府批判のジャーナリストとして論説を担当。8年の「元老院官吏の責任」で下獄した。その獄中体験を『ごく内ばなし』として発表。多くの記者が入獄していたことも知らせ、反響を得た。晩年は肺を患い、17年に48歳で亡くなった。「葬儀には、1000人以上の会葬者が訪れ、その人たちは位の高い、富裕な人物が多く、このことは生前の徳義なり」と記した新聞もあった。

 「アメリカで食い詰めた『浪人共』を使って薩長と戦うほうがましだというあたりは、驚きの戦術というほかない」……そう言えば、誰かさんも「この上は外威に頼る他なし」とか言ってたという記憶が(汗)。




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