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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 オランダ×デンマークをテレビ観戦中……日本×カメルーンの試合が始まる前に入浴しておかねば(汗)。
 今のところ、決して守備が弱くはないオーストラリアに対して4点も入れたドイツの強さが一番印象に残ってます。今回のドイツは若くてかなり攻撃的ですねぇ。

北海道
同志社が「函館新島襄講座」 水産高生が寸劇
【函館】今年、創立135周年を迎える学校法人同志社(京都)が13日、函館国際ホテルで「函館新島襄講座」を開いた。同志社大の創設者新島襄が幕末に箱館から米国に密航した縁があり、講演のほか、函館水産高の生徒が寸劇で新島襄の脱国シーンを再現した。
 寸劇では新島襄が箱館を脱国した1864年(元治元年)6月14日、北海道開拓に功績を残した気象技術者福士成豊と坂本龍馬のいとこ沢辺琢磨が、悲壮な決意を語った新島襄を「夢忘るなよ」などと激励する場面を再現した。
 また、同志社大総長で著名な刑法学者でもある大谷実さんが「同志社の良心教育」をテーマに講演し、「幼稚園から大学院まで一貫して、良心という理念を教えていきたい」と誓いを新たにした。
 講座に先立ち、新島襄が箱館を訪れた際に乗ってきた帆船「快風丸」の模型(約60センチ)が、学校法人同志社から函館市に寄付された。
 14日は学校法人同志社主催の碑前祭が午前11時から、函館市大町にある「新島襄海外渡航の地碑」前で行われる。(安本浩之)


秋田
竜馬や高杉らの写真展示 県立博物館
 坂本竜馬、高杉晋作ら明治維新の立役者たちの貴重な写真などを展示する「坂本龍馬と維新志士の古写真展」が、秋田市金足の県立博物館で開かれている。7月4日まで。
 展示されている写真は、維新期の竜馬や高杉、伊藤博文らを撮影した7枚。竜馬が中心となって結成した「海援隊」の隊士の子孫にあたる人が県内に住んでおり、2001年、所有していた写真を同博物館に寄託。NHK大河ドラマの影響もあって竜馬が再びブームになっていることから、今回初めて公開した。同様の写真は全国でも数枚ずつしか現存しておらず、非常に貴重だという。
 このうち竜馬最後の肖像とされる写真は、暗殺直前の1867年秋に撮影したとされ、着物姿で刀を差し庭先に腰掛ける竜馬の姿をとらえた1枚。会場には古写真のほか、竜馬直筆の書状や、高杉が竜馬に贈ったものと同型のピストルも展示している。
 同展の会期中、オリジナル写真の展示は資料保護のため期間限定で、20日までと、26日〜7月4日。今月22〜25日は複製パネルを展示する。開場は午前9時半〜午後4時半。入場無料。毎週月曜日休館。


山形
絹の街・鶴岡 輝き再び
市が啓発 蚕を学校に配布

 かつて鶴岡市の基幹産業だった養蚕や絹織物の文化を次世代に伝えようと、同市などは地元の絹関連産業への啓発を進める事業「鶴岡シルクタウン・プロジェクト」を始動させた。第一弾として今月、市内の小中学校など36施設に蚕の幼虫や餌となる桑の葉などを無料配布した。市政策推進課は「生き物の飼育をする理科の授業にも活用してもらい、市の織物文化や繊維産業などにも興味を持ってもらえれば」と期待している。
 「うわーっ、小さい。こんな虫見たことない」「指に乗った!なついてるよ、これ」。今月8日朝、市立東栄小3年生の総合学習の時間。発泡スチロールの箱に入った蚕の幼虫30匹と桑の葉が教室に6セット届けられると、待ちわびていた23人の児童は一斉に声を上げ、約4センチの灰色の幼虫にくぎ付けになった。手に乗せたり、桑の葉を食べる様子を観察したりと興味津々。恐る恐る触ってみた太田ちこさん(8)は「これが真っ白な繭になるなんて信じられない」と首をかしげた。
 鶴岡市は、明治維新後に旧庄内藩士らによる開墾事業が進められ、羽黒地域を中心に大規模な桑畑や蚕室が数多く作られた。市などによると、大正時代には市民の7割以上が養蚕や織物業に従事し、市の産業の基盤になっていたという。
 しかし、蚕の幼虫は薬品に非常に弱く、桑の葉についたわずかな農薬でも死ぬ。戦後、農薬を使用する柿などの果樹が市内で普及すると、桑の葉を育てることができず、養蚕業は衰退。安価な輸入品にも押され、現在、養蚕農家は藤島地域に残る1軒のみとなった。
 鶴岡市によると、同市は全国で唯一、養蚕から製糸、縫製、販売まで絹織物製造の工程がすべて残っている地域。文化や産業の消滅を防ごうと、市は部課を超えてプロジェクトに乗り出した。養蚕の仕組みの見直しや、鶴岡産シルクのブランド化などに取り組むことを決め、最初の試みとして飼育キットの配布を始めた。
 養蚕業界関係者でつくる県蚕糸業会が幼虫や桑の葉などの飼育用具を提供。餌の桑は毎週届けられる上、元養蚕農家ら5人の指導者が巡回指導するなど、サポート態勢も整えた。
 配布された幼虫は蚕が繭を作るまで約3週間。うまく育てば繭1個から長さ1・5キロ・メートルほどの糸がとれるため、自分たちで育てた蚕からできた絹糸でハンカチを織るなどの活用も可能という。市政策推進課は「織物の販路開拓が課題になるが、地域文化への関心を高め、息の長いプロジェクトにしたい」と話している。



 プロジェクトの一環として市は県蚕糸業会などと協力し、住民に養蚕業や絹文化に興味を持ってもらおうと、今月14~18日、市役所1階ロビーで展覧会「鶴岡シルク『蚕と絹』」を開く。蚕の飼育や養蚕の歴史などをパネル展示するほか、蚕を育てたり、絹織物に挑戦したりする住民「繭人(まゆびと)」の募集も行う。



栃木
幕末期の佐野を紹介 市郷土博物館で企画展 栃木
 幕末期の佐野の尊皇攘夷運動に関する資料などを紹介した企画展「幕末の佐野」が、栃木県佐野市大橋町の市郷土博物館で開かれている。15日まで。
 企画展では、桜田門外の変で暗殺された大老・井伊直弼や、佐野から尊皇攘夷運動に参加した農民や浪士らにスポットを当てた古文書や絵図など約40点を公開している。
 幕末の佐野領は、北部の田沼地方が彦根藩主の井伊家の飛び地となっており、井伊直弼が嘉永6(1853)年、日光参詣の帰りに領地を巡視した記録や、下野西南部の尊皇攘夷派が倒幕に向けて蜂起した「出流山事件」に参加し斬刑された儒者、赤尾清三郎についての資料などが並ぶ。
 同館は「幕末期の佐野を改めて見つめてほしい」としている。問い合わせは同博物館(電)0283・22・5111。


【とちぎ子育て箱】「ふるさと学習」年間通じて支援 栗山小で新たな試み
 地域の偉人や史跡などを教材に郷土愛をはぐくむ「ふるさと学習」。県文書館は本年度から、同館職員が年間を通じてふるさと学習の授業を支援する試みを日光市栗山小でスタートさせた。専門家の解説を聞いて学びを深め、他校を交えた発表会で成果を披露する。
 5月、日光市野門にある栗山東照宮で、栗山小3年の手塚由基君(8)と4年の松本恵佑君(9)、6年の黒田奎貴君(11)が社殿の中をのぞき込んだ。目の前には4体のご神体が鎮座している。

▽家康のご神体

 3人は総合学習でこの神社を調べるため、芳賀智一教諭、県文書館の松本一夫さんらと訪れた。
 同館などによると、ここは民家で長い間保管されてきた徳川家康ら4体のご神体を祭るため、1970年に地元住民の手で建てられた。4体は戊辰戦争の戦禍を避けようとこの民家に預けられたとされる。
 3人はこの日、ご神体を預かっていた家の現在の主、小栗功さん(53)に普段は閉じてある社殿を開けてもらい、かつて4体がしまわれていた場所も見せてもらった。
 6月、再び松本さんら同館職員が同校を訪れ、3人が自分で調べても関係性などをうまく理解できなかった家康、東照宮、戊辰戦争について解説した。

▽要点絞り成果

 休み時間を挟み、2こま連続で行われた授業を熱心に聞いていた3人。芳賀教諭は「本やインターネットでは言葉が難しく、情報も多すぎて子どもが理解するのは難しい。今回、要点を絞って話してもらったのが良かった」と成果を挙げる。
 「ふるさと学習の推進」は県の教育振興ビジョンに掲げられ、県教委では、本県の偉人や文化財などを紹介する学習資料や授業の指導事例を、ホームページに載せている。
 「有名でなくても地域に根ざした遺物に目を向け地域を見直す、という実践をいかにやってもらうか」。情報提供にとどまらない今回の試みの意義を松本さんはこう話す。

▽進歩に手応え

 同館は、学校に古文書などを持参して授業を支援する単発の「出前講座」を2005年から行っている。
 「年に1回だと関心を持たせることくらいしかできないが、今回は進歩を確認できる」と、手応えも語っている。
 3人は今後、7月の校内発表会を経て、年度末に宇都宮市の西小、富屋小と合同の発表会に臨む予定。成果を披露し合うことでお互いを認め合うことも狙いの一つだという。



高知
訃報:吉川登志之さん 死去=現代の名工、土佐凧染物 /高知
◇84歳
 土佐凧(だこ)染物職人で「現代の名工」の吉川登志之(よしかわ・としゆき)さんが12日、肺炎のため死去した。84歳だった。
 吉川さんは、明治時代初期から染物業を営む吉川家の4代目。96年に「現代の名工」に選ばれ、00年には黄綬褒章を受章した。端午の節句に大空に掲げるフラフやのぼりだけでなく、伝統工芸品「土佐凧」継承者として、力強い黒線に魔除けの色である赤を基調にした作品などを製作。父親の半蔵さんは幕末の絵師金蔵(通称・絵金、1812~76)の孫弟子にあたる。絵金の素描画などを地域興しのために役立てようと、自宅を改修して絵金資料館を開いた。
 職人気質というよりは、人と会って騒ぐのが大好きだったという。吉川家5代目で長男の毅(たけし)さんは、「後を継げと強要されたことはなかった」と振り返り、「自由奔放な人。皆さんに愛されていました」と語った。
 告別式は14日午前11時、香南市赤岡町2018の1、香南斎場やすらぎ苑で。自宅は同市香我美町岸本56。喪主は毅さん。【千脇康平】


コラム
特集ワイド:歴史に学ぶ 勝海舟 卓越した先見性--歴史学者・松浦玲さん
<この国はどこへ行こうとしているのか>

 米軍普天間飛行場移設問題。米国から何の譲歩も引き出せないまま、鳩山内閣は崩壊した。だが歴史上には、圧倒的に不利とみられた交渉に勝ち、名を残した男もいる。
 「日記など自筆史料を大量に残したのに誤りも多い。勝海舟は政治的天才だったが、記録能力はだめでした」。松浦玲さんは京都市の仕事場で愉快そうに語った。「ずぼらさもあるが、迫力を優先したせいもある。なぜ誤ったかに彼の考えを探るカギもあるのです」。周辺の人物の日記など膨大な史料を精査し「本人記す」を超える真実に迫ったのが、今年出版した900ページを超える評伝「勝海舟」だ。
 海舟が「大きく光った」という江戸無血開城の談判はなぜ成功したのか。幕末の謎だけに、評伝では「言わんといかんと、そこだけは主観的に書いた」。慶応3(1867)年の大政奉還、王政復古の大号令の翌年、戊辰戦争がぼっ発。新政府軍は将軍徳川慶喜を朝敵として追討するため東進。3月15日、江戸城を総攻撃する予定だった。だが、海舟は13、14日の西郷隆盛との談判で降伏条件ものまず、戦争中止に持ち込む。
 「海舟は大政奉還を『公』の実現と評価していた。意思決定は大名会議(公議)に移る、その先には廃藩置県などで大名や侍の身分もなくなる社会をみており、それなら徳川家がつぶれても文句はないと考えていました。だが、薩長は自藩は温存して、徳川はたたきつぶそうとした。そんなばかな話があるかというのが海舟の理屈。西郷はその理屈に負けたんでしょう」
 推論の足場は無論、ある。海舟は以前から薩長の「私」を撃つ意見書を新政府に送っていた。混乱した社会情勢につけ込むのは「王者之政、生霊を愛護する道にあらず(天下を治める者の政治でなく、人民を保護する道でもない)」と批判した文書などが前線の西郷の元に届いたことは、薩摩藩側の史料で確認した。江戸城攻撃直前の西郷と勝の面談は2度目。4年前の最初の面談では、勝は有力諸藩が提携して共和政治をやれと話し、西郷は「ひどくほれ申候」と記した。「勝は会う度に西郷を人物で圧倒した。2日続けて会った心証で『これなら押し切れる』と読んだんでしょう」。松浦さんはその場面にしたたかな計算もみる。「信念であると同時にこれを言い通せば西郷に勝てるとみた。これしか『勝つ手』はないから言っているんです」
 軍艦奉行を罷免された時期もあった海舟だが、「世の中はいずれ変わると思っているから、へいちゃらで乗り切れたんでしょう。今起こっていることは『小さいこと』とずっと思っていたようです」。
 「一般には知られていないんですが」と松浦さんは続けた。「海舟は最晩年、残る気力を振り絞り自らの役割を果たした。『小さく光った』んです」
 維新から30年後。帝国議会は開設されていたが、政権は薩長出身者による「藩閥」が握り続け、民意が反映されない不満が高じていた。海舟は重要な国務に意見を言う枢密顧問官。当時の第2次松方正義内閣には親身に意見し、首相就任の際は、後進を要所に置いて育てるようにという文書を送った。「自分は権力を手渡した側という思いを抱きながら、高官の地位を受け入れた責任は果たそうとしました」。だが、松方内閣は行き詰まり、ちまたでは「藩閥の終わり」を意味する「閥末」が語られる。次の第3次伊藤博文内閣も短命で倒れた。
 1898(明治31)年6月、自由党と進歩党が憲政党を結成、初の政党内閣、第1次大隈重信内閣(隈板内閣)を作る。しかし4カ月で崩壊。政党にはまだ政権担当能力がないと判断した海舟は11月、枢密院で後継は藩閥が務めるようにと熱弁を振るい、元老の奮励を促す意見書を枢密院議長あてに出した。元老らによる後継選びはその直後本格化し、長州閥の第2次山県有朋内閣が誕生する。海舟が没したのはその2カ月後だ。
 松浦さんはこう語る。「海舟は幕末、閥末の二つの末の世を生きました。幕末を自ら処理したうえ、権力の当事者ではなかったから、閥末の世がよく見えたのです。議会制度を開きながら薩長閥では持たないこと、政党政治に向かう時代の流れも理解していた。だから憲政党の誕生には賛成しましたが、一方で政党の現実も見ていた。それゆえに政党が成長するまでは藩閥で頑張ってくれと考えた。維新を生きた友人が亡くなって行く中、自分だから見えることを伝えようとした」
 海舟没後の1902年、日露戦争遂行を助ける日英同盟協約が結ばれた。「日本は英国の時代にうまく乗った」。だが第一次世界大戦後の21年、米国の呼びかけでワシントン会議が開かれ、日英同盟は廃棄された。「この会議以降は米国の時代です。日本は第二次大戦で負け、米国の格下の同盟国になった。守ってもらえる格下に安住したいというのが国民の大勢ではないですか。政府も国民も沖縄を切り捨てている。だが、今絶対視されている日米同盟も、歴史の限られた期間の産物です」
 首相は菅直人氏に交代し普天間問題も新内閣に引き継がれた。思わず聞いた。「海舟が基地問題の担当大臣を頼まれたらどうするでしょう」
 考えながら語ってくれた。 「全部任せると頼まれたらやるでしょう。『日米同盟を壊しても構わないか。それならやる』と言うかもしれません。壊すのが前提ではありません。徹底的に代替地を探す、けんか別れになってもいい覚悟で日本の立場を訴える。本気にならなければ解決は望めないからです」【宮田哲】

 「日記など自筆史料を大量に残したのに誤りも多い。勝海舟は政治的天才だったが、記録能力はだめでした」(苦笑)。
 勝海舟とは対照的に、維新後多くを語らなかった大久保一翁についてもっと知られて欲しいなぁと思ってるんですが。

テレビ
殿様だから撮れた! 徳川慶勝の「スクープ写真」
【 06月16日(水) 総合/デジタル総合 22:00 ~22:43 】
教科書には載らない歴史エピソードを紹介する「歴史秘話ヒストリア」。今回は幕末の尾張藩主、徳川慶勝をとりあげる。
慶勝は当時最先端の技術だった写真を趣味とし、自らが撮った写真を多く残した。それらの貴重な写真の数々から浮かび上がるプライベートライフを紹介し、慶勝が直面した運命や悲劇を描く。演じるのは俳優の篠井英介。

*歴史秘話ヒストリア

 前番組「その時歴史が動いた」に比べると今いち乗り切れないのですが、次回は幕末維新の時代を生きた尾張藩主が主人公なので楽しみです。




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