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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昨日は風向きがそうだったのか、東京のあちこちでドブ臭い匂いを感じました……海からの風だったのかな(汗)。
 今日は涼しい風が吹いてきています。

岩手
野田丹後玉造の百回忌盛大に 9月に野田村で法要
 野田村の村の歴史を語る会(久慈竹蔵会長)は9月、幕末期の盛岡藩家老で同村の領主だった野田丹後玉造(たまつくり)の百回忌法要を行う。同会によると、村内で法要を営むのは1942(昭和17)年の三十三回忌以来67年ぶり。「野田の殿様」と呼ばれる先人の遺徳をしのぶとともに、村民に地域史を見つめ直してもらうのが狙いだ。
 法要は9月20日、野田家や旧家臣団などと共に、墓がある同村野田の海蔵院で営む。東京都在住の玉造の子孫が参列する。同村玉川の国民宿舎えぼし荘で記念講演会も開催する予定だ。
 語る会や村民有志は、玉造の墓をきれいにしてお盆や法要を迎えようと、周辺の整備に着手。ボランティアで石積み造りや歩道の改良、草刈りなどに取り組んでいる。
 野田家25代の玉造は、盛岡県大参事、同権参事など要職を務め1872(明治5)年、野に下った。その後、青森県田名部(現むつ市)に移住して小間物店を開いたが失敗し、同家没落のきっかけをつくったとされる。
 同村では藩制時代最後の領主であるとともに、野に下った際、扶持(ふち)を失った藩士のために職業教育を施したことから、畏敬(いけい)の念を持つ人は多い。
 同会は昨年、玉造ら一族の歴史をまとめた「清き流れは絶えざらまし」を再刊行するなど顕彰活動を行っている。広内洋治事務局長(60)は「玉造が自分の生活を犠牲にして、藩士のためにやった行為は語り継ぐ価値がある」と強調し、村民に参列を呼び掛ける。


東京
司馬作品から今なにを学ぶか 文化フォーラム開催 没後13年、再び関心高まる
 没後13年たっても、日本人の心の中に生き続ける作家、司馬遼太郎。その代表作をドラマ化した「坂の上の雲」がこの秋からNHKで放送されるなど、明治維新、近代国家の興隆期に生きる日本人を題材にした司馬作品に再び関心が高まっている。11日には、司馬作品から今なにを学ぶかをテーマにした文化フォーラムが、東京・飯田橋の大和ハウス工業東京支社で行われた。(谷内誠)

 この日、パネリストとして登壇したのは、作家で評論家の半藤一利▽映画監督の篠田正浩▽日本女子大学人間社会学部教授で歴史学者の成田龍一▽同志社大学大学院教授で比較文化研究者の佐伯順子-の各氏。半藤氏は文芸春秋の担当編集者として、篠田氏は司馬作品の映画化で、生前の司馬と深い交流があり、その人柄など思い出話も披露した。一方、成田氏と佐伯氏は直接の面識はないものの、研究者の立場から司馬作品が描かれた時代的背景と現代に生きるその歴史認識について論考を示した。
 成田氏は「かつて歴史学と時代小説は対立する関係にあった」とした上で、「1960年代半ばに『竜馬がゆく』で明治維新を描き、60年代末から70年をはさんで『坂の上の雲』で日清・日露戦争を描いた意味は大きい。明治日本を描きながら、現代日本を描いた。その意味で読み返す意義は大きく、特に冷戦終結からの20年に司馬作品は新しい読み方ができる。歴史家と司馬文学は和解すべきだ」と話した。
 佐伯氏も「歴史学は冷静さと客観性が必要で、文学が持つフィクションに不満があったが、司馬作品は歴史であり、文学である」と指摘し、「『坂の上の雲』などは、歴史書のような文学であり、心の歴史にまで踏み込んでこその文学になっている。作品の中で時代を批判してもどうすべきかを語らせてきた意味がある」との解釈を示した。
 一方、篠田氏は「司馬さんは新聞記者出身だけに、膨大な資料を読み込み、純粋な文学に閉じこもらないものを目指した。『僕の得意なことは物覚えがいいことだ』とおっしゃっていたが、常に歴史と幻想の間を行き来するようなところがあった」と話した。
 「一言聞けば、35倍くらい返ってくるほどよく話す人だった」と人柄を語ったのは半藤氏。司馬が産経新聞の同僚だったみどり夫人に求婚する際、「雨が降っている中、電車の停留所で『結婚してくれへんか』と話したそうで、正直な人でしたね」とエピソードを明かした。
 また篠田氏は「『坂の上の雲』のあとがきで司馬さんが指摘しているが、日清・日露戦争について戦争の冷厳な報告書が国民とその子孫に編まれていたならば、昭和前期の滑稽(こっけい)すぎるほどの神秘的な国家観に毒されず、日本とアジアに15年戦争の不幸はなかった、と書き残した。そのあとがきを見落としてはいけない」と話した。
 司馬の死去の1年前にロングインタビューをした半藤氏は「日本はこのままではよくならない。何とか元気のある国にしたい、と司馬さんはおっしゃっていました。欲望を広げることなく、これ以上自然を壊すなというメッセージでした。それを私は伝えていきたい」と話してフォーラムを締めくくった。


大分
おしゃれ、中津和傘 洋服にもぴったり
 中津市が誇る伝統工芸の中津和傘。洋傘に押され、今では貴重な存在となった和傘の灯を絶やすまいと奮闘する作り手たちを訪ねた。

 10万石の城下町中津。シンボルの中津城、福沢諭吉旧居などに程近い場所に「和傘工房・朱夏(しゅか)」はある。今吉次郎代表(56)、馬出吉広さん(65)ら4人の職人が制作に携わる。1本の傘を完成させるのに要する期間は2カ月ほど。その間、骨組みから和紙張り、乾燥、飾りの刺しゅうまで80以上の緻密(ちみつ)な工程をこなしていく。
 傘作りを始めて今年で5年目を迎える。昭和初期の最盛期には市内に70軒ほどあった和傘店も徐々に衰退。2003年、最後の職人が廃業した。しかし、「文化の継承を」と今吉さんが中心となって立ち上がった。「製造が絶えてしまえば、和傘を使用する地元の祭りの維持にも支障が出てくる。伝統を守り、傘で地域おこしができないかと考えた」
 取り組みを始めたが、苦労の連続だったという。「道具はあっても、製造方法を教えてくれる人はいない。現物を解体し、参考になりそうな書物を読み、一から自分で考えるしかなかった。サラダ油を引いて、乾燥に失敗したなんてこともあった」と当時を振り返る。
 山積する問題を一つ一つクリアし、さまざまな柄の和紙を組み合わせたオリジナルの傘、ランプシェードなども手掛けるまでになった。職人の梶原あけみさん(54)は「評判を聞き付けた県外からも注文が入りますよ」。「お客さんからは洋傘の日傘よりも遮光性が高いと言われました」と同じく職人の是石正子さん(56)。
 2人には手製の日傘を差しながら散策してもらった。服装は洋服、傘の柄は洋傘に使われるような華やかなもの。しかし、違和感は全くなく、敷居の高そうな和傘がとても身近に感じられる。「伝統の和傘も時代に合わせて変化していく。ジーンズでも差せる和傘が商品のコンセプト」と言う今吉さん。その意味が理解できたような気がした。
 さまざまな柄の和傘を差した現代の人々が城下町を行き交う。そんな光景を見られる日も遠くないかもしれない。

メモ
 中津和傘の製造が始まったのは200年ほど前。製造に必要な原料の竹や和紙、水の浸透を防ぐ塗料となる柿渋などを地元で調達可能だったことが主な理由とされる。幕末には下級武士の内職として奨励されたという。現在でも和傘を作っているのは全国でも10軒ほど。九州では「朱夏」を含め2軒しかない。価格は1本1万4千円から。朱夏(中津市鷹匠町)の連絡先はTEL0979・23・1820。


ブックレビュー
今週の本棚:渡辺保・評 『河竹黙阿弥--元のもくあみとならん』=今尾哲也・著(ミネルヴァ書房・3150円)
◇晩年の悲劇から照射した狂言作者の生涯

 新しい視点で書かれた河竹黙阿弥の伝記である。
 黙阿弥は幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎の作者。すでにいくつかの伝記があるが、今尾哲也が今度発表した伝記はこれまであまり人の触れなかった部分に触れて新しい。
 その新しさは二点ある。二点は江戸時代と今日との制度的な差にかかわる。一つは歌舞伎の「狂言作者」と今日の「劇作家」との違い。もう一つは素人と玄人の違い。
 狂言作者は戯曲を書くときに、せりふを登場人物の役名ではなく、その役を演じる役者の名前で書いた。
 たとえば「白浪五人男」の弁天小僧ならば、
 弁天小僧---知らざぁいって聞かせやしょう
 と書かずに
 羽左衛門---知らざぁいって聞かせやしょう
 と書く。羽左衛門は弁天小僧を演じる役者。すなわちのちの名優五代目菊五郎である。
 なぜそんなことをするかといえば、役者に当てはめて書くからである。それも単なるあて(・・)書きといったものではない。役者が全(すべ)て。そこから役者の魅力をどう引き出すかだけが問題であり、役者が気に入り、そのひいきが喜ぶように書く。その結果、作者は芸術家としての自立を失う。
 それは歌舞伎社会の特殊な習慣による。その習慣からもう一つの違いが見える。すなわち玄人と素人の違い。この違いは今日いうところのプロとアマチュアの違いではない。閉鎖的な特殊社会の住人であるか、あるいは一般社会の市民であるかの違いであった。
 今尾哲也はこの二つの制度的な違いに着目して黙阿弥の生涯を描いた。むろん制度的な違いを指摘したのは今尾哲也がはじめてではない。しかしその違いの意味を徹底し、それによって黙阿弥の人生を書いた伝記はこれまでになかった。
 黙阿弥は日本橋の商家に生れた。すなわち素人の出身である。そして芝居の世界に身を投じた。玄人の世界に入った。しかし五十歳をすぎて明治維新にあい、近代文明に触れ、六十五歳で引退した。すなわち素人の世界に戻ろうとした。黙阿弥がそう思ったのは自立した近代的な劇作家でありたいと思ったからに他ならない。役者名でせりふを書く習慣から、自分のイメージに従って自由に登場人物を創造したいと思ったのである。近世から近代への転換。
 しかし、もう遅かった。
 それでも黙阿弥は老骨にむち打って二本の戯曲を書いた。「千社札(せんじゃふだ)天狗(てんぐの)古宮(ふるみや)」と「傀儡師(かいらいし)箱根山猫(はこねのやまねこ)」。しかし二本とも未完で中絶した。
 なぜ遅かったのか。なぜ未完に終わったのか。今尾哲也によれば「無から有を生み出すことは、黙阿弥には出来なかった」からである。ほとんどその生涯の全てを役者を前提に書いて来た黙阿弥には、すでに役者を決めずに戯曲を書くことが出来なくなっていたのである。
 その結果、黙阿弥は、少なくともその劇作手法の上では近代的な劇作家へと転身することが出来なかった。この失敗の悲惨は、あの二つの違いが、この老人の精神にいかに深くしみ込んでいたかを物語っている。現に今尾哲也が描くこの件(くだ)りを読むと胸がつぶれる思いがする。
 だれもふりむかなかった黙阿弥晩年の二本の未完の作品をとりあげて、悲劇を描いたところが、この伝記が異彩を放つ理由である。
 一つだけ閉口したのは、黙阿弥作品や役者評判記その他の引用が現代語訳されていること。こういう時代だから現代語訳は仕方がないにしても、その訳には違和感が残る。


コラム
高い志を歴史に探して 『日本人とは』 問い続ける 山本兼一さん(作家)
 茶道の大成者千利休をかつてない視点で描いた『利休にたずねよ』(PHP研究所)で一月に直木賞を受賞し、勢いに乗る時代小説作家の山本兼一さん(52)。今月には、受賞後第一作となる『ジパング島発見記』(集英社)を出した。
 戦国や幕末といったこの国の激動期を、好んで取り上げてきた。根底にあるのは、日本とは何か、日本人とは何か、という壮大なテーマだ。
 京都市左京区の仕事場には、趣味の火縄銃に真剣、重厚な音をとどろかせるほら貝と、小説の世界をほうふつとさせる品々が並ぶ。そこで山本さんはお茶をたててくれた。『利休-』を書くにあたり、おけいこに通ったという。「自分でやってみないと楽しくないから」。執筆中は連日、釜で湯を沸かしお茶を飲んだ。
 京都市生まれ。東大安田講堂をめぐる攻防やあさま山荘事件など、日本が騒然としていた一九七〇年前後に青春時代を過ごした。
 当時は、詩人か革命家になりたかった。「世の中の生産活動と無関係に生きたかった。ドロップアウトする方が美しいと思った」。大学卒業後、一年間、海外を放浪。「生まれ育った国だからこそ、日本が嫌だった。ねばねばとまとわりつく気がして」
 帰国して東京でライターの仕事を見つけ、三十歳でフリーに。三十六歳で京都に戻ってから、歴史小説を書き始めた。
 月に一度、仕事で東京に出るたび、帰りは名古屋で新幹線を下車。東海各地に残る城や合戦の地など、乱世を駆け抜けた武将の夢の跡を歩いて回った。
 「足を運ぶと、必ず何かが見える。たとえ景色は変わっていても」。時代小説を書く作家は多いが、取材量には絶対の自信を持つ。
 それぞれの土地で決まって訪ねる場所、それは「市場」。「ライター時代、歴史研究者に聞いたフィールドワークの知恵です」
 例えば六月に行った長野市の川中島。どこに行っても山芋が売られていた。川中島の特産と、地元の人が教えてくれた。普段口にするものとは、粘りが全く違った。「想像力がかきたてられた。それだけで場面が書けると思った。書くときにリアリティーが出るんです」
 「時代小説で一番楽しいのは、フィクションをどう加えるか」。徹底的な取材をもとに、通説や記録で触れられていない部分から物語を膨らませる。
 『利休-』では、利休の研究者という読者から手紙が届いた。「知らないことばかりでした。資料のありかをご教示ください」と。「それを読んだ瞬間、小説の成功を確信した」
 「人に貴賤(きせん)あり」という言葉を信じる。貴賤とは、職業でも、身分でも、財力によるものでもない。「他人のために自分を犠牲にできる人は貴い。志の高い人にあこがれる」
 城大工に砲術師、刀鍛冶(かじ)、鷹匠(たかじょう)、茶人利休…。志の高さを基準にした着眼は、時代のうねりに立ち向かいながら、まっすぐ強く生きようとするさまざまな階層の日本人の姿を鮮やかによみがえらせた。
 一転。直木賞受賞後第一作となる『ジパング島発見記』は、大航海時代、はるばる海を越えてやってきた南蛮人たちを主役にした連作短編集。外から日本を浮き彫りにする試みだ。
 舞台は、戦国時代真っただ中の日本。一五四三年、種子島に鉄砲を持ち込んだポルトガル人ゼイモト、ほら吹き商人ピント、宣教師ザビエルら七人が登場。彼らの目に映る日本の社会と日本人が描かれる。
 ポルトガル船は大量の物資をもたらした。日本の銀の価値も上がった。「南蛮人の存在は、経済をバブル的に成長させ、日本社会を大きくきしませた。変化の波に洗われた日本を、彼らがどう見たかを探りたかった」。未知の国を見つめる彼らの視点は、われわれ現代人がはるか遠い戦国時代に対して抱くあこがれにも似ているかもしれない。
 もともとはなじみにくさを感じていた国、日本。今は「日本しか帰る場所はない」と感じている。「歴史小説を書くことは、私にとって、知らなかった日本の深い部分を旅すること」
 日本人とは何か-。旅を続ける中で、作家になって以来こだわってきた問いに対する答えが出つつある。
 職人の技や茶の湯などの芸術に見られる細やかさ、あえてすべてを語らず言外に情趣をにじませる表現方法。「繊細さと幽玄。この二つが、日本人のキーワードだと考え始めた」
 ただ「これは答えの一つにすぎない。手探り状態です」と気を引き締める。旅は、まだまだ終わらない。 (宮川まどか)







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