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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
久しぶりに幕末の史実に関する話題の大物が来ました。

第一声は「御上意」? 「池田屋事件」で近藤勇
 幕末の京都で、長州や土佐などの過激派志士が襲撃された「池田屋事件」の際、二階に踏み込んだ新選組局長の近藤勇が発した第一声は、将軍や主君の意思であることを示す「御上意(ごじょうい)」だった可能性があることが、宮内庁宮内公文書館に保管されている会津松平家の資料で分かった。
 ドラマなどでは「手向かいすれば容赦なく斬る」と警告する場面が多いが、今回の資料にこの言葉はなかった。これまで知られていなかった新たな言葉の登場は、歴史ファンの関心を呼びそうだ。資料は「維新階梯雑誌(いしんかいていざっし)」で、会津藩主松平容保が京都守護職になった一八六二年以降の出来事を明治時代に編さん。一部が引用されるなどして存在は知られていたが、三十一冊が同館にそろっているのを埼玉県の歴史研究家伊藤哲也さん(47)が確認した。
 六四年の池田屋の場面では、近藤が亭主とやりとりした後、二階に上がると、六、七人が車座になっていたと記述。「座中を割って奥へ赴けば、一同(刀を)抜いて斬り掛かってきた」「此の方御上意と大音声で(叫んで)踏み込んだ」と続く。
 後に近藤が「(相手は)御上意に恐れをなした様子。いまだ徳川のご威光は尽きず」と述懐したとも書かれている。
 これまでは、一階にいた幹部隊士で、大正まで生きた永倉新八の回顧録から、近藤はまず「手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨てる」と警告したとされてきた。
1862年以降の出来事を記した会津松平家の資料「維新階梯雑誌」=宮内庁宮内公文書館蔵
写真
 新選組はこのころまだ目立った功績がなく、近藤は攘夷(じょうい)を実行しない幕府に失望し、解散の意向を伝えるなど進退に悩んでいた。しかし、事件後ほどなくして西洋の軍事力の強さを知り、佐幕の傾向を強めていったとされる。
 新選組研究の第一人者として知られる菊地明さんは「上意という言葉は初めて知った。『手向かい致せば』も言っていたとしても矛盾はしないと思う。予想外に相手がひるんだので将軍の威光を見直し、あくまで徳川が力を持つことで攘夷を目指す思想につながったのかもしれない。膨大な資料は大きな価値がある」としている。
<池田屋事件> 1864年6月5日夜、京都三条の旅館「池田屋」に集まっていた長州や土佐、肥後などの過激派志士20人ほどが新選組に襲撃され、10人以上が死亡、捕縛された事件。新選組は会津藩などの援軍がないまま単独での突入を決意。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人で踏み込み、その後土方歳三らの別隊が駆け付けた。主に幕府側の資料によると、志士たちは京に火を放って天皇を長州に連れ去ることを企てていたとされる。新選組は少人数で暴挙を阻止したとして一躍名を上げ、後に全員が幕臣に取り立てられるまでに至った。

 「御上意である」と聴いたらひれ伏すのが幕府の威光に従う人たち、無視するのが浪士たち、という人改めを即座にしたんでしょうか。テロリストを取り締まってる感がします。

池田屋事件、近藤勇の第一声「御上意」か 会津松平家の資料
 幕末の京都で、長州や土佐などの過激派志士が襲撃された「池田屋事件」の際、2階に踏み込んだ新選組局長の近藤勇が発した第一声は、将軍や主君の意思であることを示す「御上意」だった可能性があることが18日、宮内庁宮内公文書館に保管されている会津松平家の資料で分かった。

 ドラマなどでは「手向かいすれば容赦なく斬る」と警告する場面が多いが、今回の資料にこの言葉はなかった。これまで知られていなかった新たな言葉の登場は、歴史ファンの関心を呼びそうだ。

 資料は「維新階梯(かいてい)雑誌」で、会津藩主松平容保が京都守護職になった1862年以降の出来事を明治時代に編さん。一部が引用されるなどして存在は知られていたが、31冊が同館にそろっているのを埼玉県の歴史研究家、伊藤哲也さん(47)が確認した。

 64年の池田屋の場面では、近藤が亭主とやりとりした後、2階に上がると6、7人が車座になっていたと記述。「座中を割って奥へ赴けば、一同(刀を)抜いて斬り掛かってきた」「此の方御上意と大音声で(叫んで)踏み込んだ」と続く。後に近藤が「(相手は)御上意に恐れをなした様子。いまだ徳川のご威光は尽きず」と述懐したとも書かれている。

 これまでは、1階にいた幹部隊士で、大正まで生きた永倉新八の回顧録から、近藤はまず「手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨てる」と警告したとされてきた。

 新選組はこのころまだ目立った功績がなく、近藤は攘夷を実行しない幕府に失望し、解散の意向を伝えるなど進退に悩んでいた。しかし事件後、幕府を支える傾向を強めていったとされる。

 新選組研究の第一人者として知られる菊地明さんは「上意という言葉は初めて知った。『手向かい致せば』も言っていたとしても矛盾はしないと思う。予想外に相手がひるんだので将軍の威光を見直し、あくまで徳川が力を持つことで攘夷を目指す思想につながったのかもしれない。膨大な資料は大きな価値がある」としている。〔共同〕

福島
戊辰戦争の資料展示 会津若松で150年に向け「戊辰と明治展」
 戊辰戦争から150年となる2年後の節目に向け、会津若松市の歴史研究家ら有志でつくる「会津戊辰戦争150周年事業実行委員会」の記念事業「戊辰と明治展」は11日、同市文化センターで開幕し、鶴ケ城の写真など当時をしのぶ資料を紹介している。12日まで。

 「会津の戊辰戦争から明治復興の姿まで」をテーマに開き、古記録、絵地図、明治期のはがき写真、寺社の複写、町家の記録などを展示している。旧会津藩士が政府を相手に裁判を起こし、公債発行(復禄)を勝ち取った復禄訴訟の記録も紹介している。

 同実行委は2018(平成30)年の150周年に向け、全6回の展示会などの事業を企画している。12日は午前9時~午後3時。

京都
京都祇園祭、大船鉾「竜頭」復活 幕末以来
 京都・祇園祭の山鉾のうち2014年に復活した「大船鉾」の船首を飾る「竜頭」などが新たに完成し、京都市内で18日、披露式典が行われた。

 竜頭はヒノキ材の彫刻で、高さ約2メートル、重さ約200キロ。滋賀県米原市の彫刻師森哲荘氏(69)が手がけた。大船鉾は幕末の「蛤御門の変」で焼失。14年に150年ぶりに巡行に復活したが、竜頭は設計図がなかった。

 復元に向け、保存会が専門家と調べたところ、竜頭は江戸後期の京都で有名だった彫刻師九山新之丞と息子が彫った可能性が高いと判明。息子の作とされ、竜頭と構造も類似していた滝尾神社(京都市東山区)の竜を設計の参考にした。

(共同)

佐賀
幕末の「牛津駅絵図」公開 宿場町にぎわい伝える小城市立歴史資料館
 幕末期、長崎街道沿いの牛津宿の様子を描いた「牛津駅絵図」が、同市小城町の市立歴史資料館に展示されている。絵図には、宿に住んでいた人たちの住居をはじめ、寺社や藩施設など建物の形がびっしりと記され、宿場町のにぎわいと共に、鍋島藩にとって牛津がいかに交通の要衝地であったかがうかがい知れる貴重な史料を見ることができる。7月3日まで。

 「牛津駅絵図」は今年3月、幕末期の牛津宿の様子が分かるとして市重要文化財に指定された。市教育委員会文化課によると、絵図は何の目的で誰が描いたのかは不明で、「牛津宿」を「牛津駅」とした意図は分からないという。

 制作年代の決め手となったのは、絵図に記されたある世帯主名。街道沿いの寺にある墓碑と照らし合わせ、「久本兵五郎」(1825~71年)が居住していたことが特定できた。さらに小城藩が出した営業許可の文書(もんじょ)などで、宿場町で薬種業を営んでいた事実も分かった。

 他にも、絵図には藩の使いが滞在した「上使屋」や馬を飼い置いた「馬立」など藩の重要な施設も描いてある。

 絵図の最大の特徴は、どの建物にも屋根を記し、黒色と茶色に描き分けている点という。同文化課学芸員の田久保佳寛さんは「黒色は瓦葺(かわらぶ)きで茶色は茅(かや)葺きを表している。屋根の色の違いで財力の差を伝えたかったのでは」と言い、「街道沿いの空き地みたいな空白部分には『焼跡』と記されるなど、宿場町は頻繁に火事に見舞われ、防災マップの意味合いもあったのでは」と推察する。

 12日午前11時と午後1時に職員による展示案内がある。「牛津駅絵図」展の問い合わせは同資料館、電話0952(71)1132。

コラム
刀剣ブーム…にわかファンでもわかる日本刀の“楽しみ方”をプロに聞いた!
 富山市中心部に6月11日、個人収集家の日本刀コレクションをはじめ、貴重な美術品を展示する森記念秋水美術館がオープンする。刀剣ブームに乗った“にわかファン”としては、付け焼き刃ではなく、名刀の真価が分かる鑑賞眼を身につけたいところ。開館に先立ち同美術館を訪ね、専門家から日本刀の見方について聞いてみた。

 同美術館学芸課長の山誠二郎さんによると、館名にある「秋水」とは、曇りのない研ぎ澄まされた日本刀を意味する言葉とのこと。同館では刀剣200振、刀装具・甲冑(かっちゅう)、兜(かぶと)など数十点を所蔵している。コレクションは、地元の医薬品メーカー・リードケミカルの社長、森政雄さんが長年にわたって収集してきたものだ。

 同館では、2階の鑑賞室で重要文化財5点や、重要美術品10点を含む日本刀・刀装具・武具などのコレクションを、3カ月ごとに年4回入れ替えて展示する。また、3階の鑑賞室では特別展を開催、開館記念として「細川護熙の美と永青文庫の至宝」が行われている。1階は富山県ゆかりの作家の作品などを展示するギャラリーだ。

 収蔵品の中で最も注目を集めそうなのは重要文化財で、「住東叡山忍岡辺長曾祢虎入道 寛文拾一年二月吉祥日」の銘がある刀ではないだろうか。甲冑師・刀工だった長曾祢興里虎徹(ながそねおきさとこてつ)の作である。

 新選組局長・近藤勇の愛刀だったともいわれている「虎徹」は、「乕徹」、「虎入道」など銘が変わり、後年につくられたものほど優れていると評価される。「虎入道」は興里が円熟期のころの作である。「美しく、よく切れると言われています。美と機能と力強さを併せ持つのが虎徹の特徴です」(山さん)とのこと。

 美と機能という、二つのポイントから日本刀を鑑賞するポイントを教えてもらった。初心者はまず、鞘(さや)や鍔(つば)などの装飾に目を奪われがちである。大名が将軍家に献上した拵(こしらえ)などは、葵の御紋がちりばめられていて豪奢である。しかし、刀本来の美しさは刃にあるらしい。
「刀身そのものの美術性に着目してください。まずは刃文(はもん)の形をじっくりと見てほしい。そして例えば松の幹のような“松皮肌”など地がねの模様などを見れば、折返し鍛錬の跡が分かります。江戸時代の前までは作刀された地域ごとにそれぞれ独自の特色を有しています」(山さん)

 見方が分かると、がぜん刀を鑑賞することが楽しくなってくる。個人的に、最も気に入ったのは、鑑賞室の中央にあるケースに展示された薩摩の拵(こしらえ)だ。黒色で統一され、鞘の部分には島津家の家紋が入り、全体的にコンパクトなつくりで、デザイン性が高い。「よく見てください。鍔が小さいでしょう? 薩摩示現流の影響を受けていると考えられます」と山さん。美しい刀はすべて機能性が高いということだろう。

 刀の形にはそれぞれ、さまざまな意味がある。「公家文化なのか、武家文化なのか? 当時の戦術は? など時代背景によって切っ先が大きくなったり小さくなったりするなど、刀の形は変わります」と山さん。刀剣の鑑賞は、奥が深い。

 2階の鑑賞室は黒を基調とした内装で、静か。静謐な雰囲気が漂っている。吸い寄せられるようにして刀に見入った後、「少しは鑑賞眼を養うことができたかも……」と思うにわかファンの一人である。(文・若林朋子)

日本に根づいた? 日本で生まれた? ロシアの食べ物
6月12日は「ロシアの日」。1990年のこの日に、ロシア共和国が主権宣言を採択したことから定められました。
ロシアは日本の隣国のひとつ。両国のさまざまな交流、互いに影響を与えあってきた歴史を、シリーズでご紹介しています。
今回、取り上げるのはロシアの「食べ物」です。
ロシアにとくに関心がない方でも、「ボルシチ」「ピロシキ」「ビーフストロガノフ」……など、聞いたことがある料理が多いのではないでしょうか。
いつ頃から日本に伝わり、これほど親しまれるようになったのでしょうか?

ロシア料理を日本に伝えたのは、あの有名な教会?

ロシア料理が日本に伝わった時期は、よくわかっていません。以下にご紹介するのは有力な一説です。
1858年、函館にロシア領事館が設置されます。
その数年後、領事館の敷地内に、有名な「ハリストス正教会」が建てられました。
ちなみに、この教会に迎えられたのが、東京・神田の「ニコライ堂」にその名を残すニコライ神父です。
このハリストス正教会で、ロシア料理を学んだ日本人がいました。
それが、函館の老舗レストラン「五島軒」の初代コック長である五島英吉です。
戊辰戦争で、旧幕府軍の一員だった英吉は、ニコライ神父に匿われ、やがて教会の従者として働くようになります。その中で、ロシア料理の作り方、パンの焼き方などを習い覚えたのだそうです。
もちろん、日本にロシア料理が伝わった時期は、これだけではありません。
20世紀初頭のロシア革命では、多くのロシア人が国外に脱出しました。
大多数のロシア人は欧米への移住を希望しましたが、一部の人びとは日本に住み続け、ロシア料理店を開業したり、日本人にロシア料理を教えたのです。
また、いったんは中国やアメリカに亡命したロシア人が、近代化が進む日本にビジネスチャンスがある、と来日したケースも多かったようです。
第二次世界大戦後には、日本人によるロシア料理店も増加しました。その担い手となったのは、戦前に中国東北部に移民していた人びと。現地で習い覚えたロシア料理を、帰国後に日本で再現したのです。

ボルシチは、盲目のロシア人作家が伝えた?

もともとウクライナの郷土料理だった「ボルシチ」。
地域によって、牛肉や豚肉、鶏肉、羊肉、野菜や豆などさまざまな具材が使われます。どこか素朴な味わいが、ほっとさせてくれる料理ですよね。
寒い時期に食べたくなるボルシチですが、夏向きのボルシチもあります。
それは、リトアニアで「ハラドニーク」と呼ばれる、冷たいボルシチ。ビーツやきゅうり、タマネギなどの具がたっぷり入った、夏によく作られる料理です。
このボルシチを日本に伝えたのは、ロシア人の作家だという話があります。
それは、1914年に来日したワシーリー・エロシェンコ氏。盲目だった彼が来日した理由は、「日本では(マッサージなどの仕事で)目の不自由な人が自活している」という噂を聞いたからでした。
エロシェンコ氏が身を寄せたのは、「新宿中村屋」。
創業者である相馬夫妻を中心に、国内外の作家やジャーナリスト、画家などが交流する、国際文化サロンのような場になっていました。
その交流の中で、インド独立の闘士ボース氏がカレーを、エロシェンコ氏がボルシチを伝えたのだそうです。

あの寿司ネタも、おつまみも、ロシア語由来の名前

寿司ネタでもおなじみ「イクラ」が、ロシア語で「魚の卵」を意味する、というのはご存じの方が多いかもしれませんね。
ロシア語では、鮭の卵に限らず、魚の卵ならすべて「イクラ」。
日本で言うイクラは「赤いイクラ」、チョウザメの卵(キャヴィア)は「黒いイクラ」と呼ばれます。
ちなみに、日本で現在のようにイクラが食べられるようになったのは、大正時代以降のこと。
それ以前の、保存技術が発達していなかった時代には、スジコをばらして乾燥させた加工食品などが出まわっていたようです。
コンビニでもおなじみのセミドライソーセージ「カルパス」。
このカルパスも、ロシア語でソーセージを意味する「カルバーサ」に由来しているそうですよ。

日本生まれの「ロシア料理」がある!?

最後にご紹介するのは、日本でしか知られていない(?)ロシア料理です。
それは「シャリアピン・ステーキ」。ロシア人の声楽家フョードル・シャリアピン氏のリクエストで生まれた料理です。
ロシア革命後の、日本に滞在するロシア人が増えていた時代のこと。
来日したシャリアピン氏は、宿泊先の帝国ホテルで、「私は歯が悪いので、何かやわらかい料理を」と注文しました。
その求めに応じて、帝国ホテル「ニューグリル」の料理長・高山(筒井)福夫氏が考案したのがシャリアピン・ステーキ。命名にあたっては、シャリアピン氏の了承も得たのだとか。
日本の「西洋風ホテル」とロシア人については、興味深い歴史があります。そのお話は、またあらためてご紹介します!
次回は、ロシアの「お菓子」についてのお話をお届けしたいと思います。
参考:長塚英雄責任編集「ドラマチック・ロシアin Japan 文化と歴史の探訪」(生活ジャーナル)
荻野恭子・沼野恭子著「家庭で作れるロシア料理 ダーチャの菜園の恵みがいっぱい!」(河出書房新社)
荻野恭子著「ロシアの郷土料理 大地が育むユーラシアの味」

幕末を駆け抜けた坂本龍馬は何を見て、何を考え、何を夢見たのか
幕末の偉人ランキングで圧倒的な人気を誇る、坂本龍馬。薩長同盟や、龍馬が暗殺された近江屋事件などは歴史にそれほど関心の無い方でもご存知のことでしょう。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』に、そんな龍馬に関する数々のエピソードが綴られています。

人物探訪:坂本龍馬、海洋立国の夢

アメリカに漂流して、彼の地で航海術などを学び、日本に戻ってきたジョン万次郎に、坂本龍馬が初めて会ったのは嘉永5(1852)年の末頃であったと言われている。友人に勧められて、万次郎の話を聞きに行ったのである。龍馬18歳の時であった。

万次郎が滞在したヌーベッポー(ニューベッドフォード)という町には何百隻もの巨大な捕鯨船が浮かんでいて、その港の砲台には大砲が20門ほど置かれている。大きなものは口径8寸(24センチ)もある。お城の石垣程度のものなら、弾丸一発で打ち砕いてしまう。蔵にはその砲弾を何千発とも知れないほど収めているという。

軍艦はそんな大砲で撃たれてもなかなか砕けない。1隻に500人ほど乗る船は珍しくなく、戦のときには1,500人も乗り込むそうである。

龍馬はさらに航海の術について尋ねた。万次郎は、アメリカで一等航海士という偉い船頭の資格をとっており、地図とオクタント(六分儀)と磁石さえあれば、陸の影も見えない大洋に船を乗り出しても迷わないという。

龍馬は夢の中の出来事を聞いているような気がした。胸が躍ってならなかった。

黒船来る

翌嘉永6(1853)年、龍馬は剣術修行のために江戸に出た。江戸に着いてまもない6月4日の朝、アメリカの黒船が浦賀沖に現れたという知らせが届いた。万次郎の語ったアメリカの軍艦を直接目にすることになったのである。

旗艦サスケハナ号は長さ約78メートル、幅14メートル、数十門の大砲を備えていて、日本人には巨大な浮城のように見える。そんな黒船が4隻も現れた。

龍馬は土佐藩の品川屋敷のある大森海岸の防備に駆り出され、土手を築き、垣を結んだ。やがて幕府がペリーから受け取ったアメリカ国書の内容は、龍馬たちの耳にも伝わってきた。

蒸気船ならカリフォルニアから、パシフィック・オセアン(パシフィック・オーシャン、太平洋)を渡って18日間で日本に達することができる。カリフォルニアは毎年金6,000万ドルを産し、日本の様々な産物と交易を行えば互いの利益になる。また日本沿岸で捕鯨を行うアメリカ船舶が、日本で石炭、水、食料を補給できるようにしたい。そのために通商交易条約を結びたいというのだ。

日本がそれに応じなければ戦争を仕掛ける、という姿勢で、黒船は品川沖で空砲を鳴らし、沿岸に詰めかけた数万の諸藩兵を驚かせた。

アメリカは近頃メキシコと戦争をして、カリフォルニアを含む領地のおおかたをとってしまったが、その理由はメキシコがアメリカの蒸気船に領地の海辺に近寄るのを咎めたためであるという。

外国と通商することがなぜいけないのか」

龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山は、こう主張していた。

今戦えば我らに勝ち目はない。ひとたび敗れたときは皇国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。

江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を捕らえ、米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は10日ももたない。廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶことは不可能である。

と言う。確かにそのとおりであると龍馬は思った。今はアメリカの要求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、国防力を充実させるのが、日本の生きのびる道である。

一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、アメリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。カリフォルニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を仕掛けることもあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。軍艦を何十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを分けて貰うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。

龍馬はこれもまたその通りだと思った。龍馬が幼い頃によく遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを運ぶ千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。

外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。

「自由な大海に漕ぎ出したい」

およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、安政元(1854)年6月下旬のことであった。翌年正月に龍馬は河田小龍を訪れた。河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、聞き書きを行っていた人物である。

河田は「このような非常のときに1つの商業を興してはどうじゃ」と龍馬に薦めた。そして万次郎から聞いた話をもとに、こう語った。

アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前(ま)んらぁがそこのところを工夫して、株仲間を何とかしてこしらえて1隻の蒸気船を買うてみい。

同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産物を運んだら、蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の給金を払うことができるろうが。

そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身につくというもんぜよ。盗人を捕まえて縄をなうというような有り様で始めても、1日でも早う蒸気船の運用を始めざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。

小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、高度な蒸気船を動かせる秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。

日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃせん。志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。そがな下等人民の秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。働かせりゃ工夫するぜよ。

大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な世界であった。龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。

「蒸気船の扱いを覚えたいがです」

文久2(1862)年3月、龍馬は脱藩した。城下で剣術道場を開く資格は得ていたが、もはや高知に留まる気はなかった。

江戸に出て、ジョン万次郎の紹介状を持って勝麟太郎を訪れ、弟子入りを頼んだ。勝は長崎海軍伝習所で教監を務め、また幕府の使節を乗せた咸臨丸を操って、太平洋横断を果たした人物である。

「俺の弟子になって何をしたいのかね」と聞かれて、龍馬は「蒸気船の扱いを覚えたいがです」と答えた。さらに「尊王と攘夷についてどう考えているのかね」と聞かれて、

「攘夷はとても無理ですろう」

「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをするのかね」

「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりますろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいかんですろう」

麟太郎は笑いながら「土佐にいながら天下の形勢をよく知っているじゃないか」と言って、弟子入りを許した。

海軍建設

勝は龍馬を護衛役として側に置きながら、いろいろ話して聞かせた。

攘夷の戦いを日本の側から起こせば、イギリス、フランスは対馬、壱岐、佐渡を占領する。アメリカは伊豆七島、ロシアは蝦夷を占領するだろう。淡路島も乗っ取られかねない。そうなれば航海の道はすべて閉ざされ、全国は籠城の有り様になる。危機に迫られると一揆が方々で起こる。その苦しみに耐えかね、外国につく者が現れると日本は外国の属国になるだろう。

そのような事態を未然に防ぐために、勝は西洋諸国と対抗できるほどの陸海軍を作るという意見書を幕府に提出していた。日本全国を6つの海域に分けて、それぞれに艦隊を置くという案である。

その経費を捻出させるためには、各大名に海外貿易を許し、それを財源に10万石あたり蒸気軍艦1隻などと費用を出させる。この案に従えば、軍艦300隻の海軍を建設することも可能であった。

しかし、軍艦は金で揃えることができても、それを動かす人材が問題である。勝と龍馬は神戸に海軍塾を作る準備を進めた。先頃まで将軍側近であった大久保忠寛(ただひろ)越中守も、それを励ましてくれた。

貴公らが麟太郎と相計って神戸に海軍塾を開く支度をしておるそうだが、それが肝心だ。海軍を大いに発展させるため幕府は、アメリカ、オランダに軍艦を注文している。だが、その操船を自在にいたす航海乗り組みの学生を取り立てねばならんのだ。幕府の先の読めない腑抜け役人どもができることではない。貴公らが操船を自在にできるよう一日も早く学び取らねばならぬのだ。

文久3(1863)年4月、将軍家茂は神戸に海軍操錬所を建設し、その入用金として年3,000両を下すことを決めた。また勝の門人たちを引き連れて、私塾として海軍塾を開くことを許した。龍馬はその設立と運営に奔走した。

亀山社中

元治元(1864)年6月19日、長州勢と幕府方が京都蛤(はまぐり)御門にて衝突した。この際に操錬所生徒である因幡藩士数十名が長州方に味方したとして、勝は江戸表に呼び戻された。

勝は薩摩の西郷吉之助(隆盛)に、龍馬以下6人の土佐藩脱藩者の庇護を頼んだ。西郷は、龍馬の人を引きつける性格と時代を切り開いていく才覚を認め、密貿易をさせつつ、いずれ長州藩に薩長連合を勧める使者として働いて貰おうと考えた。

元治2(1865)年、龍馬らは長崎の町はずれの亀山という山麓の地に宿舎を与えられ、薩摩藩から毎月給金を貰うようになった。彼らの結社は「亀山社中」と呼ばれ、ここを根拠地として密貿易にあたることになった。

5月、龍馬は下関に潜入し、西郷の使者として、長州の指導者・桂小五郎と会った。長州は幕府軍15万の大軍を迎え撃たねばならないという窮地に陥っていた。しかし、薩摩は蛤御門の変で幕府方についていたので、「いまさら薩摩の芋と手を結べるか。そんなことを抜かす奴は首を斬れ」という声が上がるほどだった。
薩長同盟を実現した交易

龍馬は桂にこう持ちかけた。

長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩摩の名義で蒸気船、鉄砲を買い入れ、尊藩に持ち込むというのはいかがですろう。

桂は思わず、龍馬の顔を見直した。幕府の大軍を迎え撃たねばならない長州にとって、これはよだれの出るような好餌である。龍馬は亀山社中の同志を使って、最新式の小銃7,500丁と蒸気船1隻を調達し、約束通り、長州に収めてみせた。

一方、薩摩は長州征伐には参加せず、京都に大兵力を集めて、幕府を牽制することとした。西郷はそのための兵糧を長州から借りてくれるよう、龍馬に依頼した。「さしあたって500俵もあればえいですろう」と龍馬は承知して、すぐに山口に行き、桂から快諾を得た。

こうした実利的な助け合いを通じて、薩摩と長州は旧怨を解き、同盟関係を築いていった。その掛け橋となったのが、龍馬の働きだった。

実現した海洋立国の夢

兵糧貸与の話がまとまった後、龍馬は下関で貿易を営む大商人・伊藤助太夫の家に泊まり込んで、杯を交わした。助太夫は、長州と幕府の戦いが終われば、蝦夷の海産物などを買い入れる交易をしたいと言った。北前船は1隻作るのに千両かかるが、蝦夷へ3度も行けば元手がとれるという。

龍馬は感心した。「まっことのう。蒸気船を使うたらなお儲かるろうねや」

龍馬は今は亀山社中の同志と共に、薩長の必要とする武器などの購入を行っているが、戦が収まれば長崎、下関を根拠地に蝦夷や上海、さらには広東からルソンに行き来して貿易をしたいと考えていた。蒸気船を使えば、パシフィック・オセアン(太平洋)を渡ってアメリカとの交易もできる。それによって国を富まし、日本を異国から守れるだけの海軍も持つことができよう。龍馬の夢は広がっていった。

龍馬はその夢を実現するひまもなく、慶応3(1867)年11月、京都にて何者かに暗殺されてしまった。しかし、海外貿易の夢を抱いていたのは龍馬だけではなかった。「海外貿易の志士」森村市左衛門などはその好例である。

さらに神戸の海軍操錬所を淵源の1つとする日本海軍はやがて日清・日露戦争を通じて国家の独立を維持し、英米と並ぶ世界3大海軍の1つとして数えられるまでになった。

龍馬の描いた海洋立国の夢は幕末から明治にかけての日本人全体が共有していたもので、多くの人々の努力によって実現されたと言える。

文責:伊勢雅臣
image by: Shutterstock


エンターテインメント
NHK「歴史秘話ヒストリア」若者意識のリニューアルも視聴率は低下
NHKの「歴史秘話ヒストリア」について、週刊新潮が報じた
4月22日の放送から司会者を交代し、若者を意識するリニューアルをしたそう
元々の視聴率は7~8%だったが、改編後は6%台をうろうろしていると筆者
「歴史ヒストリア」リニューアル失敗 NMB48、イケメンを起用し視聴率低下

2016年6月18日 5時50分 デイリー新潮
 ポップに! 親しみやすく! スケールアップ!

 と、4月22日の放送からリニューアルした「歴史秘話ヒストリア」(NHK総合)だが、なんかヘン――。

 司会は渡邊あゆみアナ(56)から井上あさひアナ(34)へと大幅に若返り、放送日は水曜から金曜、時間は2時間繰り上がって、夜8時からに。週末のゴールデンで若い視聴者を意識したようなのだ。

 初回は「日本でいちばん怖いパパ」として織田信長を取りあげた。確かにポップなのかもしれない……。

 4月29日の「あしたは動物園に行こう」で、もはや歴史番組なのか解らなくなり、5月6日は「愛と悲しみの大奥物語」として、再現ドラマにNMB48から19名を起用。6月10日は、「新選組 ボクらの友情と青春」と題して、賀集利樹、佐藤汛、渡部秀、永瀬匡、佐野岳が出演。彼らが何者かといえば、若いお母さんに人気の仮面ライダーたちで、二番隊組長・永倉新八の「浪士文久報国記事」をもとにイケメン集団“新選組”を描くとか。

 コラムニストの林操氏は、

「アイドル番組じゃないんですから。NHKの歴史教養番組は、誰が出るかより、“秘話”に重きが置かれていた。だが、これでは従来のファンは離れるし、歴史に興味のない若い人はついてこない」

 元々、視聴率7~8%の番組だったが、改編後は6%台をうろうろ――。

「週刊新潮」2016年6月16日号 掲載
 フィクション臭が強くなって、歴史好きの私には面白くないです。

人類廃滅を目指す黒王の謎も徐々に明らかに。『ドリフターズ』新刊5巻がついに発売!
 島津豊久、織田信長、那須与一といった名将から、山口多聞、菅野直といった海軍軍人、陰陽師の安倍晴明、新選組の土方歳三、さらにはハンニバル、ジャンヌ・ダルク、エルフ、ドワーフ、ドラゴンまで……!

 マンガ史屈指のオールスターキャストたちが、異世界での国奪りと自らの威信・存亡をかけた戦いを繰り広げるマンガ『ドリフターズ』(平野耕太/少年画報社)。今年10月からのテレビアニメ放送も決定している本作の1年7カ月ぶりとなる新刊5巻が6月6日に発売された。

 ここまでのあらすじも簡単に振り返っておこう。物語は、己の士道に従い戦に生きる薩摩武士・島津豊久と、狡猾で冷徹な策略家・織田信長、弓の達人・那須与一が異世界で出会い・結託するところから幕が開く。豊久は武士としての本能から、人間が支配する帝国に虐げられたエルフの村を解放。その勢いのまま国奪りを開始する。

 島津豊久ら3人は、どこかの世界からこの異世界に流れ着いたことから「漂流者(ドリフターズ)」と呼ばれている。そこに立ちはだかるのが、同様にこの世界に飛ばされた者ながら、世界を憎み破壊と殺戮を行う「廃棄物(エンズ)」たち。この一団には土方歳三、ジャンヌ・ダルクなどの非業の死を遂げた人物から、怪僧ラスプーチン、そして明智光秀までも加わっている。

 なお廃棄物(エンズ)という呼び名には、“世界から棄てられた彷徨う怨嗟”という意味がある。本作は、怨みを原動力に生きる者たちと、武士道や自らの正義を貫いて生きる者たちとの心の戦いでもあるのだ!

 そして新刊の第5巻では、エンズたちの「奴隷にした人間を食い殺す」といった恐るべき生態や、その一団を率いる黒王の謎も徐々に明らかに。彼らは「人間で無罪の者は一人もいない。人間で無実の者など一人もいない 殺せ 殺せ」と人類の滅亡を目指す侵攻を開始。物語のスケールはさらに大きなものになっていく。

 一方で第5巻では、ドリフターズたちにも見せ場は満載。信長は冷酷無比な策士っぷりを遺憾なく発揮し、島津豊久はその熱き武士道精神で仲間たちを扇動していく。歴史上の偉人たちが、我々の思う人物像に沿ったカッコいい振る舞いを次々と起こしてくれるのは、やはり本作の大きな魅力だ。

 また、島津豊久vs.土方歳三といったあり得ない戦いが起こったり、部下に裏切られまくった信長に多少の改心や成長が見られたりする点も、ファンタジーならではの面白さ。なお光秀vs.信長の異世界での再戦が迫っている様子もうかがえるので、この先の展開にも注目だ。

文=古澤誠一郎
 こういう作品は歴史上あり得なかった人物の対決とか、歴史上あり得なかったテクノロジーや戦法の衝突が面白いのです。土方様がエンズ軍を離脱しそうな気配も見える5巻(もともと黒王を信仰している訳じゃなし)、次巻以降も楽しみです。

太郎左衛門あんぱん発売!~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~
株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日よりパン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱん「太郎左衛門あんぱん」の販売開始いたします。
太郎左衛門あんぱん発売!

~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~


株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日より太郎左衛門あんぱんの販売開始いたします。バンデロールは関東、中部を中心とした焼き立てベーカリーチェーンです。

▼http://www.banderole.co.jp/

■メニューの紹介

太郎左衛門あんぱんの特徴・・・パン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱんです。


江戸時代後半に江川英龍がはじめて焼いたパンは「乾パン」に近いと聞いており、そのまま再現するのではなく、それをイメージしつつ、小さなお子様からお年寄りまで美味しく食べられる食材、製法で焼き上げました。
また、代々続く江川邸の歴史の重さのイメージや伊豆の素朴な大自然、反射炉の力強さをイメージした商品としました。

生地はリッチ過ぎず、素朴で懐かしさを感じる配合。
餡は特別製法で糖度を低くし、小豆の風味がより引き立てられるよう、また、粒を多く残すことによって小豆感を感じられるよう工夫をしました。単純な甘い餡ではなくこだわった「餡」です。
見た目は江戸時代に焼かれたパンをイメージしつつ現代風にくるみをトッピングしました。

・価格 本体価格167円 税込価格180円(店舗により異なります)

江川太郎左衛門英龍とは・・・号を坦庵(たんなん)。幕末の韮山代官。日本を欧米の侵略から守ろうと江戸幕府に軍隊制度と海防を提案。そのために品川台場の建設の指揮、そこへ設置する大砲を造るための韮山反射炉の築造を行う。軍隊で食べる兵糧食としてのパンを焼いたので「パン祖」といわれる。

■今後の展開
静岡県東部発祥のパンメーカー(沼津市)として、伊豆韮山発祥のパン祖と呼ばれる「太郎左衛門」の冠をつけたパンを現代風にアレンジし開発していきます。静岡県内をはじめバンデロール店舗で「特別なパン」として取り組みます。同時に、このニュースを各業界に伝え静岡県東部の地域活性化を図ります。

■会社概要
商号   : 株式会社バンデロール
代表者  : 代表取締役 結城 馨
所在地  : 〒410-0835 静岡県沼津市西島町20-2
設立   : 1972年8月
事業内容 :パン・洋菓子・サンドイッチ類の製造及び販売
(ベーカリー、ベーカリーカフェ、ショップの運営)
関東地区44店舗、静岡県下24店舗
東海地区1店舗、洋菓子工場、パン冷凍生地工場
資本金  : 3,000万円
URL     : http://www.banderole.co.jp/
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