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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
今日は旧暦で土方歳三さんが亡くなった日、箱館で友人が法要をしてくれます。今日は一日、祈りの気持ちをもって過ごそうと思います。

福島
戊辰戦争の資料展示 会津若松で150年に向け「戊辰と明治展」
 戊辰戦争から150年となる2年後の節目に向け、会津若松市の歴史研究家ら有志でつくる「会津戊辰戦争150周年事業実行委員会」の記念事業「戊辰と明治展」は11日、同市文化センターで開幕し、鶴ケ城の写真など当時をしのぶ資料を紹介している。12日まで。

 「会津の戊辰戦争から明治復興の姿まで」をテーマに開き、古記録、絵地図、明治期のはがき写真、寺社の複写、町家の記録などを展示している。旧会津藩士が政府を相手に裁判を起こし、公債発行(復禄)を勝ち取った復禄訴訟の記録も紹介している。

 同実行委は2018(平成30)年の150周年に向け、全6回の展示会などの事業を企画している。12日は午前9時~午後3時。

【若松の歴史探訪】城下町が見えてくる (6月9日)
 2年後の戊辰戦争150年を見据えたまち歩きイベント「歴史探訪」が今年度から会津若松市で始まる。テーマを変えて3年連続で催す。初年度は郭門[かくもん]跡巡りがテーマ。第一弾として18日に約150人が外堀に設けられた郭門跡を回る。戊辰戦争や市街化で失われた東日本最大級の城下町の往時の姿を体感できるはずだ。教育旅行や外国人観光客誘致につなげたい。
 会津若松観光ビューローなどで組織する実行委員会が初めて企画した。歴史の転換点を再確認し、郷土愛を育む。
 江戸時代の城下町は、鶴ケ城を核に土塁や外堀で囲まれた区域が郭内[かくない]と呼ばれ、上級武士の屋敷、藩校などがあった。16の郭門を造り、外堀に橋を架けた。防御の要であると共に、中・下級武士、商人、職人らが住む郭外[かくがい]との出入り口になった。18日は東半分の9カ所、11月開催予定の第2回は残りを歩く。
 戊辰戦争後、土塁、外堀、郭門は取り壊された。甲賀町口に郭門の石垣、花春町に土塁が残るのみだ。巨大な城下町の全容を思い描くのは難しい。會津風雅堂付近の路上、住宅街、会津工高の校門前…。歩いてみると思わぬ場所に郭門があったことに気付く。道路の屈曲した場所が多い。天守閣など城の中枢を見通せないようにし、敵の侵入を防ぐための工夫だった。
 高低など地形もよく分かる。城下町は湯川や車川の扇状地に造られた。西に向けて傾斜が下がっている。東山や滝沢地区からの水が地下排水溝や一部の水路を音を立てて流れていく。醸造など伝統の食文化を育んだ水資源の豊かさに驚く。山国ながら「水の都」でもあったのだ。以前は水路が縦横に走っていたという。復活させたら、まち並みに潤いを与えるだろう。
 歴史探訪は教育旅行の絶好の教材となる。訪れる児童生徒は東京電力福島第一原発事故発生前の水準に戻っていない。実行委員会は参加者用に詳しいパンフレットを作成する。誘致の素材などに活用してほしい。城や飯盛山など定番に加え、新たな観光ルートに育つ可能性を秘めている。ただ、案内板や道順表示はほとんどない。外国語表記を含めた整備を求めたい。
 鶴ケ城ボランティアガイドが案内役を務める。郭門跡を下見し、歴史や構造を学んでいる。市民総ガイド運動実行委員会とビューローが運営しているが、後継者育成が課題だ。歴史探訪を機にガイドの楽しさが広まり、希望者が増えるといい。おもてなしの充実は観光都市の魅力を向上させるに違いない。(鞍田 炎)

静岡
太郎左衛門あんぱん発売!~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~
株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日よりパン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱん「太郎左衛門あんぱん」の販売開始いたします。
太郎左衛門あんぱん発売!

~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~


株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日より太郎左衛門あんぱんの販売開始いたします。バンデロールは関東、中部を中心とした焼き立てベーカリーチェーンです。

▼http://www.banderole.co.jp/

■メニューの紹介

太郎左衛門あんぱんの特徴・・・パン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱんです。


江戸時代後半に江川英龍がはじめて焼いたパンは「乾パン」に近いと聞いており、そのまま再現するのではなく、それをイメージしつつ、小さなお子様からお年寄りまで美味しく食べられる食材、製法で焼き上げました。
また、代々続く江川邸の歴史の重さのイメージや伊豆の素朴な大自然、反射炉の力強さをイメージした商品としました。

生地はリッチ過ぎず、素朴で懐かしさを感じる配合。
餡は特別製法で糖度を低くし、小豆の風味がより引き立てられるよう、また、粒を多く残すことによって小豆感を感じられるよう工夫をしました。単純な甘い餡ではなくこだわった「餡」です。
見た目は江戸時代に焼かれたパンをイメージしつつ現代風にくるみをトッピングしました。

・価格 本体価格167円 税込価格180円(店舗により異なります)

江川太郎左衛門英龍とは・・・号を坦庵(たんなん)。幕末の韮山代官。日本を欧米の侵略から守ろうと江戸幕府に軍隊制度と海防を提案。そのために品川台場の建設の指揮、そこへ設置する大砲を造るための韮山反射炉の築造を行う。軍隊で食べる兵糧食としてのパンを焼いたので「パン祖」といわれる。

■今後の展開
静岡県東部発祥のパンメーカー(沼津市)として、伊豆韮山発祥のパン祖と呼ばれる「太郎左衛門」の冠をつけたパンを現代風にアレンジし開発していきます。静岡県内をはじめバンデロール店舗で「特別なパン」として取り組みます。同時に、このニュースを各業界に伝え静岡県東部の地域活性化を図ります。

■会社概要
商号   : 株式会社バンデロール
代表者  : 代表取締役 結城 馨
所在地  : 〒410-0835 静岡県沼津市西島町20-2
設立   : 1972年8月
事業内容 :パン・洋菓子・サンドイッチ類の製造及び販売
(ベーカリー、ベーカリーカフェ、ショップの運営)
関東地区44店舗、静岡県下24店舗
東海地区1店舗、洋菓子工場、パン冷凍生地工場
資本金  : 3,000万円
URL     : http://www.banderole.co.jp/

兵庫
幕末から明治の偉業紹介
◇益習の集い 岡田鴨里、立木兼善パネルで

 淡路島で生まれ、幕末から明治に活躍した儒学者・岡田鴨里おうりと官僚・立木兼善を紹介するパネル展が、淡路市役所1階ロビーで開かれている。17日まで。

 「庚午こうご事変」を代表とする島の歴史を調査・研究する「益習の集い」の主催。洲本市立淡路文化史料館や神奈川県立歴史博物館所蔵の未公開資料から、2人の偉業を浮き彫りにした。

 岡田鴨里は今の淡路市中田王子地区に生まれた。漢学者・頼山陽に師事し、勤王運動に大きな影響を与えたという。徳島藩の洲本学問所では教授を務め、庚午事変で藩士の暴走を止めようと奔走した。

 現在の同市仮屋地区出身の立木兼善は、官僚として事変の調停にあたった。福島、長野、福岡各県の知事を歴任、争乱の収拾に尽力する生涯だった。

 会場では事変で命を落とした志士の子孫、三宅玉峰さん(63)が解説を担当する。洲本市から訪れた立木浩一さん(75)は「よく調査された企画で頭が下がる。歴史に埋もれた事実をどんどん掘り起こして」と話した。

 無料。午前9時~午後4時。


三重
幕末の記者魂、iPadで伝授 三重・松浦武四郎記念館
 北海道の名付け親として知られる幕末~明治期の探検家、松浦武四郎(1818~88年)は、優れたジャーナリストでもあった。生まれ故郷の三重県松阪市(旧三雲町)にある松浦武四郎記念館には、「記者」の原点とも呼べる史料が所蔵されている。

 中でも記念館の学芸員、山本命(めい)さん(40)が「告発の書」と評するのが「近世蝦夷(えぞ)人物誌」だ。江戸末期、幕府の依頼で蝦夷地を歩き回る中で、支配していた松前藩によるアイヌ民族への弾圧を見聞きした。

 《アイヌ民族に男女問わず強制労働をさせ、病気になっても手当せず、言うことを聞かない者は縄で縛りせっかんし、梅毒をうつされる女性もおり、妊娠すれば堕胎させ、二度と子どもを産めない体になる女性も多い……。》
 ここから先は有料の記事配信で。

佐賀
幕末の「牛津駅絵図」公開 宿場町にぎわい伝える小城市立歴史資料館
 幕末期、長崎街道沿いの牛津宿の様子を描いた「牛津駅絵図」が、同市小城町の市立歴史資料館に展示されている。絵図には、宿に住んでいた人たちの住居をはじめ、寺社や藩施設など建物の形がびっしりと記され、宿場町のにぎわいと共に、鍋島藩にとって牛津がいかに交通の要衝地であったかがうかがい知れる貴重な史料を見ることができる。7月3日まで。

 「牛津駅絵図」は今年3月、幕末期の牛津宿の様子が分かるとして市重要文化財に指定された。市教育委員会文化課によると、絵図は何の目的で誰が描いたのかは不明で、「牛津宿」を「牛津駅」とした意図は分からないという。

 制作年代の決め手となったのは、絵図に記されたある世帯主名。街道沿いの寺にある墓碑と照らし合わせ、「久本兵五郎」(1825~71年)が居住していたことが特定できた。さらに小城藩が出した営業許可の文書(もんじょ)などで、宿場町で薬種業を営んでいた事実も分かった。

 他にも、絵図には藩の使いが滞在した「上使屋」や馬を飼い置いた「馬立」など藩の重要な施設も描いてある。

 絵図の最大の特徴は、どの建物にも屋根を記し、黒色と茶色に描き分けている点という。同文化課学芸員の田久保佳寛さんは「黒色は瓦葺(かわらぶ)きで茶色は茅(かや)葺きを表している。屋根の色の違いで財力の差を伝えたかったのでは」と言い、「街道沿いの空き地みたいな空白部分には『焼跡』と記されるなど、宿場町は頻繁に火事に見舞われ、防災マップの意味合いもあったのでは」と推察する。

 12日午前11時と午後1時に職員による展示案内がある。「牛津駅絵図」展の問い合わせは同資料館、電話0952(71)1132。

エンターテインメント
【尾上松也の古地図で謎解き】貿易商トーマス・グラバーと幕末の志士たちの「物語」
 こんにちは、尾上松也です。「歴史」とは過去に起こったであろう出来事を、残された資料をもとに研究し描き出した物語です。本来この物語に「面白さ」は必要とされません。ただ事実のみを並べればそれで良いのです。

 ですが、そこに面白さを見出し、想像を膨らませられるのが歴史探求の醍醐味。特に物語の登場人物が心の中でどんな事を考え、行動に至ったか?その心情を想像するのが歴史探求最大の楽しみと言えるかもしれません。

 さて、今回の番組では明治維新直前の長崎を舞台に、貿易商トーマス・グラバーと幕末の志士たちの「物語」にスポットを当てます。武器商人として日本に大量の武器を持ち込んだとされるグラバーとはいったいどんな人物だったのか?坂本龍馬、五代友厚など幕末の志士たちがグラバーと深い関係を築いたのは何故なのか? 明治維新後も永住の地として日本を選んだトーマス・グラバーの知られざる素顔と幕末の志士たちとの関係に迫りながら、激動の時代を駆け抜けた若者たちの生き様に迫ります。ぜひ、ご覧ください。

■尾上松也(おのえ・まつや) 1985年1月30日東京都中央区出身。父は六代目尾上松助、叔父は大谷桂三(初代尾上松也)。身長178センチ。5歳のとき、歌舞伎座で初舞台。その後、数々の舞台に出演。昨年6月にコクーン歌舞伎にて「三人吉三」のお坊吉三に抜擢。また近年ではミュージカルにも年1回のペースで出演している。2014年のNHK紅白歌合戦のゲスト審査員。BS11の番組「尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究」は“初冠番組”となる。番組詳細は(http://www.bs11.jp/)まで。

コラム
幕末を駆け抜けた坂本龍馬は何を見て、何を考え、何を夢見たのか
幕末の偉人ランキングで圧倒的な人気を誇る、坂本龍馬。薩長同盟や、龍馬が暗殺された近江屋事件などは歴史にそれほど関心の無い方でもご存知のことでしょう。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』に、そんな龍馬に関する数々のエピソードが綴られています。

人物探訪:坂本龍馬、海洋立国の夢

アメリカに漂流して、彼の地で航海術などを学び、日本に戻ってきたジョン万次郎に、坂本龍馬が初めて会ったのは嘉永5(1852)年の末頃であったと言われている。友人に勧められて、万次郎の話を聞きに行ったのである。龍馬18歳の時であった。

万次郎が滞在したヌーベッポー(ニューベッドフォード)という町には何百隻もの巨大な捕鯨船が浮かんでいて、その港の砲台には大砲が20門ほど置かれている。大きなものは口径8寸(24センチ)もある。お城の石垣程度のものなら、弾丸一発で打ち砕いてしまう。蔵にはその砲弾を何千発とも知れないほど収めているという。

軍艦はそんな大砲で撃たれてもなかなか砕けない。1隻に500人ほど乗る船は珍しくなく、戦のときには1,500人も乗り込むそうである。

龍馬はさらに航海の術について尋ねた。万次郎は、アメリカで一等航海士という偉い船頭の資格をとっており、地図とオクタント(六分儀)と磁石さえあれば、陸の影も見えない大洋に船を乗り出しても迷わないという。

龍馬は夢の中の出来事を聞いているような気がした。胸が躍ってならなかった。

黒船来る

翌嘉永6(1853)年、龍馬は剣術修行のために江戸に出た。江戸に着いてまもない6月4日の朝、アメリカの黒船が浦賀沖に現れたという知らせが届いた。万次郎の語ったアメリカの軍艦を直接目にすることになったのである。

旗艦サスケハナ号は長さ約78メートル、幅14メートル、数十門の大砲を備えていて、日本人には巨大な浮城のように見える。そんな黒船が4隻も現れた。

龍馬は土佐藩の品川屋敷のある大森海岸の防備に駆り出され、土手を築き、垣を結んだ。やがて幕府がペリーから受け取ったアメリカ国書の内容は、龍馬たちの耳にも伝わってきた。

蒸気船ならカリフォルニアから、パシフィック・オセアン(パシフィック・オーシャン、太平洋)を渡って18日間で日本に達することができる。カリフォルニアは毎年金6,000万ドルを産し、日本の様々な産物と交易を行えば互いの利益になる。また日本沿岸で捕鯨を行うアメリカ船舶が、日本で石炭、水、食料を補給できるようにしたい。そのために通商交易条約を結びたいというのだ。

日本がそれに応じなければ戦争を仕掛ける、という姿勢で、黒船は品川沖で空砲を鳴らし、沿岸に詰めかけた数万の諸藩兵を驚かせた。

アメリカは近頃メキシコと戦争をして、カリフォルニアを含む領地のおおかたをとってしまったが、その理由はメキシコがアメリカの蒸気船に領地の海辺に近寄るのを咎めたためであるという。

「外国と通商することがなぜいけないのか」

龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山は、こう主張していた。

今戦えば我らに勝ち目はない。ひとたび敗れたときは皇国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。

江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を捕らえ、米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は10日ももたない。廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶことは不可能である。

と言う。確かにそのとおりであると龍馬は思った。今はアメリカの要求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、国防力を充実させるのが、日本の生きのびる道である。

一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、アメリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。カリフォルニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を仕掛けることもあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。軍艦を何十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを分けて貰うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。

龍馬はこれもまたその通りだと思った。龍馬が幼い頃によく遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを運ぶ千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。

外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。

「自由な大海に漕ぎ出したい」

およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、安政元(1854)年6月下旬のことであった。翌年正月に龍馬は河田小龍を訪れた。河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、聞き書きを行っていた人物である。

河田は「このような非常のときに1つの商業を興してはどうじゃ」と龍馬に薦めた。そして万次郎から聞いた話をもとに、こう語った。

アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前(ま)んらぁがそこのところを工夫して、株仲間を何とかしてこしらえて1隻の蒸気船を買うてみい。

同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産物を運んだら、蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の給金を払うことができるろうが。

そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身につくというもんぜよ。盗人を捕まえて縄をなうというような有り様で始めても、1日でも早う蒸気船の運用を始めざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。

小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、高度な蒸気船を動かせる秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。

日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃせん。志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。そがな下等人民の秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。働かせりゃ工夫するぜよ。

大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な世界であった。龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。

「蒸気船の扱いを覚えたいがです」

文久2(1862)年3月、龍馬は脱藩した。城下で剣術道場を開く資格は得ていたが、もはや高知に留まる気はなかった。

江戸に出て、ジョン万次郎の紹介状を持って勝麟太郎を訪れ、弟子入りを頼んだ。勝は長崎海軍伝習所で教監を務め、また幕府の使節を乗せた咸臨丸を操って、太平洋横断を果たした人物である。

「俺の弟子になって何をしたいのかね」と聞かれて、龍馬は「蒸気船の扱いを覚えたいがです」と答えた。さらに「尊王と攘夷についてどう考えているのかね」と聞かれて、

「攘夷はとても無理ですろう」

「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをするのかね」

「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりますろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいかんですろう」

麟太郎は笑いながら「土佐にいながら天下の形勢をよく知っているじゃないか」と言って、弟子入りを許した。

海軍建設

勝は龍馬を護衛役として側に置きながら、いろいろ話して聞かせた。

攘夷の戦いを日本の側から起こせば、イギリス、フランスは対馬、壱岐、佐渡を占領する。アメリカは伊豆七島、ロシアは蝦夷を占領するだろう。淡路島も乗っ取られかねない。そうなれば航海の道はすべて閉ざされ、全国は籠城の有り様になる。危機に迫られると一揆が方々で起こる。その苦しみに耐えかね、外国につく者が現れると日本は外国の属国になるだろう。

そのような事態を未然に防ぐために、勝は西洋諸国と対抗できるほどの陸海軍を作るという意見書を幕府に提出していた。日本全国を6つの海域に分けて、それぞれに艦隊を置くという案である。

その経費を捻出させるためには、各大名に海外貿易を許し、それを財源に10万石あたり蒸気軍艦1隻などと費用を出させる。この案に従えば、軍艦300隻の海軍を建設することも可能であった。

しかし、軍艦は金で揃えることができても、それを動かす人材が問題である。勝と龍馬は神戸に海軍塾を作る準備を進めた。先頃まで将軍側近であった大久保忠寛(ただひろ)越中守も、それを励ましてくれた。

貴公らが麟太郎と相計って神戸に海軍塾を開く支度をしておるそうだが、それが肝心だ。海軍を大いに発展させるため幕府は、アメリカ、オランダに軍艦を注文している。だが、その操船を自在にいたす航海乗り組みの学生を取り立てねばならんのだ。幕府の先の読めない腑抜け役人どもができることではない。貴公らが操船を自在にできるよう一日も早く学び取らねばならぬのだ。

文久3(1863)年4月、将軍家茂は神戸に海軍操錬所を建設し、その入用金として年3,000両を下すことを決めた。また勝の門人たちを引き連れて、私塾として海軍塾を開くことを許した。龍馬はその設立と運営に奔走した。

亀山社中

元治元(1864)年6月19日、長州勢と幕府方が京都蛤(はまぐり)御門にて衝突した。この際に操錬所生徒である因幡藩士数十名が長州方に味方したとして、勝は江戸表に呼び戻された。

勝は薩摩の西郷吉之助(隆盛)に、龍馬以下6人の土佐藩脱藩者の庇護を頼んだ。西郷は、龍馬の人を引きつける性格と時代を切り開いていく才覚を認め、密貿易をさせつつ、いずれ長州藩に薩長連合を勧める使者として働いて貰おうと考えた。

元治2(1865)年、龍馬らは長崎の町はずれの亀山という山麓の地に宿舎を与えられ、薩摩藩から毎月給金を貰うようになった。彼らの結社は「亀山社中」と呼ばれ、ここを根拠地として密貿易にあたることになった。

5月、龍馬は下関に潜入し、西郷の使者として、長州の指導者・桂小五郎と会った。長州は幕府軍15万の大軍を迎え撃たねばならないという窮地に陥っていた。しかし、薩摩は蛤御門の変で幕府方についていたので、「いまさら薩摩の芋と手を結べるか。そんなことを抜かす奴は首を斬れ」という声が上がるほどだった。
薩長同盟を実現した交易

龍馬は桂にこう持ちかけた。

長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩摩の名義で蒸気船、鉄砲を買い入れ、尊藩に持ち込むというのはいかがですろう。

桂は思わず、龍馬の顔を見直した。幕府の大軍を迎え撃たねばならない長州にとって、これはよだれの出るような好餌である。龍馬は亀山社中の同志を使って、最新式の小銃7,500丁と蒸気船1隻を調達し、約束通り、長州に収めてみせた。

一方、薩摩は長州征伐には参加せず、京都に大兵力を集めて、幕府を牽制することとした。西郷はそのための兵糧を長州から借りてくれるよう、龍馬に依頼した。「さしあたって500俵もあればえいですろう」と龍馬は承知して、すぐに山口に行き、桂から快諾を得た。

こうした実利的な助け合いを通じて、薩摩と長州は旧怨を解き、同盟関係を築いていった。その掛け橋となったのが、龍馬の働きだった。

実現した海洋立国の夢

兵糧貸与の話がまとまった後、龍馬は下関で貿易を営む大商人・伊藤助太夫の家に泊まり込んで、杯を交わした。助太夫は、長州と幕府の戦いが終われば、蝦夷の海産物などを買い入れる交易をしたいと言った。北前船は1隻作るのに千両かかるが、蝦夷へ3度も行けば元手がとれるという。

龍馬は感心した。「まっことのう。蒸気船を使うたらなお儲かるろうねや」

龍馬は今は亀山社中の同志と共に、薩長の必要とする武器などの購入を行っているが、戦が収まれば長崎、下関を根拠地に蝦夷や上海、さらには広東からルソンに行き来して貿易をしたいと考えていた。蒸気船を使えば、パシフィック・オセアン(太平洋)を渡ってアメリカとの交易もできる。それによって国を富まし、日本を異国から守れるだけの海軍も持つことができよう。龍馬の夢は広がっていった。

龍馬はその夢を実現するひまもなく、慶応3(1867)年11月、京都にて何者かに暗殺されてしまった。しかし、海外貿易の夢を抱いていたのは龍馬だけではなかった。「海外貿易の志士」森村市左衛門などはその好例である。

さらに神戸の海軍操錬所を淵源の1つとする日本海軍はやがて日清・日露戦争を通じて国家の独立を維持し、英米と並ぶ世界3大海軍の1つとして数えられるまでになった。

龍馬の描いた海洋立国の夢は幕末から明治にかけての日本人全体が共有していたもので、多くの人々の努力によって実現されたと言える。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock

ブックレビュー
新選組が殺した人数は敵よりも味方の方が多かった! 内部事情を粛清された人々の視点から探る
 現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』の視聴率が好調だ。ここ数年、低視聴率が続いただけに話題になっている。年配の方からはふざけているとの声も多少あがっているようだが、脚本を手がける三谷幸喜らしいポップともいえる演出は親しみやすく見ていて楽しい。三谷幸喜といえば、2004年の『新選組!』も好評だった。こちらも香取慎吾演じる局長・近藤勇を中心に仲間たちの絆が描かれつつ、笑えるシーンもちりばめられ、日曜の夜が明るくなるドラマだった。元々歴史好きには人気のある新選組だが、さらにファンを増やしたに違いない。

 今でこそ幕末のヒーロー的扱いを受ける新選組だが、昭和3年に子母沢寛が『新選組始末記』と題した小説を著すまで、血も涙もない人殺し集団として一般的には嫌われていたことをご存じだろうか。しかも、敵のみならず味方まで多くの人が殺しているという。『新選組 粛清の組織論』(菊地 明/文藝春秋)では、新選組が屯所とした西本願寺の侍臣・西村兼文の『新撰組始末記』や、元幹部隊士・永倉新八の『新選組奮戦記』など、当時を知る人々が残したあらゆる史料を丹念に読み解き、新選組の内部で殺された人々を考察した一冊である。

 まず、新選組には次のようないわゆる局中法度があった(当時の史料を見る限り、「局中法度」などと誰も呼んでないらしいが…)。

第一士道背くこと、第二局を脱すること、第三勝手に金策を致すこと、第四勝手に訴訟を取り扱うこと、四箇条を背くときは切腹申し付くること、またその宣告は同志の面前で言い渡すと定(き)めた。
『新選組奮戦記』

 隊士が増えるにつれて、農民や町人、下級藩士の脱藩者からなる烏合の衆をまとめるものとして必要とされたのだろうが、いくらなんでも切腹とは性急に過ぎる。本書によると、正規の武士であれば、改易や蟄居、隠居などの罪に応じた刑罰があったものの、それは守るべき家があるからこそであり、身ひとつの隊士たちには守るべき家も名誉もなかったからだとする。それにしても、何か不祥事があれば簡単に殺されそうな感がある。

 実際、本書によると殺した敵が26人であるのに対し、殺した味方は40人にのぼるという。殺された理由は、局長批判、脱走、金策、脱退志願、反幕活動、士道不覚悟などが挙げられている。中でも有名な2人について取り上げてみよう。

近藤勇と並ぶ初代局長・芹沢 鴨

 新選組の前身である壬生浪士組創設時の局長は、芹沢鴨と近藤勇。水戸藩郷士の芹沢を中心とするグループと、多摩の農民上がりの近藤勇を中心とするグループから成っていたからだ。彼らをまとめるのは「尊王攘夷」の一点であり、芹沢グループと近藤グループの間には「攘夷」に対するスタンスが違ったとされる。水戸藩出身の芹沢が藩の教えにより朝廷第一に考える「尊王敬幕」であるのに対し、近藤らは幕府を第一とする「尊王親幕」だった。

 さらに、芹沢は型破りで酒癖が悪い乱暴者だったことで知られる。芹沢の金策を断った生糸問屋・大和屋の襲撃事件は新選組ファンの間では有名な話。この事件をきっかけに新選組を預かる会津藩から芹沢の“処置”を命じられた近藤は、これを殺害指令と捉え、芹沢グループの平山五郎や芹沢の愛妾・お梅らとともに寝込みを襲って殺害している。

新選組ナンバー2・山南敬助

 山南敬助は、近藤勇が多摩の天然理心流剣術道場の四代目宗家を務めていた頃からの同志。文武両道でグループのブレーンでもある山南は、壬生浪士組創設時、土方歳三とともに副長の座にあった。しかも、本書は史料を見る限り、近藤グループの中では土方歳三よりも格上で、近藤に次ぐ二番手に位置づけられていたと考察する。

 ところが、慶応元年2月に突如脱走を図り、すぐに沖田総司に連れ戻され切腹し果ててしまう。なぜ規律違反を犯したのか、理由は史料に残っていないため判然とせず、諸説ある。本書では、より親幕に傾倒していた近藤が反幕派の長州藩とつながりが深い西本願寺を監視下に置くべく、西本願寺を新選組の屯所としようとしたことに山南が反対し、山南はそれが近藤に受け入れられなかったために諌死を遂げたとする。近藤は同志である山南の死を望んだはずはないが、局長と副長の対立という事態を隊士に伏せたかったのだと考える。

 つまり、新選組は敵を殺す以前に組織の内部抗争が絶えなかったわけだ。それは、「尊王攘夷」はともかく、幕府に対する態度という点で思想の違いが局長以下をぎくしゃくさせる原因のひとつになったようだ。親幕として組織をまとめた結果、慶応3年、新選組は隊士全員が幕臣となり、近藤は旗本に取り立てられている。

 ただ、粛清を繰り返したことで新選組ばかりを非難することもできない。この時代、長州や薩摩など活発な動きを見せた藩はいずれも、親幕か反幕か、はたまた攘夷か開国かで揺れ動き、内部粛清によるさまざまな事件が起こっている。ご存じの通り、幕府は倒され開国へと突き進んでいくわけだが、その中で新選組は粛清を繰り返すも時代に取り残され散っていった哀しい組織といえる。

文=林らいみ
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