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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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宮城
下級武士の暮らし今に 赤井畑家の資料解読
 リンク先は河北新報ニュースのサイト(閲覧に会員登録が必要、無料)です。
 宮城県白石市小原の赤井畑家の当主が幕末から明治初期にかけて書き残した古文書を、白石古文書の会(米沢繁会長、14人)が4年がかりで解読した。赤井畑家は白石城主・片倉家に仕えた在郷の下級武士。市史などに掲載されている古文書は多くが支配者側の視点で書かれているため、当時の下級武士の暮らしを理解する上で貴重な史料だという。
 解読したのは、20代当主の赤井畑柳二さん(64)が2000年に見つけた古文書約100点から抜粋した9点。白石市教委の委託を受けた古文書の会が04年に作業を始めた。週1回の例会で全485ページを解読、このほど「赤井畑家の古文書」(A4判、113ページ、市教委刊)として発刊した。
「片倉家ヨリ近衛様ヘ献上品記録集」(1852、60年)には18代当主直衛が、片倉家が年始に京都・近衛家やゆかりの寺社へ贈った塩引き鮭(さけ)、和紙などの品々を書き留めていた。
 経費の吟味や献上先へのあいさつ状からは、窮屈なほど形式を重んじた武家社会の一面がうかがえる。「大福帳」(72―76年)は、明治移行期の小原地区の暮らし向きが読み取れる。
 赤井畑家は和泉・細川家の末裔(まつえい)とされ、応仁の乱(1467―77年)で山名家側につき奥州に流れた。山あいの小原地区に潜んでいたところを伊達政宗に見いだされ、赤井畑姓を名乗ったという。
 片倉家の鉄砲隊で組頭の役目を果たし、与えられた知行は「三百三十九文」とある。白石城下の屋敷で生活した藩士とは異なり、組士の赤井畑家は農業を営みながら小原で暮らし続けた。
 解読に加わった現当主の柳二さんは「努力しても限界がある封建社会の現実を垣間見た。わずか数代前の先祖だというのに、今とはまるで異なる」と感慨深げ。
 古文書の会の米沢会長は「なぜ組士の赤井畑家に片倉家の記録が残っているのか分からないが、当主に記録できる能力があったのは確かだ」と話している。
 200部印刷。白石古文書の会刊の影印本とセットで、1部2000円で販売している。連絡先は市教委社会教育課0224(22)1343。

 母方の祖母が白石で片倉家に仕えた郷士の分家の出だったそうなので、この古文書には興味があります。

福島
能楽堂建設へ募金活動を本格化/会津若松
 会津若松市に能楽堂を造るため、会津能楽堂建設協会は今月から建設費を募る活動を本格化させる。
 15日に東京で開かれる会津出身者や会津ファンの集い「会津赤べこ会」で能楽を披露して寄付を呼び掛けるなど、費用約1億3000万円の確保を目指す。
 会津は江戸時代から能楽が盛んな地域。
 戊辰戦争で廃れた時期もあったが、有志が会津能楽会をつくり継承してきたが、以前から会津能楽の拠点設置を求める声が強く上がっていた。
 鶴ケ城そばの市有地を建設予定地とし、能楽堂は観客席を野外とする方針で、舞台のヒノキ板などを除いて地元木材を多く使う。


東京
ビルの街・人形町 発掘すれば歓楽街
 オフィスビルやマンションの立ち並ぶ日本橋人形町(中央区)の一角。このほど発掘作業が行われ、江戸時代、この地に大きな歓楽街があったことが裏付けられた。
 中央区教育委員会によると、人形町一帯はかつて堺町や葺屋(ふきや)町という名の芝居町で、吉原と並ぶ江戸の一大歓楽街だった。この町名は当時の絵図などに残されており、区教委が詳しく調べたところ、歌舞伎を見せる市村座、中村座と呼ばれる二つの大芝居小屋が繁盛していたとの文献もあった。この両芝居小屋は当時、銀座の森田座と合わせ、「江戸三座」と呼ばれ、にぎわったという。
芝居小屋はおおむね、1階に大衆席、2階には桟敷席があり、芝居の合間に酒や食事が運ばれた。早朝から町は多くの人でにぎわい、周囲には茶屋や操り人形を見せる小屋がひしめいていた。
 区教委は今年2月、発掘を開始。ビル建設が予定される駐車場(約300平方メートル)を掘り下げたところ、地下約1メートルで幕末のものとみられる遺構を見つけた。さらに地下約2メートルで、江戸中期のはしや貝殻のほか、かんざしや鏡などたくさんの女性用小物を発見。「茶店」と書かれた木の器の一部も出土した。区教委調査担当の仲光克顕さん(36)は、こうした品々から遺構は茶屋の跡だったと考えている。


泰平の眠りを覚ました2人の男、ペリーとハリスに迫った特別展
 泰平の ねむりをさます 上気撰 たった四杯で よるもねられず-。この有名な狂歌からも分かるように、約200年間にわたる江戸幕府の鎖国を崩壊に導いたのは、アメリカ海軍提督マシュー・ガルブレイス・ペリー率いるたった4隻の蒸気船(黒船)だった。
 そして、日米通商の道を切り開いたのが、日本総領事の任命を受けて、来日したタウンゼント・ハリスその人である。1858(安政5)年6月19日(洋暦7月29日)、ポーハタン号上で締結された日米修好通商条約は、日本に国内経済の混乱と攘夷の嵐を呼び起こし、時代は明治維新へと向かう。
 ペリーとハリス、この2人にスポットを当てたのが、江戸東京博物館で開催中の特別展「ペリー&ハリス~泰平の眠りを覚ました男たち~」だ。そこで今回は、展示作品を紹介しながら、日米通商の道を切り開いた2人の男に迫ってみようと思う。


島根
豪華な衣装にうっとり 石見の神楽展
 八調子のはやしと迫力の舞をほうふつとさせる「石見の神楽展」が、益田市匹見町の旧割元庄屋美濃地屋敷で開かれ、絢爛(けんらん)豪華な衣装や神楽面が来場者をうならせている。三十一日まで。
 敷地内にある民俗資料倉二階の展示場には、とぐろを巻く長さ十八メートルの大蛇(おろち)をはじめ、金糸が施された煌(きら)びやか衣装など約九十点を展示。幕末期に作られ、地元の三葛神楽保持者会が受け継ぐ木彫面十六個も目を引いている。

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