忍者ブログ
新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 陽差しが出てきました……今日は暑くなりそうですね。

宮城
玉蟲左太夫木彫り胸像に
商店主ら「進取の気概知って」

 江戸時代末、幕府使節団の一員として渡米、戊辰戦争で罪に問われて切腹した仙台藩士・玉(たま)蟲(むし)左太夫を顕彰するため、木彫りの胸像が作られ、25日、仙台市でお披露目の会が開かれる。今では知る人も少ない地元の偉人だが、閉塞(へいそく)感漂う今だからこそ、進取の気概を持って時代を生き抜いた姿を知ってほしいと、関係者は呼びかけている。
 1823年生まれの玉蟲は幕末に幕府使節団に加わり渡米。先進的な民主主義制度や、アジア進出を狙う欧米の帝国主義などに触れ、克明な記録を残した。帰国後は、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の成立に尽力した。
 胸像を作ったのは、仙台市若林区荒町の商店主らで結成した街づくり団体「人生銀行」。これまで落語や町歩きの会などのイベントを行ってきたが、今回、歴史に埋没した郷土の偉人に、光を当てようと考えた。
 胸像に使った木は、地下鉄東西線工事のために伐採されたケヤキを、市から譲り受けた。市内の仏師佐々木実さんに依頼し、半年ほどかけて肖像写真をもとに作った。高さ約45センチ。「まるで生きているように、表情がよく出ている」と同会事務局の乳井昭道さんは満足そうだ。
 お披露目会は25日午後3時から、同区荒町の昌伝庵で開かれる。午後3時半から、戊辰戦争研究者で作家の星亮一さんの講演会(参加費500円、事前申し込み必要)も開かれる。
 同会代表で文具店「幸洋堂」の店主・出雲幸五郎さんは「玉蟲の功績やグローバルな視点を知ってもらうことで、時代を切り開く人材が育てば」と期待していた。胸像は会の後、同店事務所内にある会の活動拠点「荒町養賢堂」(同市若林区荒町)に置かれ、自由に見学できる。問い合わせは同店(022・266・3331)へ。




長野
幕末の松代藩の測量図 長和の滝沢さんが縮刷版
「松代封内測量図」の縮刷版編さん
 小県郡長和町和田で私設の「長野県地名研究所」を主宰する滝沢主税さん(79)が、幕末の松代藩領内を実測した「松代封内測量図」の縮刷版を冊子にまとめた。幕府の命で作られた元禄時代の国絵図では川などが実際の位置からずれているケースがあるが、松代藩が独自に作ったこの測量図はかなり正確に描かれているという。研究や学習のために閲覧しやすいようA3判の大きさにした。
 信濃教育会(長野市)が所蔵する縦2・7メートル、横2・5メートルのものを中心に縮尺6千分の1の測量図7枚(幅)分をまとめた。縮刷版での縮尺は2万4千分の1。
 測量図を管理する信濃教育博物館(同市)などによると、松代藩8代藩主・真田幸貫の命を受けた測量士・東福寺泰作と絵師・田中月耕が、1850(嘉永3)年から5年がかりで領内を踏査して作成した。完成品は「城下近傍諸村」などからなる。現代の地図と比べてもずれが少ないといい、同博物館は「非常に貴重な実測図」としている。
 現在の長野市松代町や戸隠、鬼無里、須坂市、中野市などを描いてあり、寺社や集落の建物、川や山には色付けしてある。「丹波島村」「上氷鉋村」といった地名が、直接書き込まれたり、和紙に書いて張り付けたりしてある。
 滝沢さんは測量図上の地名に番号を付け、現代の地名などを当てはめて表にしたものを縮刷版に収めた。
 信濃教育会は1941(昭和16)年、控えとみられる7幅と、測量や製図の道具を東福寺の子孫から寄贈された。20年ほど前に測量図の存在を知った滝沢さんが、縮刷版の作成を当時の太田美明・信濃教育会長に約束した。
 滝沢さんは、写真店に依頼して複写作業などを進めたものの、ほかの仕事の忙しさや病気の治療などで中断。病気が回復した今年初めから「急ピッチで」仕上げたという。「後世の人もだいぶ見やすくなっただろう」と完成を喜んでいる。
 縮刷版(94ページ)と測量図の原本は、信濃教育博物館に申請すれば閲覧できる。


佐賀
江藤新平捕縛の地 高知・東洋町から訪問団
 佐賀の七賢人の一人、江藤新平にゆかりの深い高知県東洋町の澤山保太郎町長ら10人が21日、佐賀市の秀島敏行市長を表敬訪問した。明治維新史研究会(太田善郎代表)との交流研修会の一環で、澤山町長は「今後も佐賀と交流を図り、江藤新平の業績をしのびたい」と述べた。
 江藤新平は1874年の「佐賀の乱」で敗走し、鹿児島を経て高知に上陸。その後、甲浦(高知県東洋町)で捕縛されたとされる。
 澤山町長は江藤を近代日本国家建設に大きな役割を果たしたとたたえる。一方で、「救出できなかったことに町民は135年もつらい思いをしてきた。深いおわびを申し上げたい」とした。
 その上で「江藤の業績や遺徳を顕彰し、人権にかけた思いを実現することが私たちの使命」と決意を述べた。これに対し秀島市長は「東洋町の人にお世話になった心意気は伝わったはず。一度は現地を歩かせてください」と答えた。東洋町の一行は江藤の生誕地や墓参し帰町した。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(20)東大教授・山内昌之 伊東甲子太郎
■分離分党の覚悟

 衆院が解散された。自民党の麻生太郎総裁の首をすげかえるため、両院議員総会の開催を企てた人たちがいる。その中心にいた新聞記者出身の中川秀直氏の勝負勘と、外交官出身の加藤紘一氏の知力との連携が、党人派と官僚派の政策通チームとして発展すれば、面白い勝負になるはずであった。

 しかし、総会開催に賛同した議員たちの同床異夢ぶりをすかさずついた党執行部の切り崩しは、都議会議員選挙の敗北にめげた同人物たちとは思えぬほど迅速果断を極めていた。皮肉なことに解散時期をめぐっても、良く言えば穏健中正、悪く言えば優柔不断を絵で描いたような総裁と細田博之幹事長のコンビは、政権も最終局面になって火事場の“大力”を発揮したといえば失礼であろうか。

 勢いでは勝っていた議員総会開催派の動きが竜頭蛇尾に終わったのは、彼らが党分裂や離党まで覚悟した権力闘争に踏み切れなかったからだ。小選挙区制では立候補者の選定や運動資金の分配などの権限をもつ幹事長のスーパー権力の前に反乱がついえたのは当然であろう。

 ◆勤王から倒幕思い描く

 しかも、幹事長権限を駆使して郵政解散選挙で民営化反対議員をつぶし、空前の大勝利を収めた武部勤氏が今回の政変準備劇で苦杯をなめたのは皮肉というほかない。2000年の“加藤の乱”を繰り返したかのような加藤氏の失敗は、必要なら分離・分党し、新党の旗を立てる構えを見せなかったからだ。総理総裁の首をとるのは、なまなかの覚悟では実現できないことを苦渋とともに体験したはずではなかったのか。またしても詰めが甘かったのである。

 幕末の分党や分離といえば、何といっても新選組から独立した伊東甲子太郎(かしたろう)と御陵衛士(ごりょうえじ)を思いだす。北辰一刀流の剣術家だった伊東は、新選組の拡充を図った近藤勇の求めに応じて入隊したが、学識や弁舌を買われて新設の参謀職にすぐ任じられた。

 しかし、近藤や土方歳三と伊東は尊王攘夷という一般理念では共通していたにせよ、実現の具体的手法となると違っていた。近藤らは佐幕にこだわり、伊東はひそかに勤王から倒幕を思い描いたからである。新選組に入った伊東の巧みさは、会津藩や幕府の機密情報に接することで薩藩に内通する材料をたやすく得たことである。

 京都の志士や幕府関係者の間に人脈や情報網を築いた意味も大きい。こうした手土産をもとに孝明天皇の御陵警備を名目に新選組から分離・脱党したのであった。

 分党が成功したのは、伊東の政治能力もさることながら、10人以上の同志的団結が固かったからだ。土方は、士道不覚悟といった得意の粛清劇を断行すれば、新選組の土台が揺らぐことを知っていたはずだ。伊東を通して薩摩藩の内情を探ろうと“泳がした”可能性も否定できない。

 伊東には、富国強兵を目指す大開国や武士が補佐する公家中心の政体と国民皆兵、畿内5カ国を新政府直轄領にするような独創的政権構想があった。どこか坂本龍馬を彷彿(ほうふつ)させる大きなスケールをもっており、この点では剣豪の枠を超えられない近藤や土方ははるかに及ばなかった。

 しかし、伊東には頭脳明晰(めいせき)な才人が陥りがちな欠点があった。それは、壮大な政権ビジョンが世人に理解されて当然と自負し、新時代の中枢に自分が座ることを露だに疑わぬことであった。これは、つい油断や自己過信を生み出すことにつながる。

◆幕末政治の一筋の光芒

 伊東は近藤の妾宅に招かれて酩酊(めいてい)したあげく、新選組の一党に京都の油小路通で斬殺された。敵の懐に不用意にとび込むのは、まさに才子が才に倒れた感もある。カリスマの伊東が死ぬと、残った同志たちは彼の大胆な計略や交渉術を継承できるはずもなかった。

 高台寺党と称された御陵衛士は、しょせん伊東の私党私塾だった。かれらは薩摩はじめ倒幕派の隊列に入ると、三流どころの役割を地味に演じたにすぎない。

 伊東の油断は政治家としてほめられたことではない。それでも、新選組という幕末最大の実力集団から分離する勇気と、新たな未来に独立党派として同志と一緒に投企する使命感にあふれていた。結果は無残な悲劇に終わったにせよ、伊東は幕末政治をよぎった一筋の光芒(こうぼう)だったのである。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という言葉がある。一身を投げうつ覚悟のない政治家には、そもそも運が開けるチャンスも訪れないのではないか。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】伊東甲子太郎

 いとう・かしたろう 天保6(1835)年生まれ。新選組参謀、後に孝明天皇の陵を守る「御陵衛士(高台寺党)」首領。名は武明、通称・大蔵、摂津、変名・宇田兵衛。常陸志筑(しづく)=茨城県新治郡=の旗本(交代寄合)本堂氏の家臣、鈴木忠明の長男。江戸で北辰一刀流を学び、家督を継ぐ。元治元(1864)年、新選組に入隊するが、長州攻めをめぐって近藤勇、土方歳三らと対立、脱退。その後、山陵奉行の戸田大和守の配下となり、大久保利通ら薩長藩士に接近して勤王運動に参加。近藤、土方に疎まれ、慶応3(1867)年11月18日、京都の本光寺門前で謀殺された。享年33。

 毎回楽しみにしている山内教授のコラムですが……伊東先生が取り上げられたからって期待し過ぎたかな(^^ゞ。
 伊東先生の国家構想の大きさを評価してくれるのはいいんです(^^)。
 でも、「新選組に入った伊東の巧みさは、会津藩や幕府の機密情報に接することで薩藩に内通する材料をたやすく得たことである。」……って、最初から薩摩に通じることを目的に新選組に入隊したって説ですか(´・ω・`) 。






PR
この記事にコメントする
           
お名前
タイトル
メールアドレス
URL
文字色
絵文字 Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
コメント
パスワード   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
この記事へのトラックバック
トラックバックURL:
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新コメント
[12/14 白牡丹(管理人)]
[12/14 ゆーじあむ]
[11/08 白牡丹(管理人)]
[11/07 れい]
[01/21 ゆーじあむ]
[11/15 白牡丹@管理人]
[11/15 ゆーじあむ]
[05/25 長谷川誠二郎]
[07/23 白牡丹@管理人]
[07/23 伊藤哲也]
最新TB
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
プロフィール
HN:
白牡丹
性別:
非公開
自己紹介:
幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
バーコード
Livedoor BlogRoll
本棚
Copyright ©  -- 白牡丹のつぶやき --  All Rights Reserved
Designed by CriCri / Material by White Board

忍者ブログ  /  [PR]