忍者ブログ
新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 毎日暑い日々が続いてますね。雨が去って、ようやく夏らしくなってきました。

福島
往時しのび二本松少年隊顕彰祭
 戊辰戦争で散った二本松少年隊を慰霊する「二本松少年隊顕彰祭」は28日、二本松市の城山総合体育館で行われた。
 二本松城が落城した1868(慶応4)年7月29日にちなみ毎年この時期に実施している。
 戊辰戦争から141年目に市民ら約500人が往時をしのんだ。
 福島岳風会の二本松吟詠会と安達詩吟会が「戒石銘」「二本松少年隊を弔う」を献吟。
 二本松北小剣舞クラブが剣舞、岳下小居合道部が居合、二本松南小舞踊部が舞踊、二本松剣友会が日本剣道形を披露した。
 29日午前10時から少年隊の墓所がある市内成田町の大隣寺で、墓前祭が営まれる。


岡山
県立東岡山工業高校 方谷駅の模型制作 /岡山
◇大工の技と心意気学ぶ
 県立東岡山工業高設備システム科3年の生徒8人が、卒業制作として高梁市にあるJR伯備線「方谷(ほうこく)駅」駅舎の模型(縮尺30分の1)作りに取り組んでいる。
 担当の難波好幸教諭は「(方谷駅は)妥協を許さない職人技が光る。柱の寸法を実測しても1ミリの狂いもなく、昔の大工さんの技や心意気を生徒に知ってほしい」と期待する。
 方谷駅は、1928(昭和3)年築造の、県内でも有数の歴史を誇る木造平屋建て駅舎。高梁出身の陽明学者、山田方谷(1805~1877)の名にちなんだ。方谷は幕末期、借金で疲弊した備中松山藩を8年で再建、ついには10万両の蓄財を成し遂げた。JR西日本岡山支社によると、方谷を慕う住民の願いに応えた全国初の人名を冠した駅という。
 生徒たちは外壁作りから始め、図面に従って発泡スチロールを切り抜き、柱となるヒノキの角棒をボンドで接着する作業を繰り返した。窓枠や柱の接合部を合致させる作業には、とりわけ繊細さが要求されるという。
 生徒は「難しい」と口にしながらも、柱の先端を斜めに切ったり、紙やすりで少しずつ削り取る作業に熱中していた。武田廉君(18)は「見た目をきれいに仕上げるのが難しい。コンマ以下のミリ単位の作業なので、手先が器用になりそう」と話し、秋山弘樹君(17)は「ピタッとはまった時はとてもうれしい」と笑顔を見せた。外壁に続いて屋根を作り、全体の仕上げに入るという。完成予定は来年1月末。難波教諭は「模型が完成したら、JRや山田方谷の会に寄贈したい」と話していた。【坂根真理】



広島
島津家ゆかり 薩摩焼や切子
 薩摩藩主島津家ゆかりの工芸品を並べる「磯お庭焼と薩摩切子の世界展」が28日、福山市元町の天満屋福山店で始まった。8月3日まで。
 江戸時代に発祥し、藩主が生産に力を入れた薩摩切子と薩摩焼を展示。ガラス製品である薩摩切子は赤や黄色など色鮮やかな小皿や香水瓶など80点、陶器の薩摩焼は香炉や茶わんなど60点を並べた。
 製造に力を入れた幕末の藩主島津斉彬の養女で、江戸幕府13代将軍徳川家定に嫁いだ篤姫は薩摩切子の酒瓶を愛用していたという。


佐賀
県立宇宙科学館:夏の企画展--武雄 /佐賀
 武雄市の県立宇宙科学館で、夏の特別企画展「古今東西 宇宙(そら)へのあこがれ」が開かれている。東洋から西洋、古代から現代の宇宙観、天体観測や宇宙開発などを紹介している。
 幕末に使われた観測道具、宇宙空間で使用できる特殊なNASAカメラの展示に加え、国際宇宙ステーション(ISS)での実験の様子も映像で楽しめる。武雄小1年の井手口太陽君(6)は「楽しくて科学が好きになった」と笑顔を見せていた。
 9月13日までの期間中、ワークショップや実験など多彩なイベントが計画されている。問い合わせは同科学館(0954・20・1666)。【原田哲郎】



コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(21)東大教授・山内昌之 中川宮
■黒幕政治家の悲哀

 政治でいう「黒幕」とは歌舞伎で場面の変わり目に舞台を隠す幕などから来た言葉らしい。米語で黒幕を指すワイアプラーは、操り人形師の意味である。隠然たる力をもち、陰で策略を巡らし人を指図する人は、現代政治でも良い印象をもたれない。

 好き嫌いはあっても、民主党の力がここまで伸びた大きな原動力は、小沢一郎氏の強烈な個性とリーダーシップによるものだが、小沢氏にもどこか古典的な“黒幕”のイメージがつきまとってきた。

 この印象は、自民党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表を歴任し、政治改革と政権交代に執念を賭けてきた政治家なのに不思議なことだ。

 その理由は、人前で進んで語りたがる政治家でなく、自民党からも消えかけている党人派らしい大物党人だという個性も無関係ではない。メディア受けせず、玄人好みのする政治家は現在どうしても評価が低くなるが、小沢氏も黒幕タイプと色眼鏡で見られがちなのはやや気の毒かもしれない。

 ◆クーデターの荒業

 黒幕がいなければ、歴史に大きな変化が起きないこともある。幕末政治の大きな転換点、文久3(1863)年の八月十八日の政変にも一人の黒幕が潜んでいた。それが中川宮である。

 尊皇攘夷(じょうい)過激派嫌いだった孝明天皇の意を受けた中川宮は、薩摩藩と会津藩に同盟を組ませ、長州藩を禁門警備の任から追放してしまった。とても宮様とは思えないクーデターの荒業を裏で仕掛けながら、小心な公卿(くぎょう)たちの動揺を大胆に取り鎮めた人物である。これは、いわゆる七卿落(しちきょうおち)から禁門の変を経て長州戦争を誘発する遠因となった。文芸評論家の野口武彦氏は「黒幕法親王」とうまいネーミングをするが、当を得ているだろう(『天誅(てんちゅう)と新選組』)。

◆次から次へと改名

 宮は黒幕にふさわしく、名前を始終変えた不思議な人物である。孝明天皇に影響を及ぼし始めた時期は、粟田宮や青蓮院(しょうれんいん)宮。安政大獄に連座してからは獅子王院宮となり、井伊直弼が暗殺されると、還俗(げんぞく)して中川宮となり、やがて朝彦(あさひこ)親王を名乗った。そして弾正尹(だんじょうのいん)の職に就いたので、尹宮(いんのみや)と呼ばれるようになる。

 これだけでは終わらない。それから本籍の伏見宮に戻り、現代人にもなじみの深い名の賀陽宮(かやのみや)、ついで久邇宮(くにのみや)となるのだから、忙しいことおびただしい。

 しかし、信頼の厚い孝明天皇が崩御し、尊皇攘夷派が復権しはじめると、黒幕としての精彩や出番を欠くようになり、まさに薩長の藩論を倒幕に切り替えた敵の黒幕、岩倉具視が表舞台に出てくると、神通力を失ったのだ。下級貴族の「岩吉」こと岩倉あたりに圧倒されたのは、やはり皇族の鷹揚(おうよう)さというものであろうか。

 明治に入ると、久邇宮家をつくるが、長州藩との関係が面白くないので新政府にも入らなかった。それでも公家社会に隠然たる勢力を保った宮は、生涯に9人の王子と9人の王女をもうけたというから子福(こぶく)者でもある。
◆辛酸なめ逆境はねかえし

 とにかく、最初は本能寺の僧から出発して辛酸をなめた末に法親王になるのだ。世襲議員でも下積みの苦労を知らない人には、爪(つめ)のあかをせんじて飲ませたいほど人生経験を積んでいた。

 奈良の興福寺一乗院門跡だったころは、奈良奉行の川路聖謨(かわじ・としあきら)に手ずから酌をし、「ワレ」という二人称で気さくに語りかけたというから相当にさばけた人物だったのだろう。下情に通じた闊達(かったつ)さも勢いあまって、僧籍にあるときに女人を近づけ、子をひそかにもうけたともいう。

 さて、黒幕となる条件は相当の世間知にたけていることだ。現代政治で黒幕といえる存在が少ないのは、20代、30代などで政治の世界に入り、他の環境を知らない人間には、無数の逆境をはねかえす試練を重ねておらず、世界観も多元的になっていないから黒幕になりようもないのだ。

 中川宮のように“他人の飯を食う”のは、黒幕とは言わずとも、いつの世でも政治家となる上で最低の修業ではないだろうか。(やまうち まさゆき)


【プロフィル】中川宮 なかがわのみや 文政7(1824)年、京都生まれ。幕末、明治維新時代の皇族、政治家。伏見宮邦家親王の四男。天保7(1836)年に仁孝天皇の養子となり、青蓮院門跡となるが、幕府の条約調印に反対し、安政の大獄で隠居の身に。孝明天皇の信任が厚く、文久2(1862)年に還俗し、中川宮と称する。公武合体派の中心として同3年の「八月十八日の政変」を計画、会津・薩摩藩と協力して京都から長州藩を中心とする尊皇攘夷派を一掃する。同年に元服し、名を朝彦と名乗る。その後も重鎮として国事に当たるが、孝明天皇の崩御とともに孤立。明治8年に新宮号を与えられ、久邇宮家初代となり、伊勢神宮祭主も務めた。明治24年10月、68歳で死去。

 中川宮、幕末のぎりぎり終盤になるとあまり登場してなかったのは、長州嫌い・岩倉とは合わないからだったんですね。





PR
この記事にコメントする
           
お名前
タイトル
メールアドレス
URL
文字色
絵文字 Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
コメント
パスワード   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
会津藩のお庭焼き
by 夢うさぎ塾 URL 2010/06/01 18:06 編集
今日、会津藩のお庭焼きだった親戚の窯元に
行きまして、お庭焼き・・・の検索で、訪問させていただきました。
会津藩祖、保科正之から幕末までの女性系図
「織豊期の土方一族」系図
などを載せています。
遊びに、おいで下さい。
    
お書き込みありがとうございます
by 白牡丹 URL 2010/06/02 00:21 編集
夢うさぎ塾様、

お書き込みありがとうございます。

リンク先をちょっと覗かせていただきました。複雑な系図、歴史好きなのでワクワクしました。

保科正之公、歴史上で尊敬している人物を挙げるとするとベスト3に入れたい方です。

こんなに人徳のある方なのに、女性運が悪かったせいか……会津藩の家訓に「婦人女子の言 一切聞くべからず」という一条が入ってしまったことが、その時代の事情があったとはいえ、とても残念です。

お庭焼きという窯元に興味をそそられましたので、改めてゆっくり拝見させていただきます。
    
この記事へのトラックバック
トラックバックURL:
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新コメント
[12/14 白牡丹(管理人)]
[12/14 ゆーじあむ]
[11/08 白牡丹(管理人)]
[11/07 れい]
[01/21 ゆーじあむ]
[11/15 白牡丹@管理人]
[11/15 ゆーじあむ]
[05/25 長谷川誠二郎]
[07/23 白牡丹@管理人]
[07/23 伊藤哲也]
最新TB
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
プロフィール
HN:
白牡丹
性別:
非公開
自己紹介:
幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
バーコード
Livedoor BlogRoll
本棚
Copyright ©  -- 白牡丹のつぶやき --  All Rights Reserved
Designed by CriCri / Material by White Board

忍者ブログ  /  [PR]