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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日は降ったり止んだりの一日でしたが、やにわにミンミンゼミが激しく鳴き始めました……雨は上がったと感じているのでしょうか。

北海道
市函高生が開港150周年記念し張り絵壁画
 市立函館高校(日向稔校長、生徒954人)の全校生徒が、函館開港150周年を記念し、張り絵の巨大壁画を制作した。解体された函館どつくの大型クレーンや市電、函館山など市民になじみのある風景を描いた力作。1日から7日まで、函館市五稜郭町の五稜郭タワーに展示される。
 壁画制作は同校の学祭に合わせて生徒会が企画。開港150周年を迎えた現在の街の様子を残そうと絵柄を考えた。下絵を描いた模造紙を25枚に分割し、全24クラスが各1枚、実行委が残りの1枚を担当。生徒らは絵に合わせて細かくした折り紙を張り合わせ、約1週間掛けて完成させた。
 作品は、函館山を背景に旧函館区公会堂やハリストス正教会など西部地区の歴史的建造物が多く盛り込まれ、金森倉庫や石川啄木像、五稜郭タワーなど市内の観光地がカラフルに浮かび上がる。大きさはたて6メートル、横7メートル。
 2年生の末永和則君(17)は「苦労した分、張り合わせて完成した時は感動した」、3年生の早坂駿一君(17)も「函館の歴史を感じてほしい」と話す。デザインを担当した三浦薫教諭は「思ったより良く出来上がった。多くの人に見てほしい」と喜ぶ。
 同校ではタワーでの展示後、作品を掲示する場所を探している。問い合わせは同校TEL0138・52・0099。


礎石調査「館城」解明に期待
【厚沢部】町教委は館城跡(国指定史跡)で行っている本年度の発掘調査の一環として、建物の礎石とみられる石列の分布調査を進めている。古文書などによると城内には本丸御殿など複数の建物があり、来年度以降の調査では石列の調査を通じて、城内の詳しい構造が解明されることも期待される。
 館城跡では以前から、建物の土台を支えた礎石とみられ岩が露出。1964年には測量調査も行われた。町教委は、来年度以降の調査に備えて石列の分布状況を調べている。城の南西部には、複数の場所で長径40~50センチの石が分布。長さ40メートルの範囲に数10個の石が並んでいる様子も浮かび上がってきた。町教委の石井淳平学芸員は「記録と礎石の配置を照らし合わせることで、建物の配置など館城の詳細な構造を解明できる可能性がある」と話している。
 館城は松前藩の新たな拠点として1868(明治元)年9月に築城を開始。箱館戦争の戦火が迫る10月末に棟上式が行われたが、11月15日に旧幕府軍の攻撃で炎上した。城の詳しい構造が分かる絵図面などは残っていない。松前藩の役人などを務めた増田伝左衛門幹通が記した「増田家文書」は、藩主が政務を執る表御殿、生活の場だった奥御殿などを記録している。明治維新以後、国内では洋風建築が主流を占め、江戸時代に確立された御殿形式の建物は、皇居などを除けば、館城が最後のケースになるという。
 現地を視察した、館城跡発掘調査検討委員会(藤沼邦彦委員長)は、石列の分布、建築に伴う盛土などの痕跡、築城前の原地形などを調べることで、館城の構造を解明する手掛かりが得られるとし、来年以降の全面発掘も提言している。検討委メンバーで日本の城郭史に詳しい、奈良大学文学部文化財学科の千田嘉博教授は「確認された石列だけでも、長さ40メートルを超える巨大な本丸御殿があった可能性を示している」とし、来年度以降の発掘調査に期待を示す。

 これ、続報を楽しみにしています。箱館戦争ゆかりの史跡であることに加えて、「江戸時代に確立された御殿形式の建物は、皇居などを除けば、館城が最後」、さらに「確認された石列だけでも、長さ40メートルを超える巨大な本丸御殿があった可能性を示している」という談話からも、一体どんな城だったのか……興味津々です。

港まつり開幕、開港パレードで節目祝う
 港町函館の夏を盛り上げる一大イベント「開港150周年記念函館港まつり」(同実行委主催)が1日、開幕した。市民らが函館の歴史にかかわる人物にふんして練り歩く「箱館開港パレード・高田屋嘉兵衛からペリーへ」で幕開け。5日まで多彩なイベントが展開される。
 港まつりは1935(昭和10)年、前年に発生した函館大火からの復興を願って始まった。この年、函館が開港した1859年から「喜寿」の77年目に当たることから、盛大な祭りとなった。当時は7月に行われたが、1966年から8月に移行した。
 パレードは午後4時すぎに高田屋嘉兵衛銅像前(函館市宝来町)を出発。花泉舞衛社中による高田屋嘉兵音頭や、回転太鼓、ふとんだんじりなどの一行を先頭に、嘉兵衛の7代目高田嘉七さん(78)、第30代ミス函館らが車上から手を振りながら観客の前を通った。また、陸上自衛隊函館駐屯地が製作した山車「黒船号」「開国五カ国号」も加わり、行列を華やかに彩った。
 約1時間でウオーターフロント特設ステージ(同市末広町)に到着し、箱館港歴史セレモニーを実施。留学生たちがペリー提督などを演じ、開港時の歴史劇を披露した。その後の開会式では実行委の木村孝男会長が「函館が祭りに染められて開港150年の節目を祝い、活気づいた市民が喜んでくれることを確信しています」とあいさつした。
 2日は「ワッショイはこだて(十字街・松風コース)」が午後4時15分から行われ、2年ぶりに「青森ねぶた」、新潟、横浜、神戸、長崎の開港4都市の各祭りが第2部に登場する。



秋田
「更生保護の父」後世へ 現役保護司が自費出版 川村の生涯小説化
 華々しい政治の世界から一転獄中へ、晩年は私財をなげうって元受刑者の社会復帰に尽力。県内唯一の更生保護施設「秋田至仁会」(秋田市楢山)の創立者川村養助(1864~1905年)のそんな功績と波瀾(はらん)万丈の人生を後世へ伝えようと、建設会社社長で保護司の大歯省三さん(59)=同市御野場=が「秋田県更生保護の父 小説 川村養助物語」を自費出版した。収益は、川村の供養に全額充てたいとしている。

 かねて川村の功績に注目していた目黒勵(はげむ)・県保護司会連合会長(72)=同市土崎港=が3月、連合会の会合で「川村先生の偉業が世間に知られていない。今では墓を訪れる人も少ない」と嘆いたのを機に、川村の生涯を調べ始めた大歯さん。「至仁会創立者として漠然とは知っていたが、こんなにも偉大な人だったのか」と感動し、5月に冊子にまとめた。
 大歯さんの「川村養助物語」や、日本更生保護協会発行の「更生保護史の人びと」などによると、川村は幕末期、山本郡下岩川村(現在の三種町)の地主の家に生まれ、維新後は20代で同村長と県議会議員を兼任。しかし村役人のミスの責任を問われ、公文書偽造などの罪で重禁固2年の実刑判決が言い渡されたことで、人生の転機を迎える。
 川村は秋田監獄本署(現在の秋田刑務所)服役中、受刑者たちが出所しても「前科者」と冷たく扱われ、社会復帰がままならず再犯へ走る例が多いことに心を痛める。出所後の1900年、同市川尻の自宅を「秋田出獄人保護所」(後の至仁会)とし、全財産を投じて出所者の寝食の面倒を見て、仕事も世話した。保護所開設5年目、無断外出した入所者を探して吹雪の街を歩き回るうちに肺炎を患い、更生保護にささげた短い生涯を閉じた。
 大歯さんが特に着目したのは、川村が親族の反対を押し切り、一家離散も顧みず、更生保護のために全財産を投げ打った点だ。小説の後記で川村の孫娘が経済的に恵まれないまま亡くなったエピソードを挙げ「もし川村先生が生き方を変えていたら、妻子や孫たちの人生は変わっていたかもしれないが、至仁会は創設されなかった。安易な気持ちで更生保護事業への参加は許されない」と述べている。
 大歯さんは25年ほど前から、経営する会社で延べ150人の元受刑者を雇ってきたが、多くは再び事件を起こし刑務所へ戻って行った。会社の車を持ち逃げされたり、雇用者として警察で事情を聴かれたりもした。出所者と向き合うことの大変さを知っているからこそ、川村の偉大さを実感し「家族に迷惑を掛けながら、元受刑者と付き合ってきた自分と共通するものも感じた」という。
 「川村養助物語」はA5判16ページ、350円。これまでに約700冊を売り上げ、収益は同市八橋の全良寺にある墓の補修費などに充てる。4日の命日には、目黒会長の発案で関係者が墓参りをする。問い合わせは大歯さんTEL018・839・3409


富山
歴史ロマン感じて 大名家秘蔵の名刀展にぎわう
 富山市の県水墨美術館で開かれている「大名家秘蔵の名刀展―源平の武将から維新の志士たちまでの愛刀―」(日本美術刀剣保存協会富山県支部、富山新聞社など主催)は開幕2日目の1日、若者や女性グループを含む多くの愛好家が訪れ、歴史を彩った刀剣の輝きに見入った。
 有名武将の刀に人気が集まり、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元から奪い取った刀の前では、「織田尾張守信長」と刻まれた金象嵌銘に歴史のドラマを感じ取っていた。また14代将軍夫人和宮の元いいなずけである有栖川宮熾仁(たるひと)親王が、東征軍大総督として江戸城に乗り込む時にさした「村正」では、昨年の大河ドラマ「篤姫」を思い出して語り合う姿も見られた。
 2日午前11時と午後2時から刀剣の取扱い方・手入れの実演が行われる。同展は9月23日まで。


長崎
亀山社中“復活”ファンらでにぎわう 長崎で記念館がオープン
 幕末の志士坂本龍馬が設立した貿易結社「亀山社中」の建物を復元した長崎市亀山社中記念館が1日、同市伊良林2丁目の同社中跡にオープンした。
 記念館は長崎市街を一望できる高台にある。亀山社中が使用した家屋を市が約2900万円かけて往時の間取りに改装。龍馬が身に着けた紋服、刀、ブーツのほか、手紙(いずれも複製品)など約30点を展示。紋服を羽織ったり、月琴を弾く体験もできる。
 初日の完成披露会は約50人が出席。田上市長は「全国の龍馬ファンが思いをはせる場所がついに完成した」と述べ、用地を市に無償貸与した本村勝実さん(60)=同市江平=へ感謝状を贈呈。坂本家9代目当主の坂本登さん(72)=東京都小平市=らがテープカットした。
 最初の入館者は、長崎市東小島町の馬渡由美さん(47)と中学生の杏樹さん(12)親子。来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」主役の福山雅治さん(40)ファンという由美さんは「一番乗りを目指していた」と笑顔。夏休みの自由課題で龍馬を取り上げる杏樹さんは「中は思ったより広い。展示資料を見て勉強できた」と話した。
 市は本年度2万5千人、来年度以降は年間5万人の入館者を見込む。入館料は大人300円、高校生200円、小中学生150円。


亀山社中記念館が一般公開
 幕末の志士、坂本竜馬がつくった日本初の貿易商社とされる「亀山社中」跡(長崎市伊良林)の建物を当時の姿に復元した亀山社中記念館の一般公開が1日、始まった。
 亀山社中は1865年の設立で、武器購入のあっせんなどを通じて薩長連合に貢献。記念館は当時の柱や梁(はり)を生かして復元され、竜馬が身を隠したとされる屋根裏部屋も公開されている。竜馬が鹿児島に新婚旅行した際の書簡などの展示品(複製)も並び、この日は朝から来館者が詰め掛けた。
 復元は市の事業。来年はNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が放映され、竜馬ブームが起きるのを期待して、「日本回天」の足掛かりとなった舞台をよみがえらせたが、停滞する長崎観光の「回天」となるか。 (長崎)


亀山社中記念館:長崎市にオープン 龍馬ファンら続々訪問
<亀山社中記念館>長崎市にオープン 龍馬ファンら続々訪問
亀山社中記念館 長崎市にオープン 龍馬ファンら続々訪問
 幕末の志士・坂本龍馬が設立した日本初の商社「亀山社中」跡を、長崎市が改修・整備した「亀山社中記念館」(同市伊良林2)が1日、オープンした。龍馬ファンや観光客が続々と訪れ、坂本家の子孫、坂本登さん(72)=東京都小平市=らがテープカットした。
 往時の間取りを正確に再現。龍馬が寄り掛かったという「龍馬柱」の床の間に、愛用の刀「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」(複製)などを展示している。初の入館者は地元の中学1年生、馬渡杏樹(まわたり・あんじゅ)さん(12)で、記念品として幕末当時のカステラを復刻した「海援隊カステラ」が贈られた。馬渡さんは「夏休みの自由研究で来ました」と展示品に熱心に見入っていた。【錦織祐一】




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