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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 日本がカメルーンに勝った昨日の試合、海外では今大会一番の番狂わせと報道されたところもあるとか。ゴールした本田、アシストした松井、そして守りきった全メンバーに感謝!

北海道
幕末の志に思いをはせ 函館
 同志社大学の創設者で、幕末に海外を目指して函館からひそかに日本を脱出した新島襄(1843~1890)をしのぶ碑前祭が14日、函館市大町の「新島襄海外渡航の地碑」であった。
 碑は新島襄が1864年、国禁を犯して米国に向けて出発したとされる函館港の一角に立つ。碑前祭は、学校法人「同志社」が今年創立135周年を迎えるのを記念して行われた。
 大谷実総長が「新島襄の志に思いをはせ、継承し発展させていきたい」などとあいさつ。地元の同志社大卒業生ら約60人が集まり賛美歌を歌ったあと、碑に花をささげた。


龍馬記念館に竜馬さん
 現代の竜馬、記念館に―。「北海道坂本龍馬記念館」(三輪貞治館長、函館市末広町8)のボランティアスタッフとして、公立はこだて未来大学2年生の深浦竜馬さん(19)が新加入した。同館のスタッフや来場者からは早くも“若さあふれる竜馬”の登場に期待の声が上がっている。深浦さんは「この名前と得意のパソコン技術を生かして記念館を盛り上げられれば」と意気込んでいる。
 深浦さんは後志管内余市町出身。父の龍治さん(58)が歌手の武田鉄矢さん原作の漫画「おーい!竜馬」の大ファンだったことからこの名が付けられた。深浦さん自身も幼少期から父親の影響を受け、名前が一緒の「龍馬」には親近感や興味を感じていたという。
 スタッフ志願のきっかけは、龍治さんに頼まれた土産を買おうと記念館を訪れたときだった。来場者をもてなすスタッフの姿や三輪館長の龍馬への熱意に感銘を受け、とっさに「参加させてください」の言葉を口にしていたという。「買い物が終わったら帰ろうと思っていた。なぜあんなに積極的になれたか正直わからない」とその時を振り返る。
 13日に初めてパンフレットの配布や来場者の出迎え、見送りを担当した深浦さん。「人と接し、交流することの楽しさを知った。これからも週末を中心にできる限り参加したい」と笑顔を見せる。一人の若者の心意気がこれからの記念館運営に力を与える。




神奈川
蔵から交流の場へ 小田原・岩瀬邸 横田七郎氏の回顧展を開催
 小田原市鴨宮に残る母屋が国登録有形文化財に指定されている「岩瀬邸」の蔵と土蔵がギャラリーとホールに“変身”、新しくスタートを切った。現在、岩瀬家と親交が深かった地元ゆかりの彫刻家・横田七郎氏(一九〇六~二〇〇〇年)没後十年の回顧展が開催されており、関係者は地域の文化交流と活性化を願っている。
 市教育委員会などによると、岩瀬邸の母屋は安政四~五(一八五七~五八)年に建築された、かやぶき屋根の木造平屋建て寄せ棟造り。幕末から明治にかけての名主(豪農)の家の形態を残す。年二回、一般公開している。三越の社長を務めた岩瀬英一郎氏の生家でもある。
 母屋の裏には昭和初期建造という家財道具を入れていた蔵や土蔵があり、「はっきりした歴史は分からないが、私は十八、十九代目」という不動産管理業の岩瀬忠司さん(57)が、開放を計画。二年ほどかけて蔵と土蔵の室内を改造した。
 母屋はすでに茶会など和の行事に使われており、蔵はギャラリー、ミニコンサート、土蔵は料理教室などに使えるように流しも整えた。庭にケヤキの巨木があることから「巨欅(おおけやき)の居(いえ)」と名付けた。
 「総合的な文化交流の拠点として活用してもらって少しでも地域の交流に役立てば」と岩瀬さんは妻美喜さん(56)と広い屋敷内を掃除する。
 横田七郎氏は若いころ、岩瀬家の借家に住み、大家と借家人の関係。当時の当主にかわいがられたことなど縁が深く、岩瀬さんが七郎氏の長男で市議の八郎氏(65)に作品展の話を持ち掛けたところ没後十年ということもあって快諾し、実現した。
 回顧展には七郎氏の木彫家としての第一作「めざし」や院展、文展の入選作など約七十点が並ぶ。二十日まで。入場無料で午前十時~午後六時。問い合わせは「巨欅の居」=電0465(49)6077=へ。 (長崎磐雄)



愛知
DVD:郷土の偉人を紹介、第1弾完成 刈谷市教委、21小中学校に教材配布 /愛知
 刈谷市教委が、郷土の偉人を紹介するDVDをシリーズで制作する。第1弾「幕末をかけぬけた刈谷の志士たち--維新の魁(さきがけ)・天誅(てんちゅう)組」(23分)を完成させ、市内の21小中学校に教材として配布、一般にも1000円で販売している。毎年一つ作る計画。
 第1弾で取り上げたのは、幕末に起きた尊皇攘夷(じょうい)派の挙兵事件「天誅組の変」(1863年)に加わった刈谷出身の3人で、天誅組総裁の松本奎堂(1831~63)、決死隊副隊長の宍戸弥四郎(33~63)、連絡役の伊藤三弥(35~1917)。
 アニメに史跡の映像を交えて構成。3人が尊皇攘夷思想に傾いて天誅組に参加し、50人足らずで現在の奈良県五條市あたりで挙兵し、五條代官所や高取城などを襲撃、幕府軍の反撃で大敗して松本と宍戸は戦死したが、明治維新の先駆けとして評価されていることを紹介している。幕末のペリー来航や安政の大獄、桜田門外の変など時代背景も描いている。
 問い合わせは市文化振興課(0566・62・1037)。【安間教雄】


コラム
記者ノート:奇兵隊内閣の行く末は?=小川直樹 /新潟
 「奇兵隊内閣」--。8日に組閣した新内閣を、菅直人首相は自らこう名づけた。奇兵隊は幕末、長州藩の正規軍が役に立たないとみた高杉晋作が、農民や町人らから有志を募り、組織した軍隊だ。「自分たちが歴史を変える」というエネルギーが無類の強さを生み、第2次長州征伐や戊辰戦争を勝利に導く原動力になった。
 しかし、あまり知られていないが、奇兵隊は明治になって栄達を重ねたのではなく、山県有朋ら幹部の一部を除き、新政府に抹殺された。旧幕府軍との戦いが終わると、奇兵隊には解散が命じられた。反発した隊士の一部は山口で脱退騒動を起こすが、木戸孝允(桂小五郎)らかつての同志に鎮圧され、首謀者の大部分は処刑される。明治3(1870)年のことだ。
 奇兵隊士たちは新しい時代を夢見たが、結局は時代の波に乗ることができず、無情にも切り捨てられていった。
 山口県出身の菅首相がこうした奇兵隊の最後を念頭に置いて名づけたのかは、分からない。だが、時勢を見誤ると、栄光も長くは続かず、歴史の残酷さにのみ込まれる。菅政権の運命は果たして?





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