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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昨日録画した『歴史秘話ヒストリア』江藤新平の司法制度確立の回を見直しています。白牡丹的には、今までの回で一番面白かったっす……尾去沢事件・山城屋事件など長州閥の実力者による汚職事件と闘ったところとか、斬首・梟首など人の尊厳を傷つける刑罰を廃した司法卿だったのに皮肉にも佐賀の乱首謀者として梟首されてしまうところとか……明治10年の西南戦争で士族反乱が集結するまでの明治政府創業期の試行錯誤と強烈な政治闘争の中で敗れていったひとりですね。
 前時代との比較で、維新以前には「女性から離婚できない」と言い切ってしまうことには「?」ですが……縁切り寺に駆け込むとか女性が離婚できない手段がなかったわけではないからなぁ。
 とはいえ、全体としては、初期の明治政府において画期的な司法制度の確立に力を尽くしつつ、岩倉・木戸・大久保など維新の元勲たちと対立し、挙げ句の果ては十分な裁判を許されずに斬首・梟首されてしまう江藤の生涯を手際よく描いている点でよかったと思います……「十分な裁判を許されずに斬首・梟首されてしまう」というところが近藤勇を連想させるところがありますね。

 ……イントロが長くなりました(汗)。昨日今日の幕末関係ニュースを以下ご紹介します。

北海道
函館開港150周年記念事業内容決定
 函館開港150周年記念事業実行委員会(会長・西尾正範市長)の第5回総会が20日、市内のホテル函館ロイヤルで開かれ、8月8日から同16日まで函館港内「緑の島」(大町)で行われる同事業のメーン事業の内容がほぼ決まった。「食」「音楽」「スポーツ」をキーワードにコンサートや市民ステージなど約40のイベントが繰り広げられる。スポンサーからの協賛金や団体からの寄付金の総額は15日現在、約5858万円で、目標額(約7300万円)の8割に達した。(鈴木 潤)
 8月8日は午前10時20分から、航空自衛隊第4航空団(宮城県東松島市)の第11飛行隊(ブルーインパルス)の祝賀飛行でメーン事業の幕開け。屋外ステージではアニバーサリー・ソングの合唱、セレモニーに続き、同11時から海上自衛隊東京音楽隊の演奏会、PMFブラス・アンサンブルコンサートが行われる。
 このほか、国内外の芸術団体が集う「2009はこだて国際民俗芸術祭」(9日)、函館の開港、歴史に関するシンポジウム(11日)などを開催。13日は生物多様性条約第10回目締約国会議(COP10)の名古屋開催(2010年)を記念したライブが開かれ、札幌出身の歌手・大黒摩季さんらが出演。同日は佳山明生さんら函館ゆかりの歌手による歌謡ステージも開かれる。
 期間中、函館の物産コーナー「HAKODATE国際フィッシャーマンズマーケット」を開設。来場者の買い物は10%のプレミアムが付いた専用通貨「ペロリ」を使用してもらい、6月にも先行販売する予定。
 同実行委は今月中にも大門や五稜郭地域にPRフラッグを掲示し、さらなる周知活動を展開していく考え。


群馬
高崎・倉渕町で幕臣「小栗上野介」を知るバスツアー-終焉の地も
 明治の父といわれる幕臣、小栗上野介が烏川の水沼河原(高崎市倉渕町水沼)で非業の死を遂げてから141年。ゆかりの地「東善寺」(倉渕町権田)などで5月24日、小栗上野介と関係殉職者の御霊を慰める「小栗まつり」が開催される。
 小栗上野介は1868(慶応4)年3月、幕府から帰農許可を得て小栗家の領地だった上野国群馬郡権田村(かみつけのくにぐんまぐんごんだむら)、現在の高崎市倉渕町権田に移り住んだが、2カ月後、烏川の水沼河原で斬首(ざんしゅ)された。
 小栗は「幕府に終わりがあっても、日本に終わりはない」「公務に尽くすのが真の武士だ。後は野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」など、現在、多くの人が国や政府に「こうあってほしい」と叫びたくなるような名言を残した。
 「小栗まつり」では小栗を紹介するパネル展示、法政大学講師で作家の岳真也さんの講演などのほか、最期の地や観音山などを巡るバスツアーを実施する。
 バスツアーは3コースあり、参加するには事前の応募が必要だったが、高崎市倉渕支所(TEL 027-378-3111)の担当者は「まだ空きがあるので当日参加も受け付ける。新緑あふれる倉渕の歴史散歩に一人でも多くの人に参加してもらえたら」と呼びかけている。参加費は1,500円。
 墓参は13時から東善寺で。当日は境内に、海軍カレー、マスの塩焼き、地酒、地元特産物、小栗幕末関連書籍などを販売する露店が軒を並べる。

 小栗上野介の足跡もそのうちに訪ねたいと思っています。

東京
遊ナビ・アート館:ギャラリー /東京
(中略)
■日本の宝飾のあゆみ250年

 6月1日まで11~19時、ミキモトホール(地下鉄銀座駅)。1700年代に作られた最も古いタイプのべっ甲のくしや笄(こうがい)。11種類のかんざし類が組になった幕末期の婚礼用髪飾り。明治・大正期の宝飾品を身につけた女性の錦絵や絵はがきなど。水曜休。電話03・5550・5678




福井
「三国祭」の巨大武者人形に歓声 福井・坂井
 北陸3大祭りの1つとされ、福井県坂井市で開催中の「三国祭」が20日、ヤマ場を迎え、恒例の巨大な武者人形を載せた山車の行列が港町の路地を練り歩いた。
 今回は、越前地方を統治するなど地元にゆかりのある柴田勝家やお市の方などの人形とともに、生誕200年を記念して幕末期に活躍した地元出身の儒学者三国幽眠の武者人形が登場。子どもたちが奏でる笛と太鼓に合わせ、高さ6・5メートルの山車が通り掛かると、大勢の観光客から歓声が上がった。
 兵庫県川西市から訪れた無職井上厚志さん(67)は「立派な祭りで、港町の伝統を感じる」と話し、笑顔で行列に見入っていた。




コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 野村望東尼
■晋作への健気な温情

「ひとすじの道を守らばたおやめも ますらおのこに劣りやはする」
 一途(いちず)に信じる道を貫き通せば、女も男に劣らないくらいの意味だろうか。
 野村望東尼(ぼうとうに)は、高杉晋作や平野国臣(くにおみ)らの志士と交わった福岡の歌人である。いわば女流勤皇家ということになろう。「ぼうとうに」は、本名がもと子だったので「もとに」と読む説もある。

◆才をいちはやく見抜く

 黒田家の武士と2度結婚した望東尼の家庭生活は、あまり幸福とはいえない。授かった4人の実子はいずれも夭死(ようし)し、家督を継いだ先妻の子も自殺を遂げた。望東尼が幕末屈指の勤皇家に成長するのは、54歳になった文久元(1861)年に上洛して激動の政治情勢に接してからであろう。
 折から長州藩の長井雅楽(うた)が公武合体策で遊説していた時期である。和歌の道では大田垣蓮月尼(れんげつに)に出会ったことも大きい。そして、勤皇家として望東尼の名を高からしめたのは、高杉晋作との交遊であろう。
 高杉は元治元(1864)年11月、禁門の変後の政争で長州藩の実権を握った親幕派の俗論党から逃れ、福岡藩の同志の周旋もあって、尼の平尾山荘で10日ほど難を避けたのである。こうして望東尼は、長州人以外で高杉の政略の才をいちはやく見抜く人物になった。
「冬ふかき雪のうちなる梅の花 埋もれながらも香やは隠るる」とは雪中でも香りが消えない梅に託して、不遇でも才気が現れる高杉を激励した歌という説もある。

◆幽閉から救出も病魔
 やがて長州に戻って俗論党と対決する高杉は、静謐(せいひつ)な平尾の庵で望東尼から何を得たのであろうか。実の子をすべて失った望東尼にとって、33歳も年少の若者に寄せる眼差(まなざ)しは慈愛にあふる母の視線だったのかもしれない。晋作の出発に際し、真心をこめて筑紫の地で着物を縫った尼の思いは、志を貫く健気(けなげ)な若者への温情に満ちている。
「まごころをつくしのきぬは国の為 たちかえるべき衣手にせよ」
 筋金入りの勤皇派の望東尼は、慶応元(1865)年に福岡藩で荒れ狂った粛清の嵐から無縁でいられるはずもなかった。姫島に流された望東尼は、板敷きで茣蓙(ござ)が敷かれた4畳の部屋に幽閉されたが、高杉が手配した6人の決死の士によって救出され、馬関(下関)で高杉に迎えられた。すでに病魔に侵されていた高杉が詠んだ有名な句、「面白きこともなき世に面白く」に下の句をつけたのは望東尼であった。「すみなすものは心なりけり」と。

◆追いかけるように…
 幕末の長州人は、とかく恩人に酷薄だと評判が悪い。吉田松陰の遺書を三宅島から届けた奇特な人物に野村靖は冷淡で、大手術で自分を三途(さんず)の川から引き戻した医者に井上馨は生涯礼を述べた形跡もない。わずかに望東尼に対する高杉の誠意は長州人の名誉を救ってくれた。
 このあたりの美徳も尼は見抜いていたのかもしれない。政治はいつもリアリズムの世界である。しかし、恩義や義理人情をまったく無視しても政治は成り立たない。それを女性に発揮したあたりにも高杉の偉さがあるのだろう。
 それにしても、高杉の死からわずか6カ月後に望東尼も亡くなるとは、よほど因縁の深い関係だったと思わざるをえない。慈しんだ晋作の死を長州で見届けた望東尼は、人生の幸福な瞬間を最期に味わったのかもしれない。(やまうち まさゆき)
                   ◇

【プロフィル】野村望東尼

 のむら・ぼうとうに 文化3(1806)年9月6日、福岡黒田藩士、浦野重右衛門勝幸の三女として生まれる。幼いころから読書を好み、書に通じていた。17歳で福岡藩士に嫁ぐが、半年余りで離縁。文政12(1829)年、24歳で同藩士、野村新三郎貞貫(さだつら)の後妻となり、3人の先妻の子供を育てる。27歳で夫と歌人・大隈言道(ことみち)の門下に入り和歌を学ぶ。42歳のときに夫が隠退し、2人で現在の福岡市中央区の平尾山荘に転居した。安政6(1859)年、夫の死去後、得度、剃髪(ていはつ)して望東尼と号した。文久元(1861)年、京都で大隈と再会し、寺田屋の変など幕府と薩長の対立などを目の当たりにし、勤王の志を深くする。山荘に戻ってからは、高杉晋作ら勤王の志士を匿(かくま)い、山荘は彼らの密議の場として利用された。しかし、慶応元(1865)年、勤王派は弾圧され、望東尼は姫島へ流刑になる。後に高杉に救出され、三田尻(現山口県防府市)で慶応3(1867)年、62歳で病没した。





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