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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日は気温がある割に湿度が低く爽やかで過ごしやすい一日でした。ただ、長期予報によると、今年の夏は暑くなるそうで……聞いただけでげんなり^_^;。

神奈川
ハマの「お台場」発掘調査
勝海舟設計

 横浜市は、幕末に勝海舟が設計し、神奈川区沖に築かれた砲台「神奈川台場」の発掘調査を30日から始めた。初の本格的な調査で、来年の開港150周年にあわせ、同区が市内にも台場があったことを広く知ってもらおうと企画した。掘り出された遺構は、市民が見学できるよう保存と整備を検討する。
 台場は、外国船に対する防備を目的に東京湾内に築かれ、現存するものでは、都内のお台場が有名。神奈川台場は市内に造られた唯一のもので、大正時代に埋め立てられた。現在、大部分が貨物線路の地下にあり、周辺の所々に石垣が一部露出しているのみとなっている。
 今回発掘するのは、砲台の人工島と陸とを結ぶ通路部分で、台場が描かれた古地図にある木橋の周辺にあたる。物資や砲弾を積んだ小舟は木橋の下をくぐって通航していたと考えられている。調査で当時の橋の長さや石垣などを確認する予定だ。いまは、公園になっており、2006年の民間団体の調査で石垣が見つかっている。
(中略)
神奈川台場 横浜が開港した1859年(安政6年)、幕府の命令を受けた伊予松山藩が築造し、翌60年に完成した。西洋式の設計思想が盛り込まれ、コウモリが羽を広げたような形の島に、東西2か所の通路が陸とを結んでいた。1899年(明治32年)に廃止されるまで、外国船を歓迎する礼砲を鳴らしていた。


京都
「鳥羽伏見の戦い」無縁仏弔う
伏見の喫茶店、供養塔建て36年

「鳥羽伏見の戦い」無縁仏弔う
伏見の喫茶店、供養塔建て36年

 幕末の「鳥羽伏見の戦い」の激戦地だった京都市伏見区納所で、戦死した無縁仏を弔う供養塔を建て、30年以上、世話を続けている喫茶店がある。毎朝お供え物と線香をあげ、月2回、法要を営む。歩道そばにあり、手を合わせて冥福を祈る通行人もいるという。
 世話をしているのは、喫茶店のオーナー橘文明さん(63)博子さん(65)夫妻と店長の鍵山哲也さん(38)。
 1972年、この店舗を含む土地でマンションを建設する際、僧侶から「敷地内で3人が鳥羽伏見の戦いで亡くなっている」と告げられた。供養のため、橘さんの母親が高さ約1・5メートルの五輪塔を建てた。マンション完成後、府道に面した歩道わきの敷地に台座をつくり、安置した。
 橘さんらは、空腹のまま無念の死を遂げたであろう3人を思い、開店する月曜から金曜の朝、水、塩、米を一式にして供え、線香に火をともす。墓前の草花も絶やすことはない。月2回、僧侶を呼んで法要を営むほか、盆と正月には野菜や鏡もちを供える。
 供養塔はよく目立つ場所にあり、子どものいたずらに遭ったこともあるが、さい銭を置いたり、幼子と一緒に手を合わせる母親の姿も見かけるという。文明さんは「悔しい思いをして亡くなられた方を弔うのは大切なこと。わたしたちもずっと末代まで世話を続けていくつもり」と話している。

 えぇ話や……(/_;)。

広島
晋作の活躍、岩国で公演へ
 明治維新で活躍した高杉晋作を描く山口市の劇団はぐるま座「動けば雷電の如く」公演が、4日から岩国地区5会場で始まる。初日の周東パストラルホールでは、高杉が総督を務めた遊撃軍の資料のパネル展示もある。
 公演は、高杉が身分を超えて組織した奇兵隊を軸に展開。四境の役(第二次長州戦争)で幕府軍に勝利するまでの維新の夜明けを2幕で演じる。周東公演では四境の役に周東町の通化寺から出撃した遊撃軍を遺品などで紹介。周東文化協会などが後援し午後6時半開演する。


福岡
幕末、農民は見た・・・香春の郷土史家が本を出版
 香春町文化財保存協議委員の郷土史家、木村晴彦さん(75)(香春町中津原)が、幕末期の田川郡内の農民をテーマにした「幕末・維新と小倉藩農民」を海鳥社(福岡市)から出版した。幕府側の小倉藩と長州藩が交戦した第2次長州征伐や、藩政時代の農民向けの福祉政策などを民衆の視点でひもといている。(河村輝樹)
 木村さんは元中学教諭。添田町史、香春町史の編集にも携わり、江戸後期に現在の田川市にあった庄屋の紅田家、添田町にあった中村家の古文書などを読み解いた。本書では町史で触れなかった事柄をまとめ、自身の推察も加えた。
 1866年(慶応2年)の第2次長州征伐については、小倉藩が長州藩に一度敗れ、小倉城を焼いて撤退した後、香春に藩庁を置き交戦を続けた状況を農村の史料から明らかにした。
 藩庁が置かれると人口が急激に増え、村の様子が一変。周辺の村も前線基地になり、小倉藩から動員をかけられた農民は、武士と団結して金辺峠などで、長州藩と激戦を繰り広げた。小倉藩の藩士が金辺峠に建立した士民追慕碑には「金辺峠に依(よ)って敵を防ぐ、士卒悦(よろこ)んで服し」と刻まれている。
 しかし、木村さんは当時の書状から農民兵の動きを解読し、激戦の実情は小倉藩が長州藩に追いつめられていたと推察。「武士と農民に共通する戦意はなく、小倉藩士は主君の忠臣であり、農民を守るために戦ったのではない」と指摘している。
 ほかには、当時の小倉藩では、未婚の母に子供の養育費を支給したり、身寄りのない孤児を養育所で育てたりする制度があったことも紹介。本では「人口を増やすための政策とみられるが、未婚の母の人権に配慮した考えがあり、非常に画期的なことだった」と記した。
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