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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日ワンセグで放送された『プチかげ』、面白かったです。ビビる猫がいい味出してる……たった5分なのに、こんなに面白いなんて。猫の仕草と台詞のツッコミが絶妙で、吹き替えたビビるさんの演技力もさることながら、脚本と編集の巧さを感じました。

東京
尼門跡寺院の歴史紹介 女性が守り伝えた仏教・文化
 6世紀に伝来した仏教の歴史はこれまで、男性の僧の視点で語られてきたが、1000年以上にわたって宗教儀式や御所文化を守り伝えてきた女性たちがいる。皇族など高貴な家に生まれた女性の門跡(住職)だ。尼僧に光を当てる「尼門跡(あまもんぜき)寺院の世界」展が東京・上野で開かれており、天皇、皇后両陛下をはじめ皇族方が相次いで来場されるなど、尼門跡寺院の歴史に注目が集まっている。
 尼門跡寺院は現在、京都と奈良に13カ所残っている。最も古い中宮寺は7世紀、聖徳太子が母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために建立。法華寺は8世紀、国分尼寺を全国に築いた光明皇后が開いたもので、仏教普及に女性は大きな役割を果たした。尼寺のため、国が乱れ宮廷が戦乱に巻き込まれても、信仰生活や文化を維持できた。
 多くの皇女は5歳から15歳で入寺した。経や法要を勉強するための「喝食(かっしき)」を経て得度。剃髪して尼僧姿になって、修行の日々が始まる。尼門跡寺院では今も変わらぬ一日が続く。朝5時ごろ起床し、仏に食事を供え朝の勤行をして朝食。その後、歴代の門跡や父母の祥月命日のお勤めをしてから昼食をとり、午後は亡者の供養などを行う。合間に華道、茶道、和歌などをけいこしている。
 明治維新後の神仏分離で皇族が仏門に入ることが禁じられ、宮廷などからの援助がなくなった。今では建物や美術品など貴重な文化財の保護、修復に迫られている寺院も少なくない。
 徳川慶喜のひ孫にあたる三時知恩寺の門跡、伏見誓寛さんは「代々受け継いでいくことは大変ですが、後世に伝えることが門跡の務めです」と話す。
 また、約20年前、日本最初の尼僧、無外如大尼(むがいにょだいに)の像に出合ったのをきっかけに尼門跡寺院に光をあてた女性研究者、中世日本研究所長のバーバラ・ルーシュ米コロンビア大学教授は「男性が作り上げたと思っていた仏教史が真っ向から打ち消されました。これほど教養高い尼僧の存在は世界に類をみません。ぜひ多くの方に知ってもらいたい」と訴えている。
                   ◇
 「尼門跡寺院の世界」展は6月14日まで、東京・上野の東京藝術大学大学美術館(月曜休館、5月4日は開館)。問い合わせはハローダイヤルTEL03・5777・8600。


奈良
60年ぶりに手水舎を再建-太子ゆかりの安堵・飽波神社
 聖徳太子の創建と伝えられる安堵町東安堵の飽波(あくなみ)神社でこのほど、氏子らの寄付により、約60年ぶりに手水(ちょうず)舎が再建された。3日の同神社春祭(八十八夜祭)で完成を祝う神事が営まれる。
 同神社は東西両安堵村の総社として信仰を集め、手水舎には、それぞれの村の名を刻んだ幕末の手水鉢があった。しかし、長年の風雨で戦後直後に倒壊。以後は二つの手水鉢だけが野ざらしとなっていた。
 今年初めに亡くなった前宮司からの寄付をきっかけに再建の機運が盛り上がり、氏子総代の松田康さんらを中心に約220戸の氏子らから寄付を募った。総工費約300万円で実現した…

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和歌山
見て 才女の雑記
◎「小梅日記」県立文書館で展示中
 幕末から明治にかけて庶民の生活をつづった「小梅日記」の筆者、川合小梅(1804~89)が、日記の下書きや書物の抜き書きとみられる雑記、写本計28冊を残していた。このうち雑記9冊が、和歌山市西高松1丁目の県立文書館で13日まで展示中だ。小梅は無類のメモ好きとして知られているが、関係者はその才女ぶりに改めて驚いている。(中野裕也)
・江戸~明治期 奉行「失脚劇」など
 いずれも子孫が保管していて、「小梅日記を楽しむ会」(辻健会長)を通じ、同館に寄託された。書いた時期のわからないものもあるが、展示している雑記についていうと、一番古いものが1865(元治2)年で、最も新しいのが1884(明治17年)年。
 小梅がページを多く割いていたのが、紀州藩の勘定奉行と寺社奉行を兼務していた伊達千広らの失脚に触れた雑記(写年未詳)。県史などによると、伊達は、家老・山中筑後守のもとで手腕をふるっていたが、1852(嘉永5)年に山中筑後守と10代藩主の治宝が相次いで亡くなって後ろ盾を失い、失脚して田辺安藤家の預かりとなった。その後、脱藩して公武合体運動にも関与したといわれる。伊達は、明治政府で外務大臣などを務めた陸奥宗光の父親でもある。
 この雑記には、伊達失脚時のうわさ話のほか、当時、街中で歌われた俗謡「ちょぼくれ」も書き留められている。「ヤレヤレ皆さん聞てもくんねへ 抑筑後カ仕打を聞きナイ (中略) おのか気侭に独り呑込年数か有ふか勤めか有ふか 夫にかまハすよくの一まき 勤のないやツ年数のないやつ 金銀つくにて転役させたり米をやったり あんまり馬鹿らし」と、金で動く藩政を嘆く内容となっている。
 同館の須山高明主幹によると、治宝らの死後、付家老の水野忠央を中心とする「江戸派」が、和歌山の「お国派」を粛清し、伊達らが失脚したという。俗謡はその時に町で流れたものらしい。
 この事件について、小梅がどう考えていたのかは残されてはいない。当時は、政治向きの話に女性が距離を置いていた時代。「小梅日記を楽しむ会」の辻会長は「小梅の夫が藩校の校長だったこともあり、政治的な話が小梅の耳にも入ってきたのではないだろうか」と推測している。
 このほかに展示されている雑記にも、国学者山崎美成著の「提醒紀談」、南朝復興に生涯をささげた公家北畠親房著の「神皇正統記」、戯作者曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」など様々な分野の書物から抜き書きされている。
  入場無料。開館は平日午前10時~午後6時、土、日曜と祝日は午前10時~午後5時。祝日以外の月曜と木曜は休館。問い合わせは同館(073・436・9540)へ。


高知
坂本龍馬記念館:HPが新装 見やすく、内容充実 /高知
坂本龍馬記念館:HPが新装 見やすく、内容充実 /高知
 県立坂本龍馬記念館(高知市浦戸城山)のホームページ(HP)が30日、ボランティアの手によってリニューアルされた。同館は「見やすくなり、龍馬の歴史的情報も更に多くなった。HPを見てもらい、入館者も増えてくれれば」と期待を寄せている。新HPのアドレスはhttp://www.ryoma‐kinenkan.jp/。
 HPは99年に開設。1度内容を見直したが、閲覧者が求める情報がどこにあるのか分かりにくいなどの問題が検討課題となっていた。そこで昨年8月、同市のウェブコンサルタント、山岡匡(ただし)さん(36)や市内の大学生ら計10人のボランティアらがウェブリニューアルプロジェクトを立ち上げ、ほぼ毎月打ち合わせを開催。「訪れる」「観(み)る」「調べる」「つながる」など目的別の項目をトップページに設けるなどして見にくさを解消した。
 主な新項目は九つ。トップページの「今日の龍馬・明日の龍馬」は、生前の龍馬がその日していたことを毎日更新。今月同館を事務局に創設された「現代龍馬学会」の発表なども掲載する。この他、幕末の志士らの名言紹介など、充実した内容となった。
 山岡さんは「県民として、自分の技能を使い社会貢献がしたかった。大勢の人に足を運んでもらうきっかけになれば」と話している。【千脇康平】

 龍馬記念館のサイトはこちらです。


佐賀
三重津海軍所跡で柱跡発見 海軍所の“証拠”か
 佐賀市が発掘作業を進めている佐賀藩三重津海軍所跡(同市諸富町)で、柱跡や礎石が確認された。幕末のものと確認できれば、海軍所があった“証拠”となり、世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」(6県22件)への追加登録に近づく。
 見つかった柱は7本。地面に穴を掘って直接柱を立てる「掘っ立て柱」で、根元の部分が腐らずに残っていた。断面は直径15センチの円形で、幅約1・5メートルの2列に3つと4つに分かれ、1-2メートル間隔で並んでいる。
 礎石は1つで、最長辺が約30センチの不定形。別の建物の柱の土台として使われたと推測されている。多久市などで産出され、18世紀から幕末期まで佐賀城など佐賀藩の建物の土台に使われた「赤石」とみられている。
 柱や礎石を安定させるために敷かれたとみられる陶器片も多数出土している。陶器片が作られた年代から、礎石や柱の年代特定につなげる。同市教委文化振興課文化財係の前田達男係長は「この場所には海軍所より前に藩の船倉もあったので、混同しないよう慎重に調査を進めたい」としている。
 佐賀市は、三重津海軍所跡や築地反射炉跡など幕末の佐賀藩の史跡を、国の世界遺産暫定リスト入りしている「九州・山口の近代化産業遺産群」に追加することを目指している。世界遺産登録を目指す推進協議会の専門家委員会は、海軍所跡について「訓練場や造船施設などが確かにあったということを立証できれば、追加登録の可能性が高い」としており、同市は年代特定や文書資料との照会などを急ぐ。

【写真】三重津海軍所跡で発掘された柱の穴。等間隔で並び、柱の根元は腐らず残っている=佐賀市諸富町為重





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