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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 戸籍上生存している方々の話題が続いてますね。生きていれば180歳台とか、土方さんたちと同年代なんですね。
 ひとりぐらい本当に生きてらっしゃる方がいてもいいんじゃないか、なんて、思ったりして。

北海道
雑記帳:「キャラ弁」カリスマ主婦が実演 コンテスト優勝の「土方歳三弁当」
 食材で動物などを表現する「キャラ弁」のカリスマ主婦「まゆ子」として知られる札幌市の小松順代さんが、インターネットのレシピ投稿サイト主催のコンテストで優勝し、24日に記念の実演を披露した。
 コンテストは「幕末の人物」がテーマで、まよ子さんが作ったのは「土方歳三弁当」。ご飯で土方が戦死した五稜郭、魚肉ソーセージで桜、家紋を卵、土方の顔をチーズやのりで仕上げた。
 「人気の坂本竜馬ではなく、あえて北海道ゆかりの土方を選んだ」という小松さん。歴史人気でキャラ弁作りの仲間が増えることを期待する。作り方のコツは「料理というより図工です」。【中川紗矢子】

 完成品の弁当の写真が見たかったです。

箱館奉行所入館6万人を突破
 国の特別史跡「五稜郭跡」に復元された「箱館奉行所」(加納裕之館長)は、29日で開館1カ月を迎える。オープン効果や夏休み期間と重なったこともあり、入館者数は19日に計5万人を突破し、26日現在で計6万3521人と好調に推移。復活した同奉行所は、函館の新たな観光スポット、文化の発信基地として順調なスタートを切った。
 同奉行所は4年の工期を経て6月30日に完成し、7月29日にオープンした。総工費は約28億円。幕末当時、約2700平方メートルあった同奉行所の3分の1に当たる、約1000平方メートルが復元された。
 開館初日はあいにくの雨模様だったが、1245人が来場。オープン5日目の8月2日には1万人を超えた。お盆休み中は多くの観光客でにぎわい、13日からの3日間で1万430人が訪れ、14日は1日当たり最多の4116人が入場した。
 加納館長は「来場者には大広間や、渡り廊下に腰かけて風を浴びながらゆっくりと幕末に思いをはせる楽しみ方が人気のようだ」と話す。また同奉行所の建設過程を映像で紹介するシアターが人気を集めている。来客層は観光客や全国からの修学旅行生のほか、函館市や周辺の小学生が写生に訪れる姿も多いという。同奉行所は「9月のシルバーウイーク以降、客足が落ち着くのでは」とみている。
 今後は市中央図書館など周辺施設と連携して、同奉行所を活用した歴史講座などを考案しているという。加納館長は「今週からアンケート調査を始めた。1カ月ごとにまとめて来館者の声を運営に生かしたい」と話している。所管する市教委は「これだけの人に来てもらいありがたい。秋に向けてまた多くの人に箱館奉行所を見てもらいたい」としている。


山形
「町人討ち」汚名返上? 幕末の志士清河八郎 新資料発見
 尊皇攘夷(じょうい)派の幕末の志士で、山形県庄内町清川地区出身の清河八郎が江戸で起こした「町人無礼討ち」事件に関し、新たな資料がこのほど、千代田区四番町歴史民俗資料館(東京)の調査で見つかった。生誕180年のことし、「殺人者」などとして描かれてきた負のイメージに対し、江戸幕府の権力としたたかに渡り合った人物像が浮かび上がった。

 清河本人の著書などによれば、1861(文久元)年5月20日、江戸市中で仲間と酒を飲んだ帰り道、町人風の男がしつこくからんできたため、清河はこの男を切り捨てた。自ら奉行所に訴え出ずに逃走したとして、全国に手配される身となり、「酔って町人を切り捨てた」という評伝につながったとされる。
 新資料は、資料館が2006年に入手した江戸北町奉行所同心、山本啓助の手帳。縦約13センチ、横19センチ、93枚からなる。清河を追って新潟や庄内を回った記録だ。
 資料館調査員で早稲田大の西脇康講師(日本史学)らの調査で、手帳の中に、事件前日の5月19日、南北の奉行所合同で清河ら尊皇攘夷の有力志士8人を捕縛する命令が下ったとする記述が見つかった。
 幕府の陰謀は指摘されてきたものの、無礼討ちの前に奉行所が組織的に動いていたことを示す資料は初めて。西脇氏は、清河に倒幕の意志はなかったが、開国に傾く幕府にマークされていたことは間違いないとして、「恐らく、捕縛の網が張り巡らされた上で追っ手の1人がからみ、本人は絶体絶命を察知して刀を抜いたのではないか。酔った上での軽挙妄動とは思えない」と分析する。
 西脇氏は一方で「清河は『不慮の事』として片付けており、幕府の関与には触れなかった。登用されたい思いの表れ」と読む。清河は逃亡生活の後、幕府から将軍警護を命ぜられて浪士組を結成。しかし、最後は幕府の刺客に暗殺された。
 庄内町の清河八郎記念館の広田幸記副館長は「政治的な伏線の上での事件で、酒乱の殺人犯ではないことを証明するものだ」と評価している。
 清河八郎のマイナスイメージを決定的にしたのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」とされる。日本近世文学に詳しい山形大の山本陽史教授(日本文学)は「清河は保守派の性格が強調され、坂本竜馬の引き立て役として描かれた」と説明。「(新資料は町人討ちの)行動を説明する傍証であり、清河の名誉回復にもつながる」と話している。
 手帳は10月4日~11月14日に四番町歴史民俗資料館で開かれる企画展で初公開される。


長野
象山、来年生誕200年、功績次世代に 9月松代でシンポ
 長野市松代町出身で、来年生誕200年を迎える幕末の思想家、佐久間象山(1811~1864年)の功績を顕彰しようと、地元住民らでつくる実行委員会が記念事業を計画している。第1弾として9月26日にシンポジウムを開催。「郷土の偉人の活躍を次世代に伝えたい」と参加を呼び掛けている。
 シンポジウムは午後1時半から信州松代ロイヤルホテルで開き、信濃毎日新聞の中馬清福主筆が「佐久間象山の先見性と日本外交」と題して基調講演。続いて、象山の研究者で信大全学教育機構の坂本保富教授、紳士服大手AOKIホールディングスの青木拡憲会長(長野市出身)ら5人が、象山の人物像などについてパネルディスカッションをする。
 地元の商工、教育、自治会関係者らでつくる実行委は同日、生誕200年記念の銅像を象山神社に設置、現地で除幕式を開く。
 記念事業のメーンイベントは来年5月21、22日に同神社で開く記念大祭。記念講演や式典のほか、境内に舞台を設営し、住民らが太鼓や雅楽などの芸能を奉納する。
 松代藩士の長男として生まれた象山は、蘭学や砲術など文武に通じ、門下生には勝海舟や坂本竜馬、吉田松陰らがいた。幕末の混乱期、開国論を説いたが尊王攘夷(じょうい)派の凶刃に倒れた。
 実行委の安藤喜久雄会長(78)は「象山先生に学んだ多くの人たちが今の日本の礎をつくった。先生の先見性や功績を、記念事業を通じて県内外の人に広く知ってほしい」と話している。
 シンポジウムの聴講希望者は住所、氏名、年齢を明記し、はがき(〒381-1231長野市松代町松代1361)か、ファクス(026・278・2554)で、長野商工会議所松代支所内の実行委「象山シンポジウム」係へ。先着650人。無料。




石川
御算用場の発給文書確認 金沢の田井菅原神社
 映画「武士の家計簿」で描かれる加賀藩の御算用場(ごさんようば)が発給した文書が 25日までに、金沢市天神町1丁目の田井菅原神社で確認された。同神社の宮司を務める 田邊家の当主が藩政期に、村々を管理する十村役(とむらやく)に任命されたことを示す 書状など20点で、御算用場の押印もある。御算用場が計算業務のほか、農政事務を担っ ていたことが分かり、映画に登場する御算用者たちの激務ぶりがうかがえる。
 田邊家は3代藩主前田利常の時代から幕末まで代々、十村役を務め、石川郡内の十村組 全8組のうち最大の村数を支配した。
 1676(延宝4)年に御算用場が石川郡百姓中にあてた文書では、田邊家の2代目次 郎吉が石川郡58カ村の十村役に就任したことを示し、次郎吉の指示に従うよう命じてい る。押印は、円の中に「算用場」の文字が掘られ、味わい深いデザインとなっている。
 同神社にはほかに、7代目五兵衛が次郎吉に改名すること許可する1822(文政5) 年の御算用場発給の文書などもあり、こちらは、映画の主人公猪山直之や父信之が現役の 御算用者だった時代と重なる。押印は角形で時代とともに印鑑のデザインが変わったとみ られる。
 加賀藩の御算用場は、藩の財政、経理、会計のほか、農政、統計など、百万石の行政事 務を一手に担っていたことが分かっている。金沢市立玉川図書館近世史料館の宇佐美孝専 門員は「御算用者がそろばんを使った計算だけではなく、多岐の業務を担当していたこと が確認できる文書といえる」と解説した。
 田井菅原神社の田邊良和宮司は「180年前に先祖が猪山家と一緒に仕事をしていたこ とを考えると、歴史の深さを感じる。映画公開が待ち遠しい」と話した。
 映画「武士の家計簿」(北國新聞社、アスミック・エース、松竹製作)は11月27日 に石川県で先行上映される。


京都
桂小五郎が恩人に感謝の短刀 京都・霊山歴史館で公開へ
 幕末の志士、桂小五郎(のちの木戸孝允)が、潜伏先の但馬(兵庫県北部)で世話になった恩人に贈った短刀が、京都市東山区の幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」に寄贈され、同館で31日から始まる「大龍馬展」(第3期)で、一般公開される。
 長州藩士の桂は、京で長州藩が薩摩藩などを相手に戦った「禁門の変」(1864年)で敗れた後、但馬の町人、広戸甚助に助けられ逃亡。桂は約9カ月の間、偽名を使って但馬で過ごしたと伝えられている。甚助の父、喜七は、娘に身の回りの世話をさせ、逃亡生活を支えたという。
 短刀(刃渡り約26センチ)は桂の護身用で、“命の恩人”の喜七に贈ったとされる。平成19年、喜七らの子孫にあたる女性が「桂に関する資料が散逸しないように」などとして、同館に寄贈。「大龍馬展」で展示されることになった。
 同館の木村武仁学芸員は「短刀に美術的な高い価値はないが、幕府に命を狙われていた桂が護身用の短刀を贈ったことから、大きな恩義を感じていたのが伝わってくる」という。
 桂の潜伏先の一つだった兵庫県豊岡市の城崎温泉の旅館「つたや」(当時は松本屋)の社長の長男で、桂の但馬での足跡を調べている大学生、鳥谷武史さん(22)は、「桂が恩人を丁重にもてなしたことは聞いていましたが、改めて情に厚い人だと分かった」と話している。


土佐藩の仲間埋葬頼む手紙、霊明神社で見つかる
 「天誅組の乱」で知られる土佐藩出身の幕末の志士、吉村寅太郎(1837~63年)が、病死した仲間の埋葬を京都市東山区の霊明神社に依頼した手紙が同神社で見つかった。同神社は坂本龍馬の葬儀を行ったが、手紙の日付が龍馬の死の4年前にあたることから、研究者は「神社が以前から土佐藩とつながりがあったことを示す貴重な史料だ」としている。

 手紙は霊明神社で軸物にして保管されており、幕末史に詳しい歴史地理史学者の中村武生さん(42)が解読した。日付は1863(文久3)年7月29日で、吉村から神社の神主にあてている。

 内容は、土佐出身の志士仲間で手紙の前日に病死した宮地宜蔵の埋葬依頼で、葬儀の細かい打ち合わせなどを記している。宮地の霊明神社への埋葬は、明治時代に編集された「維新土佐勤王史」に記述があるが、実際に埋葬を裏付ける史料は見つかっていなかった。

 霊明神社はもともと長州藩との関係が深く、多くの志士の埋葬記録がある。中村さんによると、宮地の埋葬も長州藩との関係で行われたと推測され、そのころから土佐藩と神社のつながりができ、のちに坂本龍馬や中岡慎太郎の埋葬にもつながっていくと考えられるという。

 中村さんは「志士の埋葬や祭祀(さいし)の実態は霊明神社を抜きには語れず、実証的な史料が出てきたことの意義は大きい。神社にあるほかの保存史料の翻刻など、研究を進展させることが必要だ」と話している。

 【天誅組の乱】 1863年、吉村寅太郎ら尊皇攘夷(じょうい)急進派が倒幕を目指して挙兵した事件。8月17日に大和(奈良県)の代官所を襲撃したが、翌日、尊攘派が京都から追放される「八月十八日の政変」が起き情勢が一変、9月末に壊滅した。

山口
吉田稔麿の伝記、20年ぶり再復刻 松蔭最愛の弟子
 限定復刻を専門にしている周南市の史料出版社「マツノ書店」が、波瀾(はらん)万丈の生涯を送った萩市出身の幕末の志士、吉田稔麿(としまろ)(栄太郎)の伝記「松陰先生と吉田稔麿」(来栖守衛著)を、20年ぶりに再復刻した。
 同著は、1938(昭和13)年に山口県教育会から刊行された後、90(平成2)年にマツノ書店が復刻。今回は、B6判の原本をA5判に拡大するとともに増補もした。
 稔麿は16歳のときに、幕末の思想家、吉田松陰が主宰する松下村塾に入った。松陰最愛の弟子とされ、塾の基礎づくりに貢献。高杉晋作、久坂玄瑞(くさか・げんずい)、入江九一(くいち)とともに「松門四天王」ともいわれた。1864(元治元)年、尊皇攘夷(じょうい)派の勢力回復のため、諸藩の志士と京都の池田屋で会合中、新選組に襲撃されて倒れた。享年24歳だった。
 再復刻版は、稔麿の出生、家系、松下村塾での教育、吉田松陰との交流などが、松陰、父母と交わした書簡などの史料とともに記され、新たに増補として「吉田稔麿の政治思想」(三宅紹宣)、「幕末志士達のアメリカ独立戦争認識」(同)、「池田屋事変における吉田稔麿」(町田明広)の項が加えられた。
 再復刻に寄せて萩博物館の一坂太郎・特別学芸員は「栄太郎(稔麿)の実像を史料から読み解く最高のテキスト。幕末の動乱に身を投じた1人の若き草莽(そうもう)の息吹が伝わってくる好著だ」と記している。
 1冊8千円(税込み・送料300円)。限定400部で、残部は少ないという。申し込み、問い合わせはマツノ書店(0834・21・2195)へ。


徳島
殿様の肖像:歴代徳島藩主 13代藩主・蜂須賀斉裕 /徳島
◆13代藩主・蜂須賀斉裕(1821~1868)

 ◇実父は11代将軍・徳川家斉
 ◇倒幕か、佐幕か 政治的に苦悩
 13代・斉裕(なりひろ)は幕末期の殿様だ。実父は11代将軍・徳川家斉であり、一時、幕府の陸軍総裁・海軍総裁を兼務するなど、中央政界でも一定の役回りを演じた。一方で、そうした斉裕の立場は、倒幕へと向かう時流の中で、徳島藩の立ち位置に影を落とした。倒幕か、佐幕か。徳島藩は明確に姿勢を打ち出すことができないまま、目立った活躍もなく明治維新を迎える。さらには、対照的に戊辰戦争に積極的に参加した藩の筆頭家老・稲田家との間で、明治初めに発生した庚午(こうご)事変につながったと考えると何とも言えない。

   ◇

 斉裕の実父・家斉は、子だくさんで知られる。50人を超える子をなし、息子たちの多くを大名家に養子に出した。1821年に江戸城大奥で生まれた斉裕も、27年に12代藩主・斉昌の養子に出され、43年に家督を相続している。斉裕と仲のよかった兄弟に、尾張徳川家を継いだ徳川斉荘(なりたか)がおり、斉荘とは茶道を通じた交流があった。さらに、斉荘死去の際には、斉裕が形見分けで掛け軸をもらったことなどが明らかになっている。

 斉裕が殿様になった徳島藩はまぎれもない大藩であるが、同時に、課題を山のように抱えていた。中でも相変わらず続く財政の厳しさは大きな悩みの種で、斉裕も家臣の知行を3割カットする非常手段に踏み切っている。また後に、ペリー艦隊が浦賀に現れた時、江戸湾の警護を命じられた際に、原士(近世初期に取り立てられた半農半士の在郷の武士)に出動を命じたことも、経費節減のためだったという指摘がある。

 外を見てみれば、200年にわたって鎖国し、天下太平をおう歌していた江戸幕藩体制が、外国船の来航が相次ぐ中で揺らぎ始めていた。徳島藩でも、斉裕が養子に入った2年後の29年には、牟岐沖に異国船が現れており、外国勢力の存在が強く認識されている。

 徳島藩は現在の徳島県と併せて淡路島を有しており、京や大坂を守る上で地理的に重要な位置を占めた。そのため、開国前から海防策を図ることが迫られ、中でも淡路島に多くの領土を抱える筆頭家老・稲田家に大きな役割が求められた。その結果、稲田家は急速に規模を膨張させていく。

 「県史36 徳島県の歴史」(山川出版社)によると、天保年間(1830~44年)ごろ、稲田家の規模は約500人から約1300人に急増、さらに49年には3000人に到達した。また天皇のいる京を守る任務は、家臣たちが尊皇攘夷の思想でまとまる背景にもなったという。

 1853年に黒船が来航し、いよいよ日本は開国に踏み切った。徳島藩でも軍制を英国式に改めたり、淡路島に砲台を築いたほか、江戸の藩邸に藩校を設立するなど藩士の教育にも力を入れていった。特に軍制改革は他藩と比べずいぶんと早い時期に行われたようで、各藩が徳島藩に模範をとったという。だが、一連の改革に要する費用のため、徳島藩の財政はますますひっ迫の度合いを強めていったようだ。

 中央政界においては、斉裕は朝廷と幕府の提携により政局を安定させようと図る公武合体路線を支持した。62年の幕政改革「文久の改革」では、幕府の陸軍総裁・海軍総裁を兼任。しかしわずか1カ月で職を退いている。また62年には、斉裕に公武周旋、後に14代藩主となる子の茂韶(もちあき)に京都守衛の御内勅が出されるなど、孝明天皇からの信頼も得ていたようだ。

 しかし明治維新に向かって時代が進む中、公武合体路線は色あせ、徳島藩もその立場をあいまいなものにしていった。1864年の第一次長州征討には参戦するが、第二次長州征討では最終的に讃岐(香川県)沖までしか軍を進めなかった。徳川家出身である斉裕が倒幕へと色合いを深める世情に政治的に苦悩し、それが藩の姿勢に反映された可能性は高い。

 その苦悩は、どうやら斉裕の命も奪ったようだ。斉裕は、鳥羽伏見の戦いが発生し、戊辰戦争が始まった1868年初めに、48歳の若さで亡くなってしまう。藩医・関寛斎の記録には、もともと酒が好きだった斉裕が晩年、酒におぼれ、同時にうつ病らしい症状を発していたことが書かれている。

 斉裕の死の直前には、戦火は徳島藩にも及んでいる。幕府と薩摩の軍艦が徳島藩領の沖合で、日本史上初の洋式軍艦の近代的海戦となる由岐沖海戦を繰り広げたのだ。両軍の兵士らは由岐に上陸、領民たちを恐慌に陥れた。

 徳島城博物館の小川裕久学芸員は「当初は一橋派・開国派の有志大名として行動していた斉裕も、公武合体といった殿様レベルの構想よりも歴史が急速に展開した結果、幕末史から取り残されてしまった」と話す。

   ◇

 斉裕には、印象深い逸話が残っている。死没する前年の67年、英国公使パークスの一行が徳島を訪れた際のものだ。英国外交官のアーネスト・サトウの記録によると、一行は斉裕から歓待を受けたほか、練兵場で洋式操練を閲兵するなどした。その際、斉裕はサトウに「隠居してイギリスへ行ってみたい」とこっそり打ち明けたという。果たして、日々の苦悩が言わせた言葉だったのだろうか。

 明治時代に入って、斉裕の子孫である蜂須賀侯爵家では代々、英国に留学していく。同家の親英的な姿勢の原点が、苦悩の中で斉裕が抱いた遠い西洋へのあこがれだったと推測するのは、歴史に物語を求めすぎだろうか。【深尾昭寛】



高知
「龍馬の銃」同型、記念館で展示認められず 県警が保管
 県立坂本龍馬記念館(高知市浦戸)は27日、龍馬が京都・寺田屋事件で使ったとされる拳銃と同型の拳銃の展示が銃刀法違反(所持の禁止)にあたる可能性があるとして、展示を中止した。拳銃は当面、県警で保管される。
 県文化・国際課によると、銃刀法3条2項で、国や地方公共団体の職員が、研究や公衆の観覧のために所持することが認められている。だが、同館は管理運営が財団法人のため、所持が認められない。県内にある県立博物館4施設はすべて財団法人で、これら施設での展示もできないとみられる。
 この拳銃はアメリカのスミス&ウエッソン社が幕末から明治初めにかけて製造した回転式6連発の「モデル2アーミー(32口径)」。同館では長年レプリカを飾っていたが、松山市の男性(64)から今月初めに寄贈され、22日から展示していた。
 同課は「県警と協議して展示できる方法を考えたい」。同館の森健志郎館長(68)は「龍馬の手紙の次に人気なのがこの拳銃。本物をなんとか展示できないか」と話す。
 県内では昨年11月、佐川町の町立青山(せいざん)文庫で、県内の民家から見つかった同型の拳銃が展示されたことがある。


龍馬ゆかり 横須賀PR 「土佐・龍馬であい博」高知市内などで開催中
 幕末の志士・坂本龍馬の妻、お龍の墓がある神奈川県横須賀市をアピールするブースが27日、高知市内などで開催中のイベント「土佐・龍馬であい博」のJR高知駅前メーン会場に設けられた。
 龍馬ゆかりの地同士が協力して観光客誘致につなげようと、高知県と横須賀市、同市内に路線がある京浜急行(東京都)が企画した。
 ブースでは同急行沿線にある龍馬ゆかりの地を紹介したクイズ形式のパネルを展示。また、「おりょうの月琴」と名付けられたストラップや、龍馬が師事した勝海舟が航海の成功を祈願した東叶神社(同市)のお守りを販売している。
 横須賀市の夏のイベント「よこすか開国祭」のイメージキャラクター「ペリリン」の着ぐるみも登場し、会場内で子供たちの人気を集めていた。


これが龍馬の「いろは丸」 長崎の資料館で絵図発見
 幕末の志士、坂本龍馬らが乗船した蒸気船「いろは丸」とみられる絵図が、長崎市平野町の市歴史民俗資料館で見つかり、31日まで同館で展示されている。いろは丸の絵図や写真はこれまで見つかっておらず、同館は「龍馬にまつわる貴重な資料」としている。入館無料。
 いろは丸はイギリス製の船で、龍馬の率いる海援隊が大洲藩(現・愛媛県大洲市)から借り受けた。絵図は、幕末に長崎港に入港した艦船などを描いた「白帆注進外国船出入注進(しらほちゅうしんがいこくせんでいりちゅうしん)」(佐賀県・鍋島報效〈ほうこう〉会所蔵)の中にあった。
 永松実館長が企画展「長崎の海と船展」の準備中、描かれた年代などから、いろは丸の可能性があると気づいた。龍馬を研究する「現代龍馬学会」の織田毅さんに鑑定を依頼。船中央の旗の模様が大洲藩主加藤家の家紋と一致することや、記録に「四国船」との記述があること、同時期に長崎に寄港したという大洲藩の記録と重なることなどから、「いろは丸にほぼ間違いない」と結論づけたという。
 いろは丸は1867年、海援隊のメンバーら34人を乗せて長崎から大阪に向かう途中、瀬戸内海で紀州藩(現・和歌山県)の蒸気船「明光丸」と衝突し、沈没した。日本初の蒸気船同士の海難事故として知られている。


佐賀
築地反射炉:在来炉の廃棄土坑か 調査指導委が指摘--佐賀・幕末遺産 /佐賀
 佐賀市の幕末遺産の築地反射炉跡で今月見つかった廃棄土坑について、専門家でつくる市重要産業遺跡調査指導委員会は25日、大量に出土した鉄くずの状態から、反射炉の廃棄土坑ではない可能性を指摘した。
 指導委は現地を視察した後に委員会を開催。土坑から出土した鉄くずが木炭と混じった状態で見つかったことから、会長の鈴木一義・国立科学博物館主任研究官が「反射炉では鉄と燃料が一緒にならない。在来の炉から出たものを捨てた場所ではないか」との見方を示した。
 佐賀藩の反射炉では原料の鉄を在来の炉で形を整えた後、反射炉に入れたという記録が残っており、指導委では、その在来炉の廃棄土坑だったとの見方が強まった。
 反射炉の近くには操業で出る鉄くずなどを捨てる土坑があったと考えられ、今回の廃棄土坑の発見は、不明なままの反射炉本体の位置を特定する有力な資料になるとみられていた。【姜弘修】


コラム
【幕末から学ぶ現在】(76)東大教授・山内昌之 椋梨藤太
■政治の正義派と俗論派
 政治とは面白いものだ。小沢一郎氏と鳩山由紀夫氏は「政治とカネ」にまつわる疑惑でひとまず辞職したが、参院選挙後いくばくもなくして軽井沢に集まり気勢を上げた。民主党内では小沢氏を代表選挙に担ぎ出そうとする動きが高まる一方だというのだ。検察審査会に審議が付託された政治家を首相にする構図に、疑問を感じない一部民主党議員も相当に神経がずぶといのではないか。
 他方、国民世論は圧倒的に小沢氏の再登場に反対している。もし小沢氏が選挙に出るなら、菅直人首相や仙谷由人官房長官らの現体制執行部は、世論をバックに徹底抗戦を辞さないだろう。権力を握る側がむざむざと敵に城を明け渡す法は滅多(めった)にない。民主党内の権力闘争は相当に熾烈(しれつ)になるはずだ。さしずめ仙谷氏や閣僚の多数派らは、高杉晋作の命名法を借りて、自らを「正義派」、小沢氏支持者らを「俗論派」とでも定義したい気分であろう。
 ◆処分後に復帰、政敵粛清
 幕府との戦争という長州藩存亡の危機に際して、実際に政務座(藩庁)の権力を握ったのは高杉に俗論派と名付けられた椋梨藤太である。藤太は、鎌倉時代に家系が遡(さかのぼ)り小早川隆景(たかかげ)にも仕えた名家の出身であり、長井雅楽(うた)や中川宇右衛門(うえもん)らの流れを汲(く)む保守派の逸材として右筆(ゆうひつ)(政務役)を務めた。文久3(1863)年8月18日の政変で京都を追われた長州藩の失地回復を目指し俗論派を糾合したが、正義派の反発に遭(あ)って隠居処分を受けた。しかし幕府軍が長州国境に迫ると、政務役に復帰して禁門の変に関与した政敵を粛清したのである。
 もともと長州藩には村田清風(せいふう)に始まる改革急進派のラインと長井雅楽につながる保守穏健派の流れの対立抗争があった。藤太も周布政之助(すふ・まさのすけ)を終生のライバルとして争い、しまいには彼を自刃に追い込んだ。右筆となった藤太は、黒船来航の嘉永6(1853)年に罷免され、周布が政務役筆頭となる。翌年に吉田松陰の密航が未遂に終わり野山獄に収監されると、安政2(1855)年に周布は政務役を免ぜられ、代わって藤太が右筆に再任された。安政5(1858)年には周布が再び政務役に就くなど、長州藩の政権交代はめまぐるしい。それでも血の粛清はなかった。藤太に言わせるなら、粛清をもちこんだ責任は正義派にあるのだ。実際に、「航海遠略策」を唱えた長井雅楽や佐幕派の坪井九右衛門(くえもん)らは文久3年の馬関(ばかん)戦争の前後に処刑され、藤太も失脚の憂き目を見るからだ。
 しかし藤太らのカムバックを機に、長州藩では君命の形をとった処刑が相次いだ。禁門の変から幕長戦争の責任をとって3家老が切腹、4参謀が斬首されたのは陰惨であるが、これをすべて藤太の責任に帰するのは「正義派史観」の偏向というべきだろう。もし藤太らの俗論派が指導する藩政府軍が高杉晋作の率いる諸隊に長州最大の内戦、太田絵堂の戦いで勝利していたなら、歴史は「俗論派史観」で書き換えられていた可能性も高いのである。すると、奇兵隊などは浮浪の反秩序集団にすぎず、高杉や桂小五郎なども君命に背いた不義の士として青史から抹殺されていたのは確実なのだ。
 ◆すべての責めを負い斬首
 正義派との戦いに敗れた藤太は、桂小五郎の帰国によって藩論が再び倒幕に統一された結果、政治生命を失った。領外に脱走した彼は、津和野藩領内で捕まり萩にて斬首された。救いは、処刑された俗論派が藤太だけだったことだ。桂たちは血の粛清を繰り返せば水戸藩のようなアナーキーに陥ることを直感したのかもしれない。それにもまして、藤太がすべての責めを自分が負うと潔く罪をかぶったことも大きい。いずれにせよ、勝者の歴史観は、過去の事実を作り替え、史実を伝説や神話に化けさせる歪(ゆが)みをもつ。この危険性は幕末史の幕府や会津藩の役割を不当に否定する薩長史観に限るものではない。
 民主党の未来を大きく左右する今回の代表選に、起訴の可能性もある小沢氏が出るとすれば、それは日本の政党史で記憶される事象になるかもしれない。政治集団は自ら必ず正義と大義名分があると自讃(じさん)するものだ。しかし現代政治で「正義派」と「俗論派」を決めるのは世論である。その判定がいかに不条理に思えても、小沢氏ほどの政治家なら仮に「俗論派」のレッテルを貼(は)られても、藤太のようにすべてを肚(はら)に収めて責任だけをとる大道を歩んでほしいと願う有権者も多いのではないか。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】椋梨藤太
 むくなし・とうた 文化2(1805)年、長門(ながと)国(山口県)の萩生まれ。長州藩で、要職ともいうべき政務役の右筆を務めた。失脚、復権…を繰り返し、藩の内戦に敗れて脱走。慶応元(1865)年、萩の野山獄で処刑された。






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