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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 さきほど、4分の3ぐらい用意していた原稿をうっかり消してしまいました(汗)。近ごろ眼精疲労と肩凝りが悪化しているだけに、たくさん記事がある日はもう一度原稿をつくるのがちょっと辛い……とぼやきたくなるほど、今日は記事が大漁です。
 実際、もう一度記事を書きながら、首や肩、腰が痛いっす^_^;。

北海道
「SL函館大沼号」スタート、土方歳三も見送り
 大沼や駒ヶ岳など道南地方の観光地を巡る、JR北海道のイベント列車「SL函館大沼号」の出発式が29日、函館駅で開かれた。
 SLの勇壮な姿を一目見ようと、多くのファンが詰めかけた。
 出発式には、来月16日から開かれる「箱館五稜郭祭」に合わせて、幕末の偉人、ペリー提督や新撰組の土方歳三にふんした人たちも登場。ホームに用意された大砲の空砲を合図に出発すると、手を振ってSLを見送っていた。
 SLの運行は、大型連休中は5月6日まで連日運行となるほか、夏休み期間中は、7月から8月中旬までを予定している。(2009年4月30日12時29分 読売新聞)

 いいなぁ、自分も土方さんに見送られたい……いや、ていうか、土方さんを見送る立場になったら、号泣必至^_^;。

青森
弘前城:資料公開 浅利家の子孫の自宅で発見、市教委「整備計画の参考に」 /青森
 弘前市は、弘前城「三の丸」建物などの平面図など5点の資料を公開した。弘前藩の剣術師範を務めた浅利家の子孫に当たる同市和泉の浅利千秋さん(73)の自宅で発見された。市教委は「藩政時代の生活を知る貴重な資料で弘前城整備計画の参考にしたい」という。
 「御郭中御郭外図式(おんくるわちゅうおんくるわがいずしき)」と表題に記された平面図は、三の丸や長勝寺などの間取り図で、天保9(1838)年11月改(改訂)となっており、近習小姓5人の名前が書かれている。近習小姓は藩主の秘書役で、藩主や家臣、火鉢などの配置図が描かれ、それぞれの役目に対応するマニュアル本と見られる。
 また、幕末から明治初期に書かれたと推定される本丸御殿の一部の間取り図なども公開された。【塚本弘毅】


東京
甲州街道210キロの魅力、歴史ガイドが歩いてつづる
 東京都八王子市子安町の元中学校教諭、大高利一郎さん(75)が、甲州街道の魅力をまとめた「街道を歩く 甲州街道」(揺籃社)を出版した。
 街道の全行程の詳細な地図と歴史的な見所をわかりやすく解説し、初心者にも無理なく歩けるような内容となっている。
 大高さんは十数年前から旅行会社の歴史ガイドとして、旅行客らに名所、旧跡などの案内をしてきた。当初は日光街道を担当していたが、その後は甲州街道のガイドを務めるようになった。
 甲州街道のツアーでは、日本橋から長野県・下諏訪まで甲州街道の全行程約210キロを、十数回かけて踏破するという企画を立て、約10年間にわたってツアーに同行した。
 今回の本は、その際に配布したレジュメを基に、参加者の反応や感想などを参考にしながら、街道の魅力を1冊にまとめた。
 全行程を20章にわけ、かつての宿場や現存する史跡の数々を写真とともに紹介。歴史上のエピソードなどを絡めたコラムも掲載している。
 大高さんは「甲州街道の全行程を20回ほど歩いた。豊かな自然と歴史的遺物が数多く残され、本当にすばらしい。ぜひ、この本を参考にして、街道を歩いてもらいたい」と話している。
 本はA5判、全238ページ。定価は1800円(税抜き)。問い合わせは、揺籃社(電042・620・2615)へ。(2009年4月30日08時11分 読売新聞)

 「幕末」「維新」関係ではありませんが、甲州街道の歴史に興味がありますのでメモがてらご紹介します。


神奈川
遅咲きのツツジ 見頃に
川崎市宮前区の等覚院

 「つつじ寺」として知られる川崎市宮前区の等覚院で遅咲きのツツジが見頃を迎え、多くの参拝客でにぎわっている。5月初めまで楽しめる。

見頃となった等覚院のツツジ(29日)
 同寺のツツジは幕末に本堂が新築されたのを記念に植えられたと伝えられ、境内には1000株以上あるという。今年は4月に入って暖かい日が続き、例年より10日ほど開花が早まっているという。赤色のキリシマツツジは見頃を終え、現在は遅咲きの赤紫色のオオムラサキが参道沿いに鮮やかな花を咲かせている。
 友人と初めて訪れたという同市川崎区のパート手島洋子さん(61)は「色が鮮やかで奇麗。天気も良くて気持ちいい」と眺めていた。(2009年4月30日 読売新聞)



長野
「武士モラル築いた人物」 高遠で保科正之記念講演会
 伊那市観光協会や市商工会などでつくる「保科正之公像並びにお静地蔵建立実行委員会」(会長・小坂樫男市長)は29日、今月4日に除幕した正之像などの完成と、正之の生誕398年を記念した講演会を伊那市高遠町総合文化センターで開いた。徳川宗家第18代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝さんと、直木賞作家で伊那市ふるさと大使の中村彰彦さんらが、「名君・保科正之」が時代の中で果たした役割を語った。
 徳川さんは、正之が家祖である会津松平家の出身で、幕末に京都守護職を務めた松平容保のひ孫にあたる。「江戸の文明」と題した講演の中で徳川さんは、戦国時代から江戸時代への移行は、「日本の大転換で、世界史の中に輝く奇跡の平和」「江戸時代最初の100年で、武から文への大転換」と指摘。「豊臣時代まで年貢は七公三民だったものが、江戸時代には三公七民に大減税されたことで、市場経済の発展やけんらんたる江戸文化を生み出した」と述べた。
 その上で、「武から文への変革と儒教を基礎に置く政治の確立で、江戸時代を通じて保たれた支配階級「武士」の高いモラルの根底を築いたのが保科正之だった」と強調した。
 中村さんは、正之が高遠から山形・最上に転封された後に高遠に入った鳥居氏に対して、高遠町藤沢の惣百姓が直訴した例などを挙げて、「保科家は領民に対してやさしい政治を行っていた。正之もこうした政治を受け継いでいた」と指摘した。
 講演に続いて、仙台藩の末裔で漢字文化振興会事務局長の白石宗靖さんを司会に、徳川さんと中村さんが「徳川家と保科正之公」と題して対談。末期養子を認めたことや殉死の禁止、玉川上水の開削など正之の功績を挙げながら、「明暦の大火からの復興で見せた手腕は、今風に言えば危機管理能力に長けた人物」「滅私奉公の典型で、今の政治家は見習ってほしい」などと話していた。


静岡
まちかど:浜松市・龍〓寺で御霊屋特別公開 /静岡
まちかど:浜松市・龍〓寺で御霊屋特別公開 /静岡
 浜松市北区引佐町の龍〓寺で、歴代の井伊家当主の位牌(いはい)を祭った御霊屋の特別公開が29日、始まった。通常は扉が閉まった状態だが、毎年サツキの季節に合わせて開け、徳川四天王の一人だった直政公や幕末の大老で有名な直弼公など40代の位牌を見ることができる。
 また同時公開で、初代の共保公が誕生したときの産湯の井戸や同寺に伝わる井伊家のよろいなども展示している。住職の武藤全裕さん(76)は「年に1度の機会なので、ぜひ足を運んでほしい」と話している。5月31日まで。


市民オペラ:「江川太郎左衛門~熱き心の火」、総勢120人で10月上演 /静岡
市民オペラ:「江川太郎左衛門~熱き心の火」、総勢120人で10月上演 /静岡
◇韮山代官の人柄描く--ゆかりの伊豆の国市
◇西洋砲術をいち早く習得
 幕末の韮山代官で西洋砲術をいち早く習得した、江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)(1801~55)を描いた市民オペラ「江川太郎左衛門~熱き心の火」が10月の国民文化祭の中で、江川家ゆかりの伊豆の国市で上演される。配役も決まり、5月1日から本格的な練習がスタートする。
 市民団体「市民オペラ伊豆の国」(千里久(ちりく)勝美代表)が主体となり、1月から合唱の練習を開始。伊豆地方出身の若手声楽家が英龍役を務めるなど、地元住民ら約80人の配役も決まった。演奏アンサンブル10人とスタッフを含めて総勢120人で造り上げていく。
 江川太郎左衛門は韮山の世襲代官で、英龍は第36代。江川坦庵(たんなん)とも呼ばれる。オペラは少年時代に剣術の練習に励む場面から始まり、計13場面、3時間におよぶ。坦庵が日本で初めてパンを焼いた史実に基づき、パン焼きの場面もある。
 脚本は伊豆市民オペラ協会理事の小野登志子さん(県議)が1年間かけて取材し、執筆。演出も担当する小野さんは「坦庵の素朴な人柄と地元の人々との交流を描こうと思った」と意気込んでいる。
 練習は毎週金曜午後7時、市内の韮山時代劇場で行う。公演は10月24、25の両日午後4時、同市長岡総合会館アクシスかつらぎで。【安味伸一】

 坦庵公が主役のオペラ……み、見たい^_^;。
 「幕末」がキーワードになかったのでクリップし損ねていた記事もピックアップしました。
配役決まる、創作オペラ江川太郎左衛門 伊豆の国
 リンク先は静岡新聞サイト(閲覧に会員登録が必要・無料)です。
 県内で今秋開かれる第24回国民文化祭で伊豆の国市主催事業として開催される創作オペラ「江川太郎左衛門・熱き心の火」の配役発表会が24日夜、同市のアクシスかつらぎで開かれた。
 26の登場人物の役が決まり、出演者や制作スタッフが6カ月後に迫った本番に向けて気勢を上げた。
 約100人の市民の前で脚本・演出を担当する小野登志子さんが順番に配役を発表し、配役の決まった出演者は1人ずつ舞台に上がった。出演者を代表して剣客斉藤弥久郎役の鈴木省二さんが「観客と一体となって会場が燃え上がるようなオペラを作り上げたい」と意気込みを語った。
 中心的な役については、不測の事態に備えて一役に2人の出演者を充てた。主役となる晩年の江川太郎左衛門役は、沼津市出身で伊豆市民オペラ協会にも在籍していた若手オペラ歌手相沢創さんが演じる。
 公募で選ばれた30人の出演者は1月から、歌唱練習に取り組んできた。今後は週1回の演技練習を重ね、10月24、25日にオペラを1日1公演ずつアクシスかつらぎで上演する。

 「主役は晩年の江川英龍」「剣客斎藤弥九郎も出演」……ますます興味が沸いてきます。

石川
マジンガーZが“歓迎” 永井豪記念館 石川県輪島市
 マジンガーZ、デビルマン、キューティーハニーなど数々の人気キャラクターを世に送り出した漫画家永井豪さんの出身地、石川県輪島市に25日、「永井豪記念館」がオープンした。
 記念館は朝市通りの中ほどに立つ。入ってすぐ高さ2メートルの強化プラスチック製のマジンガーZがお出迎え。大阪市から来た30歳代の男性2人組は「めっちゃカッコええ。持って帰りたい」「置くとこないやろ」と興奮気味に話していた。貴重な原画カラー16点、モノクロ98点などが展示され、キャラクターが取り込める写真シール作製機も。
 朝市も見逃せない。約70の出店が並び、海産物を中心に買える。売り子のおばさんとの会話も愉快。「ちょっと話だけでも聞いて」が呼び込みの言葉だ。
 七尾市にもぜひ。JR七尾駅から徒歩5分の一本杉通りで「花嫁のれん展」が開かれている(5月10日まで)。通りに面した商家や民家の屋内にのれんが展示され、街歩きしながら眺められる。50軒が参加し、のれんは全体で150枚。
 花嫁のれんは、幕末のころに生まれた風習。花嫁が嫁入り時に持参した加賀友禅ののれんを、花婿の家の仏間入り口に掛け、花嫁がのれんをくぐって仏前にお参りして結婚式が始まる。
 「おばあちゃんたちが蔵やたんすにしまっていたのれんには、秘めた思いや歴史が詰まってます」と町内会長の北林昌之さん。「おばあちゃんやその娘らが、のれんにまつわる“語り”をするのが特徴です」

 ▼メモ 能登へは、JR北陸線、のと鉄道利用。名古屋から七尾まで特急で3時間50分。マイカーは東海北陸道から能越道・氷見IC、国道160号で七尾市。輪島は能登有料道路が便利で能登空港ICを出て20分。朝市駐車場300円。永井豪記念館は入館料大人500円、小中学生200円。無休。花嫁のれんの案内は、情報処しるべ蔵、電0767(52)1231。全般は、石川県名古屋観光物産案内所、電052(261)6067
(中日新聞夕刊 2009年4月30日掲載)

 なぜ、こんな見出しの記事が検索に引っかかってくるのだ(汗)……と焦りましたが、幕末以来の伝統がある「花嫁のれん」の紹介も入ってました。


滋賀
なるほドリ:逢坂の関ってなに? /滋賀
◆逢坂の関ってなに?
 ◇京の都を守るための三関の一つ 出会いを繰り返す交通の要衝

 なるほドリ 大津市大谷町の国道1号沿いに「逢坂(おうさか)の関記念公園」ができたそうだね。「逢坂の関」って聞いたことがあるけど、そもそもどんなものなの?

 記者 百人一首のこの歌を知っている人も多いのではないでしょうか。

 これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関 (蝉丸)

(これがあの、東国へ行く人も京へ帰る人も、互いに知っている人も知らない人も、ここで別れてはまた逢うという、その名の通りの逢坂の関なのですね)

 逢坂の関は平安時代、東海道の要衝に設けられた関所です。鈴鹿、不破ととともに、京の都を守る三関の一つでした。

 繰り返し和歌に詠まれたほか、「源氏物語」や「枕草子」にも登場します。当時の都人にとって、東国や北国に旅に出る時に最初に越えるのが逢坂の関でした。その先は未知の土地、今でいう外国のようなもの。いよいよ都に別れを告げる場所ということで、人々の心を揺さぶったのでしょう。

 一方で、その役割ははっきりとは分かっていません。「石山寺縁起(えんぎ)」(鎌倉時代)にただ一つ、平安時代の光景が描かれています。柵と井戸、板葺(ぶ)きの小屋がありますが、門扉はありません。大津市歴史博物館の樋爪修次長によると、文献に三関固守(三つの関に役人を配置して守りを固める)という言葉が出てくるのは、天皇が亡くなったり乱が起きるなど政情が不安定になった時。ということは、ふだんは自由に通行できたのではないかと考えられます。時代劇に出てくるような、常に厳しい監視の目が光っているような場所ではなかったようです。

 Q 当時の位置がはっきり分かっていないって、本当?

 A 史料から逢坂の関の存在が確認できるのは平安時代の終わりまでで、以後は放置されていたようです。さらに、この峠道は難所だったため、幕末や昭和の初めに掘り下げられ、すっかり様子が変わってしまいました。当時の位置は現在「逢坂山関址碑」があるあたりより大津港側だったのではないかという説もありますが、杳(よう)として知れません。

 Q なぜ今、逢坂山関址碑の近くに公園ができたの?

 A 以前ここには大津警察署の逢坂山検問所がありましたが、96年に解体されました。京都・山科から大津にかけ旧東海道を歩くハイカーが増える一方で、付近に休憩所がないことなどから、「歴史を紹介し、休憩もできる拠点を整備して」と地元が市に要望していました。公園には、トイレ付きの休憩所のほか、説明板や往時をイメージした柵、歌碑などがあり、都人が往来した時代をしのぶ拠点になりそうです。

 公園ができたことの意義について、先ほどの樋爪次長は「大津がかつて、交通の要衝として繁栄を極めていた重要な都市だったということを改めて認識するきっかけになる」と歓迎しています。<回答・中本泰代(大津支局)>


大阪
百舌鳥古墳群の陵墓古写真集:刊行 厳粛に装われていく変容、仁徳天皇陵で鮮明に
 世界最大級の墳墓といわれる仁徳陵古墳(仁徳天皇陵)の外観の変遷を写真でたどる『百舌鳥(もず)古墳群の陵墓古写真集--明治・大正・昭和初期』が、所在地の大阪・堺市博物館から出版された。明治以降、天皇制国家体制が固められる過程で、陵墓が厳粛に装われていく様子が具体的に跡づけられ、興味深い。【伊藤和史】
 約40点を収録。写真家、谷村為海氏が昭和初期に撮影し、これまで所在がはっきりしなかった貴重な写真も含まれる。仁徳天皇陵のほか、履中(りちゅう)天皇陵、反正(はんぜい)天皇陵などの写真も収録。
 仁徳陵の写真は明治12(1879)年撮影のものから始まる。当時の大蔵省印刷局が全国の文化財調査の一環としてまとめた資料の写真で、仁徳陵の現存最古の写真とみられている。
 この写真は、幕末・尊皇期の「文久の修陵」(仁徳天皇陵では1864~65年)の模様をよく伝えている。墳丘には樹木がなく、ササのような背の低い植物で覆われている。現在の森厳としたたたずまいとは全く違うことがわかる。
 それが明治30年代撮影の写真になると、樹木が密生した墳丘に変わっている。明治20(1887)~23年、繁茂していた竹をすべて刈り取り、19万本以上の苗木に植え替えたとの記録がある。その植林の成果が出始めているわけだ。
 一方、拝所の柵も変遷が激しい。明治12年には簡単な囲いがあるだけで、拝所から墳丘へ立ち入るのを物理的に規制しようとする様子はない。明治30年代、大正初期と徐々に柵が長く立派になっていく。しかし、大正初期でも現在とは違い、3重の濠(ほり)のうち2重目の前面の柵がまだ設置されず、拝所のすぐ前まで行けたことがわかる。
 大正14(1925)年の写真になると、墳丘の森もうっそうと茂り、柵も現在の位置にまで下がって拝所が遠く隔離されたことがわかる。ほぼ現況が完成したわけである。
 写真集の編集・解説に当たった堺市博物館学芸課の樋口吉文主幹は「明治の写真を単独で見た時、これが仁徳陵古墳だとはにわかには信じがたかった。現在の状態になるまでの変遷はとても大きい。今の認識は、人工林で演出された明治以降につくられたイメージであることがよくわかる」と説明する。
 樋口さんの調査では、仁徳陵を日本一の大古墳と断言する記述は明治41(1908)年に現れている。さらに、大正14(1925)年には、ピラミッドと比べて「世界中最大の墳墓」とする記述が出現し、一般に広まっていった。その過程は、仁徳陵の整備、陵域の拡大と見事に歩調を合わせている。
 「国民統合や国威発揚という近代国家の要請の中で、古墳の景観も新しく創出された。それがそのまま現在の仁徳陵のイメージです」と樋口さんは話し、「その感覚を一度ゼロにして、歴史を考え直したい」と提言している。
 一部200円。問い合わせは同博物館(電話072・245・6201)へ。

毎日新聞 2009年4月30日 東京夕刊

 仁徳天皇陵など、古墳がこんもり繁った木々で覆われているという姿は、明治の植林によるものだったのですね(汗)。
 陵墓がつくられた頃には、ピラミッドのように人工的な建造物という外見だったというのは、NHKだったか、以前にテレビ番組で見たことがあったのですが……明治の植林が今の姿をつくってたとは。



長崎
「世界遺産の価値ある」 産業遺産群 専門家委が合意
 幕末から明治の炭鉱跡など22の遺構や史料からなる「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産登録に向け、6県11市でつくる推進協議会の専門家委員会が28日、長崎市で開かれた。遺産群全体については、「世界遺産の価値がある」との意見で合意した。10月までに、遺産の内容を絞り込んだうえで、提言書をまとめ、協議会に提出する。
 遺産群には、同市の旧グラバー邸や軍艦島(通称)の端島炭坑など県内4か所が含まれている。
 会議後の記者会見で、専門家委の統括委員長を務めるニール・コソン卿は軍艦島について「島が持つドラマや、朽ち果てていく姿にパワーがある」と語り、「人工的に介入せず、廃虚のままの保存を望んでいる」と述べた。
 委員は25~27日、県内の遺産に加え、長崎港警備のため佐賀藩が築いた四郎ヶ島台場跡や出島(いずれも長崎市)など計7か所を視察(2009年4月30日 読売新聞)


GW初日、波佐見陶器まつり開幕 焼き物ファンでにぎわう
 ゴールデンウイーク(GW)が二十九日始まった。好天に恵まれ県内では、東彼波佐見町の陶器まつり会場や架橋により陸続きとなった松浦市の鷹島モンゴル村などは多くの人出でにぎわった。ただ、二十九日が平日に挟まれているため、普段の休日と変わらない観光地も多く、後半の五連休に期待を寄せていた。
 東彼波佐見町では、県内最大の陶磁器イベント「第五十一回波佐見陶器まつり」(同まつり協会主催)が開幕。メーン会場のやきもの公園には掘り出し物や新作を求める焼き物ファンが詰め掛けた。五月五日まで。
 町内の窯元と卸商社の約百三十社が出店。恒例の半額セールや詰め放題サービスには人だかりができ、値切り交渉を楽しむ中高年も。
 また、波佐見陶磁器工業協同組合青年部は同まつりに合わせ、輸出用として幕末に作られた波佐見焼のマグカップを「龍馬マグ」として復刻、商品化。同組合事務所前に設置した喫茶スペースでは龍馬マグでコーヒーを提供している。福岡市から訪れた会社員、黒木剛さん(36)は「昔のデザインながら新しさを感じさせる」と満足げに話した。
 期間中はろくろや絵付けの体験コーナー、競り市など盛りだくさんの催しがあり、同協会は三十万人の人出を見込んでいる。


鹿児島
西郷隆盛の書状発見 鹿児島市の黎明館に寄贈
5月1日から同館で公開

 戊辰戦争で官軍の参謀を務めた西郷隆盛が、江戸城総攻撃の2日前に城の包囲を進める様子が分かる新資料が見つかった。西郷が1868(慶応4)年3月13日に薩摩藩士・川崎祐名(すけな)に送った、これまで知られていない書状。西郷と徳川側の勝海舟が江戸・高輪の薩摩藩邸で会談した当日でもあり、黎明館の崎山健文学芸専門員は「絶対的に有利な状況を築いた上で交渉に臨む、西郷の典型的な政治手法が読み取れる」と話す。5月1日から約1カ月、常設展示される。
 同館によると、書状のあて先は、軍の会計・補給担当の責任者だった川崎正右衛門(祐名)。西郷は長州藩の兵55人を世話するよう指示。また目黒(東京都目黒区)の一隊はそのまま滞在させ、品川宿の兵は高輪(同港区)の薩摩藩邸に駐留させることを伝えるなど、城を取り囲むように陣を配した様子が分かるという。総攻撃の準備は整えられたものの、西郷と勝の会談後、江戸城は無血開城された。
 書状は川崎の子孫に伝わったもので、ほかの書簡や古写真などを合わせて計692点がこのほど黎明館に寄託された。
 川崎は1833(天保4)年、鹿児島城下に生まれた。戊辰戦争のほか、74年の台湾出兵、77年の西南戦争で政府軍に従軍。明治政府では陸軍の会計監督長などを歴任し、貴族院議員、男爵となった。1906年死去。寄託資料には大山巌、山県有朋ら元勲との私信に加え、西南戦争の際の電報録などもあり、同館が今後精査する。
 寄託した川崎久代さん(88)、寛義さん(61)親子=東京都=は「鹿児島はルーツの地で特別な親しみがある。研究に役立ててほしい」と話している。

 興味深い内容の書状です。いずれ特別展などで目にする機会があればいいなぁ。

コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 山尾庸三
 “クレオパトラの鼻が少し低かったら、世界史は変わっていたかもしれない”。パスカルの言葉は、歴史における「イフ」(もし何々だったら)という仮定への誘惑をそそってきた。彼女の鼻は手術でもしなければ低くできない。

「長州5傑」の判断こそ

 しかし、幕末に20代の「長州5傑」(長州ファイブ)がロンドンで実際と違った判断をしていたなら、明治新時代の歴史は想像もつかないほど変わっていたに違いない。鎖国の日本から英国に留学した5人の若者は、外国艦隊の長州攻撃計画を知って苦悩した。考え抜いた末、後に井上馨や伊藤博文と名乗る若者たちは、近代陸海軍の現実をこの目で見て攘夷(じょうい)の無謀さを藩に説くために急遽(きゅうきょ)、帰国の道を選ぶ。こうして2人は、政治と外交の世界で明治新政府をリードする政治家に成長する。
 しかし、自然な任務分担の形で英国に残り、学業を続けた3人の偉さについて知る現代人は多くない。山尾庸三はグラスゴーの造船所で働きながら、アンダーソン・カレッジで工学を勉強した。他方、井上勝はロンドン大学などで鉄道・鉱山技術を学び、遠藤謹助も造幣技術を習得している。

 ことに山尾は品川御殿山に建築中の英国公使館焼き打ちに加わった筋金入りの尊王攘夷派であったが、英国に渡ると、西洋の先端技術の摂取に努めた。早い話が転向したのである。

橋、鉄道、金貨…貪欲に

 5傑のこだわりのないプラグマチストぶりには驚かされるが、現実に大英帝国の繁栄を見ると、攘夷では国が滅びると実感したに相違ない。この見切りの良さが幕末の志士を明治のエリートに成長させる原動力になった。
 政治家だけで新しい国造りはできない。山尾たちは、テムズ川の堅牢(けんろう)な橋、マンチェスターの工場、ロンドン中心の鉄道網、社会生活の基礎となるポンド金貨などを近代日本国家も摂取すべき不可欠の要素と考えた。
 井上勝は帰国後、新橋・横浜間の鉄道開業に努力し、国鉄総裁に相当する職に就く。高給の外国人お雇いをやめ、大阪に工技生養成所を設けて自前の技術者育成に努めたあたりは、幕末に攘夷の風を吹かした長州人らしい。東海道線や国産車両も井上がいなければ実現できなかった。まさに“鉄道の父”なのである。

 遠藤謹助は、造幣局長など一貫して貨幣鋳造畑を歩む。英国人お雇いと衝突して辞職する気骨は幕末の気風を残していた。再び造幣局に戻った彼は毎年4月中旬に桜並木を一般公開する「桜の通り抜け」を始めた“造幣の父”だ。

◆工学教育研究の功労者

 山尾庸三は帰国後、工部省や工部大学校(東京大学工学部の前身)をつくり、国家経営の高級技術者を育てることに腐心した。日本繁栄の土台をつくった工学教育研究最大の功労者といってよく、“工学の父”の名にふさわしい。
 さらに、山尾の偉いのは、英国の造船所で会話が不自由な職工が日々元気で働くのに感動し、耳が聞こえず、目の不自由な身体障害者の教育に取り組み、明治13(1880)年に「楽善会訓盲院」の設立に尽力したことだ。現在の筑波大学付属聴覚特別支援学校などの前身である。
 山尾らを見た英国人は、彼らの礼儀正しさ、真面目さと勤勉ぶり、目標を目指すひたむきな努力、手の器用さを褒めたたえた。山尾らに共通するのは、武士の誇りと使命感であった。彼らは技術や教育という地味な分野で近代国家の建設に貢献したのである。

 伊藤博文や井上馨らの政治家は、有能な専門家を活用する術を知っていた。政治家は、優秀な能力をもつ人間を活殺自在に使う点で器量が試される。良い官僚まで叩くと、政治は成り立たない。山尾らの才能を見抜き、それを新生日本の「生きた器械」として活(い)かした明治の政治家の度量には改めて感心させられる。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】山尾庸三
 やまお・ようぞう 天保8(1837)年、周防国長州藩士、山尾忠治郎の次男として生まれ、吉田松陰らに学ぶ。幕府が開国の延期を交渉するため、文久元(1861)年、ロシアへ使節団を派遣し、随行した。翌年に帰国後、品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちにした。同3年には密航でイギリスに渡航、産業や文化を視察し、各種工業を調査研究した。明治3(1870)年に帰国し、横浜造船所の責任者となり、同13年には工部卿に就任。その後、法制局長官、有栖川宮と北白川宮の各別当の要職を務め、21年には臨時建築局総裁を兼ねた。31年の辞職後は、文墨を楽しみ、金魚を好んで飼育した。20年には子爵に任じられた。大正6(1917)年に脳出血のため、81歳で死去。

 政治家の方が歴史に名を残しやすいのは確かですが、地味な技術者たちなくしては明治の近代化はできなかったでしょう。





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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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