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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 今日の皆既日食、奄美諸島まで足を伸ばされた方たちには天候不良で残念でしたが、全国各地で雨雲の間から観測できた方々も多かったようで。自分の友人のひとりは海外まで遠征してダイヤモンドリングを見たとメーリングリストで報告してくれました……その行動力といい晴れ男っぷりといい(自分は遠征すると雨を降らせる雨女^_^;)、羨ましい。

栃木
掘り出しニュース:1887年の皆既日食、皇族が観測スケッチ
【栃木】1887(明治20)年8月19日、栃木県日光市の男体山(標高2484メートル)の山頂で、幕末・明治時代の皇族、陸軍軍人の北白川宮能久親王(1847~1895年)らが皆既日食を観測した際のスケッチが日光市の民家に残っていることが分かった。皆既食を中心に5段階で満ち欠けが描かれており、当時の関心の高さがうかがえる。
 保存していたのは日光市下鉢石町の高野(こうの)隆史さん(53)。当時の文献には、見物のため外国人300人以上、日本人は5000人以上が訪れたと記され、客を多く泊め過ぎた旅館の2階の床が抜け落ちたほどだと、混雑ぶりが記録されている。
 世界遺産の「日光の社寺」の一つ、輪王寺の門跡を務めた北白川宮もその一人。明治以後は還俗し、当時は陸軍少将だった。北白川宮に仕えていた当時の高野家当主、盛三郎氏が記した「高野家文書」に日食を観測した記録が残っている。
 スケッチは和紙に墨で描かれた「日光二荒山上日蝕観測之図」。この時「紫色青色黛赭数種ノ硝子盤と望遠鏡ヲ以テ観測ス」とあり、「第壱図」は午後3時35分、太陽の右下部分が欠けている様子が描かれ、同48分の「第三図」で皆既食、「第四図」の3時52分では「復光最初の観測」と太陽が再び輝き始めた様子などが5段階で描かれている。皆既食時には「暗黒虫禽鳴ヲ止メ距離六七尺ニ在リテモ甲乙誰某タルヲ辨知スルヲ得ス」などと、周囲の様子なども記されている。
 日本が近代に入って初めて経験した皆既日食。内務省が官報で地方官庁や学校に観測の心得を示したほどだった。高野さんは「宮様もよく登って見たと思う。よほど興味があったのだろう」と話している。【浅見茂晴】

 スケッチの画像がけっこう大きくて、ほう~っと思いながら、ちょうど今日の皆既日食の報道をテレビで見ているところです。


東京
明治時代のフランス人画家ジョルジュ・ビゴーの全生涯を展示、風刺画をはじめ貴重な銅版原板も
 文明開化の時期に来日したフランス人画家、ジョルジュ・ビゴーの生涯にわたる作品を展示する展覧会『ジョルジュ・ビゴー展 碧眼の浮世絵師が斬る明治』が、8月23日まで東京都写真美術館2階展示室にて開催されている。
 ビゴーは明治初期、日本に来日し、数多くの風刺画を残したことで知られる。急速に近代化する日本の情景を描き、その姿を西洋に伝えた。
 本展では、来日前の新聞や雑誌への挿絵から、日本で出版した『あさ』『おはよ』『また』『クロッキー・ジャポネ』などの画集や、歴史教科書で著名な「釣りの勝負」が収録される雑誌『トバエ』、帰国後の風刺画やエピナール版画などを展示。また、今回が初公開となる来日以前に描いた水彩画や、120年前に彫った貴重な銅版原板も展示し、ビゴーの全生涯を明らかにする内容となっている。
 さらに写真美術館ならではの展示として、幕末や明治初期の風俗、磐梯山の噴火、日清戦争などを被写体とする日本の初期写真を併せて紹介することにより、写真史からみたビゴーの魅力と、ビゴーを魅了した日本の姿に迫る。

『ジョルジュ・ビゴー展 碧眼の浮世絵師が斬る明治』
 2009年7月11日(土)~8月23日(日)
 会場:東京都写真美術館2階展示室
 時間:10:00~18:00(木・金は20:00まで)入館は閉館30分前まで
 休館:月曜日(ただし7月20日は開館し21日は閉館)
 料金:一般800円 学生700円 中高生・65歳以上600円

 歴史の教科書でもおなじみのビゴー展、8月23日までなので行ってみようかな……。

静岡
新居関所跡で第13次調査 尖柵を発掘で幕末の絵図の正確さ証明
 新居町教育委員会は21日、同町の国特別史跡・新居関所跡で進めている第13次発掘調査で、江戸時代に関所の敷地境界を示すために設置した「尖柵(とんがりさく)」を発掘したことを明らかにした。幕末に作成され現存する「今切関所絵図」の記載に一致し、専門家らは「絵図の正確さが証明できた」と評価している。 (堀内孝義)
 調査は関所関連施設の有無を目的に、6月下旬から7月末まで同町泉町の町有地で実施。尖柵は地下約1メートルから東西に横並びで一部分(長さ約1・8メートル)が発掘された。
 基礎部だけでいずれも表面は黒く、東端は角柱、そのほかは丸太だった。今切関所絵図では「尖柵長三間」とあり、柵の設置状況も絵図通りだった。本来の尖柵は侵入防止のため最上部は鋭く、高さ約1・8メートルあったが、上部は腐るなどして残っていなかった。尖柵両側からは、柵の保護を目的とした石垣も発掘された。
 調査に当たった新居関所整備委員会考古学担当の向坂鋼二さんは「従来は絵図が正確か分からなかったが、今回の発掘は絵図の正しさを証明した。石垣は尖柵を保護するためとみられ、当時は関所の付属施設として重要だったことが分かる」と話した。
 町教委は調査終了後、発掘現場を埋め戻して保護する予定。これを前に23、24両日の午前10時から午後4時まで一般公開し、町教委職員が説明に当たる。


木柵、石垣の存在確認 新居関所周辺の発掘調査
 新居町の新居関所周辺で行われた発掘調査で、幕末期とみられる木柵などの遺構が見つかり、町教育委員会が21日、公開した。調査では古図面の記載通りに柵の存在が確認されたほか、図面になかった石垣も柵に隣接する形で設置されていたことが明らかになった。
 調査は関所跡の南西約100メートルの町有地で6月下旬から行われ、遺構は地下約1・5メートルで見つかった。木柵は丸太材17本と東端に角材1本が使用されていた。また、木柵の南には並行する形で石垣が組まれ、周辺には砂利や貝殻で地盤を固めた形跡も見られた。
 幕末期に作成されたとみられる「今切関所平面図」では、この地点に「尖柵(せんさく)長三間」との記載があり、今回の発掘でこの記載が正確だったことが裏付けられた。平面図では、柵の近くに通行人の出入りを監視する大御門も描かれていて、この地点が関所施設の西端部だったとみられる。一方、図面には石垣の記載はなく、生活排水を流すための溝を補強するために組まれた可能性があるという。
 新居関所整備委員会のメンバーで、県考古学会の向坂鋼二会長は「文献の記載と調査結果が一致することは珍しい。石垣の存在も確認されたのは貴重」としている。
 町教委は23、24両日に調査結果を一般公開する。



コラム
江戸の富士塚 参拝も行楽も
 福の神を訪ねて歩く旅。今回は番外編で「江戸の富士山」へ。
 江戸時代、富士山を神聖視し、信仰する団体「富士講」が興隆し、その数は「江戸八百八講」と言われるほどだったという。各地に盛り土をした人工の富士山が作られ、今も都内数か所に残っている。
 私たちが出かけたのは、北区の十条冨士塚。山開きの7月1日の大祭日で、塚の周囲にのぼりが立てられ、賑わっている。入り口で線香と護摩木を購入して、いよいよ富士登山。
 二十数段の階段を上るとすぐに頂上で、線香と護摩木を焚き、石の祠にお参りする。火のそばにはほら貝を持った修験者がいて、私たちを見守ってくれた。木々が繁って、山頂からの眺めがいいとは言えないが、住宅地にこんな空間があるというのは、とても不思議な感じだ。
 ここはもともと小さな古墳で、溶岩などを本物の富士山と同じように並べて作られたそうだ。残された石碑の銘文によれば、1840年(天保11年)にはすでに冨士塚があったと考えられる。幕末の石碑などを見ると、混乱の世に人々が平和を祈ったのかと思う。
 もっとも、私たちは近所にずらりと並んだ露店に大喜び。金魚つりならぬ「うなぎつり」なども発見して、童心に帰ってしまった。江戸の人々も参拝と行楽を同時に楽しんだに違いない。(ペリー荻野 コラムニスト)


【元気のでる歴史人物講座】(29)橋本左内
■夭折した英才、天衝く志

 幕末第一等の英才、橋本左内(さない)は14歳のとき『啓発録』を書き5つの要目(稚心を去る。気を振う。志を立つ。学に勉む。交友を択(えら)ぶ)をあげて自戒、自省した。
 福井藩医を父とした左内は15歳のとき、大阪の緒方洪庵(こうあん)に弟子入りし蘭学を学んだ。最年少だったが一心不乱に学び、やがて塾中第一の学力を認められた。洪庵は「橋本は他日わが塾名を揚げん」と嘆称した。
 あるとき左内は連日夜間外出した。塾生たちは左内もついに夜遊びに出かけたかと思い、そっと後をつけていくと、橋のたもとの小屋に行き、病気の乞食(こじき)を診てやっていた。塾生は己を恥じ、洪庵にこれを伝えた。洪庵は全塾生にこのことを話し、左内に見習い、一層勉励するように訓戒した。
 左内は洋学のみならず和漢の学問にも打ち込んだ。その人物、学問、見識がずば抜けていたので、21歳のとき抜擢(ばってき)され藩医を免ぜられ、やがて藩主、松平慶永の侍読(じどく)となり深く信頼され腹心として活躍するのである。左内の志は幕末の国難から日本を救うことであった。
 「医に小医あり、中医あり、大医あり。小医は人の病を治し、中医は小医の師となりてこれを救う。大医は天下国家の病根を治す。われすべからく大医たらざるべからず」
 こうした天を衝(つ)く志をもって国事に奔走した左内が、安政大獄により25歳の若さで亡くなったのは惜しんで余りあることだった。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦)



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