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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日は朝から燦々と陽射しが差し込み、すでに暑いです(汗)。

福島
新曲:「流星雨」あす発売 会津女性の心を、石川さゆりさん歌う /福島
 戊辰戦争で敗れ、過酷な運命に直面しながらも凛(りん)とした生き方を貫いた会津出身の娘を描いた歌「流星雨」を、石川さゆりさんが歌い、収録したアルバム「さゆり4」が20日発売される。
 作詞は会津若松市出身で、森昌子さんの「越冬つばめ」などを手掛けた石原信一さん(60)。作曲はテレビドラマ「白虎隊」の主題歌「愛しき日々」を担当した堀内孝雄さん。
 芥川賞作家の津村節子さんの同名小説(第29回女流文学賞受賞)が原作。敗戦後、下北半島の斗南藩へ移住を余儀なくされ、さらに北海道に渡った「あき」が、辛酸をなめながらも誇りを失わず生きた姿を、綿密な取材を基に描いた作品だ。
 石原さんは、同じく斗南に移された高祖母をあきに重ねたという。歌詞の中のあきは斗南に移ったばかりの17歳。石川さんは「あきは十七 会津の娘 戦なければ 花の春」と歌い上げる。
 石原さんは「会津の先人のひたむきな思いと誇りを詞に込めた。時代を超えた反戦歌ととらえてもらえればうれしい」と話していた。石川さんは「会津の女性のしんの強さ、心意気を貫く姿勢が歌に見えたらいいなと。歌を通して、会津の人はこうなんだよと伝えていきたい」とのコメントを寄せた。【太田穣】

 小説版、検索をかけてみたのですが絶版みたいですね。
流星雨 岩波書店
流星雨 (文春文庫) (文庫)
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東京
「新選組」ファンが日野に記念碑、近藤・沖田らの18句刻む
 見出しの言葉が若干違いますが、記事内容は昨日紹介したものと同じです。
 幕末から明治初期にかけて活躍した新選組隊士の功績をたたえようと、東京都日野市高幡の高幡不動尊金剛寺前に記念碑が建てられた。
 今年が新選組副長の土方歳三の没後140年にあたることから、新選組ファンで作る「日野新選組同好会」(日野市)が中心となって1月から、隊士の思いを後世に残そうと準備を進めてきた。制作費用は約25万円で、会員から寄付を募るなどして賄った。
 記念碑はプラスチックをアルミではさんだ材質で、縦約2・1メートル、横約2・4メートル、奥行き約1センチ。近藤勇や沖田総司らが詠んだとされる18句が記されている。後ろ側には「新選組隊士名簿」のパネル(縦約1・2メートル、横約3・6メートル、奥行き約1センチ)も作られ、468人の名前が50音順に刻まれている。
 同会は2000年、新選組を語り継ぐことなどを目的に13人で発足。現在は北海道から九州まで約60人の会員が在籍し、定期的に講演会や史跡巡りなどを行っている。
 同会会長代行の峯岸多賀子さん(40)は「日本の未来を思って戦いに倒れていった隊士たちの功績を子どもたちにも継承したい」と話していた。


神奈川
かながわ瓦版/近代消防史語る写真
 横浜市中区の加賀町消防団団長、栗田繁夫さん(68)が、大切にしまっているモノクロ写真がある。幕末に外国人居留地の消防商組に加わり、後に「近代消防の祖」と呼ばれた故石橋六之助の子孫から五年ほど前に託されたものだ。全部で十一枚あり、約一世紀前の消防士の姿が収められている。そのうち一枚は地元消防出張所のシャッターに大きく転写されるなど、近代消防の歴史を伝える貴重な資料だ。
 れんが造りの庁舎と貿易商街を見渡す火の見やぐら、石橋六之助が外国人から譲り受けたとされるかぶと、背に「YOKOHAMA FIRE.BRIGADE」と書かれたはんてん、大きな車輪の蒸気式ポンプ-。
 栗田さんによると、十一枚の写真は一八六〇年代から一九〇〇年代に撮影された。写っているのは、現在県庁などが立つ日本大通り周辺を拠点に活躍した消防士たち。横浜は日本で初めてガソリン式ポンプ車が配備された「近代消防の発祥地」とされており、いわばその“原点”を伝えている。
 写真を所蔵していた石橋家の関係者は戦時中、千葉県内に疎開して戦禍を免れた。写真はやや色あせているものの保存状態は良好で、五年ほど前、子孫が転居することになり、栗田さんに託されたという。
 栗田さんは日ごろ自宅で写真を保管し、時折眺めては往時の消防士の活躍ぶりに思いをはせる。年二回発行の「加賀町消防団だより」に写真を転載したことはあったが、関係者以外の目に触れることはほとんどなかったという。
 だが、今年に入ってから、中消防署山下町出張所から「写真を使いたい」と連絡が入った。開港百五十周年を盛り上げるため、庁舎のシャッターに写真を大きく転写したいとのことだった。早速、ガソリン式ポンプ車を中心に制服姿で並ぶ消防士が写った写真を提供し、今年で発足から百十五年の同消防団にとっても一つの記念になった。
 外国人居留地消防の流れをくむ同消防団は、関東大震災や横浜大空襲などの災禍も経験し、横浜中華街や主要官公庁を抱える海の玄関口で活動を続けている。現在は山下町、関内、元町、新山下の四分団が組織され、中国人を含む約百二十人が活動する。
 「近代消防の始まりとなった加賀町消防団は地元の誇り。これまでの功績に恥じないような消防団活動を、これからも続けていきたい」。栗田さんは、写真を前に使命感を新たにしている。


京都
龍馬直伝 73の言葉
霊山歴史館課長まとめる

龍馬直伝 73の言葉 霊山歴史館課長まとめる
 幕末の志士坂本龍馬が激動の時代をどう生きたかを言葉からくみ取った本「龍馬語録 自由闊達(かったつ)に生きる」を、京都市東山区の霊山歴史館の木村幸比古学芸課長(60)がまとめた。世に尽力しようとする強い志、行動力だけではない慎重さや人への気配りなど、大きな人柄をしのばせる内容になっている。

 ■強い志、人柄 感じて

 坂本龍馬は2010年のNHK大河ドラマで「龍馬伝」として取り上げられる。本では龍馬が残した書状や歌などから73の言葉を選び、言葉の意味や発言がなされた状況、時代背景などを説明した。
 脱藩して江戸に向かう際の「道なき世にも出づる旅かな」、世の中はすごいことばかりではないとしたうえで「ぶんと。へのなる。ほど。やって見よ」(ぶんと、屁が出るほど思いっきりやってみよ)など力強い言葉が並ぶ。
 天下に事をなすためには時機を見極めるべきと説いたり、ちょっと言ったことでも誤解されることがあり油断は禁物と忠告する内容のほか、薩長同盟で尽力した人に刀を贈ってたたえた言葉がある。
 木村課長は「現代も経済の動きなどグローバルに波及する激動の時代。時を超えて龍馬の言葉から何か感じてほしい」と話す。
 B6判192ページ。1200円(税別)。市内などの主な書店に置いている。


長崎
「さるくガイド」めざし瓊浦高が研修 全教職員で資格取得へ
 長崎市が推進しているまち歩き観光「長崎さるく幕末編」で、幕末の志士坂本龍馬ゆかりの亀山社中跡に近い瓊浦高(長崎市伊良林二丁目、古峨和之校長)は十八日、教職員五十三人全員の「-幕末編」のガイド資格取得を目指し、初研修に取り組んだ。学校単位で教職員がガイド資格取得を目指すのは初めて。
 教職員と生徒が亀山社中跡など近隣にある史跡や歴史文化について学び、地域交流促進を図る同校の活性化計画の一環。長崎学を学ぶほか、亀山焼の復活やハタの製作、長崎歴史文化観光検定二、三級合格を目指すなど、三年にわたって取り組んでいく。
 ガイドをする予定のコースは「龍馬が見上げた長崎の空~風頭から亀山社中跡、そして寺町へ~」。初研修では、長崎歴史文化博物館研究所の原田博二所長が「長崎さるくガイド基礎講座」と題し、長崎の町の成り立ちから幕末、近代に至るまでの歴史について講義。教職員はメモを取り、熱心に聞き入った。「地歴公民科」主任の岡田義晴教諭(52)は「生徒の指導にも役立てられる内容で勉強になった。ガイド資格の取得に頑張りたい」と話した。
 今後、実地研修などを行い、七月中にもガイド資格を取得。八月の「長崎市亀山社中記念館」オープンやNHK大河ドラマ「龍馬伝」などで増える観光客案内にも対応するという。


坂本龍馬像:「丸山公園に」 新たな観光スポット、「建てる会」設立 /長崎
坂本龍馬像:「丸山公園に」 新たな観光スポット、「建てる会」設立 /長崎
◇募金呼びかけ
 幕末の志士、坂本龍馬や海援隊士たちが数多く訪れたという、長崎市丸山町。同町内の丸山公園周辺の5自治会長や地元企業の代表者らが18日、「丸山公園に龍馬の銅像を建てる会」(川添一巳実行委員長)を発足させた。今後、県内外に設立のための募金を呼びかける。
 10年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』放映に合わせ、銅像を新たな観光スポットとし、地域活性化を目指す。川添実行委員長は「由緒ある丸山に龍馬像を建てることは、長崎のためにもなる」。制作を担当する長崎市の版画家、小崎侃(こざきかん)さんは「日本全国、世界に名が知られている龍馬がモデルだから緊張する」と語った。
 小崎さんは、龍馬像のデッサンを披露。龍馬が訪れたとされる丸山公園近くの料亭「花月」などにある、龍馬を描いた掛け軸を参考に、長崎の風を感じ、ブーツ姿で歩く龍馬をイメージしたという。全長約2メートルでブロンズ製。
 10月ごろ着工し、11月には完成予定。建立費は700万円を目標に募金で賄う。募金は、個人は1口3000円から、法人は2口1万円(1口5000円)からで、18日から受け付けている。問い合わせは事務局(095・825・4191)。【蒲原明佳】


ブックレビュー
女性神職の近代 [著]小平美香
■なぜ神職は男に限られたのか

 神社と女性。この組みあわせから普通の人が想像するのは、社務所でおみくじを売ったり、儀式の手伝いをしたりする巫女(みこ)たちだろう。祭祀(さいし)をとりしきる神職に、女性が就いている姿を考えることは、まずない。
 なぜ神職は男に限られたのか。なまじ知識があると、女性を穢(けが)れたものと見なした昔の偏見のせいにしてしまいそうである。しかし古代から、宮中でも神社でも、祭祀にかかわる役職のうちには、女性限定のものも含まれていたし、徳川時代の神道家たちも、女性が神職に就くことを認めていた。
 明治維新をへて、神道が国家祭祀として再編成されたときに、初めて男性に限られるようになり、戦後改革でその制限が取り払われて、今日に至ったのである。著者みずからもまた、神道思想を研究するかたわら、神職を務めてもいる。
 しかしこの本は、宙に浮いたジェンダー論で話をしめくくったり、女性祭司の神秘性を復権するといった安易な道をとらない。史料の地道な発掘と読解を通じて、神社神職から女性が排除された経緯を、すっきりと説明している。
 徳川時代、社寺に属さずに託宣や祈祷(きとう)を行う女性宗教者の活躍に対し、神道家たちは、そうした民間信仰と正式な神道との区別に腐心するようになった。これに儒学の男性中心主義が重なり、神社が明治国家の統治機構の一端に位置づけられたことで、歴史上前例のない女性排除が実現したのである。
 やはり新刊の、高梨一美『沖縄の「かみんちゅ」たち』(岩田書院)では、これとはまったく異なる、王権と女性祭司との関係が語られている。かつての琉球王国では、ノロやツカサと呼ばれる、多くの女性祭司が国家のもとに組織され、日本に併合されたのちにも、村々の祭祀をずっと司(つかさど)っていた。
 民間の信仰の世界が、国家による統合の過程で、いかに変わり、また排除されたのか。そこに、男女の役割分担はどう関係していたのか。さまざまな国や地域の違いをこえて、興味の尽きない主題である。
    ◇
おだいら・みか 66年生まれ。学習院大学人文科学研究所客員所員。天祖神社禰宜(ねぎ)。






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